【7両目】
「ま、俺の話はここまで。どうだ、洸太。だいぶ夏らしくなってたか?そろそろ、駿吾の腕離してやれよ」
「こっ、これは」
我に返った洸太が赤面して僕の腕をぱっと離す。
「いいって、別に。千尋くん、ちょっと怖すぎで僕、今晩の見張りできるかわかんないよ」
そう、僕らはこの晩、交代で見張りをすることを決めていた。焚火が消えてしまったら、野生生物に襲われてしまう心配もあったから。
「まぁ、二人一組だし大丈夫だよ」
賢も通常運転に戻っていて、楽観的だ。千尋も静かになった洸太を見て、満足したようにそれ以上の追撃はしなかった。
そうしているうちに、僕らは半日歩いてきた疲れもありウトウトしだす。最初の見張りは洸太と賢だった。僕は寝袋に包まると、ほんの少し開いた瞼の間から焚火を見て、そのうち寝ていた。
「おい、駿吾、駿吾ってば」
体を揺らされて目が覚める。
「ん、ぁあ、千尋くん、どうしたの」
寝ぼけ眼の僕に千尋が呆れて言う。
「どうしたのじゃなくて、見張り交代だ。ほら、起きてくれ」
既に洸太と賢は寝入っていた。暫く僕と格闘してくれていたのだろう。懐中電灯を手に取るとそのひんやりとした手触りでじょじょに頭が覚醒してくる。
「ごめん、僕、寝ぼけてたかも」
「いや、かもじゃなくて、寝ぼけてた。ま、それはいいから、そこの木のところで見張りだ」
「うん」
僕らは野営地点から少しだけ離れた大木の根元に両側に陣取って、見張りを始める。とはいえ、何も起こらなければ、ただ座っているだけで眠気がすぐに襲ってくる。暗い森は思った以上に静かだ。
「とりあえず、何か見えたらすぐにお互いに報告な。安全第一で」
「らじゃー」
僕の返事を最後に会話が途切れる。少し湿った苔の匂い、針葉樹林の合間から見える月、時折聞こえる野鳥の声。太古に栄えた僕らの先祖は毎晩こんな夜を過ごしていたのかと思うと複雑な気持ちになる。きっと、子孫である僕らの暮らしを知ったら驚くだろうな。
「なぁ、駿吾」
不意に背中から千尋の声が飛んでくる。
「ん、どうしたの」
「こんなこと急に話すのもあれなんだけどさ」
やけに歯切れの悪い。らしくないな。
「いいよ、夜は長いんだし。それに、話してないと僕、寝ちゃいそう」
「あぁ、俺も。でさ、その、紫苑のことなんだけどさ」
その時、示し合わせたように風が吹き抜ける。キャンプ地点に見える焚火が大きく揺れる。
「紫苑がどうかしたの」
できるだけ落ち着いて、何事も無かったように返事をする。
「ああ、俺たち、紫苑のこと意図的に話題にしないようにしてきてるよな、ぶっちゃけ」
肯定したくない質問だったけど、答えはイエスだった。あの日からずっと僕らの間で紫苑の話題は禁忌みたいなものだった。でも、あえて僕は真逆の答えを言う。
「え、そんなことないよ。どうしたの、急に」
「茶化さないでくれよ。俺、真面目なんだ。本音のところはどうなんだ」
「―――避けてる。だって、僕らにとって、紫苑を亡くしたことはあんまりにも、その――」
「辛かった」
「うん」
「紫苑、森が好きだっただろ。だから、俺、この森に入ってからずっとあいつのこと考えてた。木の匂いも、枝を踏む感覚も、葉っぱが頬をかすめる感覚も本当は大好きだったあいつも体験しなきゃいけないことだったんだよなぁって」
僕らは大木を挟んで背中越しに会話を続ける。たぶん、その方が本音を言いやすかったのかもしれない。でも、僕は千尋が何を言いたいのかが分かりかねて返事ができずにいると、それを察するように千尋が続ける。
「いいんだ。無理に返事しなくて。俺の独り言だと思ってくれ。俺、忘れられないんだよなぁ。最後に紫苑と森に来た日のこと」
チクリ。胸が痛む。僕だって忘れられるわけがなかった。
「僕、皆としてた虫取りを紫苑と二人で離脱して、切り株のソファみたいなところで色々話した。そして―――」
そこまで言いかけたところで、千尋が被せるように割り込む。
「あの日、あの日な、俺が紫苑を誘うように駿吾をわざと唆したんだ」
突然の告白に僕は沈黙する。確かに、あの日、僕は千尋が紫苑も連れ出そうという話に乗っかって、僕が病室まで誘いに行って、二人で病院を抜け出していた。
まだ痛む胸を無視して、僕は千尋の次の言葉を待つ。
「紫苑が『森が見たいって』言うから。『みんなでまた森に行きたいって』なんて言うからさ…」
千尋の声が小さくなる。僕は何も言えない。また、チクリと胸が痛い。
「そして、俺だけだと思う。紫苑に言われてたんだ。『たぶん、最後になりそう』って。あいつ、分かってたんだ。自分がもう長くないってこと。だから、俺、どうしたら一番、あいつがすんなり病院を抜け出せるか考えて、駿吾のお母さんあそこの婦長さんだっただろ?だから、一番、疑われずに連れ出せるのは駿吾だと思った。だから・・・」
僕は大きく
深呼吸をする。
「それが、紫苑の願いだったんだよね。だったら、千尋くんが罪悪感を感じる必要はないって、僕はそう思うけどなぁ」
「いや、罵ってくれていいんだ。俺は、駿吾に許してもらおうなんて思ってない。でも、黙っているのはもう限界だったんだ。ごめん」
僕はすくっと立ち上がると、大木を半周して千尋横に腰をかける。
「千尋くんは、この四年間、ずっと紫苑を死なせたのは自分だって責め続けてきたんだね。ぼく、なんて言ったら良いかわかんないけど、その…一つ言えるのはね、千尋くんは悪くないってこと、かな」
僕は千尋の肩にそっと手を乗せる。俯いた彼の表情は見えなかったけど、震える肩がその表情を物語っていた。本当に千尋は悪くない。そんなことは僕が何よりも知っている。
「やめてくれよ。そんなことを言ってもらいたくて話したわけじゃないんだ。俺は、本当はこの秘密を墓場まで持っていこうと思ってたんだ。親にも当然、賢たちにだって言えない。紫苑のおじさんとおばさんにも顔向けなんてできなかった。紫苑は俺が殺したようなもんなんだ」
やっとかみ殺すように言ったその言葉が千尋の限界だったことを僕はわかっていた。
そう、だから、千尋はあの日、紫苑の葬式に来なかったんだ。
☆
「あいつ、雨好きだったよなぁ」
洸太が潤んだ瞳のまま、しとしとと降り続ける秋の長雨を仰ぐ。
「うん。紫苑らしいよね。お別れの日まで雨だなんて」
僕、洸太、そして賢の3人は小学校指定の紺色のブレザーを着て、どこかよそよそしく、どこか他人行儀のぎこちなさで千尋を待っていた。
「あいつ、本当に来ない気なのかよ。ありえねぇ」
「まぁ、賢くん。千尋くんもショックなんだよきっと。だから、うまく、こう、気持ちの整理がつかなくて」
「そういう問題じゃねぇ。これは、けじめだろ。ちゃんとお別れを言って、俺らは前を向かなきゃいけないんじゃねぇか。それなのにあいつは」
クソッ、と賢は地面を思いきり踏みつける。跳ねた雨水が彼の真っ白な靴下を汚す。
返す言葉も見つけられずに、自分の腕時計をおもむろに確認する。
―――10:23
「だめだ。もう間に合わなくなっちゃうから行こう」
千尋は結局約束の10時から大きく過ぎても、集合場所に会わられることはなかった。とは言っても、前日の時点で「絶対行かない」と言っていた彼に、僕らが無理やり「待ってるからね」と言って別れただけのことだった。
「しかたねぇな。じゃ、行くか。おれ、ぜってー許さねえ」
そう、賢はこの日、一日中怒っていたんだった。
一人でずんずん歩いて行ってしまう賢に遅れないように、僕もついていく。
「ほら、洸太くんも。行くよ」
「あ、うん」
洸太は洸太で、この日は抜け殻のようにずっと上の空だった。悲しみが追い付いてきていなかっただと思う。実感がなかったんだ。親しい人を亡くすってことがどんなことだかわからなかった。当時はみんな、じいちゃんもばあちゃんも元気だったし、お葬式自体初めての経験だった。
洸太は僕に声をかけられてやっと動き出す。どこを見ているんだかからないような目で、僕の後ろをとことことついてくる。
雨音に包まれたまま僕らは紫苑の家の前に到着する。
既に真っ黒な礼服に身を包んだ大人たちが慌ただしく出は入りしていて、いつも僕らが遊びに来ていた紫苑の家とは別の顔を見せていた。
玄関口まで行ったところで、紫苑のお母さんが僕らに気付く。
「あぁ、賢くんにみんな。来てくれたのね。ありがとう。紫苑もきっと喜ぶわ」
紫苑のお母さんは控え目にいっても美人だった。しかし、その時ばっかりは泣き腫らしたであろう疲れた目と、まとめきれていないごわついた髪がおばさんが心身ともに疲れ切っていることを如実に表していた。
「おじゃまします」
僕らは口をそろえて紫苑の家に入る。家中に漂う紫苑の匂い。そして、そこに薄く混ざるようにして漂ってくるのは彼岸の匂いだ。線香や飾られた花々の甘い香りに出入りする大人の匂い。
おばさんは、祭壇まで僕らを案内してくれる。真っ白い真新しい祭壇には顔をくしゃくしゃにして笑う紫苑の遺影が飾られていた。その真下に小さな白い棺桶があった。
「ほら、紫苑。皆が来てくれたわよ。よかったねぇ、最後までお友達がいてくれて」
すでに涙声のおばさんに僕まで瞼に涙があふれてくる。
賢は両手を握りこぶしにしたまま棺桶に近づくと、小声で何かを言ってそっと離れた。僕がまごついていると、おばさんが優しく手招きしてくれて、それに従う。
恐る恐る棺を覗き込むと、そこには確かに紫苑がいた。ただ、いつも上に肌は透き通ったように白かったし、そして、なにより、安らかだった。
最後に病室で見た苦しそうな笑顔ではなく、気持ちよくお昼寝をしているような表情だったことに安心した。
僕は棺のすぐ横に膝を折って、紫苑に届かない想いを伝える。
「紫苑、来たよ。いったんはお別れだけど、また会えるかね。ずっと友達だからね」
そこまで言うと僕は後列に戻る。
次は洸太の番だった。ただ、洸太は動かない。
「ねぇ、洸太の番だよ。ほら」
肩に手をやる僕に、洸太は紫苑の遺影をまっすぐ見たまま言った。
「おれ、やっぱり無理だ。ごめん」
「え」
「俺、やっぱり、紫苑にお別れを言うなんてできない」
「そんなこと言ったって―――」
「嫌なもんは嫌なんだよ!おれ、おれ、紫苑と別れたくなんてないんだよ」
涙声で駄々をこね始めてしまった洸太に僕もどうしたらいいかわからずにしてると、おばさんが声をかけてくれる。
「洸太くん、いいのよ。ここまで来てくれただけでも紫苑は喜んでるはずよ。ね、だから洸太くんも泣かないで。紫苑も洸太くんが泣いてたら悲しむわ」
そんな声に、うん、うん、と袖でごしごしと涙を拭く。
「お坊さんが来るまでもう少し時間があるから、三人とも紫苑の部屋で待っててもらってもいいかしら。紫苑の部屋の場所は、わかるよね」
「はい」
僕が返事をして残りの二人を部屋まで先導していく。何度も通ったこの階段。四段目がきしむことも、手すりがツルツルすることも、夕方になると昇り切った先にある小窓に面白い影が映ることも全部知ってた。全部が紫苑と紐づいた大切な思い出だった。
“しおん”と書かれたドアノブをひねると、見慣れた彼の部屋があった。
「そのまま、だな」
賢がぼそっと言う。僕らは思い思いの場所に腰掛けて、特に何を話すわけでもなく部屋の中を見ていた。雨は来た時よりも強くなっていた。窓に打ち付ける雨音が響く。
「なぁ、俺たち、絶対、紫苑のこと忘れないようにしような」
賢がさっきまでより少し芯のある声で言う。
「うん」
僕と洸太の声が重なる。
会話はそこで終わったけど、僕らは誓った。紫苑の気配がするあの部屋で。紫苑を一生忘れないと。
その後は、お坊さんが来てお経を唱えた後、霊柩車に乗せられた紫苑は長いクラクションとみんなのすすり泣く声に包まれて住み慣れた我が家から旅立っていった。
雨煙に車のテールライトが見えなくなるまで僕らは立ち尽くしていた。




