世界人造人間競技会
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「このカマキリ型ってどうよ?」
地下鉄の中でエイメン・コンテスト専門誌を開いて次世代選手紹介ページを見ていた少年が言った。
「けっきょくパンチだけだろ? それにしても腕長えなあ。床に付きそうだぜ」
隣の少年が選手の立ち姿写真を覗きこみながら答えた。
「腕と手を合わせた長さが百四十センチ! オレの倍近くあるぞ!」
就職面接のためにスーツの採寸をしたばかりの少年が驚嘆した。
「だけどリーチが有効なのは、人間が相手だからだろ。こんなんゴリラ相手だと瞬殺だろ」
少年たちが熱心に読む雑誌の表紙題名の横には、画像の使用ライセンス取得を示す「AMan」のデザインロゴと、その下に「FIHA Artificial huMan World Contest」の名が記されていた。
エイメン・コンテストは正式名称を「世界人造人間競技会」と言い、「国際人造人間連盟(FIHA:Federation Internationale de l'Homme Artificiel)」が主催する人造人間格闘技の最高峰であり、ヒト型バイオボット同士の格闘戦によって競われている。
コスト問題からヒト型バイオボット研究が暗礁に乗り上げそうになっていたとき、フランスに本拠地を置く有料民間衛星テレビ局がヒト型バイオボットの商用利用に目をつけた。 二〇一六年のF1の商業権収入はおよそ三十三億ドル(約三七〇〇億円)に上り、サッカー世界選手権大会、FIFAワールドカップを上回る。スポーツ中継、スポーツ興行は莫大な金を生むと考えたのだ。
しかも新興テレビ局がF1やワールドカップなどの既存ビッグイベントに食い込むのはほぼ不可能だ。既得権益の壁はあまりに高すぎる。しかしゼロから立ち上げる、誰の手垢も付いていないまっさらなスポーツであれば、利権のすべてを独占できる。こう判断した。
ヒト型バイオボット研究からの撤退すら視野に入りつつあったフランス政府も、渡りに船とこの話しに乗った。うまくいけば研究開発費を大きく削減できる上に、持続可能な研究体制を作ることができる。一石二鳥だった。
まずは世界各国のヒト型バイオボット研究機関により構成される非営利の国際組織「国際人造人間連盟」をフランスのパリに立ち上げた。先に組織の器を作ってしまい、参加者を集うことで競技としてのルール作りや体制を決めていこうという考えだった。なにより組織の主導権を握ることが第一義だった。
次に立ち上げたのは、競技会の運営・放映権管理・マネジメントなどを統括する企業グループ「エイメン・グループ(AHG:Artificial HuMan Group)」だった。言うまでもなく株式の半数をテレビ局が握り、十五%をフランス政府が握って主導権を確保した。ここでヒト型バイオボットは「エイメン」と名付けられ、格闘技競技会は正式名称を「世界人造人間競技会」と定められた。「エイメン・コンテスト」の誕生だ。
だが興行収益の分配率を巡って参加機関と激しく対立。競技スタートを前にいきなり空中分解の危機に陥ってしまった。そこでエイメン製造者を中心とした組織「エイメン製造者協会(AHCA:Artificial HuMan Constructors Association)」がアメリカのニューヨークに設立され、エイメン・グループと製造者協会が常に協議しながら大会を運営していくシステムに落ち着いた。
競技会開始時点での参加機関(国)は十二チーム。仮に初年度の累計放映視聴者数が五億人弱、収入が一〇〇〇億円だったとして、エイメン・グループと製造者協会の協定通り総額の半分を製造者へ賞金として支払うと、一チームあたりの平均受け取り額は四十億円ちょっと。エイメン開発・製造費が一体、最低でも数百億円、強国であれば千億円単位のオーダーがかかると言われる中、何の足しにもならなかった。
「なあ、ところでよ。なんでエイメンってみんな同じ顔してんだ?」
雑誌を覗きこんでいた少年が聞いた。
「開発コストを抑えるためだってよ。顔と胴体を共通化してんだよ」
「何、体も同じなのか?」
「ああ、違うのは腕と脚だけ」
「だから腕だけとか脚だけとか変な形になってんだ。なるほどなあ」
運営システムと協議ルールが固まっていく中で、エイメン・グループと製造者協会、最大の課題はコストの究極の削減だった。これが達成できなければ広げた大風呂敷はいとも簡単に瓦解する。
まず考えたのが少年たちの会話にあるように、エイメンの核となるパーツの共通規格化だった。頭部と胴体が共通規格化され「ボディ」と呼ばれた。しかも、これを製造者協会で一括製造し、各チームへと供給する。一括製造することで量産効果による一体あたりの製造単価を抑える狙いだ。
各チームはボディ以外の四肢パーツ、腕と脚のみを作ればいいことになり、独自に研究・開発するパーツ数が減ることで負担が大きく減る。
ボディ・パーツも、構造、機能を大胆に簡素化し大幅なコストダウンを実現した。
まず内臓のパーツ点数をざっくりと捨て去った。胸部にある心臓と肺、気管、気管支などの呼吸器系は人間と同じ作りだが、試合中にエイメン同士が会話する必要はない、として発声器官は省略された。会話機能を省いたことでその分、脳の機能を限定し、小さくもできた。
腹部の臓器はほとんどが省略された。これにはコストダウン以外の狙いもあった。ヒト型バイオボットはその誕生当初から、「人間のコントロールから離れ、暴走するんじゃないのか。暴走したらどうするんだ」という危惧が常に問われ続けた。そこでフェイルセーフの一つとして、自立しては生き続けられないよう最低限の機能に絞り込むことが考えられていった。
生命維持に必要な栄養などは基本的に外部から供給し、体内には一定時間しか活動できないよう小さな貯蔵タンクのみが収められた。格闘時間で三分強の量である。
ワンラウンド三分。
これは、ボクシングなどの人間の格闘技に似せたのではなく、エイメンの活動限界から必然的に作られた大会ルールだった。
それを超えると、胃や腸の代わりに腹腔内に収められている、十二個のタンクと呼ばれる貯蔵袋に貯めたエネルギー養分(燃料と呼ばれている)が枯渇してしまう。次第に活動が鈍くなり、同時に体温も下がり、脳死、心停止へと至り、そしてゆるやかに死ぬ。
エイメンたちの背中は、頸椎の下、肩甲骨の間の胸椎の上が十五センチメートルほど縦長の台形状に盛り上がっている。弁当箱と呼ばれているこの盛り上がりの皮膚の下には、炭素繊維強化複合材料で作られた縦十二センチメートル、横五センチメートルほどの箱が埋め込まれている。中にはエイメンとの通信を行う装置と、状況のモニタリング、脳に指令を送る制御チップと、外部生命維持装置とをつなぐプラグが備わる。
大会ではラウンド間のインターバル(休憩)ごとに、臍帯から作られた造語、アンビリカルケーブルを弁当箱のプラグに接続し、燃料の供給、尿の排出と身体状態のモニタリング、次のラウンドのための指令などを行うことになる。
船外作業の宇宙飛行士につながれる空気供給ホースや、無人潜水艇への電源、信号伝達ケーブルと同じ呼び名だ。
この臍帯から燃料を供給し続けるか、体内の燃料タンクが枯渇する前に再供給するかしないとエイメンは活動を続けられない。世界とエイメンをつなぐ、文字通り〝生命の絆〟だった。燃料パイプは心筋で囲われたタンクへ、通信神経ケーブルは延髄へと直接つながっていた。
こうして自分で栄養(食物)を摂取し、それを分解しエネルギーへと変換する必要がなくなったため、食道、胃、小腸、虫垂、大腸、肛門、胆嚢はすべて省略された。その空いたスペースに左右六つずつ二列に並んだタンクが配置されている。
尿管、膀胱もない。人間だと一対持っている腎臓は一つだけで、血液から老廃物や余分な水分を濾過する機能は同じだが、尿は専用タンクに溜めておき、排出は弁当箱につないだアンビリカルケーブルで外部に吸い出す。
消化に関係する臓器はほとんどが不要とされた。脂肪の消化吸収を助ける胆汁を出す胆嚢、消化液の膵液を出す膵臓も不要。脾臓の機能のうち、免疫機能、造血機能、血球の破壊は不要とされたが、激しい運動時などの緊急用血液の貯蔵機能についてはタンクで代替することとされた。
肝臓は血中グルコース濃度を一定に保つ機能だけが求められ、グリコーゲンとして貯蔵する量はそれほど必要ない、ということで機能を限定された上で小さく作成されることになった。
皮膚はフランスで開発されたヒト型バイオボットと同じく高分子ポリマー製で十分とされた。そのため脂肪にあたる機能はほとんどなく、体温を保つ能力も低かった。エイメンの体温は基本的に筋肉で作るものとし、活動量が少ないとき用に電熱線入りガウン型ボディウォーマーが必須だった。競技会ではロープを跨いでリングに立つ直前までガウンを着こみ、体温を保っておく必要があった。
この徹底した機能限定、コストカット、量産効果などによりエイメンの共通化ボディは一体およそ一億ドル(約一一三億円)近くまで製造価格を下げることができた。各チームはこのボディを協会から購入し、自主開発した腕と脚をくっつけて完成させる。
アメリカの時の政権が製造元のロッキード・マーチンに値下げをさせたF―35の一機、約九千万ドル(約百二億円)に近い価格となったが、エイメンの価格はボディのみであり、制御系も不十分で、火器管制もなく、専用火器もない状態なので軍事兵器への転用には程遠かった。しかしなんとか将来への道筋を残すことには成功した。
東洋系の男も協会のボディ開発プロジェクトに三年ほど出向しており、その経歴を買われて国のエイメン研究・開発チームのリーダーに抜擢されたのだ。
男は極東の島国出身だった。国立大学大学院進学後、交換留学研究生として中東のこの国にやってきた。一度帰国し母国で修士を取得し、再びこの国へと渡り、大学院博士後期課程で博士号を取得。教授としてそのまま研究室へ残り、今では、外国人傭兵部隊のようにさまざまな人種、国籍、宗教の人間を抱え込んだ自分の研究チームを持たせてもらえるまでになっていた。