桜の木々は知っている
沈黙が続いていた。
四月の夜に吹く風は春の到来を拒むように寒気を帯びていて、本来なら満開になっている公園の桜はまだつぼみの状態だった。それほどまでに今年の冬は冷たく、厳しかった。
人気のない公園のブランコが二つ、軋んで揺れていた。
「なにか、話があったんじゃないの?」
呟いた言葉さえ突き放すような冷ややかさに満ちていた。
言われた彼も彼女が嫌いなタバコを吸ったまま聞き流すようにやれやれ、と言わんばかりに肺を満たした煙に露骨な不機嫌さを乗せて吐き出した。
「電話かけてきたのはそっちでしょ? そっちから言うのが筋じゃない?」
煽るように言うと押し黙る彼女を責めるように一瞥した。するとさらに沈黙が場を支配する。
一月ぶりに会う二人の間に流れる寒冷前線は今後、例え死人が出る夏が来ようとも停滞を続けることだろう。それほど二人の関係は凍り付いているのは誰の目から見ても明白で別れないでいることの方が不思議だと言う者もいた。
彼がこの公園で告白してから三年。その頃はまだお互い学生で、学校帰りによく通ったこの公園は二人の時間を誰よりもよく見てきた。
桜の木々は知っている。些細なことで何時間も喋りあえた幸福な時間を・・・
桜の木々は知っている。二度目の季節に二人は別々の進路を選んだことを・・・
桜の木々は知っている。新しい環境は二人に新しいパートナーを運んできたことを・・・
桜の木々は知っている。二人がもう、いつか約束した未来なんて求めていないことを・・・
それでも願っていた。もう一度大きな声で笑いあう二人の姿を・・・
「用がないなら、寒いから帰っていい?」
三本目のタバコを吸い終えて言った言葉はさながら差し替えられた台詞のようで、本来話すべき言葉は二日酔いのような不快感と共に彼の胸に残ったままだった。
彼女の方ももう何ヶ月も前から、いや二人が別々の道を歩み始めたあの日に言うべきだった言葉を今も抱えているが、それをいざ口に出すことはできずにいた。
桜の木はそんな二人をずっと見届けてきた。
「じゃ・・・」
「コーヒーが飲みたい」
立ち上がった彼の言葉を遮るように彼女ははっきりとした口調で言った。
「せっかく立ち上がったんだからいいでしょ? それくらい、私も行くからさ」
仕方ない、と言わんばかりにそのまま二人は公園の入口にある自販機まで歩いた。その最中も二人に会話はなく、ただ黙って、足音さえ重ならず、だが二人が話さなければならないことだけは一緒だった。
「おごるよ。好きなの選んで」
彼は千円札を入れるとぶっきらぼうに言った。
「じゃあ、お言葉に甘えるよ」
彼女は『HOT』と書いてあるコーヒーのボタンを押し、屈んでそれを手にする。
しかし・・・
「あれ?」
「どうした?」
思わず覗き込んで彼女が手に取ったコーヒーを見る。
「冷たいんだけど・・・」
「間違って押したんじゃねーの。ま、俺はそんなことしねーけどね」
続けて彼のほうも彼女とは違う自販機で確かに『HOT』と書かれているコーヒーのボタンを押した。
「間違ったわけじゃないんだけど・・・」
「そんなこと言っても・・・ん」
目を見開いた彼の顔を見て、彼女は異変にすぐ気付いた。
「もしかして・・・」
「冷たいのが出てきた」
思わず二人とも目を点にしたままお互いの顔を見合わせた。
ずいぶんまともに見れなかったその顔は驚くほど間の抜けたものになっていた。
それはにらめっこにも似ていて一瞬の静寂のあとに訪れるのは、闇を切り裂くような砕けた笑い声のハーモニーだった。
「あはははははは、なんて、なんて間抜けな顔・・・」
「ははははははは、そっちこそ。ひでー顔だ。はははっ」
二人は缶コーヒーを握ったまま相手の頓狂な顔を指差して笑った。
そして次の瞬間、二人はその勢いを配達人に見立てて出せなかった手紙を渡す。
「うちら、別れよっか」
「そうだな。コーヒーまで冷え切っちまうんじゃ、もう修復はできねーもんな」
小さな公園の自販機の前で二人は缶コーヒーを片手にずいぶん長い間笑い合っていたのを桜の木々は忘れない。温かな笑い声につぼみだった桜が芽吹いたことを二人は知らず、二人の長い冬は終わりを告げた。
「それじゃあな」
「うん。元気でね」
言いたいことが言えたのか二人の顔はさっきまでとは別人のように清々しかった。まるで春のうららかな日差しを浴びてカフェで談笑する二人のように、そう、未来は同じ姓になることさえ誓ったあのころのような、無邪気さで溢れていた。
しかし桜の木々は知らない、二人が別れたあとに飲んだコーヒーは微かに熱を帯びていたことを・・・
本当は「やり直したい」、と口にしたかったことも・・・
飲んだあとにむせたふりをして微かに流れた涙を隠したことも・・・
春なんで爽やかな終わり・・・なんてあるわけないですよね。