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メンヘラ失格(4)




 それから数日後、私は事もあろうにりぃさんから呼び出されてしまいました。最初は経緯を説明して断ったのですが、どうしても話したいと言われ、会うことになりました。今日も場所は池袋でした。

 「どうしたんですか?」

 姿が現れ、りぃさんを確認してからすぐに私は彼に問いかけました。くだらない用事なら早く退散したいと思ったからです。彼よりも、いちちちゃんの感情の方が大事に思えましたし、そもそもりぃさんには腹を立てていました。

 「彼女にふられた」

 彼は少ししょぼくれて、どうしていいかわからない感情を抱えたと言わんばかりの、そんな表情をしていました。同情できるといえばできますが、彼が浮気をしてる以上、手放しで一緒に落ち込んだりはできませんでした。

 「どっちの彼女なの?」

 口調を崩してはいますが、それは親しみからかではありません。

 「みさきちゃんっていう大学で付き合ってるほうの彼女」

 それは浮気がバレたからなのか。或いは違うのか。もし後者なら彼にかける言葉がわかりません。

 「どうして別れたの?」

 それでもやはり聞かなければ話は続きません。それに、彼女と別れたのならちゃんといちちちゃんことを大事にできるかもしれないと思い、この話には付き合うことにしました。

 「病気のことを知られてしまった」

 彼はそう泣きそうな声で言いました。私が返す言葉に詰まっていると彼の左腕の袖から血が垂れてきて床に落ちました。

 「ねぇ、どうしたの?!」

 思わず私は叫んでそう聞きました。彼は「え……あぁ……」なんて言いながらちゃんと言葉を発すことができていませんでした。私はカバンからハンカチを取り出し、彼の左手に当てました。

 「とりあえずこれで止血して」

 彼に手渡すと彼はハンカチをそのまま持って動こうとしません。私はもう埒が明かないと思って自分でやろうと思いましたが、人通りがあって人目が多いことに気づきました。私は彼の手を引っ張って人目の少ないところまで誘導しました。

 「ねぇ、何したの?もしかして腕切ったの?」

 トイレの近くまできて、彼に耳打ちしました。ここなら人も少ないですし、彼も話しやすいと思ったのです。

 「さっき、たまらずに駅のトイレで切ってしまった」

 彼は痛みに悶えているのか、それとも切る原因となった心の痛みに悶えているのか、すごく弱弱しい声で答えました。とにかく血が流れ出ている状態でどこに行くこともできませんので、彼にハンカチを包帯代わりに巻いて、いったん止血するように言いました。彼はわかったといってトイレの中に入っていきました。

 数分、トイレの前で待っていると彼が出てきました。手当して少し気持ちが落ち着いたのか、さっきよりも表情は和らいでいました。しかし、今さっき腕を切ったのですから、万全なわけでは決してありませんでした。

 「ちゃんと血を止めるために包帯買いに行こう」

 私はそう提案しましたが、彼はうつむいて少し首を横に振りました。ハンカチだけで完全に止血できるわけありませんし、消毒するための道具も買いに行くつもりでありました。だから、私は少し怒った表情を見せて「行こう」とだけ言って歩き始めました。彼は黙ったままついてきました。薬局について、私は傷の手当てのために必要な道具をなるべく集めて、そして買いました。費用については今のところは気にしなくてもいいですし、彼は財布を出すよりも今何が起きているのか理解できないような表情をしておりました。喫茶店に入り、できるだけ店内の中の奥のほうの目立たない場所の席に座りました。

 「これで今から手当てしてあげるから」

 私は意を決して、彼の左腕の袖をまくりあげました。私があげたハンカチが巻かれており、それはすでに血まみれで再利用できないようになっていました。そのハンカチは白くてリボンの絵が右上にちょっとだけ描かれているようなかわいいものでしたが、今は黒く濁り、彼の傷の深さを物語っていました。

 「痛いかもしれないけど、我慢してね」

 人の傷を治療するなんて今までかつて経験がありません。それでも、かつて私が小さいころに保健室の先生に転んだ時の傷を治療してもらった時を思い出しつつ、やってみることにしました。ハンカチをめくると、彼の血まみれの腕と深い切り傷が見えました。私は一本、深い線があるのかと思いました。しかし、実際は細く浅い線が何本も入っていました。それの一つ一つから血が流れ出し、一つの大きな出血のように見えているのです。

 「消毒するね」

 恐らく、この傷の量と浅さから考えて消毒をした時のしみる痛みは尋常じゃないものだと思います。しかし、トイレという不衛生な場所で、汚いであろう刃物で皮膚を傷つけたのです。消毒をしないと化膿してしまうかもしれません。私はあまり医療的な知識はありませんし、むしろないからこそ、その行為が恐ろしく感じるのです。

 「消毒なんていらないよ。包帯だけ巻いてくれ」

 彼はそういいましたが、私はもうすでに消毒液を用意しており、彼の腕にそれを塗りました。彼は「あぁ」と痛がる声を出しましたが、カフェの中なので必死にこらえてました。私はこれで自分の治療があってるのか不安になりつつも、血をふき取ったり消毒液を塗ったり苦戦しておりました。そして、包帯を巻くのも恐らく人生で2回目くらいの出来事なので緊張しましたが、なんとかやり遂げました。

 「ありがとう」

 一連の流れを痛みに耐えながら受けていたりぃさんは最後にちゃんと私にお礼を伝えてきてくれました。だから私は「どういたしまして」と笑顔で答え、治療に使った道具を袋にまとめました。

 「私はリスカとかしないからわからないけど、ちゃんと手当はしたほうがいいと思うな」

 そういってまとめた袋を彼に渡しました。彼は苦笑いをして受け取りました。

 「この前はメンヘラがわかってないなんて言っておきながら、治療をまかせっきりになってしまって恥ずかしいし申し訳ない。家でするときはちゃんと手当まで自分でするのに」

 冷静さを取り戻したのか、この前と変わらない様子で話し始めました。私も少し安心して、注文をまだしてなかったことと、察して店員さんが注文をとったりお冷を運んだりするのを待っていてくれていたことに気付きました。私は店員さんのところに行って謝罪しました。店員さんは笑顔で「大丈夫ですよ。けが人の方は大丈夫ですか?」と言ってくださいましたので「ええ、大丈夫です」と答えて、それから注文して席に戻りました。

 「本当に申し訳ない。こんな見苦しい姿を見せてしまって」

 彼は改めて謝罪をしてきました。そして、コーヒーが運ばれてきたときに店員さんにも謝っておりました。本当に彼は常識人の一面があって、時たまそれから外れた行動を起こしてしまうのでしょう。それが精神病所以なのかどうかは私にはわかりません。

 「別に気にしないで」

 私は笑顔で返しました。そして、話の続きをしようかどうか迷ってると彼のほうから話を切り出しました。

 「実はね、昨日彼女と初めてホテルに行ったんだ」

 彼の話はすごく生々しいところから始まりました。それでも私は運ばれてきたコーヒーを飲みながらちゃんと話を聞いてあげようと思いました。

 「それまで一度もホテルに行ったことなかったし、もちろんそれだからそういうこともしたことなかった」

 「今まで一度もしてこなかったの?」

 気になってしまって思わず話を割って質問してしまいました。

 「うん、そうだよ。最近は誰ともしてない。いちちちゃんともしてないかな」

 彼はなぜか照れくさそうに笑いました。そして、タバコを取り出しました。そして吸い始めました。

 「それでも、彼女とやっと決心がついて、行ったんだ。決心って、もちろんそういうことに対しての決心じゃなくて。ほら、裸になるとさ、見えちゃうだろ?」

 彼も、私の彼氏と同じく彼女に隠し通してきたのです。そして、私の彼氏とは違って、ちゃんと自分から話すことを決心したのです。

 「左腕の傷を見せながら言ったんだ。僕は病気だ。それでも君が好きだって。そしたら彼女『気持ち悪い』って言ったんだ」

 彼はタバコを持つ手を震わせながら泣くのを必死にこらえました。それでも目からは自然に涙が流れてきます。止めたほうがいいかと思いましたが、彼は続けました。

 「私には受け止めることができない。私には理解できない。本当にもう気持ち悪いから、今後、学校でも話さないでって、そこまで言われてしまったよ。それでも僕はそれが嫌で、僕のことを愛してないのかいって言ってしまったんだ」

 同じ精神病の彼氏を持った人間である私からすると、彼女のその拒絶は到底理解できないものでした。でも、もしかしたら若い子だったらそうなってしまうのでしょうか、それとも私が重いから、精神病でも受け入れると言えたのでしょうか。

 「そしたら彼女、はっきり言ったんだ。大学生の恋愛なんだし、本気にするわけないでしょうって、あなたはキープだって」

 浮気していた報いというのは誰にでもやってきます。彼にはそういう形でやってきたのでしょう。いちちちゃんの気持ちを裏切ったのと同じように、彼の気持ちは裏切られたのです。それでも、彼の気持ちになってみると同情してしまいます。

 「それはとてもつらかったと思う」

 私の慰めの言葉を聞いて、彼はタバコの煙を吐いた。そして、私のことを見た。

 「これからはちゃんといちちちゃんのことを愛し続けるよ」

 都合のいい男だと思いましたし、私はいちちちゃんじゃないけど、それはやめてって言いたくなりました。だって、他の人が無理だったから自分にするなんて腹が立ちます。

 「それはどう言っていいかわからないけど、なんか失礼じゃない?いちちちゃんに」

 思わず、いらないお節介でそう発言してしまいました。

 「そうだね。たしかにそうだ」

 そういいながら彼はタバコの火を見つめました。

 「本当は、僕怖いんだよ、病んでる人間と恋愛するのが」

 彼はそういいながら今度はコーヒーを飲み始めました。そして、さらに話しを続けました。

 「僕の最初の恋人は境界性人格障害だった。好きになったし、好きになってくれて最初のほうはすごく幸せだった」

 彼はさっきよりも、より一層暗い顔をしました。

 「お互い中学生で、僕は病気なんて何も持ってなかった。彼女に惹かれて、時間が過ぎていったら、急に彼女は僕を攻撃するようになった」

 理想とこき下ろし。私も勉強しただけですが、境界性人格障害については少しだけ知っています。

 「そして自傷行為を僕に明かしてきた。そして、僕の目の前でリスカしたんだ。そして、何度も腕を切りつけた後、僕にそのカッターを手渡してきていったんだ。『あなたも同じところに来て』って。そして、僕はまだ若かったし、愚かだった。だから、行きたいと思ってしまった。同じ世界に。だから、彼女に言われるがままに腕を切った。何度も切った。最初は痛かったけど、その時彼女のことで頭がおかしくなっていて病んでいた。だから、その傷の痛みや血が僕を安心させることを知ってしまった」

 彼は窓の外にある道路を見つめた。遠くを見つめて、彼は過去を思いだしている。

 「そして一緒にラブホテルにいって部屋を血まみれにしてドラックセックスをしたりした。それからどんどん狂っていって、彼女は他の男とも寝るようになって、僕も他の女と寝るようになった。ある時、すべてが崩壊し、彼女は自分で命を絶った」

 私はそれを黙って聞いていました。うなずく余裕もありませんでした。

 「その時僕は高校生で、その何年間かを入院して暮らした。そして、症状が落ち着いたから退院して、障害者手帳と薬を手に入れた。それから頑張ってなんとか大学に入った。そこでみさきちゃんと出会った。穢れも知らないような純粋な人だった。大学生になって大人になったとは聞いてたけど、僕からしたら彼女はまだまだ純粋な子供のような人だった。それから話すうちに他の部分も好きになって、付き合ったんだ。それなのに、結局、やっぱり僕が穢れすぎてて、ふられるなんて」

 返す言葉にずっと困っていました。そうすると彼はふと、遠くを見つめていた目をこちらに戻し、「よかったらこれから飲もうか」と提案してきました。私は「うん」と返しました。

 居酒屋に移動すると、彼と私は生ビールと適当なおつまみを頼みました。そして、運ばれた生ビールで乾杯して、飲んだ後、彼は笑いました。

 「本当は飲んじゃいけないんだけどね。薬との飲み合わせが悪いし。でもそんなの気にしてたら生きていけないよね」

 彼はそういいました。そして、おつまみをつまみながら、少し考えてました。そして考えてから話し始めました。

 「君には僕みたいになってほしくない。もし、彼氏のことを理解したいと思っても、彼と同じ世界に行こうとは思わないでほしい。君は僕のときと違って中学生じゃないからわかると思うけど」

 ふと、彼の孤独に気づいてしまいました。彼は、当時の彼女に誘われて暗い森の中に入ってしまったのでしょう。そして、その森の中に手を引かれるままに突き進み、彼女がいなくなった今、彼は誰も隣にいないようなそんな場所に一人でいることになってしまったのです。だから、私からしたら、その森の中にいる彼の声がすごく遠く、覗きこんでやっと見える彼が孤独に見えるのでしょう。でも、森の中から彼はこっちにおいでと言わずに、ここに来るなと必死に呼びかけているのです。それがさらに彼の孤独さを感じさせてくるのです。

 「いちちちゃんにもそこまで踏み込ませたくないんだ。彼女は確かに病的な性質を持ち合わせてるけど、僕と同じところに来ることはできない。できないと思うし、してほしくない」

 近くにいて、だからこそ愛し合えているけど、それでも自分のすぐ近くまで呼び込むつもりはないのでしょう。

 「それでも、一人だとつらくない?私だったら、ちゃんと同じ世界に来てほしいと願ってしまうかもしれないし、同じ世界にいる人を好きになってしまうと思うの」

 私のその問いに少しだけ考えて、彼は焼き鳥を頬張りながら答えました。

 「同じ世界にいる人をたまに恋しく思うけど、その人は好きになれない。だって、死んじゃうんだよ。昔は病院で恋人じゃなくて友達で何人かいたんだよ、僕と同じ人が。でもみんな死んでしまったかどこかへ消えてしまった。それでも僕は生きている。だって、僕はもともとそこにいる人間じゃなくて、踏み込んだよそ者に過ぎないから。だから同じ場所にいる人間なんて、どこにもいないんだよ」

 彼は森の奥深くにいて、誰もそばにいなくてそこから見える景色はどんなものなのでしょうか。想像してみても、そこには光が入らない木々しか見えません。でも、もしかしたら、輝いてたりするかもしれません。私にはまったくわかりません。それでも酒を飲みながらおいしいものを食べて、笑いながら話す彼はちっとも森の奥深くに孤独でいるように見えません。そこで生き抜けるのは、彼の強さなのだと知りました。

 「それじゃ、死なずにいてね。それで、ちゃんといちちちゃんのこと、愛してあげて」

 私がそういうと、彼は笑いました。

 「うん、もちろんそうするよ。君のことも友達として、大事にするよ」

 お酒のせいもあって、なんだか楽しくなってきました。りぃさんのいいところを知れたからでしょか。

 「私は君って名前じゃなくて、葉子っていうんだけど」

 そういうと彼はえーって言って笑いながら少し考えました。

 「そしたら、葉ちゃんって呼んでいいかい?」

 葉ちゃんなんて呼ばれるのは高校生以来です。

 「うん、いいよ」

 「そしたら、僕の名前も教えよう。僕は凛っていうんだ」

 彼は楽しそうにタバコに火をつけました。

 「凛?本当に?女の子みたいな名前」

 そうやってからかうと凛は少し照れ笑いをしました。

 「女の子みたいになるのも納得だろう?」

 女の子みたいに照れて笑いながら彼は言いました。


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