殺される前に一つだけ
「言い残すことはないか」
加納は静かに、銃口を向けた。冷たい金属が指し示す先には、頭の後で手を組んだ男の姿。安物のスーツを身に纏い、銀縁の眼鏡を掛けたその男は、一見すると何処にでも居るビジネスマンである。
だがその正体は、国家レベルの機密を入手し売り渡す情報屋。所謂スパイという奴だ。
それも、かなり達が悪い。金さえ払えば、どんな情報を盗み出す。彼がもたらした情報によって、どれ程の人命が危険にさらされようと。
「ああ。どうしても死ぬ前に、やっておかなければならないことがある」
男は手を組んだまま、ゆっくりと振り返った。加納は油断無く、銃を突きつける。
「そう構えるな。お前の腕なら、俺が咄嗟に逃げたとしても仕留められる。そうだろ?」
男は肩を竦めた。
実際、加納にはそれが出来るだけの自信もあった。彼はこの男のために派遣されたプロの暗殺者であり、銃の腕に掛けて右に出る者はない。
だが新米である加納は、この男を追い詰めるのに随分と苦労をした。「霧隠」の異名を持つスパイの男は、まさに現代に現れ出た忍者であるかのように、追い詰める度に姿を消した。
今回こそは、逃がすわけにいかないのだ。
ここはホテルの最上階。男と加納の距離は一メートルほどしか無く、出口は加納の背後にある玄関のみだ。どう足掻いても逃げ場はない。それでもこの男を目の前にすると、奇妙に威圧感が加納を襲い、銃を持つ手が微かに震えた。
「そこに、パソコンがあるだろう」
男が加納の傍らにあるベッドを、顎で示した。ちらりと視線を向けると、確かに銀色ノート型のパソコンが一台、無造作に置かれている。
「そいつの中にある、データを消させて欲しい」
「駄目だ」
加納は男の額に銃を寄せた。男は諭すように手を翳してみせる。
「何を興奮してるんだ? 俺はデータを消したいと言っているんだぞ? どうせお前等は、俺の入手した情報を消したがっているんだ。手間が省けて良いだろう」
「黙れ」
加納は男の額に、ぴたりと銃口を押し当てた。男の眉間に、微かに皺が寄る。
「お前のことだ。誰かに情報を送信するとも限らん」
「疑り深い野郎だなぁ……」
まるで拗ねた子どものような、小馬鹿にした声で男は言った。何を企んでいるか分からないその態度が、益々加納を緊張させる。
「一体何が入っている」
加納は、自分の雇い主が何のためにこの男を殺そうとしているのか知らなかった。理由は必要ない。重要なのは、任務を確実にこなすこと。
だが長いこと振り回され続けた加納には、押さえきれぬ興味が生まれていた。この男が、雇い主から盗み出した情報の正体。知れば自分にも危険が及ぶ可能性はあったが、口にしなければいいことだ。加納がその情報得たことを知り得るのは、これから死ぬ男だけなのだから。
男は突如目を見開いた。鼻の穴を全開に広げて息を吐く。
「あぁぁぁ、訊く!? それ訊いちゃう!?」
予想外の口調に戸惑っている間に、男は加納を押しのけ、ずんずんとパソコンに近付いていった。
「ま、待て! その勝手に動くな!」
「これは俺の私物なの! 仕事用はこっち!」
男は枕の下から黒いノートパソコンを取りだし、加納に向かって放り投げた。慌ててそれを受け止める。
「どーせ欲しいのそっちだろ。それあげるから、ちょっと黙っててくれないかなぁ!」
「あ、あげる……?」
加納はぽかんとして、パソコンを見下ろした。
「それさぁ、兵器だぁ石油だぁ、なんじゃかんじゃのデータ入ってっから! まぁ売りゃあ、ン十兆は下らないんじゃないの? よく知んないけどね」
「んんんン十兆!?」
加納は爆弾でも抱えた気分になった。その情報を投げ出してまで消したい情報とは、一体何なのか。パソコンを抱きかかえたまま、そろそろと男に近付く。
男は一心不乱にパソコンを操作していた。ウインドウが何枚も開かれ、訳の分からぬ文字の羅列が次々と飛び出してくる。
「何をしてるんだ?」
「履歴。呼び出してんの」
男はカチカチとクリックし、次々と文字の色を反転させていく。
「履歴? 通信記録をなくして、自分の存在を隠そうということか?」
加納が呟くと、男は手を止めて振り返った。視線には明らかな苛立ちが混じっていたが、直ぐに大きな溜息を付く。
「お前さぁ、この商売やっててそんなことも知んないの? 今、殺されたら真っ先に調べられんの、携帯とパソコンの履歴だかんね! そこから人との繋がり割り出して、恨み買ってないか、犯人が誰なのかを割り出すの」
「ほ、ほぅ……」
男は再び操作を始める。あまりの手際の良さに、加納には文字を判別する間さえない。
「一体何のデータを消してるんだ……?」
加納はパソコンをおき、目を凝らして画面を覗き込んだ。男の手が、ぴたりと止まる。
「知りたい?」
こくこくと頷く。男は手際よくウインドウを最小化していく。最後に残ったのは、いくつかのアイコンと、壁紙のみが表示された画面。
「こ、これは……!」
赤、青、黄。鮮やかな三原色が、視界に飛び込んできた。
それは、画面上に微笑む、少女達の髪の色であった。
「こ、これは一体……」
髪と同じような色の服。顔面からこぼれ落ちそうなほど大きな目。どう見ても、アニメーションのヒロイン達である。
「お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう。『魔法番長・ピュア☆キュート』だ」
「いや、そういうことを尋ねているのではなく……」
加納の引き攣った表情を見上げ、男は薄く笑った。
「やはりお前も、そんな顔をするんだな」
男は床に腰を下ろして、ベッドの上に頬杖をつく。
「お前なら俺のこの趣味を見ても差別しない! 一目見た時からそう思っていたんだが、俺の見込み違いだったようだな……」
何がそうさせたのか、自分は敵ながら信頼されていたらしい。加納は狼狽した。
自嘲気味に笑う男と目を合わせないようにしながら、ちらとパソコンを覗き込む。
「あーうん……かわいい、んじゃないか?」
「なぁ! そうだよなぁ!」
男が光の速さで食いついてきたため、加納は床に尻餅をつく。
「俺はさぁ、この青い子『ピュア・アクア』が好きなんだよぉ! お前はどれ好き?」
「え……あ、あぁ……赤いの、かな?」
加納は適当に、中央にいた少女を指さした。
「『ルビー』かぁーっ! まあやっぱ主人公は王道だよな! けど、シーズン4の第五話で隣の学校の男子に憧れを抱いちまったところが、一部のファンから反感を買ってるんだよ。それでもやっぱ、変身シーンの可愛さは、ルビーが秀逸だよな!」
男はベッドに飛び乗り、腕を三時の形に広げた。
「仲間の結束は血よりも濃い! 裏切り者には血の制裁を! 魔法番長・ピュア☆ルビー!」
そしてくねくねと回転させながら、自身もくるりと回転する。
「ピュアリー・バリー・アテンショオオオオン!」
それは、階下まで響きそうな雄叫びだった。男は加納の怯えた視線に気付き、ベッドの上にゆっくりと正座する。
「兎に角まぁ、そういうことだ」
「何が『そういうこと』なのか、微塵も理解できないんだが……」
硬直する加納に、男は大きな溜息を付く。
「俺は『ピュアキュー』の大ファンなんだよ。俺の死体が此処で発見されるだろ? そしたら警察が俺のパソコン調べるだろ? そしたらどうなるよ? 俺ぁさらしもんだぜ」
加納は改めて、画面で微笑む少女達を眺めた。
眼球のやたら大きな少女達が、満面の笑みで此方を見つめている。
「別に……趣味は自由だろ」
「はぁ!? じゃあ訊くけど、お前この壁紙見て、なんとも思わなかったんですかーっ!?」
「いや……そりゃちょっとはびっくりしたけど……」
「ほらなぁ!? 絶対そういう目で見るんだよ! 世間は冷たいんだよ!」
男は掴みかかりそうな勢いで詰め寄ってきた。
「それにさぁ、普通の人ならいざ知らず、俺スパイだよ? それも超・超・超・凄腕スパイだよ? スパイがこんな壁紙使っててみ? あー恥ずかしい!」
男は自分の二の腕をさすって、声を裏返らせた。加納は何故か自分が馬鹿にされているような心境に陥った。
「だ、大丈夫! 僕が責任持って、死体を処理してやる。警察になんか見つからない!」
「はっ! どうやって処理するのか言ってみ?」
「え……海とかに………」
「はい、来た海ーっ! 日本警察舐めとんのか貴様は!」
男は加納の頬を人差し指でぐりぐりと抉った。いつの間にか正座する加納を、男が見下ろす体勢になっている。
「じ、じゃあパソコンも一緒に沈めればいいだろ? 電気機器に水は大敵の筈だ。仮に死体が見つかったとしても、パソコンのデータは消えて無くなるから……」
「このパソ、耐水性ですけどぉ?」
これでもかと言うくらい馬鹿にした表情に、加納は言葉を無くして俯いた。
「あ、そっちの奴は水ぶっかけたら普通に壊れっから、気をつけなよ」
男は仕事用として投げて寄越したパソコンを指さした。加納は慌てて水差しの傍から遠ざける。
「第一、パソコンをぶっ壊した所で、俺のアカウント名でいろんな所にデータ残ってるからな。ファンサイトに二次創作サイト、ピク○ブ、ミク○ー、ツ○ッター! それ、お前全部消してくれんの!?」
「うぅ……」
加納は益々小さくなる。男は唾が飛ぶほど大きな舌打ちをした。
「これだから素人は……。俺達みたいな人間は、他人に知られたくない情報が、それこそ無限にあるんだよ。それが警察に、ましてや『捜査のために公ー開ー!』なんてされてみろ! 死ぬ! 二度死ぬ!」
「そう……ですよね……」
加納は力なく頷いた。男は傍らにしゃがみ込み、加納の方をポンポンと叩く。
「まぁな、お前新米みたいだし、その辺はしょうがないと思うよ? でもな、プロとしての道を選んだんだろ? これからいーっぱい、いろんな奴を殺す訳だ。殺される側の気持ちを考えて、配慮すべきポイントってのは意外と沢山あるんだよ。一つ、勉強になったな?」
「はい、肝に銘じます」
加納は潤んだ瞳で男を見上げる。
「おーし、いい目だ。ちゃんと殺される人の気持ちを分かろうとしてる! 偉い! なかなか新米に出来ることじゃないぞ!」
「ありがとうございます!」
加納は改めて正座し、深々と一礼した。
「じゃあちょっくら作業に入るから、待っててくれるな?」
「はっ! 了解です!」
加納は立ち上がって敬礼し、「休め」の体勢を取った。男は満足気に頷き、パソコンに向かう。しばし無言の時が続き、部屋にはパソコンを捜査する音だけが響いた。
加納が穏やかな気持ちで作業を眺めていると、突如懐が震えた。携帯電話だ。
通話ボタンを押すと、此方が発言するより早く声がする。
「片付けたろうな」
低く、曇った声。この男を殺すよう命じた、加納の雇い主である。
「いえ……ですが目の前にいます。間もなく任を果たしますので、少々お時間をいただけないでしょうか」
雇い主は数秒押し黙ったが、「まぁいいだろう」と呟いた。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか?」
加納は思い切って言った。
「貴方は何のために、彼の命を奪えと命じたのですか?」
雇い主は、何かを考えるように押し黙った。当然だ。理由を聞くのは、この世界の御法度である。だが雇い主は、たっぷり数十秒、間をおいてから答えた。
「奴は、やりすぎたのさ」
「やりすぎた……?」
「アイツはただの情報屋じゃない。それくらい、追い詰めたお前ならわかるだろう?」
加納は「あああ、アクアたん! 消したくないおー!」とか騒いでいる男を眺め、相手に見えないと知っていながら大きく頷いた。
「確かに……ただ者ではありません」
「奴は自分の情報網を駆使し、私から大切なものを奪い去った」
雇い主の口調はあくまでも冷静であったが、微かな怒りが感じ取れる。
「私は何としても奴を、『霧隠@サイト放置中』を、消し去れねばならない!」
「了解しまし………………今、なんて言いました?」
加納は首を傾げて問い返す。
「『霧隠@サイト放置中』……それが、奴の素顔だ」
雇い主は静かに呟いた。加納は電話を握り締めたまま硬直する。
「ちょっと待ってください………それって……ハンドルネームですよね?」
一般人の本名に、「@」が付くことはまず無い。
「そうだが?」
雇い主は、受話器から「きょとん」という音が聞こえてきそうな声で返事した。
「なんで貴方が、彼のハンドルネームをご存じなんですか?」
「ありとあらゆる手を使って調べさせた。そして突き止めたのだ。その男が我が宿敵、霧隠@サイト放置中なのだと!」
加納は額を抑えた。
「宿敵……ですか」
「お前は知らんだろう、『ぴかりん』の名を」
電話の向こうで雇い主が遠い目をしているのが、ひしひしと伝わってくる。
「『魔法番長・ピュア☆キュート』シーズン1でピュア・アクア役を務めた声優は、名を若山ひかりという。彼女の声は、すさみきった私の心を癒し、絶望から救い出してくれた」
加納は無言で、雇い主の言葉を聞く。
「若山ひかりは『ぴかりん』と呼ばれ、一部で絶大な人気を集めた。だがしかし! 第二期が始まると、残酷にも製作はぴかりんを降板させ、新人声優をアクアの声に起用したのだ!」
雇い主の声に、徐々に熱がこもり始めた。
「その後ぴかりんは、全ての役を失った。恋愛スキャンダルだとか様々な憶測が飛び交ったが、明確な理由は分からない。兎に角彼女は、声優業界を追放された」
電話口から、雇い主の歯軋りまでもが聞こえた。
「大衆は新人声優の容姿に惹かれ、あっというまに彼女に流れた。だが……私達真のファンは、ぴかりんを見棄てなかった! 確かにぴかりんは、一度もメディアに姿を見せたことはない。だが、声優に大切なのは声だ! その声がどれ程人に夢を与えるかだ! だから、だから私は……!」
「結局、そのぴかりんがどうしたんです?」
加納の言葉に、雇い主は数秒押し黙り、咳払いをして続けた。
「ぴかりんは声優業界を追放された後も、健気にブログを更新していたのだ。『この先どうすればいいのだろう』。そこには彼女の素直な悩みが記されていた。彼女が新しい記事を書く度、私はコメントをつけに行った。だが……そこで出会ったのが、奴だ!」
「霧隠@サイト放置中、ですか?」
電話口からみしみしという音が聞こえてきた。どうやら雇い主は、悔しさから電話を握り締めているらしい。
「奴はどんな時も、一番にコメントをつけた。私がどんなにパソコンの前で待ちかまえていようと、奴に必ず1コメを奪われる! 許せない! どんだけ暇なんだこいつ! 私の中で次第に、霧隠@サイト放置中への憎しみが募っていった」
男は相変わらず、パソコンを操作し続けている。デリートボタンを押す度、彼の肩が小さく下がるのが分かった。
「そしてある時奴は、こう書き込んだ。『ぴかりんがしたいことを、すればいいんだよ』と。その日を境に、ぴかりんはブログから姿を消した……」
雇い主の声には、既に嗚咽が混じっていた。
「ぴかりんは悩んでいた! このまま声優の仕事を待っていても来ないだろう。新しい道に踏み出すべきではないかと。だが、それでも私達は待っていたのだ! ぴかりんは、いつか返り咲くと信じて!」
あまりに大きな声で叫びだしたため、加納は電話を耳から遠ざけた。
「そこにあのコメントだ! ぴかりんはきっともう誰も自分を待っていないと感じ、就職だか結婚だかをしてしまったんだ! 奴の所為だ! 1コメなのだから私達と同じように、『いつまでも待ってるよぴかりん☆』と書くべきだった! それなのに!」
加納は電話を切った。まだ喋り足りないのか、直ぐにもう一度電話が震えたが、加納は電源を切って懐に仕舞った。
男はまだ、パソコンを操作し続けていた。
今まで撮り貯めた、大切なデータたち。一つ一つ消す度に、溜息が出るのを押さえきれなかった。
「ぴかりんのサイトブクマ……このデータで最後、か……」
男がサイト名を右クリックした、瞬間。
「仲間の友情は海より深い! 裏切り者は海の底! 魔法番長・ピュア☆アクア!」
背後から声がした。聞き違えようはずもない、これはピュア☆アクアの、若山ひかりの声だ。
男は目を見開いて振り返った。そこに佇むのは、先程と変わりない加納の姿だ。
「今、ぴかりんの声が……? あれ? ぴかりん?」
「霧隠@サイト放置中さん」
加納の口から零れ出た声、それは他ならぬ、若山ひかりの声だった。
「ま、まさか……ぴ、ぴかりん?」
「そうです。僕が、若山ひかりです」
透き通った海のような、美しい声。それが、成人男性である加納の口から発せられている。
「若山ひかりが姿を消したのには、こういう事情があったんですよ」
「事情?」
訝る男に、加納は自嘲気味に笑った。
「僕は様々な声が出せるんです。声優の世界にも、意気揚々と入っていった……。しかし、昨今の女性声優は姿形も美しい。そんな中で僕は、ファンの夢を壊すとしてスポンサーに嫌われ、徐々に仕事が減っていったんです」
男は黙って、加納の言葉を聞いていた。
「ファンの方は、ブログを通して励ましてくれた。いつかまた、ぴかりんの声が聞きたいって。でも……待てど暮らせど、そんな日は来ないんです。僕の正体は、加納大介だから……。そして次第に、彼等の言葉が重荷になっていった……」
加納は、手にした銃を眺めた。
「そんな時、唯一『したいことをすればいい』、そう言ってくれたのが貴方だった。僕は、何かから解放されたような気分になりました」
ゆっくりと、男に近付く。
「たまたま射撃に関して突出した才能があり、僕はもう一つの道を見出すことが出来た。こうして今の僕があるのは、霧隠@サイト放置中さんのお陰なんです!」
男は静かに、加納を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「俺は、超・超・超・凄腕のスパイだ。そして、超・超・超・ピュア☆アクアの……ぴかりんのファンだ」
穏やかな、父親のような笑みを浮かべて。
「ぴかりんがどんな容姿をしていようと構わない。俺に元気をくれたぴかりんが、自分の思う道を進んで、幸せでいてくれたら、それでイイ」
加納は顔を上げた。目に、溢れんばかりの涙をためて。
男は天井を見上げていた。こぼれ落ちそうになる水滴を、なんとか押さえようと鼻を摘む。
「好きな事を、思う存分するんだぴかりん!」
「はい!」
「君の好きなことはなんだ!?」
「大好きな仕事をすること!」
「じゃあ、好きなだけ仕事をするんだぴかりん!」
「はい!」
加納は心から嬉しそうな笑みで、引き金を引いた。
数時間後、同じ部屋で。二人の刑事が、ベッドに近付いた。
「被害者が、いない?」
年取った方の刑事が、眉間に皺を寄せた。若い刑事が、手帳を捲りながら答える。
「ええ。でも従業員が銃声を聞いていますし、ほぼ同時刻にこの地下駐車場から車が出ています。そしてその車は、港に乗り捨てられていた、と」
「はいはい、海の中にポイって訳ね。なんまんだぶー」
刑事は適当に手を合わせる。
「それで? なんなんだこりゃ?」
ベッドの上に放置された、パソコンらしきものの残骸。
「銃弾が撃ち込まれています。この部屋に泊まっていた男は、所謂情報屋という奴ではないかという話も挙がっていまして。恐らく、何か重要なデータが記録されていたのではないかと」
「はぁ……パソコン一台のためにあの世行きたぁねぇ……。こりゃ、データの復元は無理だな。アンタが何を調べてたかなんざ、誰にもわかりませんっとぉ」
年取った刑事は、手袋を嵌めた手で、パタリとノートパソコンを閉じた。
「3・2・1……キュー!」
「ニマニマ生放送☆ぴかりんラジオー!」
加納は裏声で、パソコンに接続されたマイクに叫んだ。この声は現在、とあるウェブサイトを通じて全世界に無料配信されている。無論、視聴者に彼の顔は見えていない。
視聴者の数を表示するカウンターは、くるくると増え続けていた。
「皆さんお久しぶりです、若山ひかりでっす! いろいろ事情があってね、私はちょっとテレビとかのお仕事出来なくなっきゃったんですけど……。やっぱり声を使ったお仕事大好きなんでね、こうやって戻って来ちゃいましたー!」
その言葉と同時に、次々とコメントが流れてくる。その多くが彼、いや彼女の復活を喜ぶ祝いのコメントだった。
「本当にありがとうございます! ピュア・アクアやって? それは大人の事情があるから無理なんです……ごめんなさい!」
加納は明るい声で、コメントを読み上げる。
「でもね、またこうして『声』という形で、皆さんに何か提供できたら……あ、ちょっと、ごめんんなさい」
加納はパソコンの前を離れ、部屋の奥へ向かう。そこでは一人の男が手招きしていた。
「どうしたんです? 霧隠@絶賛更新中さん」
加納の問いかけに、男はずるっとコケて見せた。
「ぴかちゃん、フルネームで呼ぶのやめてよぉ……。今ね、ファンがとんでも無い数視聴してて、回線がすごく混み合ってんの。このままだとフリーズしちゃうから、ミラーリングサイトとか使って交通整理するから」
「毎度思いますけど、すごいですよねぇ。同時にパソコン操作するなんて……」
加納が感嘆の声を漏らすと、男は手を止めずに答える。
「生放送しつつ、片手間にハッキングくらい朝飯前よ。ついでに、ぴかちゃんがぶっ壊してくれたデータも復元してるんだから」
男の恨みがましい視線に、たじろぐ。
「う……それは仕方ないじゃないですか! 別の死体用意する時間もなかったし。雇い主に『命より大事にしてた私物諸共撃ち抜きました』って、パソコン残骸の写メ見せたから、なんとか一時的に誤魔化せたんですよ?」
「はいはい、それに関しては感謝してます。命の恩人、感謝雨霰。放送の方は、ぴかちゃんの歌流して誤魔化しとくから、その間に、電話よろしく」
スパイの男は、パソコンを操作しつつ、保留音の流れる電話機を示した。
「あ、はい! 本職の方ですね、了解っす」
加納は受話器を取り、一呼吸置いてから口を開いた。
「もしもし、あなた? うん、そう。ホテルから電話してるの」
彼の口から零れるのは、どう聞いても妙齢の女性の声だった。
家族・恋人の声色。その音を聞けば誰しもが安堵し、口を滑らせることも多い。
適当な言葉を並べ立てていけば、やがて電話の相手も、今回必要な貸金庫の番号を教えてくれるだろう。
あれから直ぐに手を組んだ彼等二人は、今や世界のどんな情報も思うままに手に入れることができた。
声で人を魅了するのは好きだ。でも、スリルある今の仕事も好きである。そんな彼の目の前には、自分にこれ以上ないほどの理解を示してくれる上、世界を股に掛けて暗躍する男が居た。
もはや、手を組む意外に理由はない。今こうして彼の言葉通り「好きな仕事を思う存分」できている。
加納は電話を切り、男に向き直った。
「番号判明しましたー、8325です」
「はいどうも、そっちは俺に任せちゃって。そろそろ曲終わるよー」
「はぁい☆」
加納が若山ひかりの声で答えると、男は困ったように笑った。
「照れるからやめれっつの。……ねぇ、ぴかちゃん。『ボス@元雇い主』さんからお祝いコメ来てるよ。これ、やっぱ完全俺生きてるのバレてんなぁ」
男はパソコンの画面を眺め、ぽりぽりと頬を掻いた。
「あっちゃあ……それにあの人、今回の雇い主と敵対してませんでしたっけ?」
「まぁ良いんじゃないの? あちらさんも俺達も、趣味と仕事は別腹ってことで」
「そうですねー」
加納は明るく笑って、マイクのスイッチを入れた。