メンヘラ失格(2)
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それから一週間程経ちました。私は病気を理解するため病み垢に生息してる人間を観察し、さらには専門書も何冊か読みました。その間、静雄からも叔母さんからも連絡はありませんでした。静雄は入院してるから仕方ないとは言え、叔母さんから連絡がないのは少し引っかかりました。しかし、こちらから連絡をするのは控えていました。
りぃさんに相談していくうちに、そういうことなら会って話をしてみようとなりました。いきなり会うのはどうかと思いましたが、彼は自身を相当な精神障害者であると語るので、病気のことを理解するのには、かなり役立つのではないかと考えました。
場所は池袋駅で、私は待ち合わせ場所に五分前に着きました。しばらくすると、りぃさんに聞いた特長の男性が現れました。髪は男性にしては少し長めで、手入れされていて綺麗にストレートでした。顔は整っており、可もなく不可もなくで、自身が自称してるほど女の子顔ではないなと思いました。
「お待たせ!お姉ちゃん?だよね」
いきなり、私のことをお姉ちゃんと呼ぶことにびっくりしてしまいました。たしかに、呼ぶことを放置はしていましたが、それはあくまでネット上だけだからです。
「りぃさんですか?はじめまして。私はリーフボックスです」
私は自分のハンドルネームを名乗って、なんとか自分の空気感の違いに気づいて欲しいと思いました。しかし、りぃさんはそれには気づかず、事もあろうに抱きついてきました。「やっとお姉ちゃんに会えた」などと言いながら。私はさすがに嫌な気分になったので「ごめんなさい。彼氏がいるので。そういうことするなら帰ります」と言って体を引き離し、歩いて行こうとしました。
「ごめんごめん、君はそういうの求めてるんじゃないんだよね。いつもの癖で、つい」
さっきまで甘ったるい、可愛くもない高い声を出していたのに、突然に男の低い声を出してりぃさんは私を引き止めました。私は彼の方を見ました。彼はさっきのような笑顔をしておらず、逆に不敵な笑みを見せてきました。
「もうさっきみたいなことしないからさ、話、しようよ。近くに良い喫茶店知ってるんだよね。リーフボックスさん、知りたいんだよね?僕たちのこと」
もしかしたら、この人は常識人でネットでの演技を現実でもしてしまうだけなのかとしれないと思いました。だから私も気を持ち直して、話をしよう」と思いました。さっきのようなことを次にされたら帰れば済む話です。
りぃさんと数分歩いて辿り着いた喫茶店は本当におしゃれでいいところでした。彼は黙って私の分も出して、気取らずそのまま席につきました。私が財布からお金を取り出そうとしても、それを「さっき迷惑かけちゃったし、そのお詫び」とだけ言って受け取ろうとしませんでした。
「リーフボックスさん。彼氏さんはその後大丈夫なの?」
席について彼はそう言いながらカバンからタバコとライターを取り出しました。「いい?」と一言確認して、私が「うん」と答えてからタバコに火をつけました。
「彼の容態はわかりません。入院中は連絡が取れませんし、面会も親族じゃないと入れないみたいです」
私の話を聞きながら彼は私に煙がかからないように、顔をそむけながら煙を吐いた。
「そっか。ご家族からの連絡もないんだっけ?」
メッセージのやり取りでその話はしていましたが、改めて言葉にされると、叔母さんからしたら私は部外者であることを思い知らされた気がしてきます。
「はい」
少し、やるせない気持ちで、答えました。
「そっか。そしたら、リーフボックスさんも気が気じゃないよね。でも多分、叔母さんも会えてないんだと思うよ」
そういうと、りぃさんはコーヒーを一口飲みました。
「親族は面会できるのにどうしてですか?」
私が質問すると、彼は苦笑しました。
「保護室に入ったんでしょう。失血で気を失うほど自傷したんなら、一週間で出れないよ。出れても、薬で意識がぼーっとして面会なんてできない。できても一ヶ月先とかじゃないかな?」
「そうですか……」
精神病の本を読んだところで、精神科病棟がどうなってるかまで理解できません。当事者であるりぃさんから話を聞かなければ、そのまま私は叔母さんを疑って、彼女ことを嫌に思ってたかもしれません。
私が黙ってると、りぃさんはタバコを吹いてから、こちらをキリッとした目で見てきました。その鋭さから、私を敵か味方か識別する意味があるのだと感じ取れました。
「それで、どういうことが知りたいの?」
私はその質問に用意していた質問で返しました。
「失礼だったらごめんなさい。あの、何故、リストカットをするの?」
読んだ本には諸症状の一つとして挙げられてるばかりで、一つとして理由として納得できるものはありませんでした。りぃさんはメッセージ上で何度も自傷をしたことがあると語っていましたので、当事者であれば少なからず納得できる理由を提示してくれるのではないかと思った次第でこの質問にしました。その質問を聞くなり、彼は左腕の袖をめくり上げ、その肌を露わにしました。大量にある白い線と、新しい傷なのか、少し黒い線がいくつか、その白い肌には点在してました。彼はタバコの火を灰皿に押し当て消して、私の目を真っ直ぐに見ながら話始めました
「リスカ……ね。僕はどうしようもなくココが現実だと感じれなくなった時にやってしまう。僕が何者かわからなくなった時、僕が何処にいるかわからなくなった時、切ることで自分が何か、ここが何処かを痛感できる。文字通り、痛みで感じれる」
私はその話を聞いて、離人感という言葉を思い出しました。何の本かはわかりませんが、その本には確か『自分が自分と認識できなくなる。第三者視点で自分を見下ろすように見てしまう』と書かれていたと思います。彼もそれを感じるのでしょうか。そして、それを感じた時、痛みによって自分を自分として感じれるようになるのでしょうか。やはり私にはわかりません。
「自分が自分でなくなる感覚はよくあるの?それとも、時々だけ?」
私の質問に、苦い顔をして、彼は答えれました。
「本当のことを言うと、常に感じてる。今も感じてる。でも、いつもは思考で、なんとかちゃんと自分は自分だと言い聞かせてる。それに他人が僕を認識してくれてる。そうすることで、ちゃんと自分が自分なんだって感じられる。それでも、一人になって、他人が僕をちゃんと僕として認識してくれる事実がなくなった時、どうしようも切るしか無くなる」
彼が問いに答えているその表情に、辛さしか感じられませんでした。そして、最初に見たあり得ないくらい非常識な態度はもしかしたら、そういう理由があったのではないかと考えました。彼は顔立ちが女の子のように整ってるように見えますし、何より体型が女の子なのです。身長も私と同じか、低いくらいでしょうか。そんな身なりゆえに、彼は女の子のような自分を他者から押し付けられてきたのではないでしょうか。そこで、彼はそれを演じることで自己像を獲得してきたのではないでしょうか。そしてその自己像と自分の感情がどうにもうまくすりあわずに、離人感へと繋がってしまうのではないでしょうか。
「でも、リストカットをする理由は一つじゃない。落ち込んで切るときはもちろんあるし、楽しくても切りたくなってしまうときもある。理由は僕も明確な答えはないよ」
確かに、明確な理由を持ってリスカをするのであれば定義も存在するでしょう。私は無意味な質問をして彼を苦しめてしまったのだと自分を恥じました。
「リーフボックスさん、あのね、自傷行為はリスカだけじゃないんだよ」
彼はそう言って、左の袖をさらにまくり、肘裏の部分を見せてきました。そこには小さい丸の跡が何個かあって、私はそれを見て注射の跡だとわかりました。
「そんな目で見ないでくれ、ヤクじゃないよ。学生の僕に、そんなお金ない。これはね、瀉血っていうものの跡なんだ」
さすがにその傷を見せるのは彼にとって苦しいことなのか、彼はすぐに袖を下ろしました。そして今度は左腕も見えないくらいに下ろしました。そして、またタバコに火をつけました。
「注射針と管を刺してね、血を抜き取るんだ。献血で抜く量よりも、もっと多くの量の血を。バケツに溜めたり、部屋に撒き散らしたり。そうやって流れ出る鮮血が、汚いんだよ。意外とね、人の血は、赤くないんだ」
彼の説明とともに情景を想像しましたが、それはとても人がやる行為ではないように思えました。
「人の血は、黒いんだ。赤よりも黒く、どす黒く、汚く、人に綺麗な部分なんてないんだって思い知らされる。でもその黒く濁った血を見てると自分を感じられる。そして、自分を感じて、死を感じる。死を感じて、反対に生を感じて、なんとかこの先もまだ生きられるなんて思えるんだよ」
勝手に私はりぃさんが瀉血している場面を想像しました。想像の中の彼の部屋は、真っ白い部屋でした。真っ白い部屋に、白いテーブルが一つ。そこにはその行為に使うであろう道具が並べられています。そして、彼の腕には注射器と管が刺されており、そこから血が吹き出すように出てくるのです。そして、その白い部屋は塗られていくのです。赤ではなく、黒に。終わる頃には、その白かった部屋は、まばらに黒くなり、部屋に残る白さがその黒の汚さを物語るのです。そんな中、彼は泣いてるのでしょうか、笑ってるのでしょうか。すっきりしたという顔で、流れ出た血を眺めてるのでしょうか。わかりません。でも、顔が白くなってることは、わかります。
「とにかく、君はまだまだメンヘラってものを理解してない。それを理解するのに、本だけで足りるわけがないんだよ」
そう言いながら彼はカバンから袋を取り出し、中に入ってる薬を無造作にばら撒いて見せてきました。置かれた薬は色とりどりで、全てが毒々しいものでした。
「これすべて、僕の薬だ。僕一人の。1日、この中の10錠くらいを飲むんだ。でも、仮にこれをすべて一度に飲んだところで死ねやしない。適量飲んだって、落ち着けるわけない。ただ、治療を受けている、それを言う資格を得るだけだ」
そう言って彼は散らかした薬を乱雑に鞄の中に詰め込んだ。どうして彼はここまで心を乱しながら、それを露わにして話しているのか、私にはわかりませんでした。でも、わからないけど、彼はメンヘラが何かを教えたいのではなく、怒っているのがわかりました。私みたいにメンヘラが何かを知らない人間に、理解したいと言いながら土足で踏み入ってこようとすることに怒りを感じてるのでしょう。
「リーフボックスさん、君の彼氏の話を聞かせてよ。彼氏が精神病だって本当に気づかなかったの?」
遠慮もせずに彼は問いを投げかけてきました。
「私の彼氏は全然そういった素振りを見せることはありませんでした。救急で運ばれて初めて知りました。それまでは私の方がメンヘラなんだと思うくらいでした。彼、すごく明るい方で、冗談ばっかり言って、そんな明るく悩みもないような彼にすごく重い愛を感じてる自分が、メンヘラなのかなって」
タバコの煙を吹いて、彼は少し考えて、そして笑いました。その笑いは、おそらく私を笑ったものだと、少し不愉快な気持ちになりました。
「君の彼氏は、相当病気を隠すのがうまかったのかな。もしくは君が本当に何も気づかない鈍感なのか。もしくは、君と彼氏の関係は、そこまで親密じゃなかったのかも。いずれにせよ、君の彼氏は凄いね。ひょっとしたら僕よりも病的な人間かもしれない」
そしてなんだか楽しそうにしました。それがすごく不愉快でしたが、言い返すことができませんでした。
「確かにそうかもしれません。彼とのお付き合いは半年くらいですし、その中で彼の身の上話といえばご両親が亡くなられていることと、今は叔母さんと叔父さんと暮らしていてるっていうくらいで」
その話を聞きながら、りぃさんは不敵な笑みを続けました。
「それならどうして彼のスイッチは押されてしまったんだろうね。気づかれないレベルの自傷しかしなかったのに、突然制御できずに救急車を呼ばれるまで切るなんて、僕からしても、かなり突飛だ」
私が答えが分かるわけもなく、「わかりません」とだけ答えて、それ以上は話しませんでした。りぃさんもそれを察したのか気まずそうにしました。
「ごめんね、こんな話をして。ちょっと別の話でもしようか」
そう言って彼は唐突に話を変えようとしてくれました。適当な世間話をしてくれたのです。その間、彼は病んでいることなんて忘れるくらい楽しい話をしてくれました。やれ大学ではこうだ、家だとこれが煩わしい、そんなどこにでも転がってるような話をしました。私も楽しく会話をしました。しかし、端々に伺える自傷行為や、崩壊的な人間関係が彼の異常性を感じさせてきました。
「それでも僕は生きてるし、僕からすると、普通に生きている奴より、僕の方がよっぽど生きるのに必死だと思うんだよね」
会話の途中で出てきたその言葉がなんとなくひっかかり、考えさせられましたが、その暇も与えないまま彼は喋り続けました。
一通り、彼のお喋りを聞いてから、私たちは解散しました。
「それじゃまたね」
お互いに言い合うと、彼はこの後サークルの飲み会があると言って、喫茶店の前で私が向かう方向とは逆の方向へと歩き出しました。彼は二度と、最初のような奇妙な振る舞いをすることはありませんでした。しかし、彼の後ろ姿にはびっくりさせられました。彼のお尻に、尻尾がついているのですから。そんな服を平然と着れる彼を、やはり理解できないと思いました。