移住願望(6)
娘や息子に止められた。でも、笹岡の母と片山の母は、そこで諦めるわけにはいかなかった。
あの集落の人達が、今より少し少な目に食べて、自分達家族に少し回してくれれば良いのだ。 二十数人分の食料があるなら、今、あの集落は、二十人だ。数人分の余剰があるはずだった。
小野寺博士だって、娘の友人の家族が餓死するのを黙って見ていることはないだろう。
こちらが必死に頼めば、心を動かすはずだった。
何てったって、凛の友人の家族なのだ。
示し合わせて、毎日7時に正門前で待ち伏せした。この頃の夕食は、毎日、例の固形栄養食品で、主婦の仕事はほとんどないのだ。
一週間も出向いただろうか?見知った赤い電気自動車が現れて、正門前に凛の小さな姿が見えた。笹岡と片山が一緒だ。
子供達は、仲良くやっているのだ。自分達が誠意を持って頼めば、何とかなるように思われた。
これまでの12年は仕方がない。でも、これから、あの集落のために協力する。だから、食べ物を分けて欲しい。いや、その前に、あの集落で住みたい。これが、二人の願いだった。
二人は、凛が電気自動車に乗ろうとするところで、声をかけた。
笹岡と片山は、声の主を認めて、あからさまに嫌そうな顔をした。
「凛さん。私達、小野寺博士にお会いしたいんだけど……」
運転席に座っていた陽一は、黙って見上げて息を吐いた。そうして、おもむろに訊いた。
「どちらさん?」
「笹岡真紀子の母です」
「片山 翔の母です」
二人の母親は、平然と言った。ここは、頑張らないといけない局面だ。おばさんは強い。
「母さん。そんな馬鹿なことしないでって言ったのに」
「姉貴とそっくりだって言われるぞ」
笹岡が恥ずかしさで真っ赤になり、片山も憮然とした。
陽一が肩をすくめて、スマホで電話する。うんうんと頷いて、顎をしゃくった。
「お乗りなさい」
ほうら、見なさい。二人は、得意満面で車に乗った。
凛が悲しそうな顔をする。笹岡が凛を抱いて、小さな声で言った。
「うちの母さんのことは気にしなくて良いから……それより、凛、無理しちゃ駄目だよ。また、倒れちゃうよ」
「マキ。ありがと」
「ところで……舜は、学校か?」
「うん。さっさと卒業してこっちへ合流したいからって、落ち着いてすぐ向こうへ帰ったの」
恋敵の舜がいないのだ。片山にとってはチャンスだ。小さなガッツポーズをする。
「片山くん。変なこと喜ばないの!」
笹岡がピシャリと言った。
高校から桃源郷まで、およそ1時間。7時過ぎているのだ。暗くて、山の県道に着いた頃には、どこがどこか分からない。どこまでも、両脇に杉林が続く。道の右側、山と反対側の杉が一部伐採されて更地になっている。
「誰が買うんだろうな。こんな水もないところ」
陽一がつぶやくと、片山の母が聞きとがめた。
「水道、来てないの?」
「ああ、この県道へ入る前に国道との交差点があっただろ?あそこが一番近い水道管だって話だ。
10キロ近くはあるだろうな。山辺集落までは15キロはあるから、どっちにしても、水を引くのは大変だ。
原野商法まがいの詐欺だな。
ちなみに、この道の左側、つまり山側の杉林は、全部小野寺博士の所有なんだけど、この頃、いろんな不動産屋が売ってくれってうるさいんで、博士が頭抱えてた。
ウチは、この杉林ごと、まとめて一つの地域として使ってるから、売るわけにはいかねえんだ」
気が付くと、脇道の進入路を走っていた。両脇の杉が覆い被さるようだ。
「こんな所、住めねえだろ?学校にも行けねえんだ。だから、舜も凛ちゃんも中学までは野中先生の指導を受けて、高校になって初めて学校へ行ったんだ」
笹岡の母は、とんでもない事実に気が付いた。笹岡家には、高校生の笹岡の他に、中学生の弟と小学生の妹がいる。桃源郷に住むということは、小学校と中学校を諦めるということになる。 野中夫妻に個人授業を頼むとすれば、一体、月謝がいくら要るのだろう?
杉林が終わると、広葉樹の森に出た。辺りは、うっそうとお化けが出そうだ。
凛は黙り込んでいる。
陽一が平然と言った。
「この森は、親父達が植林して作ったんだ。雑木林の方が、保水力があるし、なにより、キノコとか、山菜とか、いろんなものが取れるだろ?でも、この森を手入れするのも俺達で、下枝を切ったり、結構大変なんだ。ただ、この森のおかげで、ウサギとか鹿とか捕れるんだ」
「そんなもの誰が捕るの?」と、片山の母。
「親父の仕事なんだ。凛ちゃんも上手だぜ」
「凛、舜ほど上手じゃない……」
「それって、食べるんですね?」
今度は、笹岡の母が訊いた。
「ええ。水野のおばさん達が鴨なら羽むしったり、ウサギなら皮剥いて臓物を取り出したりして、料理するんだ。凛ちゃんでも、ウサギや鴨ぐらいならさばく。
ああ、マキちゃんね。アイガモ、さばいてみろって言われて、頑張ってたぜ」
「真紀子が……」
「マキ、水野のおばさんのファンだから、おばさんのやること、何でもやってみようって頑張ったの。初めてにしては上手だって、おばさん、褒めてた」
凛が嬉しそうに説明した。
「水野のおばさんって?」
片山の母が訊いた。
「ウチの食事担当のリーダーだ。料理の腕はプロ級だし、山菜取りの名人だから、春や秋には、みんなして、あの人の指示で山菜取りに出掛けるんだ。女は山菜取りで、男は下枝払いなんだ」
ようやく、田畑が見えて来た。
二人は驚いた。畑には、整然と白菜や大根が並んでいる。ネギや小松菜、ほうれん草といった青物まである。町の畑は、海水が入り込んで、農作物が作れないというのに。
これだ。これが、欲しかったのだ。
稲刈りの終わった田んぼには、切り株が並んでいる。ここの田んぼは、豊作だったのだ。水があるからだ。当然だった。
思わず、溜息が出た。
「ここらは、中原のおばさんが頑張ってるから、日本中が凶作でも収穫があるんだ」
「中原のおばさんって?」
「建築家の中原さんの奥さんで、俺の奥さんの母親。つまり、中原のおばさんは、俺の義母ってことになる」
「ここの人は、中の人同士で結婚するの?」
片山の母が唖然として訊いた。
「いやあ、無茶苦茶なんだ。食料があんまりないんで、余所の人間を迎える余裕がないからって、たまたま中の人間が好き同士だから、くっつけてしまえって、ひどい話だろ?」
陽一が声を上げて笑ったので、笹岡の母も片山の母も絶句した。
こんなに恵まれているのに、食料が足りないと言うのだ。それで、結婚さえ、計算ずくでしているのだ。
「そんなこと言っちゃって。陽一さん、愛美さんのこと好きなくせに。愛美さんに言いつけちゃうよ」。
「こら、やめろ。ウチの奥さんは、最高なんだ。ガキが余計なこと言うんじゃねえ」
笑いながらハンドルを切ると、大きな家の前に着いた。
ここが小野寺家兼小林家で、桃源郷の本部だ。