緊急停止テスト
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「今日の試合は特別だ。ミスは一切許されない。前々回のカンガルー戦のようなことが起きればコンテスト自体がなくなる。いいか、気合入れていけよ!」
教授が珍しく紅潮した顔で、厳しく声を上げた。リングサイドの一角には、いつもの倍以上のコンピュータやその他機器類が持ち込まれていた。
エイメンにも小さな変更が加えられていた。弁当箱の盛り上がりの上に、さらに小さな箱と黒い突起が追加されていた。電源バッテリーと制御コンピュータとの通信用アンテナだった。バッテリーはエイメンを動かす駆動用というわけではなく、体内に追加された電子センサーとそのデータを無線で送るための電源だった。エイメン体内には二百近いセンサーが新たに埋め込まれ、心拍数から筋肉の発熱温度、プログラムの実行モニタリングまで、何から何まで無線で監視することになった。F1のテレメトリーと同じシステムだった。十二ラウンドすべてを闘いきると、やり取りしたデータ通信量は百ギガバイトにも上ると見積もられていた。このリアルタイムデータは、教授の研究ラボ・サポートチームと、会場内のコントロールセンター、さらにはエイメン・グループとエイメン製造者協会の本部にもそれぞれ同時送信されることになっていた。
すべては、問題を起こさないために考えられた万全の措置だった。
「よし、テスト送信始めろ」
教授がリングサイドのスタッフに指示した。
「ダミーデータ送信します」
「レスポンス来ました」
スタッフの一人が見つめるモニターに、各地で正常にデータを受信したとの結果が表示された。
「ダミーのリアルタイムデータ流せ」
「大丈夫です。すべての地点でデータのリアルタイム更新されています」
「次! 緊急停止テスト!」
教授が一段と声を張り上げた。手元に設置された赤いボタンのカバーを上げ、緊急停止ボタンを押した。
「緊急停止確認!」
「緊急停止確認!」
「各地点に緊急停止確認コード表示されました!」
次々とスタッフたちから報告が上がった。
「エイメン、緊急停止コード受信! 高カリウム液出ました! 心停止! 脳波停止プログラム走ります! ニューロン焼ききれました!」
モニター上での仮想ダミー訓練だったが、教授がボタンを押してから三秒も経たないうちにエイメンの機能が全停止した。
「エイメン、完全に活動停止」
スタッフは最終報告をした。
「よし。ダミーテスト終了」
教授がようやく深い息を吐き出し、いつもの静かな声で全員に伝えた。
「グループと協会からのゴーサイン出ました」
電話を受け取ったスタッフが伝えた。
「ようし、いくぞ! 本番スタートだ。準備始めろ」と、教授が気合を入れた。
フェイルセーフの向上とともに、格闘技の勝負そのものへの準備も万端整えてきたつもりだった。エイメン対戦の全データと、様々な人間同士の格闘技戦データの学習についても、今回は他国と同じ「教師あり学習」を採用した。これまではたとえ効率が悪くともエイメン開発の将来への布石として「教師なし学習」を採ることが多かったが、さすがに今回は時間がなかった。しかもカンガルーは頭部が引きちぎられたため、前回の学習データがすべて失われ流用できなくなったのは痛かった。
だが教授は、単純な「教師あり学習」とはしなかった。通常、「教師」とは解答例という「お手本」のことを指す。手本を参考に、それと同じ、もしくは似た答えを集めるのが「教師あり学習」だ。
教授はホンモノの教師を用意した。生身の人間の格闘家を「お手本」とさせたのだ。といっても人間の格闘家とエイメンを直接闘わせたわけではない。相手に技を繰り出す、逆に相手からの技を避ける――今までの学習ではこれらをただのパターンとして学ばせたにすぎなかった。だが今度は、その技を繰り出す意味、考えを学ばせてみようと考えたのだ。
人間の格闘家の脳とエイメンの脳をつなぎ、同時に同じ対戦ビデオを見せる。格闘家の頭には非侵襲式ブレイン・マシンインタフェースのヘッドギアを被せ、コンピュータを介してアンビリカルケーブルでエイメンにつなげる。情報の流れとしては格闘家からエイメンへの一方通行となるが、試合のある場面において、格闘家が何を意図して技を繰り出したのか、エイメンはその格闘家の脳の反応をまさに教師として学ぶ方式を採用した。
ところが学習を始めて一か月、試合当日の今日になって、一つの小さな異変が起きた。
「教授、このデータどう思いますか」
ほとんどのスタッフがそれぞれの持ち場に散った後、集団の中では聞いていけないと思ったのかスタッフの大学院生がそっと教授に訊ねてきた。
「どうした」
「アドレナリンの血中濃度が異常値を示しているんです」
「上がったのか?」
教授が慌てて聞いた。アドレナリン値の異常上昇が見られた場合、即座にグループと協会に連絡し、試合を開催するか否かの緊急会議を開く取り決めになっていた。
「いえ、その逆で下がったんです。急激に」
「下がった?」
思わず教授が聞き返す。試合を直前に控えてアドレナリン値が上がることはあっても、下がるなど、これまで見たことも聞いたこともなかった。
「いつだ?」
「昨日です……ビデオ学習を終えた後です、徹夜で再現性の確認をしているうちに報告が今日になってしまって。すみません……」
「今は通常に戻ってるってことだな?」
「そうです。昨日の一回だけです」
「副腎は?」
「正常に機能してます」
アドレナリンは「闘争か逃走かのホルモン」と呼ばれ、動物が敵と闘う時、もしくは全力で敵から逃げる時に、体をいきなり全開で動かすために、副腎髄質から分泌され、交感神経を働かせて緊張や興奮を引き起こす働きをする。その意味で、アドレナリンは生存本能そのものと言えた。
だが、試合を前に、しかも試合のビデオを見終わった後に下がるなど、ありえなかった。興奮が一定期間持続し、そこからようやく緩やかに下がっていくのが常だった。
「なんのビデオだ?」
「ゴリラ対カンガルー戦です。格闘家と見させてました」
「だとしたら、ますますわからん。ゴリラ視点で見たのなら、敵を絶命させるまで闘うんだと興奮するだろうし、カンガルー視点なら、殺されそうになってる状況から全力で逃げるために興奮するのが正常な反応のはずだ。闘争か逃走か、のホルモンなんだからな」
まったくの想定外の出来事だった。安全確認テストの最終チェックは終わってしまっている。今度の試合ではなにより安全には万全を期したい。だが、試合の仕掛けが大きすぎた。今回は、全世界で、通常の倍以上の視聴者が有料チャンネルを視聴するだろうと予測されていた。アドレナリンが異常上昇し、対潜相手の安全確保に重大な懸念でも示されない限り、アドレナリン値が下がったことまでわざわざ仔細報告していたのでは、子供のお使い以下だ。そんな判断でも下された日にはエイメン研究者としてのキャリアは終わる。この世紀の試合を潰した研究者の烙印を押され、雇ってくれるところなどもうどこにもない
「他の関連数値はどうなんだ?」
「同じ状況を指し示してます。心拍数、血圧が下がり、ブドウ糖の血中濃度も同じく下がって、瞳孔も縮小してます」
「つまり、興奮とは反対、人間なら冷静だというわけか……」
教授は思い切った。
「よし。安全には問題ないだろう。このことがフェイルセーフに何か支障を来すとも考えにくい。このまま続行する。ただし、試合最中のモニタリングは今まで以上に綿密に。異常上昇はもちろん、今回のような下がったときも、試合中、即座に私に報告するように。いいな」
世紀の試合はもうゴングが鳴らされる目前だった。グループ、協会からもゴーサインが出ている今、それ以外の判断は下せなかった。