メンヘラ失格(1)
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恥の多い生涯を送ってきました。ずっと私はそう思っていました。しかし、病み垢を始めて以来、自分は案外まともなのだと思うようになりました。
まず、私は彼氏から連絡があまり来なくてもそこまで落ち込んだりはしません。一日一回、連絡が取れればいいほうです。お互いに生活がありますし、その生活以外の自由な時間を全て相手のために消費する必要なんてないからです。ですが、病み垢の女子は違います。24時間連絡を取っていないと不安で堪らないのです。既読無視をされただけでリストカットしたり、何時何分までに連絡がなければ薬を適量以上飲むとメッセージを彼氏に送ったりするそうなのです。
また、そういう女子の呟きには返信を熱心に送る男性が現れます。大抵はただ心配して返信しているだけですが、中には他の目的を持った方もいるそうです。さらに、そういう方はダイレクトメッセージという個人的に会話ができる機能を使って、女子に話しかけるそうです。そのダイレクトメッセージという機能は非公開なものなのですが、受け取った女子はそれを晒し上げたりします。その会話の内容を見てみると、それはまるで知性を全く感じられない下ネタを女子にぶつけるだけの、見るに耐えないものでした。私も悩みを呟くとそれらしいメッセージを受け取ったりしましたが、全て無視しておりました。
ただ、病み垢を始めてみて気付いたのはそういういった人は少数で、多くはまともな人なのです。
最初のほうに知り合った、りぃという名前の男性もまともな方です。彼は下ネタを言いませんし、悩みを呟くと心配をしてくれて、アドバイスをしてくれます。始めた当初にメッセージを何回かやりとりして、すぐに仲良くなり始めました。今ではこの人に話したいことがあってツブヤキッターを開くこともあるくらいです。しかし、やはりこの人も一癖あります。彼は浮気性なのです。仲良くなり始めたころに相談かのように、私に対して『2人以上恋人がいるとつらい』と話してきたのです。相談に見せかけた自慢なのはすぐわかりましたので、私も『そうなんだ』くらいに返答しました。そしたら、なぜかその態度を『クールなお姉さん』と受け取ったらしく、それからは彼は私のことをお姉ちゃんと呼んできます。ネット上で、そう呼んでいるだけで特に何かするわけでもないので私は放置していました。
『ここにいる人は少し特殊な人が多いから、少し疲れる。ただ気持ちを吐き出したくて始めただけなのに』
今日も彼とメッセージでやりとりをしていました。そして会話の中で、病み垢っていうのは一体なんなのかという話になりまして、私は思わず愚痴をこぼしてしまいました。
『ボクも時々疲れちゃうよ。それでも、ボクには他に居場所がないからここにいるよ。お姉ちゃんは、別に吐き出すだけならここじゃなくても良かったんじゃない?』
私は少し考えて、それから彼に問いかけるように返すことにしました。
『確かにそうかも。でも、そしたらなんでここにいたいと思うようになったんだろう。私でもよくわかんないや。でもなんだか、吸い寄せられるようにここにいた』
私がそうメッセージを送ると、電話がかかってきました。手に握っていた携帯が突然震え出したので、思わず落としそうになりました。番号を見てみると彼氏である武田静雄の叔母さんからの着信でした。何故、叔母さんから連絡があるかというと、静雄のご両親は10年くらい前に亡くなっており、叔母さんと叔父さんが彼の親代わりだからでございます。そして、つい最近、お家にお邪魔してご挨拶をしており、その時に叔母さんたちと連絡先を交換していたのでした。
「もしもし、こんな時間にごめんなさいね。葉子さん、今どちらにいらっしゃるの?」
時計を見てみると、まだ時間は21時でした。
「えーっと、今仕事から帰りましたので自室におります。どうかされましたか?」
突然の電話にかしこまってしまい、いつも以上に丁寧になってしまいました。
「静雄が病院に運ばれちゃったの」
「え!?どういうことですか?!」
驚きのあまり、おかしな返し方をしてしまいました。
「葉子さん落ち着いて。運ばれたのは30分前で、命に別状がないことはわかっているから。ゆっくりでいいから、武蔵野病院に来てもらえる?」
私は急いで地図アプリを開いて場所を確認し、そこがこの部屋から10分くらいで着くことを確認しました。
「わかりました!10分くらいで着きます」
叔母さんは落ち着いてはいましたが、声からは戸惑いを感じました。そして私も電話を切って冷静になりたかったので早めに電話を切り上げてもらいました。そして、急いで支度をいたしました。その中で、彼に持病があったか、最近にそんな兆候があったかを考えました。しかし、これといって思い当たるところはありませんでした。昨日お会いした時も、普通にしていたと記憶してます。それなら何か事故に巻き込まれたのでしょうか。最悪の考えが頭の中でどんどん浮かんできます。
電車に乗って病院に辿り着くまで、意外と時間がかかってしまい、二十分後に病院に着きました。病院に着き、ご案内と書かれた札の下で事務作業をしている看護師に「すみません、武田静雄さんはどちらにいらっしゃいますか?」と少し息切れした声で尋ねました。
「えー、武田静雄さんの恋人の方ですか?」
「はい、そうです」
既に叔母さんから話が通っているらしく、私は看護師に案内されて、救急病棟へ行きました。いくつかある部屋のうち一つに案内され、私は息を飲む思いで、彼を見ました。もしかしたら事故にあって見るも無残な姿になってるかもしれないと、不安になっていました。だから、少しばかり見るのには勇気がいりました。
病室のベッドに寝ている彼は穏やかな顔で眠っていました。ひと目見ただけでは、事故にあったような形跡は見当たりませんでした。しかし、左腕は包帯が巻かれ、血が滲んでおりました。
「葉子さん、来てくれてありがとう」
私を見るなり、叔母さんは縋るような声でそう言いました。私は「遅れてすみません」と返しました。
「事故にあったのですか?」
続けて私は叔母さんに質問しました。すると、叔母さんは黙って解答をしようとしません。申し訳なさそうな顔をして、彼の顔を見ており、しばらくしてえー、あー、と言って言葉を慎重に選びながら話しを始めました。
「葉子さん、落ち込まないで聞いてね。静雄はね、事故じゃなくて、心の病気なの。自分で左腕を切りつけて、失血状態になって意識がなくなったからここに運ばれたの。今は状態が落ちついてるけど……眠っていて」
病み垢で散々見て、そして理解できないと拒絶していたリストカットを彼氏である静雄がしていたということに驚きました。何より、私の知っている病み垢の人間は病院に運ばれるようなリストカットをしません。ですが、静雄は病院に運ばれたのです。それがどれだけひどい傷か、想像できません。
「それでね、静雄はこのままここに入院するの。入院したら、親族以外は面会できなくなるわ。だから今のうちに話したほうがいいと思って呼んだの」
「そうなんですね、ありがとうございます」
私はそれ以上返す言葉が見当たらなくて、黙ってしまいました。
「まだどうしてこうなったかはわからないんだけどね、私も初めてでびっくりしてるのよ。今まで静雄がそういうことしてるの見たことなんてなかったから」
叔母さんはそう言ってから「まぁ座って」と言って丸椅子を手で指しました。私と叔母さんは丸椅子に座りました。
「私も、気づきませんでした」
不甲斐なさというより、申し訳なさがありました。身近にいる人間として、彼を愛している一人として彼をちゃんと見ることができなかったことに、すごく責任というか重圧を感じてしまいました。
「そんな、あなたのせいってわけじゃないんだから、気にしないで。それでも、なんか相談くらいは受けていたりしたんじゃない?」
叔母さんの質問を少し考えてみましたが、相談を受けた記憶はありませんでした。そもそも彼は陽気な方で、そんな重苦しい話をする人ではありませんでした。悩んでも、自分一人で解決するような人でした。
「いえ、受けていませんでした」
話しているうちに、彼は目覚めました。意識は薄いですが、会話は可能でした。私と叔母さんと数回会話して、看護師さんを呼んで状態を見てもらってから、お医者様が現れ、彼に入院について話をしました。静雄は話を聞いているうちに目が覚めてきました。そして、即刻このまま入院のところを、叔母さんが看護師とお医者様に話をしてくださいまして、少し私と彼と二人きりで話す時間を設けてくれました。看護師と医者が部屋を出て、叔母さんも部屋を出て扉を閉めて出ていきました。
「ごめん。俺はこういう人間なんだ。幻滅したろ?」
二人きりになるなり、彼はそう言ってきました。
「大丈夫だよ。幻滅なんてしてないよ。それより傷は平気?」
刺激しないように、私を傷つけたと思わせないように、極めて優しい声で彼に返しました。
「傷は、大丈夫」
そう言いながら彼は右手の拳を握り締めました。
「気持ち悪いだろう?こんなことするなんて。お前に黙ってただけで、ほんとはずっと、やめられないんだ」
夏でも薄手の長袖を着ているのに、今更ながら気づきました。今の時期、外は三十度を超えているのに、彼は長袖を着ています。そういえば昨日も、長袖のシャツだったように記憶しています。すごく薄い生地だし、こっちのほうが落ち着くんだよねと言っていたのを今思い出しました。
「全然気持ち悪くないよ。それに、それもいつかやめられるよ。だから、平気だから」
私がそういうと、彼は拳でベッドを強くたたきました。
「やめられない!やめられないんだよ。お前はわかってない。わからない。俺みたいな精神病の人間の気持ちが、わかるわけないだろ!」
俯いていた顔を私に向けてきました。その目は暗く、何も写っていませんでした。私も、病室の壁も、何も写ってなくて、ただの真っ黒でした。
「俺は病気なんだ。突然、過去のトラウマが襲ってくる。逃げられない。そのたびに、自傷してなんとか気持ちを抑えてるのに、最近じゃそれもままならない。もうどうしようもない!死ぬしかない!死なないと逃れられない!お前には理解できない!健常者のお前に理解できるわけない!もうほっといてくれ!」
彼の声がどんどん大きくなり、更には何かぶつぶつ喋っています。「死ぬしかない」その言葉が妙にはっきりと、私には聞こえました。私が彼に対する言葉に詰まっていると、ついに看護師が駆けつけてきました。私も看護師に出るように促されました。私は何か言わなきゃこのまま終わると焦りました。
「私、頑張って理解するから!あなたのこと、見捨てたりしないから!」
そう返すだけ返して、看護師に連れられて部屋を出ました。部屋の中から「鎮静剤持ってきて」と男の看護師の声が聞こえました。
病室から離れた場所に、叔母さんが声を聞かないように俯いて立っていました。
「葉子さん、静雄は今から保護室に入るらしいの。携帯も当然使えないから、退院するまで連絡できないと思うの。だからその、彼のことは……」
彼との関係は終わり。そう告げられるのだと思いました。でも、私は彼との関係を終わらせたくありませんでした。何故なら、私は彼を愛しているのです。
「私、待ちます」
毅然としてそう答えました。その時の私は、どれくらい彼が入院するかもわかりませんでしたし、本当に向き合えるのかもわかりませんでした。それでも愛し続けると決めました。
「そう」
叔母さんはうなずき、それから黙りました。
叔母さんと別れてから、帰りの電車で携帯を開くと、りぃさんからのメッセージが入ってました。
『お姉ちゃんは病んでいる人間を愛してしまったんじゃない?だから、ここにいる人間のことを知りたくなるんだよ、無意識にその人に似てるものに惹かれ、それを理解したくなったんじゃないかな』
私は、最初から静雄さんの病的な性質に気づいていたのでしょうか。それとも知らずに、その部分を愛してしまったのでしょうか。私にはわかりません。それでも逃げちゃいけないと思いました。メンヘラになって、彼の世界を知らなければいけない。そうしなければ一緒にいられない。そう思いました