【1両目】
◆
「痛っ」
いつの間にか強く握りすぎてしまっていた右手を開く。申し訳なそうに手のひらに乗っている星型のキーホルダーが夕焼けに照らされてキラリと光った。
まさか、こんなに経ってからあの日を振り返ることになるなんて想像もしていなかった。、机の引き出しにしまい込んでいたこのキーホルダーはあの時の感情を素直に呼び起こしてくれた。
夏の夕日が遠くに見える光岳のさらに向こうに沈んでいく。BGMはもちろんヒグラシの大合唱。自宅のベランダから臨むこの風景を、今まで何度見ただろう。きっとしまい込んでいた。この夕焼けに紐づけられたあの日のことを。僕らにとって忘れられないあの日。僕らが何かに向けて舵を切ることになったあの日。始まりも終わりもこの夕焼けだった。
彼は今になっても僕に何かを伝えようとしてくれているのかもしれない。眩しい夕焼けを無理に見つめ返すと、星型のキーホルダーをもう一度強く握る。もう、痛みは感じなかった。
★
「あっつぅーーー!頭溶けそうだわ。シュン、アイス買ってきてよー」
水色の下地に波乗りをしているサルが大きくプリントされたTシャツの胸元をパタパタ扇ぎながら洸太が僕に注文を飛ばす。
「えー、洸太くんさっきアイス食べたばっかじゃん。お腹壊すよ」
「いいの、いいの。どうせ腹は痛くなるから、何個食っても変わんねぇの」
「えぇ、でもぉ」
かんかん照りの真夏日。太陽ですら辟易するような無茶苦茶な自論。まぁ、中学2年生の秋月洸太はいつもこうだった。
「ほーら、駿吾が困ってんじゃねぇかよ、洸太。我慢しろって。みんな暑いんだからさ。お前が暑いって言うと、俺らも余計に暑くなる」
暴走する洸太をいつもたしなめてくれていたのは、池口賢だ。僕らの町である、池本本町に昔からある池口木材の跡取り息子。賢のお父さんで3代目という老舗中の老舗で、町で知らない人はいないくらいだった。まぁ、本人は後を継ぐ気があるのかないのか、自分からは一切口にしない。とはいえ、見た目も、ザ・ガキ大将タイプで短髪、浅黒い肌。それに加えて兄貴肌ときた。同年代ながら頼りになる彼は同級生の中では一目置かれている存在だ。
「賢、洸太が暑いって言っても、俺らの体感温度が上がるなんていう科学的な根拠はないよ。まったく、二人して脳みそまで筋肉なのかよ」
「んだよ、千尋、お前はどっちの味方なんだよ」
「俺、別に、どっちの筋肉の味方する気もないから。まぁ、しいて言えば、駿吾の味方かな。アイス買ってくる必要はないよ」
秀才クールボーイ。かつ、毒舌。松本千尋だ。眉目秀麗で少し長めの髪とちらりと覗かせる八重歯が印象的だ。勉強は人一倍できるし、頭の回転もすこぶる速くて、賢と同じように同級生の間では一目置かれる存在。ただ、兎にも角にも、口が悪い。付き合いの長い僕らでさえも、直撃したら即死レベルの矢が飛んでくる。そのため、基本的に千尋は僕らとしかつるまない。まぁ、千尋自身はつるんでいる意識もなかったのかもしれないけれど。
「千尋くん、言いすぎだって。賢くんも、ね。そうだ!今日はとっておきの情報があるんだよ。この夏を去年までの夏と一緒にしない、すごい情報!」
ふん、と鼻を鳴らして腕を組む千尋に、仕方ないなぁと表情を緩める賢、なんだなんだ!とまた騒ぎ出す洸太。反応はそれぞれだったけど、収まってくれてまずは安心した。
今朝、秘密基地に集まった時から、いつ言いだそうかタイミングを見計らってきたのだ。切り出すのには絶好の機会だった。
「みんなは先月、山梨であった殺人事件知ってる?」
「あぁ、確か、甲府の方であったやつだったよね。犯人捕まってないやつ」
やっぱり、千尋は知っていた。そう、先月7月に、山梨県の甲府で殺人事件が起きていた。事件の概要はこうだ。
あの日は、真夏日中の真夏日で、毎年暑いと言われている甲府も、もちろん僕らの住むこの町だって、夜になってもすごく暑かった。事件が発覚したのは、そんな夜も更けた23時ごろ。甲府に自宅を構えて奥さんと息子2人で暮らしていた男性が帰宅すると、旦那さんを除く家族全員が刺殺されていた。すぐに緊急配備がされ、近隣住民からの目撃情報を頼りに近くに住む、一人の男が指名手配された。
身寄りもなく、近隣住民との親交もなく、普段から孤立した存在の彼は周囲からは変わりものとして見られていた。ただ、その彼が例の一家を殺害する動機も見つからず、家から出てきたといわれる目撃情報の人物の特徴と似ていたところ、直前に近くのホームセンターで購入していた出刃包丁が殺害に使われた凶器とほぼ一致したことから重要参考人とあいなったわけだった。そして、まだ彼は目立った目撃情報もないまま行方不明となっていた。
そうして、噂が噂を呼び、東京に逃げただとか、海外へ逃亡したとか、山梨と隣接する県でもあるこの静岡県に逃げたという噂も当然のように出てきていた。
「あれだろ、その犯人が静岡に逃げてきてるって兄ちゃんが言ってたぜ。たぶんマジだと思う」
洸太が上ずった声で言う。
「おいおい、駿吾の言う、そのとっておきの情報って、その話なのか」
賢がいぶかしげに僕の目を覗き込む。僕は、一息おいて話しだした。
「そう。洸太の兄ちゃんも言ってたんだ。僕も、お兄ちゃんたちが話してるところを偶然聞いちゃって。その犯人がね、光岳の麓にある無人になってる洋館に潜伏してるらしいだよ。警察もまだ手に入れてない情報なんだって」
ふふっ。
千尋が笑ったのが分かって、そちらを向く。
「何を言いだすかと思ったら、駿吾までどうしちゃったのさ。さすがに警察も手に入れてない情報をお兄さんが手に入れられるわけないと思うけどなぁ。暑さにやられた?」
むむう。やっぱり、千尋は手ごわい。僕は、次の一手を繰り出す。
「でもね、見たんだって」
「え、犯人を?」
ドラム缶に座っている賢が少し身を乗り出す。
「うん。兄ちゃんたちが、夜、車で光岳の麓を“流して”たら、テレビで映ってた男とそっくりな男が道を歩いてたんだって。それで、ちょっと遠くに車を止めて、もう一度歩いて戻ってその辺を探したら、例の洋館に男が入っていくところだったんだって」
「俺も、その話だ!兄ちゃんから聞いたの。洋館の一階にぼやっと明かりが点いてるっても聞いたわ」
「ふぅん。ま、夜だったんだし、見間違いって言う線もあるだろ。仮に、本当に犯人がいるとしても俺はどうでもいいけどね。別に俺らに何ができるわけでもないしさ」
「まぁ、そうだよな。危ねぇだけだし。なんでまた駿吾はこれがとっておきの情報だったんだよ」
賢はなんやかんや千尋に同意する。いつもいがみ合っているように見えるけど、意外とここが一番の相棒だったりするのを僕も洸太も知っていた。幼稚園の頃からそうだった。
「えっとねぇ、僕がこんなこと言うのは結構、意外かもしれないんだけど、僕らでその犯人を捕まえられないかなぁと思って・・・」
「はぁあ?嘘だろ、駿吾がすごいこと言ってるぜ・・・」
賢が目を丸くする。
「いや、結構、僕は本気なんだ。別に犯人に対して何か個人的に感じているわけではないんだけどさ」
「じゃあ、なんでまたこんな危険なことを」
千尋や賢が驚くのも無理はない。幼稚園のころからつるんできた僕らは、ほとんどお互いのことを知りつくしている。性格も、好きな子の遍歴も、お尻のホクロの位置だって。そんな中、僕は背は小さい、ビビり、慎重派の三拍子そろった存在だったからだ。
真っ青な空をトンビが一羽、大きく周回している。
「笑わないでよ」
賢と千尋が神妙にうなずく。
「大きいことしたくて」
「ぶわぁはっは!!」
吹き出したのは洸太だった。とにかく笑い声がうるさい。それにつられるようにして、賢も千尋も笑いだす。僕は、顔がカーッと熱くなる。
「笑わないって言ったじゃん!」
「いやぁ、ごめんごめん。洸太が笑うもんだから」
「いでぇ!」
ひとしきり笑い終えた後、目尻に浮かんだ涙を拭いながら賢がやっと答える。洸太は笑い過ぎて腰掛けていた木の幹から落ちた。
「ごめんな、駿吾。ちょっと、駿吾がこんな事言いだすなんて珍しいからさ、ちょっと話聞いてみない」
そうだった、千尋がアシストしてくれて僕は話を進められたんだ。
「僕ら、来年受験じゃん。高校はたぶんバラバラだし、なんか残したくて。来年の夏は受験勉強で忙しいだろうから、今年の夏がラストチャンスになると思って。僕たちがここで中学生やったんだっていう証というか、記録というか」
「はぁ、理性的なのか衝動的なのか、無鉄砲なのか慎重なのか、駿吾キャラぶれぶれだよ。言いたいことはわかったけどさ」
千尋は呆れたような、年下の弟を見るような目で僕を見ていた。
「いいじゃん!シュン!行こうぜ!俺らで犯人とっ捕まえて、テレビに出て、新聞にインタビューされて、警察に表彰してもらおう。きっとすげー記録になるぜ。スーパー中2の誕生じゃん。おれ、インタビューで答える内容考えておかなきゃ!それって超クールかも」
「ばか、まだ行くなんて誰も言ってねぇじゃねぇかよ。まぁ、インタビューの内容でもサインでも勝手に考えておけよ」
賢が洸太を茶化す。ただ、今回ばっかりは洸太のこのノリの良さに感謝だった。
「ねぇ、どうかな? 捕まえないにしても、僕らで何かできないかな?」
――――沈黙。
「どうだ、千尋?」
賢は困ったとき、必ず千尋に話を振る。この辺りも、二人の相棒関係を表している。
うーん、と腕組みをしながら唸る千尋。そして、口を開く。
「仮に、犯人がそこにいるとして、さらに仮に、警察がその情報をまだ得ていないとして、俺たちが犯人がそこにいるという決定的な情報を警察に提供すれば、何かしらの感謝状をもらえるってことはあるだろうな。まぁ、全てが仮の話だけど」
「つまり・・・?」
「俺は、やってもいいぜ。駿吾がこんなことを言うなんて珍しいし。それに―――」
「それに?」
「夏の予定特になくて暇だし。お前らとここに集まってウダウダ話すだけで夏が終わるのはなんか――――」
「なんか?」
「もったいない、から」
はぁー。賢が大きくため息をつく。
千尋が乗ってくれたことで、賢はなしくずし的に参加が決定したのだった。
「とりあえず、計画は俺に任せて。お前らに任せたら洋館にたどり着く前に夏が終わりそうだからさ」
千尋のキャラはやっぱりブレない。
「なんだよ、意外と千尋が一番乗り気じゃんねー」
ここまで珍しく沈黙を守ってきた洸太が地雷を踏んだ音は僕も賢にも確かに聞こえた。頭上のトンビですら周回を止めて飛び去っていった。
風が止む。
「うるせーよ洸太!お前みたいな脳みそすっからかんのアホに計画なんて立てられたら、たまったもんじゃないってことだよ。光岳の麓までの移動手段は基本徒歩、一日で歩き切れる距離じゃないし、恐らく泊りになる。外泊の許可は?道はどこを使う?大人にバレないように事を運ぶだけの慎重さと計画性と知恵がお前にあるようには思えないってことをわざわざ言わずにいてやったのに。アホは黙っとけ!」
こればっかりは、長年一緒にいながら千尋スイッチを覚えられない洸太に非がある。庇えるわけもなく僕と賢は目を合わせて苦笑する。
でも、僕も賢も知っていた。間違いなく千尋は乗り気だってことを。
風がまた吹き出す。
雲がいつも以上に低い。真っ青な空に浮かぶ入道雲は僕らの夏が特別な夏になることを知っているような様子だった。




