メンヘラ失格(7)
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それからしばらくして、静雄の退院が決まったと叔母さんから連絡がありました。私はその話をするために病院の近くの喫茶店に呼び出されました。
「ごめんね、葉子さん。来てもらって」
私が席に着いたとき、叔母さんはそう言いました。叔母さんは前よりもかなり疲れた顔をしていました。
「いえ、そんな、大丈夫です。それで、静雄さんの調子はいかがでしょうか?」
私の質問に、この前と同じ苦い顔をして叔母さんは考えました。
「それがね、保護室と病室を行ったり来たりして、私も全然静雄に会えなくてね。この前、やっとお医者様とお話ができたの」
叔母さんはそういって、私に状況を説明してくれた。静雄は入院して完全にパニックになってしまったそうです。最初に保護室に入院し、何もない部屋で、それでも自殺未遂を繰り返し行い、かなりの制限をかけてやっと落ち着いたみたいです。そして、一旦落ち着くと彼は普段通りにふるまって、病室に帰るたびにすぐに退院させてくれとお医者様に話していたそうです。でも、彼は退院を許されず、そして周りの患者の話に刺激され、自傷や自殺未遂をまた引き起こし、保護室に入ってを何度も繰り返していたそうです。そうして周りの患者とも折り合いがつかず、何度も病棟を転々として、やっと今は落ち着ける場所に入れて、それから数週間たったので、そろそろ退院できるという話になったそうです。
「失礼ですが、彼はなんという病気なのでしょうか?」
凛と一緒に様々な病名を調べ、それに対して話を重ねてきましたから、大体の病気は理解している自信がありました。
「診断としては解離性人格障害ってことになってるけどね、お医者様ははっきりとした病名はつけられないとおっしゃるの」
診断名なんてあったところでそれが人格や性格を完全に表すわけではないものです。ですから、病名なんてつけられないですし、付けたところで意味はないと私は思います。かえって決めつけてしまうと他の治療がうまくできない弊害も生じます。ですが、そう診断されたのなら、それについてのアプローチを前提にしていけばいいと思いました。退院したからと言って野に放されるわけではなく、ちゃんと通院をするわけですから、その時には私からお医者様と話す機会も設けられるでしょう。そこで彼の病気についてもっともっと話せばいい話だと思いました。
「あの子が退院したら、あなたはどうするの?」
退院して、彼の病気を理解して、一緒にいるということしか考えていませんでした。それ以上に、何か関係を進展させたいとか、はたまた解消したいとは考えたことがありませんでした。
「私はただ迎え入れるだけです」
叔母さんはまた先ほどみたいな苦い顔をした。
「私と叔父さんで話し合ったの。静雄が退院したら、あなたと暮らすのがいいんじゃないかって。私たちよりもあなたのことを信頼してるって、前に遊びに来た時から思ってたのよ」
何か、その言い方に冷たさを感じました。おそらく、押し付けようとしているのでしょう。病院での話を聞いて、背負えないと感じたのでしょう。この人たちが薄情なのでしょうか、それともこれが普通なのでしょうか。私には分かりません。
「同棲……ということですか?」
私は恐る恐るそう聞いてみました。
「そ、そうね。まだ早いかしら。でもね、うちの夫が……」
嫌な顔をしているんだろうと私は察しました。別に、彼を虐待しているとかそういうことは全くありませんが、叔父さんは彼に関わらないようにしてるのが、私が初めて彼の家にお邪魔した時から思っておりました。腫れ物を触るように、そして出来れば触りたくないと言わんばかりに、彼と心から距離を置いてる様子でした。
「さすがに即答はできません、すみません。でも、考えてみます」
流石に彼とすぐ同棲を決定することができませんでした。仕事も家のこともありますし、押し付けるようにされるのは気分が悪いです。できるなら、彼としっかり話し合って二人の想いが一致してからちゃんと同棲に向かいたいと思います。
「これで、なんとかして欲しいの」
封筒を手渡してきました。受け取ってみると、かなり厚さです。中を見る前に私はそれを突き返しました。おそらく中にはお金が入っていて、それでなんとかしてくれということでしょう。
「困ります」
そう返すと叔母さんは封筒をぐいっと私に押し付けてきた。
「あの子が私たちの家に来た時から、何とか今までやってきたの。でもね、もうちょっと厳しいの。ねぇ、わかって。私たちにも生活があるの」
両親替わりで、私はそれなりに叔母さん叔父さんのことを信用していました。しかし、彼の症状を見て、背負えないと感じた瞬間、彼を私に押し付けようとしました。その態度を見ると、心底信用できなくなりました。
「わかりました。彼が退院するまでに用意してみます。彼が退院するのはいつですか?」
彼を愛してるから同棲したいというのは勿論ですが、この家族のもとから彼に離れてほしいと思いました。彼を守れるのは私だけなんて思いあがるつもりはありません。しかし、彼を救えるのはこの家族ではないことはわかります。
「あと二週間ほどかしら。詳しく決まったら連絡するわね。ごめんなさい、用事があるからもう帰るわ。ここは出しておくから安心してね」
バツが悪いのか、叔母さんは逃げるようにして私をテーブルに残して、そそくさと会計を済ませて店を出た。取り残された私は残していった紅茶を見つめ、自分の前に置かれたコーヒーがすっかり冷めているのに気づきました。
それから、毎日が忙しくて仕方ありませんでした。私は仕事をするためだけに部屋を借りていたので、ワンルームの狭い部屋に住んでおりました。この部屋で同棲なんて到底できないので引っ越すことになりました。次の物件を慎重に選びました。更に、同棲するとして、ただ支え合える関係になるのではなく、私が一方的に彼を支える形となるので、私はそのためにあらゆる勉強をしなくてはならないのでした。ツブヤキッターを開くのも一日一回、五分くらいとなりました。
そんな中、一件、メッセージが入ってきました。
『葉ちゃんごめん、私テスト期間だから連絡取れなくなる』
怜菜からです。直前までお話をしていたので、ちゃんと知らせてくれたのでしょう。私は『わかった、テストがんばってね』とだけ返しました。続けて携帯が鳴りました。怜菜からかなと思いましたが、送り主は凛でした。
『もう疲れた。普通でいるのも、普通でいないのも。どこにも居場所はないし、息をしていい場所がない。さよなら』
突然のメッセージにびっくりして『どうかしたの?』と返しました。しかし、その時は忙しくてそれっきりでした。家に帰り、少し落ち着いたのでもう一度確認しましたが、彼からの返信はありません。流石に気になったというか嫌な予感がしたのでツブヤキッターも確認しました。すると彼のアカウントが消去されていました。もう一度連絡を取っていたアプリを確認したら、彼のアイコンやプロフィールがなくなっていました。そうしているうちに、一件メッセージが入りました。
『ねぇ、葉ちゃん。りぃと連絡とった?』
見てみると一花からのメッセージです。もしかしたら、彼女も彼に突然連絡を絶たれたのでしょうか。
『ううん。お昼くらいに連絡があったんだけど、それっきりで』
そう答えました。
『そっか。私もお昼に連絡があったきりで、それから連絡ないんだよね。私、彼の連絡先、他に知らなくて』
私が答えるとすぐに返信が返ってきました。相当焦ってるのでしょうか。今日は平日ですし、彼女も学校があり、ちゃんと返信したりできなかったのでしょう。それにしても彼女に対して連絡先を教えず、自分から一方的に連絡を断つとことに少し怒りを覚えました。人間関係が、あまりにも、自分勝手というか、脆弱すぎるのではないかと思いました。
『お家とか知らないの?』
私の返事に、またすぐに入力中の表示が出ました。
『知らない。あの人のこと、何にも知らない。本名を知っているくらい。あとで教えて貰えばいいやって、他のことはそれっきりにしてる』
私は呆れながら、そういえば怜菜が彼から連絡をもらってるかもと思って、『りぃちゃんから連絡あった?』とメッセージを送りました。それから一花にも返事をしました。
『ご家族とか、友達とか何か知らないの?』
そう質問すると、またすぐに入力中になって今度は長く入力してから返事がありました。
『私、あの人のこと何も知らない。私、あの人の世界に踏み込むことすらできてない。あの人が言うから調べて、してるフリしてたけど、本当はリスカなんてしたことないし、薬も、飲んでない。普通に学校行って、普通に暮らして。だけども、彼のことを理解するために私努力した。リスカだって何度もしようとしたし、風邪薬をちょっとだけ多く飲んだりしてみた。それでもわからなかったし、二度とできるほど私強くなかった。怖かったよ』
一花は吐き出すようにそう言いました。たしかに、リスカをしてると言うのは発言だけで、画像を上げたりしてたわけじゃないので、本当にしているかどうかはわかっていませんでした。
『最初、葉ちゃんにカッター向けたのも、もうどうしていいかわからなかったからなの。彼氏に浮気されたりしたことないし。それに、りぃが浮気する相手はみんな腕が血塗れの写真あげて、毎日毎日死にたいとか破滅的な性衝動について呟くし。それを見てると、私ももっとこの人たちに勝たなきゃいけないと思って、そうやって決心した時に話を聞いたのが葉ちゃんだったの』
彼女は不安な気持ちからか、気持ちをどんどんと吐き出しました。どれだけ辛い思いをしてここまで彼と接してきたのか、よくよくわかります。そして同時になぜ、凛が一花を彼女と呼び、他の女性よりも深い関係になろうとしたかわかりました。一花は他の女性と違い、遠い場所にいて、それでもしっかりと彼のことを見つめ、彼のことをしっかりと理解してます。彼にとってそれは、安心だったのでしょう。
『りぃちゃんの行きそうなところに心当たりはない?』
もし、彼が自殺なんかしようとするのなら、止めたいと思いました。だって、私たちは友達なのです。ネットで知り合ったからと言って、一緒に遊んだ事実が変わるわけではありません。
『わかんない。でも住んでるの、多分三鷹あたり。前に、中央線で移動してる時に、ここ最寄駅なんだよねって話してたの』
時計を見ると、まだ時間は21時で、今行けばある程度は探せるかもしれません。それでも、昼間に連絡が取らなくなっているなら、もういない可能性のほうが高いです。
『どうして?探しに行くの?』
彼女にそう聞かれて、私は悩みました。手掛かりが少なすぎます。見つかる保証なんてありません。
『もしかしたら私たちの心配しすぎかもしれないんだし、今日は様子をみようよ。何かあったら葉ちゃんに連絡するね』
一花は続けてメッセージを送ってきました。学生に諭されるとは思いもしませんでした。私は、ネットの友達というものの儚さというか、関係の遠さを改めて痛感しました。
『うん、わかった。私も何かあったら連絡する』
そういって、私は携帯の画面を閉じました。
「なんで、こんな簡単に人間関係を諦められるの」
部屋で、一人で私はそう呟きました。私と一花、怜菜と遊んでた事実は紛れもなく存在して、友人関係をちゃんと築けたのに、なんでこうも簡単に振り解くことができるのでしょうか。
でも、全く理解できないというわけではありません。少しは、彼の気持ちをわかってあげることができます。それはたぶん、彼と私は友達だからでしょう。