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第四章

 大雨の降った翌日、空には未だ灰色の雲が居座り続け街を不穏な空気で包み込んでいた。


 二階にある教室の窓から見える景色が白黒写真のように思えてしまうほどのどんより具合だ。先生の声もどこ吹く風で、生徒たちはあと数分と時計を睨んでいる。


 それはリュウジとて例外ではなく、放課後を間近に控えたうれしさともどかしさを必死にこらえながら黒板の内容をノートに書き写していく。


 教室の時計が授業の終了時刻である四時を指し示す。


 生徒たちの中には教室の時計とチャイム鳴る時間の誤差を覚えている者もいて、やがて教師の耳には届かないような小声で誰かがカウントダウンを始めた。


「いっそチャイムより教室の時計を基準にしてくれりゃいいのによ」


 リュウジがぼやいている間にも針は進み、スピーカーからチャイムの音が鳴った。


「はい、今日はここまでにします。きっちりページが終わったから、次のページを予習しておいてくださいね」


 先生の言葉を最後まで聞き終わるや否や、生徒たちは帰り支度を始めたり話を始めたりしている。


 とりあえず部長の紀明にも挨拶しておくかと、リュウジは心霊研究部室へ向かうことにした。


 廊下には傘やコートを掛けておくためのフックが一人一人に与えられている。


 リュウジは自分のスペースに立てかけておいた竹刀袋を肩にかけると、特別棟の四階を目指す。


 ずしりと重い真剣の感覚は新鮮で、リュウジは初めて竹刀を持って歩いたときのことを思い出した。


 こうやって竹刀袋を持っていれば、その人物が剣士であることを言わずとも示すことができ、本人も妙に誇らしくなれる。


 以前リュウジの友達がギターを買ったことがあって、彼はギターケースを誇らしげに背負って街を歩いていたことがあったが、リュウジにはその友達の気持ちがなんとなくわかっていた。


「これで俺も、本格的に心霊研究部員か」


 ポケットから取り出したイヤホンを耳に当てて階段を上る。


 家に帰ったあといろいろいじっていて気付いたのだが、この召喚機器は普通に音楽プレーヤーとしても使えるようなのだ。


 オン、オフとSという三つのスイッチがあり、召喚をするときはSに、音楽を聴くときはオンにすればいいようだ。


 ロックバンドの奏でる疾走間あるイントロのフレーズが気だるさを晴らし、階段を上る足を軽くしていく。


 はたから見れば竹刀と音楽プレーヤー。実際は破邪の日本刀と召喚機器。


「それどころか、本格的に呪術師か何かになっちまったのかな」


 マサは亡霊だが家族であり師匠だからノーカウントとして、それまで異形のものたちの存在をまったく認識していなかったリュウジが心霊研究部員として戦国の亡霊たちに挑むことになった。


 イヤホンから流れる曲はワクワクするAメロから切ないハーフテンポのBメロに差し掛かる。


 神祇省という組織は国民の安全のため、リュウジのように『ちょっと霊感のある一般人』にさえも悟られないように霊的事件を裏で解決してきたのであろう。


 その神祇省が動けなくなった今の経津丘市に転校してこなければ、自分はこれまで通りの一般的な生活をしていたはずである。


 畳み掛けるようにかき鳴らされるギター、ベースと、連打されるドラムの重低音。壮絶なフィルインをきっかけに、サビに突入した曲はどこまでも伸びていく。


 長い階段が終わった。


 本物の神祇官がどんな奴らなのかは知らないが、あいつらも人知れず市民の生活を護ってきたんだろう。


 他者にそうとわからないように武装したリュウジは、今度は自分がやるのだと改めて決意を固めた。


 ヴォーカルがハイトーンボイスでサビを歌いきると、曲は間奏に入りイントロと同じフレーズが再び流れ始める……。


 イヤホンと竹刀袋を身につけて、ちょっと照れくさくなりながらリュウジは部室のドアを開けた。


「おやおや。リュウジはんこんにちは」


「おお、早速持って来てくれたか」

 パソコンに向かっていた綾子と紀明がこちらに顔を向けてくる。


「正式に入部をしたいという話はさっき高坂君に聞かせてもらったところだよ。ようこそ、我が心霊研究部へ」


「ほんまにうれしいわあ。よろしゅうな」


「ああ、何も知らない初心者だけどよろしくな」


 やっぱ、あったかいな。


 いつもの校舎よりも、教室よりも、胡散臭い廊下を抜けて入るこの狭苦しい部室は安心できる。


 出身とか転校生だとかいうことは関係なしに、能力や人柄を見てもらえているような気がする。


 背負うものは重いけれど、それでもうまくやっていけそうな気がするのだ。


「しかし、せっかく前線に出てもらえるメンバーが増えたというのに、肝心の相手が消えてしまうとはな」


「このままなんも起こらんといいんどすが」


 二人は難しい顔をしながらパソコンのディスプレイを睨んでいる。カタカタとキーボードを打つ紀明の手が異様に速い。


「どうしたんだ?」


「それがな、おとといに金剛院君とマサさんがあの部隊を殲滅して以来、あの首なし亡霊たちが市内に現れていないのだよ」


 紀明は腕を組んで眉間にしわを寄せる。


「果たして彼らは完全に消滅して二度と現れなくなったのか、それとも新たな事件が起こる嵐の前の静けさなのか」


「被害者のことも調べましたけど、亡霊たちの怨念に関わっているとは到底思えないどす。兵隊さんたちが何であんなことしたんかもわからん以上、次にまた何か起こる危険性は捨てきれないどすえ」


「その上ここ数日の間に市民の不安は膨れ上がっているようだな」


 見ると不幸になるという戦国の首なし亡霊たち。


 タバコ屋の主人が倒れたこととの関連を知るのはもちろん心霊研究部の面々のみであるのだが、綾子と紀明の聞き込みによれば市民の間でも日に日に彼らの認知度が増しているという。


 はじめは『不幸になる』という曖昧な言葉でしか語られなかった亡霊たちだが、その噂にもついに尾ひれがつきはじめ、具体性を帯びてきたのだ。


 市内の小学生が騒ぎ立てる。


「夜中の十二時にあいつら校庭の地面から出てきて、毎晩戦ってるらしいぜ」


 主婦たちの井戸端会議が盛り上がる。


「三丁目の山田さんが事故にあった理由って、あの幽霊たちらしいわよ」


 噂そのものはデマのようなのだが、確実に市民の不安を煽っている。実際の被害とも重なり、綾子も紀明も気がかりなようだ。


 二人はディスプレイを覗き込んだまま動かない。


 転校してすぐのリュウジの個人情報を調べ上げた紀明と、リュウジにとって未知数の能力を持つ綾子。


 少なくとも紀明が情報不足で困っている今、リュウジはなおさら下手に動くことができないことになる。


「すまないが、新たに情報が入るまでしばらく待機していて欲しい。携帯電話の電源だけは切らないでくれたまえ」


「……わかった」


 響きを残さず小さく吐き出された言葉の後には、カタカタと鳴るキーボードの音。画面に釘付けになっている二人を背に、リュウジは部室を後にした。


「勇んで出てきたものの、活動はなしか」


 澱んだ空気の漂う特別棟四階の廊下を足早に通り過ぎると、リュウジは重い足取りで長い階段を下りた。


 四階から一階まで、ただでさえ長いこの道を無駄に往復と考えると全身がだるくなる。


 イヤホンから飛び出す歪みをきかせたギターの音色に、階段を踏みしめる足音が混じる。リュウジは音量をぐっと上げて、再び気を晴らそうとした。


 激しいハードロックの曲は気持ちを高ぶらせるも、心に溜まった重たいものはそう簡単には消えない。


 気だるさは淀んだ水の居座ったダムのように横たわり、当分離れそうになかった。


 ハードながらも哀愁漂うギターソロ。


 その音色と旋律のギャップから連想されるのは、あの赤い巻き髪にマリンブルーの瞳だった。


「そういえばあいつ、今日は部室に来てなかったな」


 情報収集は完全に綾子と紀明の領域であり、花梨も自分と同じく待機なのだろうか。それとも実家が神祇官であることを利用して、自宅で何らかのアクションを起こしているのだろうか。


 古来から続く神祇官の系譜にある彼女は正義感があって頼りになるのだが、事件のことがあってか少々不安定になっているようだ。


 昨日も泣き出してしまっていたわけだし、部室にいないとなると少し心配になる。


 今日もひとり部屋で泣いているとかやめてくれよ、とリュウジはふと立ち止まって下を向いた。


 再びこつり、こつりとコンクリートの階段が踏み鳴らされる。


 特別棟もようやく一階。調理室から漂う甘い匂いに、ふとリュウジは我にかえった。


「ケーキでも焼いてんのか? なんか腹が減ってきたな」


 授業の後すぐに長い階段を上り下りしたのだ。リュウジは空腹に思わず腹に手を当てる。


「お、神田君こんなところで何してんの?」


 横から聞こえてきた自分を呼ぶ声に、リュウジは音楽を止めてイヤホンをはずし、ポケットにしまった。


「お前は、日野じゃないか」


 廊下の奥から日野が駆け寄ってくる。小柄な体躯は軽やかに進み、顔はどこか子供っぽく笑っていた。


「これから道場に行くところだよ。よかったら神田君もどうだい?」


「お前なあ、まだ道場を休憩所代わりにしてるのか」


 上機嫌でどこか浮かれたようにも見える日野。


 リュウジは神聖なる道場で今もサボり行為を続けているのだろうかと呆れたが、久しぶりに聞いた道場という響きが妙に心地よかった。


「なあ日野、そういえばお前たまになら稽古に付き合ってくれるって言ってたよな」


「稽古? ああいいよ。やっぱ神田君って剣道好きなんだね。しばらく体を動かしていないと、禁断症状がでるんでしょ」


「……まあ、剣道以外でいろいろと疲れてはいるんだけどな、最近は」


 軽く苦笑いを浮べるリュウジに、日野は相変わらずの人懐っこい笑顔を向け続ける。


「まあまあ。神田君みたいに単純そうな人なら、きっと少し竹刀を振っただけでリフレッシュできるって」


「お前の口からまさか剣道に対して積極的な言葉が聞けるとはな――ってお前、今さらっと失礼なこと言ったな! 誰が単純そうな奴だよ」


「アハハ。僕の目の前にいる体育会系っぽい人」


「言ったな。稽古じゃ容赦しないからな」


 自然とリュウジの頬の筋肉が緩み、口元がつりあがる。

 二人の足は自然と道場へと向いていた。


「病院送りになっても知らないからな」


「……剣道はそういう武道じゃないでしょ。まあ、医者の友達はいるからいいけど」


「この街で医者か。あのチャラ医者くらいしか見たことないな。あ、ちなみに負けたらなんかおごれよな」


「ちょっと、僕今月お小遣い厳しいんだけど」


「そうだな。どっかの食通さんが言ってたように、瓶ジュースをおごって欲しいかもな」


「試合前から勝った気になっていると、思わぬミスをして負けるものだよ達人さん。僕だってやるときはやるんだからね」


「そういうセリフこそ死亡フラグだっつーの。あ、汗もかくし銭湯の風呂代と湯上りのアイスをおごるとかでもいいな」


 少年たちの談笑が廊下に響き渡る。リュウジは久しぶりに高校生の男子らしい会話ができたと、少しうれしくなっていた。


「腹も減ってるし、どっかのファミレスでもいいぞ」


「来週くらいになら、たっぷりお小遣いが入るんだけどね……まあいいや」


 背後でひっそりと不敵に笑う日野には気付かず、リュウジは意気揚々と道場の扉を開いた。






 香ばしい緑茶の香りただよう心霊研究部室だが、リュウジが去った後も緊張の糸が張り詰めたままだった。


「うーむ、さらに本格的に噂を検証する必要があるのだろうか」


 マウスとキーボードから手を離し、だいぶ年季の入ったグレーのデスクにぺたりとその手をつけながら紀明が嘆息する。


 手元の湯のみが空になっているのを確認した綾子がすぐにその湯のみを取り、おかわりの準備を始める。


「しっかし、兵隊さんたちが消える前の噂が今になってでてきたんどすやろぉ。今調査をして出る結果はまた違うもんとちゃいます?」


 湯のみに入れられた新鮮な茶葉がお湯を受けて、透明感ある緑のお茶ができあがる。


「それもそうだな。霊的な情報はニュースなどの公式な報道にはほとんど出てこないし、口コミやネット掲示板では嘘や誤報も多い。古い情報が最新のものとして扱われるケースも珍しくはないからな」


 パソコンはデスクトップのファンをフル回転させて唸りを上げるも、なかなか欲しい情報にたどり着くことができない。


 お茶のおかわりを用意し終えた綾子が長い黒髪を揺らしながらデスクに戻ってくる。


「何か、噂同士に規則性でもあればええんどすが」


 窓からのぞく空は依然として暗雲に覆われている。


 視界の隅に、前回の会議で使われて以来ホワイトボードに張り出されたままの地図が映った。


「規則性、か」


 デスクトップはしばらくウイーンと考えるかのように回り続けていたが、やがて静かに音を止めた。






 約半年ぶりに板張りの床を剣士たちが踏みしめ、本来の姿を取り戻した剣道場。


 息を荒らげて竹刀を納め、リュウジと日野は一礼して試合場の外に出る。


「ありがとうございました」


 道場の隅で面と籠手を外した二人が再び試合場の中心に向かい合った。


「いやあ、やっぱ神田君強いね。先輩たちがいた時代だったら一躍エース候補になっていたはずだよ」


「おいおい、有名な経津丘の剣道部員ならもっと自身持てよ。日野だって竹刀を構えりゃ別人みたいだったじゃないか」


 人懐こい笑顔を浮べる日野の肩を、リュウジがポンと叩く。


「なんだかんだで、お前も剣道中毒になっていたんじゃないのか?」


「そんなまさか。どこかの剣道バカが竹刀背負ってウロウロしていたもんだからさ、ちょっと喝をいれてやろうと思ったのさ」


「喝が必要なのはお前だよサボリ魔。審判なしでやって詳しいことはわからんが、今日は引き分けってことにするか」


 憎たらしく皮肉る日野をなだめるようにリュウジが提案する。廊下で会ったときからなのだが、今日の日野はどこか調子に乗っているようだ。


 もっとも、久々に竹刀を振ってゴキゲンなリュウジにとってはむしろ好都合だったのだが。


「そうだね。二人で割り勘するってことで、今日はちょっと奮発しておいしいものでも食べに行こうか」


「たくさん汗もかいたし、銭湯にも行きたい」


 久々の試合の後、背中にはべっとりと胴着が張り付くほどの汗。


 剣道が日常から消えた今となっては懐かしい感覚だ。


「風呂上りといえば、やっぱ瓶でコーヒー牛乳だね」


「俺はアイス派かな」


 運動の後で、体の芯はまだまだ熱い。


 リュウジと日野はそのまま道場の隅に正座し、正面の神棚に礼をして黙想した。


 目を閉じて、リュウジは己の太刀捌き、足捌きを静かに振り返る。物音ひとつたたない道場は鏡のように波立たない湖面を思わせ、心をゆっくりと静めていった。


 これぐらい心が落ち着いていれば、マサももっと楽にこちらへ来られるのではないだろうか。


 映し神か。リュウジはふと考える。


 何気なく稽古の後にしていたこの黙祷は、実はとても神道的な行為なのではないだろうか。


 高野が授業中にした発言から宗教について思案をめぐらせたことがあったが、現代日本の神道とは不思議なもので、勧誘して信者を増やしたり絶対的に絶やしてはいけないような儀式があったりするわけではない。


 米の豊作を祈るならお稲荷様、勉強運を願うなら天神様と、必要なときに好きな神様に手を合わせればいいだけである。そして複雑な儀式もお祭りや日常生活の一部として親しまれている。


 自分の踏み込んだ神道の世界は案外構えることなく、すんなり受け入れられるものなのではないか。宗教だの信仰だのとためらう必要などないのではないか。


 リュウジはどこかすがすがしい気分でまぶたを開いた。その瞬間、わずかにできた雲の切れ目から春のやわらかな日差しが瞳に飛び込んでくる。


 換気のために大きく作られた窓から流れ込む春風が二人の髪を撫でていく。


 身体の火照りを冷ます風にいつまでも当たっていたいのを惜しみつつ、二人は残りの防具を外して更衣室へ向かうことにした。


 かび臭さが鼻をつく。電気を点けてもなお薄暗い更衣室は畳四畳半より少し狭いくらいのスペースである。


 壁沿いには選手用のロッカーだけでなく、古びた共用の防具や表に飾りきれなかった賞状やトロフィーが棚にびっしりと入っていた。


 どうやらこの更衣室、物置も兼ねているようだ。


 剣道の名門として知られた経津丘高校の剣道部室ということで、探せば高級な用具が出てきそうだとリュウジはワクワクした。


 奥に設けられた竹刀立てにリュウジがそれまで使っていた竹刀を戻すと、日野は不思議そうに尋ねてきた。


「あれ? 神田君自分が持ってきた竹刀は使わなかったんだ」


「ああ、これか?」


 何気なくリュウジは竹刀袋を掴み、そこにはいつもとは違う薄く重い真剣の感覚が。


 心臓がばくりと跳ねて、嫌な汗が首筋を舐める。


 子供じみた日野の表情に急かされるように、慌ててリュウジは言葉を紡いだ。


「あ、ああ! それがな、俺の竹刀ささくれてて今使えねーんだ。学校のやつを勝手に借りちまったけど大丈夫かな」


 剣道の竹刀は古くなると竹の繊維がむけてしまい、この繊維が相手の目に入ったりして危険なのだ。


 そのため竹刀の刃部は定期的に取り替える必要がある。リュウジは真剣が入っていることを隠すために、自分の竹刀が危険な状態にあると告げた。


「本当に? 実は神田君って宇宙人と戦うヒーローか何かで、竹刀袋に剣を入れて日夜戦っているとか」


「んなわけねーだろ! 高校生にもなって特撮の見すぎなんじゃねーのか日野」


 日野のやつは一体どこまで子供なんだ。とはいえ当たらずとも遠からず、あながち間違いでない指摘なだけにリュウジはヒヤヒヤしてしまう。


「特撮は大人になっても見るものさ。まあ、その竹刀の持ち主はここに全然来ないから大丈夫だよ。それより早く着替えて、銭湯とファミレスに行こう」


 後ろを向いて袴の帯をほどき始めた日野の背中を見て、リュウジはひと安心した。


 心霊研究部の剣士であることは思った以上に大変で気苦労が耐えないようだと、リュウジは小さくため息をつく。


 もそもそと着替え始めたリュウジを、制服に着替え終わった日野が憎たらしい笑顔で見守っていた。






 ホワイトボードに貼り出された地図に描かれた円。


 これは確か亡霊たちの進行方向と結界の範囲だったはずだ。鬼門の方角から、死者の穢れと呪術的な歩行で邪気を運ぶ死の順路。


 戦国の亡霊たちが風水の理論を知っているのであれば、街全体の鬼門を抑えないはずがない。そう確信した紀明はマウスを手に取り、経津丘市の全体図を表示させた。


「鬼門……何かが引っかかる」


 被害のあったタバコ屋は住宅地がほとんどを占める南地区の中でも少し北に位置する。


 そのさらに北には学校がある。どの地区の生徒でも通いやすいように街のほぼ中心に建てられているのだ。


「高坂君。噂が起きている小学校と交差点の位置は?」


「確か、交差点は東地区にある国道どす。南北に走る大きい道と、東西に走る県道が交わっているところどすわ」


「ふむ」


 東地区を南北に走る国道といえば、道沿いに多くの量販店を有す街のにぎやかなスポットであり、交通の要所である。


 トラックなどの大型車の通行もありもともと事故の多い場所なのではあるが


「小学校もこの近くどすなあ。この交差点から少し東に進んだあたりどす」


「やはり東地区に集中していたか」


「やはり?」


 綾子が首をかしげると、よく櫛が通された黒髪も一緒にさらりと傾く。紀明は眼鏡のズレを直すと、ディスプレイから綾子の切れ目へと視線を移した。


「そうだ。亡霊たちが移動する場合必ず通ることになるであろうからな。この街全体の鬼門を護るのはどこか思い出して欲しい」


「街全体……花梨ちゃんの家どすか?」


 東地区を少し北に進んだ場所にある金剛院家。神祇省がこの場所に金剛院家を配置したのは、鬼門封じの役割を担ってのことである。


「それもあるが、惜しいな。そのさらに北にある山寺、高原寺がそれにあたるのだ。そしてわたしはひとつ重要なことを忘れていた」


「重要な……もしかして」


「予想ができたかな? 戦国時代の亡国に対する鎮魂祭を行っているのはこの高原寺なのだ。慰霊碑があるのもここ。つまりはだね」


「あの兵隊さんたち、この高原寺を出発して東地区を抜けてあの南地区のタバコ屋まで行ったってことどすか?」


「その可能性が最も高いだろう」


 依然として厚い灰色の雲が居座り続ける窓の外に目をやり、紀明は肩の力を抜いて湯のみを傾けた。そして椅子をさげながら体全体を隣りの綾子の方へと向ける。


「さて高坂君。例の交差点と小学校のグラウンド、そして高原寺にある慰霊碑の調査を任せてもいいかな?」


「了解しました。うちに任せておくんなまし」


 ぬるくなっていた自分の湯のみを空にすると、綾子は身軽に立ち上がった。


 リュウジにも引けを取らないその長身は非常にしなやかで、モデルというよりは新体操かフィギュアスケートの選手とでも例えた方がよさそうだ。


「高原寺周辺はおそらく亡霊たちの根城になっているはずだ。あまり危険なようであるなら無理はせず、金剛院君や神田君に声をかけるのだぞ」


「まあまあ。処置は明日にまわすとして、今日のうちに必要な情報だけ集めてきますわ」


「よろしく頼んだ。あ、たった今入った情報だが神祇省もついに動き出したようだ。未だ神託は出ず行動はできないようだが、本庁から経津丘支部に増援部隊が派遣されて次の事件に備えているらしい。これから敵もなんらかのアクションを起こすことを見越してかも知れんぞ」


「了解しました」


 ドアの前で軽く上半身をひねりデスクの紀明へ小さく手を振ったあと、綾子は部室を後にした。










 午後六時を過ぎた春先の気温は冷たく爽やかで、風呂上りの身体を優しく撫でていく。


 薄闇が少しずつ空に降りかかっていく時刻ではあるが、東地区は車の通る音が止む気配はない。


「やっぱ盛り上がってるな、東地区は」


 コンビニやパチンコ屋の派手な照明を横目に見ながら、リュウジはつくづく自分の住む南地区とは違う景色なのだと実感した。


 昼間に花梨と歩いた時以上に、電気やネオンの灯る夜はそれが顕著に表れる。


「夕飯時のちょっと前だけど、お腹いっぱい食べちゃったね」


「ああ、割り勘するとなんか多めに注文しちゃうんだよな」


 銭湯でひとっ風呂浴びてファミレスで食事をした二人は東地区をぶらついていた。


「この辺は前にちょっと通ったことしかないんだけどよ、どっか遊べそうなとことか案内してもらってもいいか?」


「確かに、市内で遊べそうな場所といったらこの東地区ぐらいしかないもんね」


 日野は小さく笑うと短い時間考える。


「そうだな……カラオケとウインドーショッピングぐらいのものかな。さすがに東京ほどのことはできそうにないけど」


「なるほどな。今日は手持ちをほぼ全部メシに使ったし、また今度来ような」


「うん」


 しばらく歩くと、大きな十字路に差し掛かった。車がひっきりなしに往来している。


「お、あれは」


 交差点の向こうに、リュウジは見慣れた看板を発見した。本やCDを扱う中古チェーンの店である。広い国道を渡った先だ。


「なあ、俺ちょっと中古CDの掘り出し物がないか見たいんだが」


「痛い出費して、さらに買い物する気?」


「中古市場ってのは運なんだよ。洋楽のレアものがひょっこり売りに出されてたらどうすんだ」


 目を輝かせるリュウジに、日野はちょっと呆れたように肩をすくめた。


 国道を勢い良く走っていたたくさんの車が、重いエンジン音を静めながら停車していく。


 横断歩道の信号が、青になった。


 リュウジの頭の中に歪みを効かせたギターの音色が鳴り響く。


「俺ちょっと行ってくる。先に帰っててくれ」


「まったく……また剣道場でね」


 苦笑いで見送る日野を尻目に、リュウジは急いで横断歩道を渡った。


 世間一般にはウケないが、一部のファンが熱狂する洋楽ハードロック。中古店への出入りも激しいため、リュウジはいつもチェックを欠かさないでいたのだ。


 自分の好きなバンドの、まだ持っていないアルバムが店頭にあってくれと、リュウジはワクワクしながら自動ドアへと飛び込んだ。


 その時。


「痛てえ!」


「キャッ、ごめんなさい!」


 黒い生地と白いフリルの段々畑が目の前から突進してきて、店の入り口でリュウジに激突した。


 体にぶつかった部分はやわらかな布の感触が主だったのが幸いだが、思い切り足を踏まれてしまった。厚底の靴で踏まれたのであろう、リュウジの足先が悲鳴をあげる。


「あの、えっと……足が痛むなら病院へ行きますか? それとも服をクリーニングに出した方がいいですか? それとも……えっと――神田君?」


 同年代の女子の声で名前を呼ばれ、じんじんと痺れるように痛む足を見下ろしていたリュウジが顔を上げる。


 そしてようやく、こちらを心配そうに見つめる相手の瞳がアーモンドのようにぱっちりと見開かれていることに気付いた。


「お前、高野か?」


 昨日あった倫理の授業で一緒の班だった高野の顔がそこにあった。


「高野、だよな?」


 薄っぺらく黒っぽい生地をベースに白いフリフリがびっしりと飾り付けられたドレス風の衣装に包まれた身体。そこに乗っかった頭部は確かに高野のはずなんだが。


「そうだよ神田君。よかったぁ名前覚えててもらえて」


 厚底のラバーソールで器用に飛び跳ねて喜ぶ高野を目の前に、リュウジは固まってしまう。ふわりと動くロングスカートが妙にシュールだ。


 これは、あれか? 触れてはいけないのだろうか。


 リュウジがこうして混乱しているのは、転校生であるリュウジが高野を思い出すのに時間がかかっているせいだと高野は思い込んでいるようで。


 リュウジは高野がどうして、パーティー用の安物のメイド服にフリルを追加してちょっと豪華にしたような格好をしているのか質問するのをためらっていた。


 縫い付けられたフリルのひとつが、刺繍が不完全なせいか落ちそうになっているし。


 店内からこちらを見ている人々の視線。痛いというほどではないが、なんとなくこういう好奇の目で見られるのは嫌いだ。


 もっとも、リュウジも半ば高野をそんな目で見つつあるのであるが。


「神田君って前の話し合いの時もちょっとボーっとしてる感じだったから、わたしのこと覚えててもらえるかどうか心配だったのよ」


 授業中は思想について真面目に意見をぶつけていた彼女だというのに、まさかこんな格好で街のにぎやかな場所を歩いていたとは。


 ボーっとしてるは余計だと脳内でツッコミつつも、やはりリュウジの関心は高野が着ている服にあった。


 しかしこれについてを訊くかどうかでこの後の会話の流れが左右されるだろう。


 仮に高野にこんな趣味があったとして、自分自身もハードロックというあまり人に言えない趣味のためにここへ来たのだ。


 ゴールデンタイムの音楽情報番組を観てもさっぱりなリュウジには、趣味であるハードロックを興味本位にどうこう質問されて困ってしまったり、流行ガン無視の姿勢をドン引きされた経験もある。


 高野に服のことを尋ねるのは、彼女にとってウザいことなのではないか。そう考えたリュウジはまったく違う方向に話を展開させることにした。


 個人の趣味は尊重するべきというのがリュウジの持論なのだ。


「高野のことぐらいちゃんと覚えていたさ。家はこの近くなのか?」


「ううん。歩いて十五分くらいだから少し遠いかも。前に話した通り、うちはお寺なんだ」


「結構遠出してるんだな。俺も南地区に家あるからわかるけど、東地区まで買出しとか遠いよな」


「そうね。わたしの家は北地区だから逆だけど、やっぱりちょっと面倒ね。ここからちょっと北に進んだあたりよ」


 東地区から北へ。そういえば北東の方角は鬼門とかいって、災いがやってくるんだっけとリュウジは思い出した。


 街の鬼門に置かれた寺。リュウジの実家である東京の神田明神や、京都の延暦寺と同じようなものかとリュウジは納得した。


 経津丘にも立派な鬼門封じがあるじゃないかと、リュウジは胸をなでおろす。


「そうだ。ねえ神田君」


 高野の声音が少し暗くなり、笑っていた口元がすっと下がる。


「もしもよ、もしもの話なんだけどね。あなたの前に鬼が現れたらどうする?」


「俺鬼に助けてもらったことあるぞ」


 リュウジがハッと気付いた時にはもう遅く、高野はすでに当たり前な反応をしていた。


「はあ?」


「いや、違うんだ! その、鬼にもいいやつだっているんじゃないかな。無闇に怖がるだけが選択肢じゃないと思うぞ。俺の勝手な妄想だけどな。ハハハ……」


 ただでさえ大きな目をいっぱいに見開き、口をぽかんと開けて固まってしまった高野に、慌ててリュウジは言葉をまくしたてる。


寺の出身とはいえ不可思議な出来事に会っているわけではないはずだ。少し前まで自分もそうだったわけだし。


 鬼と武士の亡霊に助けてもらったり、式神の用意したココアを飲んだりしたなんて事実、彼女にとっては白昼夢もいいところだろう。


 日野に竹刀袋の中を見られそうになったときといい、今日は嫌な汗をかく日だと心中で思いつつ、リュウジは引きつりながらも笑顔を保った。顔の筋肉がそろそろ限界だ。


「なーんだ」


 高野がふっきれたように表情を消して目を細める。


「本当に鬼に会ったことがあるのなら、ぜひその話が聞きたかったんだけどな。ザンネン」


「え?」


 鬼と会ったという発言に驚いたのではなかったのか。今度はリュウジが唖然とする番だった。


 手を後ろに組んで高野が一歩下がる。くじ引きにはずれた子供のように、力なく。


 細められた目をしたまま、高野は淡々とリュウジに帰宅を告げた。


「わたし、そろそろ行くね。うちのお父さん最近元気がなくてさ。医者をやってる叔父さんが来てくれているんだけど、やっぱり調子が悪いみたい。わたしがやる家事も増えてるんだ。それじゃあね」


 フリルのたっぷりと付けられたロングスカートを揺らしながら歩く彼女は、文字通り糸の切れた凧のようで。


 またしても俺は、空気の読めない発言をしてしまったんじゃないか。一人残されたリュウジは彼女の寂しそうな背中を見送った。


「やっぱ俺、器用なんかじゃねえよ」


 人付き合いを面倒くさがって、当たり障りのない言葉を作ってばっかりなんだ。


 取り繕って、その場だけごまかして、相手を思いやっているつもりが結局は無神経になってしまっていて、それがとんだありがた迷惑で。


「なあ、花梨よ」


 不器用で、すぐに感情が爆発して泣いたり怒ったりしてしまうあいつに、俺はとんでもない誤解をさせてしまったんじゃないか。


 彼女の家で励ましたことだって、ただプレッシャーを与えていただけなんじゃないか。


赤い巻き髪とマリンブルーの瞳。そして夕日の下で見せてくれたあの笑顔が、湧き上がる罪悪感の底知れぬ泥沼に沈んでいく。


 せっかく訪れた中古ショップには結局入らずに、リュウジはとぼとぼと家路についた。


 分厚い雲の切れ目から一瞬だけ月光が射したが、すぐにまた闇に閉ざされてしまった。


「高野はどうしちまったんだろう?」


 ふっとロウソクの火が風に吹かれて消えてしまうように、それまで高かったテンションが一瞬にして鎮火してしまった高野。


 子犬のように純粋に相手に接する彼女は、なぜいきなりあのような態度をとったのか。


 のろのろと中古ショップ前を離れ歩道に戻ると、大して時間を置かずに信号は青になった。


 日野と別れずに一緒に帰っておけばよかったと、彼と別れた横断歩道をリュウジは渡り始める。


 道幅の広い国道をまたぐ横断歩道は思いのほか長く、重い足取りで渡るリュウジの目に青い光りが点滅する。


 なんか、どうでもよくなってきた。


「……なんだよ、チカチカ眩しいな」


 光りはリュウジに何かを伝えようとしているのか、執拗にリュウジの目に刺激を与え続けている。顔を上げて確認すると、青信号が点滅していた。


「ま、いいかな……」


 呆けた顔で赤に変わった信号機を眺めるリュウジに、待っていた車の一台が警報機を鳴らす。


 それが口火を切ったのか数十台の車があげる低いエンジン音のブーイングが、リュウジを急かしているようで。


「やべっ!」


 必死にアスファルトを蹴って反対側の歩道へ走り抜ける。


 バタバタとうるさく足音を響かせてようやく車道を抜けると、どこからか小さな声で忍び笑う声が聞こえた。


「た、助かった。死ぬところだった」


「フフッ、ほんまにリュウジはんは、おもろい人どすなぁ」


 手で口を押さえながら前かがみになって笑っているのは綾子だった。揺れる黒髪にはまとまりと芯があり、どこか瑞々しい。


「お前、どうしてここに……」


「新しく情報が入りましてな。リュウジはんもボーっとしてはる場合と違いますえ」


「情報?」


「ええ。なんでも神祇省が大事に備えて、経津丘に増援を送ったらしいんどす」


「よかったじゃないか」


「いえいえ。それでもまだ神託は下りておらんし、むしろこれから何かが起こる前触れとしか思えませんわ。とりあえず今はあの兵隊さんたちが通ったと思われるルートを調査してます」


「亡霊たちの?」


「部室で話した噂話の場所を辿っていくと、あのタバコ屋と街全体の鬼門にあたるお寺がつながるんどす。そのお寺には戦国時代の霊を慰める慰霊碑もあるさかい、間違いないでしょうなあ。ほんで、事故のあった交差点いうのがここ」


 対岸の中古ショップのあたりを綾子が指差す。その時リュウジはハッとした。


「まさか、俺が事故に遭いそうになったのもあの亡霊たちが」


「それはリュウジはんがボーっとしてはるからどす」


 白けた目つきで睨まれ、リュウジは面目ないと頭をかいてごまかした。


「まあ、今では街中に出てきてはおりませんので、この交差点にも小学校にも特に手がかりはありませんなぁ。後は高原寺のある山を調べる程度やろか」


 綾子は国道沿いの町並みに視線を移した。ちょうど昨日花梨の家を訪問する時に入った路地のある方向であり、今しがた高野が帰っていった方向である。


「なあ、その調査なんだけどよ、俺も一緒に行っていいか?」


「ええ。構わんどすえ。リュウジはんの心霊研究部初活動どすなあ」


 やわらかく微笑む綾子。


「さっき部室に来てくれはった時、活動がなくて寂しそうでしたからなあ。ようやくあんさんも動く時やあ」


「ああ。タバコ屋の前で決意した手前、本気でいくさ」


 何やら綾子にはいろいろと見透かされているようで。リュウジは歩き始めた綾子について北東を目指した。


 風水の要である、鬼門の方角へと。









 花梨はようやく、ひとつのジレンマから開放されようとしていた。


 この地の霊的な責任者である父は、何度説得しても事件解決のために動こうとしてはくれない。神様からの神託が下りないからである。


 神祇官の末端の地位しか持たない修業の身である自分には何の決定権もなく、神祇省に身を置く者として時間を持て余している気分だった。


 落ち着いた雰囲気を醸しだす金剛院の屋敷の中に居ながら、心にはほとんど余裕がなかったのだ。


 そんな中ようやく本省が増援部隊を派遣してくれる。花梨はこの報せを受けたとき飛び上がりたいほどうれしかった。


 このままいけば、すぐにでも神託が下って大規模な作戦のもと経津丘を騒がせる怪事件を一気に解決できるのではないか。そう考えたからである。


 以前リュウジを招いた応接室とはまた別の部屋。金剛院邸一階の大会議室では、中央から今日着く予定の特殊部隊との会談予定が入っている。


 これまで地道に調査をし、自分と一緒になって頑張ってくれた綾子と紀明のため。そして不甲斐なさでいっぱいだった自分を励まし、立ち直るきっかけを与えてくれたリュウジのためにも、いち早く神祇省が動く必要がある。


 花梨は長テーブルの端に座る父の斜め前の席で来客を今か今かと待っていた。


「こちらでございます」


 普段の黄色い花柄の着物ではなく、黒い余所行きの着物を着た神室姫が扉を開き、客人たちを招きいれた。


 いつになく彼女は無表情で声も淡々としており、完全な無機物のようだった。


「おおー! さっすが貴族。豪華な家に豪華な部屋してんじゃん」


 神室姫に続いて、客人たちの先頭を切って入室した男は予想外の風貌をしていた。


 だらしなく伸ばした金髪からちらりと覗く耳には銀のピアス。


 部屋を物色するかのようにきょろきょろとあたりを眺め回す顔の顎はとがっていて、長身ながら猫背に蟹股で歩く姿に花梨は強烈な嫌悪感を得た。


 ただでさえ派手な格好を際立たせるのは羽織ったジャケットで、アナコンダの鱗でも剥いで拵えたかのような蛇柄だった。


 まるで危ない薬の売人か売れないホストのような格好である。


 花梨の横にまでずかずかと歩いてきたその男は、乱暴に椅子を引いてそこにどかりと腰掛ける。


「へぇー。古臭い椅子だけどクッションだけは無駄にしっかりしてるな。ギシギシいう床よりかマシかな」


 傍若無人な男の振る舞いに、礼儀を忘れるなと怒鳴りつけようかと口を開く花梨。


 しかし自分とも面識のある神祇省の高官が続いて入室してくるのを見て慌てて口を閉じる。


 扉の側で頭を下げている神室姫をねぎらうと、戦国武将のように髭をたくわえたいかつい顔つきの高官は堂々と花梨と父の前に進み出て一礼する。


 花梨と父親も立ち上がって一礼した。


 蛇柄ジャケットの男はその様子をヘラヘラしながら眺めているだけであった。


「まったく、お前にも困ったものだな」


 高官は座ったままのだらしない男に顔をしかめていたが、やがて立ったまま咳払いをしてその男を紹介し始める。


「今回経津丘で起こっている怪事件、神託が下る前ということで調査委員をやろうと思う。彼にはすでに医者として市内を調査し、市民の健康状態が霊による邪気に脅かされていないかを調べてもらっている」


「おう、志賀だ。呪術を医学って側面から見てる。こう見えてエリート大学の出身だぜ」


 粘着質な笑みで金剛院親子にアピールする志賀。花梨は寒気を感じ、彼の隣りであるこの席から一刻も早く立ち去りたくなった。


 しかしここは高官も来ている手前、みだりに席を立つことはできない。


「しかめっ面すんなよ、仲良くやろうぜ」


 タバコ臭い息を吹きかけながら、志賀は花梨の肩に手を当ててきた。近づけてきた男の顔の肌は荒れていて、どう見ても三十路過ぎにしか思えない。えらい若作りだ。


 どうかこれが、悪い夢でありますように。


 花梨はこの会議が、屈辱に耐えるものになると思うとうんざりした。









 すでに太陽は沈みかけていたのだが、わずかに空に残った光さえも鬱蒼と茂る杉の木々が覆い隠していた。


 高原時へと続く石段は細く、上り坂は急である。


 じめじめとした空気と暗闇が、神聖な場所であれどどこか不気味さを感じさせる。久々に剣道の稽古をして疲れていたリュウジは、長いこの階段がそろそろ嫌になってきた。


「おい、高坂。ちょっと早すぎねえか?」


 そんな中綾子は軽快に足を運び、常にリュウジの五段ほど先を歩いていた。


「なんどすか? 早うせんと完全に日が沈みますえ」


「制服着て、足元なんてローファー履きだろ。そんなんでよく軽々と足が動くな」


 ローファーよりずっと動きやすいはずのスニーカーを履いたリュウジだが、圧倒的に綾子の方が速い。


 こちらを振り返る綾子は涼しげな表情をしており、汗をたらすリュウジは慌てて石段を二段とびしながら距離を詰めた。


「んもう。そないにペースを変えたら余計に疲れますえ」


 息を荒らげながら、リュウジはかろうじて綾子のすぐ後ろをキープし続ける。それから一分足らずで綾子は足を止めた。


「どうした? 寺まではまだまだあるみたいなんだが」


「ここからが本番どす。こちらの枝道を見てくださいな」


 綾子の指し示すのは、石段の上り坂から左にわかれた砂利道だった。


 横に進むため傾斜は今までよりなだらかだが、路面には一切の舗装がない。


  かろうじて砂利の敷き詰められた道だが、ところどころ大きな石が転がっていたり木の根がぼこりと地中から顔を覗かせていたりと歩きにくそうな要素満載である。


「この先に、戦国の兵隊さんたち鎮める慰霊碑があるんどすわ。神祇省や高原寺が長年大切にしてきましたから魂さんたちも落ち着いてはると思うてましたけど、結局今回の事件が起こってしまいました。気合入れて調べんとなあ」


「戦国時代の足軽。なのに剣を振る動きが大きく不自然で、その代わりに風水や陰陽道の知識を使って人を切り殺さず呪い殺す亡霊……か」


「そうどす。得体の知れない相手やさかい、リュウジはんも今のうちに準備をしておきぃ」


 そう言われ、リュウジは片方の肩に掛けていた竹刀袋のストラップを袈裟懸けに掛けた。こうすれば抜け落ちることはなくなる。


「あれ?」


 綾子は斜めに掛けなおされた竹刀袋を見て疑問を覚えた。


「口の方を、下にするんどすか?」


 てっきり映画に出てくる忍者のように、背中から抜刀するものと思っていた綾子だったが、リュウジはまあ見てなと左腰のあたりにある竹刀袋の口にある留め金を外した。


 するりと蓋になっていた部分がずれ、重力に引っ張られて刀の柄頭が顔を覗かせる。リュウジはそのまま刀の柄を持って自分の前へ引っ張った。


 竹刀ケースはそのまま半回転して地面と平行になる。


「わあ、腰に佩いたみたいやわあ」


 肩に掛けたストラップは、そのまま左腰に刀を帯びるための下げ緒となったのである。


「これならいつでも刀が抜けるだろ」


 言いながらポケットからイヤホンを取り出して耳に当てる。曲は流さず、スイッチをSにいれてピンチの時にはマサを呼べるようにしておいた。


 綾子の方も学生鞄から二振りの短刀を取り出し、用意したベルトに差していた。長い黒髪の隙間からは小ぶりの耳掛けヘッドホンが装着されているのが見える。


 綾子にも、映し神がいるのだろうか。


「さあて、こっからはある意味で『異界』どすえ」


 リュウジは始めて彼女に会ったときに見かけた白い小物が握られているのを見た。綾子がそのスイッチを押す。小物はパソコンのようにウイーンと音を立て始める。


「亜空、結界」


「そうどす。このオート結界石があれば、難しい印を結んで呪文を唱えんでも結界が張れるんどすわ」


 呪術の世界も先端技術で楽になったもんだ。綾子は学生鞄を階段に置くと、小道へと進んでいった。


「やっぱその靴のままで行くのかよ」


「これくらい序の口どす。小豆をばら撒いた道場や、ひどい時には底なし沼で訓練をしたこともあるさかい」


「そんな苦行を……高坂も花梨と同じで神祇官の家系なんだと思ってたけど、貴族の末裔でもそんなことやるのか? 明治になっても京都に居続けた旧家の令嬢だったりとか」


 柔らかい物腰に京都なまり。


 ある意味花梨以上にお嬢様っぽい綾子だが、リュウジの推測を聞いた綾子はおかしいとでも言いたげにコロコロと笑って顔の前で手を振った。


「そんな、うちが華族やなんて。この言葉は二歳で京都に呪術の基本を習いに行かされた時に覚えたもんどす。七歳で小学校入るために戻って来て以来はこの経津丘にずっと居ります」


「二歳で呪術の修業ねえ……」


 まるで江戸時代に商家へ奉公に出されるような話だ。リュウジはこのような風習が残り続ける裏の世界の奥深さを改めて理解した気がした。


 しかしそれ以上に綾子が地元っ子であったことへの驚きの方が強かった。


「ちなみに、わざと動きにくい床で足捌きの訓練を受けたのはこの経津丘の実家どす」


「やっぱお前ん家も神祇官なのか?」


「うふふ、ただの私立探偵やぁ。主に神祇省からの依頼を多く請け負うんやけどな」


 ざくり、ざくりと砂利を踏みしめる音が鳴り続ける。


 足元に注意しながら、二人は慎重に山道を進んでいった。


 そういえば、綾子はパソコンの操作に優れた紀明と情報収集をしていた。


 もしかすると実家が探偵であることから、綾子自身も情報を入手するパイプをいくつか持っているのかもしれない。


 それどころか、本気で綾子の情報網がすごかったら最早紀明はいらないんじゃないか。


 事件を解決した後、平和になった部室での紀明いじりのネタができた。


 リュウジはそんなくだらないことを考えながらもそらなる疑問を綾子にぶつけた。


「私立探偵も霊的事件に関わるもんなのか? わざわざ京都まで習得に行くのもすげえけど」


「シッ! そろそろどす」


 綾子が立ち止まって注意を促す。リュウジは以前と同じ、あの寒気を感じていた。


 細い道の先に小さな広場のようなスペースがあり、その中心に石碑が見える。あれが例の慰霊碑であろう。


 広場は平らに地ならしされており、砂利が敷き詰められている。


 傾斜はなく足場も良いため、かなり歩くのが楽になった。


 しかし広場のすぐ横はきつい上り坂。そしてその反対は崖になっている。


 足をとられ落ちようようものなら、この広場に戻ってくるのは難しくなるだろう。


 その石碑の周りを、薄ぼんやりと青白い光を放つ人影が漂っている。


「あ!」


 思わず凝視してしまいそうになるリュウジ。綾子は見てはならないとばかりにリュウジの顔を両手で動かし、視線をずらした。


「直接見たら気配でばれます。今は視界の隅で観察するんが一番」


 木々の覆う闇に焦点を合わせつつも、綾子に促されるままにリュウジは視界の隅にいる亡霊を認識しようとした。


 じろじろと見ることで相手に存在を悟られてしまうことへの配慮だろうか。


 慣れない方法ではあったが、少しずつ亡霊の全身が明らかになっていく。


「当世具足を着た侍。確実に戦国時代のやつだ」


 足軽たちより立派な装備で、漂わせる風格も格が違う。あれが亡霊たちのボス的存在のようだ。


 しかしあの亡霊、以前より違和感が少ない気がする。


「そういえば、あのお侍さん、ちゃんと頭がありますなあ」


 亡霊の位置よりずれた虚空を見つめつつも、綾子の目は確実に亡霊をしっかりと見据えていた。そういえばとリュウジは納得する。


「憎い、憎いぞ……」


 顔中をしわにするかのように、亡霊は顔を歪めて怒っているようだった。


「彼の者たち、許せぬ」


 こめかみに血管が浮き上がったりと、霊ながら生々しく映る。


 肩に担がれているのは二メートルを超える得物。長巻と呼ばれる、半分が柄で半分が刃である巨大な刀だ。


 あのような武器もまた戦国時代初期の特徴である。街を騒がせる亡霊たちと同じ時代のものであることは間違いない。


 じっくりと観察していたリュウジだが、集中するうちに視点の中心でがっつり亡霊を注目してしまっていたわけで。


「あ」


 気付いたときにはすでに、亡霊は怒りの表情をリュウジに向けてきた。


「やっべえ!」


「貴様、何者だ」


 亡霊の纏う青白い光が、炎のように揺らめいた気がした。


「あかん、ばれてもうた」


「すまねえ!」


 謝りながら腰の太刀に手を掛けるリュウジ。


 亡霊の方も殺気立っているようで、ぶつぶつと何やら呟きながら冷たい視線を放ってくる。


「眠りたい、ただ静かに眠りたいだけ」


 巨大な刃を持つ長巻が構えられる。


 切っ先がこちらに向けられたのを受けて、リュウジも刀を鞘走らせた。


 剣先と相手の目が放つ殺気は次第に研ぎ澄まされ、試合場の中央に立った時のような緊張感がリュウジを包み込んだ。


 相手は本物。強くなければ生き残れない時代に剣を振るっていた人間。


 現代の武道しか知らぬリュウジは恐れを抱いていたが、それ以上に目の前の相手がどのような太刀筋を繰り出してくるのかが楽しみだった。


「できるならあんたとは防具をつけて、竹刀でやり合いたかったぜ」


 それに、自分もまた本物の武士から手ほどきを受けているのだ。


 握る鮫皮の感触と鋼鉄の重みはいつもと違うが、腕にはある程度の覚えがある。


 リュウジはそろそろにらみ合いをやめ、刃を交えんと踏み出した。


「悪く思うなよ」


 亡霊は足を高く上げる。リュウジは亡霊もまた踏み込んでくるかと走りながら身構えたが、亡霊はニヤリと笑うと足元の砂を蹴り上げた。


「うわ!」


 ざらざらと目を砂が刺激し、ただでさえ闇に覆われていた視界が完全に塞がれる。


「こんな、卑怯な方法で……」


「卑怯? わしの時代には当たり前の戦法でな。ま、戦場とはなんでもありよ」


「ええ。あんさんも恨みっこはなしどすえ」


「誰だぁ?」


 はんなりした少女の声が、どこからともなく聞こえてくる。目の前の少年は未だ目元を押さえたままで、亡霊が周囲を調べようとしたその時である。


「ほんま、何でもありどすなあ」


 リュウジがようやく目を開ける。


 そこに飛び込んできた光景は亡霊の背後に回りこんだ綾子がそのすらりと伸びた腕で、短刀を亡霊の胴鎧の隙間に突き立てようとしているものだった。


「な、いつの間に背後へ!」


「だから言いましたやろぉ。恨みっこなしやって」


 まるで闇の中から溶け出てきたように浮かび上がる綾子の上半身。逆手に握られた刃が黒一色に近い世界の中で怪しく輝く。


「――この、小娘が!」


「高坂!」


 亡霊は懐に飛び込んだ綾子を振り払おうと、長巻を大きく横に振った。


 しかし重たい刀身に引かれたか、バランスを崩し背後の崖へと片足を滑らせる。


 一閃された長巻を避けようと身をよじらせた綾子も同じだった。


 がくりと体勢を崩した亡霊とともに、綾子の姿も瞬時に小さくなっていく。


 手を出そうとリュウジは前進するも、差し伸べた手が綾子に届く前に、彼女は勢いよく崖を滑り降りていった。


「おい、高坂!」


 最後に見えた綾子の表情は意外にも、心配するなと言わんばかりにおだやかだった。


「あいつ、余裕そうな面しやがって……」


 崖の下に消えていった綾子と亡霊。差し出そうとした手を空しく風が撫でているのを感じながら、リュウジは闇が支配する山中の虚空を見つめていた。








 窓の外は夜になった今でもまだ雲が多く、花梨は雲のフィルターがかかってぼんやりと浮かんだ月を眺めていた。


 高官が気付けば止めてくれていたのが幸いしたものの、会議の間志賀はずっと花梨にちょっかいをかけてきた。


 このまま神祇省の力をもって街の不安を拭い去りたいと思っていた花梨にとっては本当に苛ただしいことだった。


「本当に、悪夢と思いたいですわね」


 さらには会議の内容である。


 なんと本省からの指示は、このまま待機を続けろというのだ。


 志賀がなんらかの情報を掴めば、それをもとに指示が下りることにもなるかも知れないのだが、あのチャラチャラした医師を信用しろと言われても、それはできなかった。


 あんな男が一級の神祇官として仕事ができるなか、自分は未だ修業の身。


 本当に、情けなかった。


「お、こんなところにいたのか」


 痛んだ金髪を揺らして志賀がこっちに向かってくる。花梨は眉をひそめて嫌悪感をあらわにしながら、強い口調で返した。


「何か御用でしょうか? 会議はすでに終了しておりますが」


「まあそう怖い顔すんなよ。俺はこの家を助けようと、そしてお前を幸せにしようって話をしにきたんだぞ」


「出会ったばかりのあなたと、なぜそんな話をしなければならないのですか」


 とにかくタバコ臭いから出て行ってくださいと言いたいところなのだが、相手は神祇省の人間。


 それに最低限の礼儀を忘れるようではこの男と同レベルに成り下がってしまう。と、花梨は怒りを抑えた。


「知ってるぞぉ。中世から続く貴族の家系に、天津神の血が混じった誉れ高い金剛院の血に、外人の血が混ざってしまったって話をよう」


「な、何を」


「わかってるくせによう。お前の家は今、中央でも噂の種になってんだからな。ただでさえ伝統だの何だのにこだわるこの業界じゃあ、格好のターゲットさ」


 志賀はぐにゃりと顔を歪めて笑い、まとわりつくような視線で花梨を見下ろしてくる。


「お前、俺と結婚しろよ」


「はあ?」


「俺みたいなエリートが居れば、お前だって安心だろう。それにお前、かわいいし」


 志賀のまなざしに鳥肌が立ちながらも、花梨は突然のことに混乱し何も返事ができなかった。


 志賀はいやらしい笑みを絶やさぬまましつこくこちらに目を向けてくる。


「返答は俺がこの街に居る間に頼むぜ。ま、結構長いことここに居ることになりそうだがな。その間にでも、なにかおごるし遊びに行ったりしようぜ。じゃあな」


 ひょろりと伸びた後姿を呆然と見送りながら、花梨は自分の赤い髪と青い瞳を、かつてないほどに憎んだ。








 春先の山にはまだ雑草も生えておらず、木々も未だ葉を茂らせてはいない。


 そのため、亡霊と綾子は幸い藪に突っ込むこともなく、柔らかい腐葉土の上に着地できた。


 山道を離れたこの辺りはすでに広葉樹林で、枝の間からのぞく空が街の明りを反射してうすぼんやりと辺りを照らしている。


 結界の中であるため、そして昼間から街を覆っていた雲のためか、星や月は観測できない。


 ぐおおと唸りながら地面を転がる亡霊から目を離すことなく、綾子は短刀を構える。


 リーチの異常に長い武器を使う相手に対し、逆手に持った刃の切っ先は後。


 下手に剣を突き出して間合いを示せば、すぐにあの化け物じみた刀の餌食にされるだろう。なにせ槍や薙刀と互角に戦える代物なのだから。


「い、一人前に構えなどとりおって。わしを舐めるなよ」


 すらりと伸びた綾子の影に気付いたか、亡霊は立ち上がって負けじと長巻を構えた。


「あんさんには聞きたいことがたくさんありましてなぁ」


 怪しく揺らめく亡霊の青白さを除けば、常人の目にはこの山中の様子は何一つ映らないだろう。しかし綾子はこの場所をかなり正確に認知していた。


 なにせ暗視は、彼女が京都から戻ってきてからすぐ。七歳の時点で訓練を始めていたのだから。


「フン、小娘が。お前もワシらの霊を騒がせに来たのか」


「毎年きちんと供養しているいうのに、街で暴れるんが悪いんどす」


 綾子の返事が気に入らなかったのか、亡霊は長巻を上段に持ち上げる。重い武器を振り下ろして攻撃するときの定番と言うべき構えだ。


 両腕を上げたその姿は、脇腹にある鎧の隙間がよく見える。


 その装甲の薄い部分に狙いを定め、綾子は間合いを詰めんと姿勢を低くして一気に踏み出す。


 上からの刀に気をつけながら、短刀を躍らせんとした。


 刹那。


「ぬおお!」


 亡霊は脇から回すように刀を振り、逆に下から切り上げてきた。


 綾子はとっさに身を翻し、その重い一撃を避ける。


 斜めに弧を描くように繰り出された太刀筋が、それまで自分の居た空間で風を切った。


「うちを誘ってはったんか。これはうかつに手は出せんなあ」


「お前のような短刀使いとは一戦交えたことがあってなあ」


 とはいえ障害物の多い林の中、後退してばかりでは簡単に追い詰められるだろう。


 逆に一歩踏み出せばそこは長巻の間合い。言わば敵の胃袋の中である。


 四歩踏み出して懐に飛び込めればようやく自分の間合い。


 それをいかにして稼ぐか。


 綾子が思案している間にも、亡霊は返す刀で逆袈裟に切り上げてきた。


 素早く地を蹴って後退するも、すぐ後には木。次の斬撃は斜め後にかわさねば……。


 綾子は木が生み出す影に身を沈めた。


「ぬぬ、小娘め。闇にまぎれたか」


 綾子の姿を見失った亡霊は、ずんずんと林に分け入っていく。この辺りの広葉樹はまだ若く、細い木が狭い間隔でたくさん生えていた。


 少女の影を探すうちに、亡霊は大樹が倒れ、ぽかりと空が開いた場所に綾子が居るのを確認する。


「なんだ。ここまで来てワシをまだ馬鹿にする気か。影に隠れるのをやめてしまうとはな」


 近づいても、彼女は動く気配がない。


「この巨大な刀を見て、ワシをのろまだと思っておったのだろう。だがさっきの斬る動作、ワシの速さはあのようなものではないぞ」


 長巻の切っ先が綾子に突きつけられる。


「ワシの速さはなあ、突きにこそあるのじゃ! 小娘などに避けられまい」


 すかさず綾子は動いた。両手持ちの武器で突きを放てば、腕も身体も伸びきって隙が生まれる。


 くるりと身をかわしながら、綾子は短剣を突く構えで飛び掛っていった。


「やはり、そうするかい」


 亡霊は不敵に笑うと、柄を握る左腕を突き出した。


 長い刀身を支える柄もまた相当の長さ。その柄を打撃武器として、亡霊は迫り来る綾子の腹を柄で打った。


「ああっ!」


 可憐な悲鳴が山中に響く。


 長身ながらも細い肢体が、林に横たわった。


「おなごとはいえ、容赦はせんぞ」


 短刀による奇襲を想定してか、亡霊は半歩下がって間合いを空け、それから処刑台に設置された斧のごとく長巻を振り上げた。


 地に倒れた綾子目掛けて、長巻が振り下ろされる。


 痛む腹に歯を食いしばりながら、綾子は体のバネを利用して瞬時に跳ね起きた。


 短刀を握ったままの手で患部を押さえながら、再び林の中に走りこむ。


「逃げるのか? それとも再び刀の振るえぬ狭い林にワシを誘い込み、突きを誘発するのか。何度やろうと、突きのあとにできる隙などワシにはないぞい」


 綾子の背中を追いながら、亡霊は精神的にも綾子を追い詰めようと言葉でも迫った。


 柄による打撃を浴びせたことで、明らかにあの少女は動転している。さっきよりも体の上下運動が大きく、よろめいているように見えるからだ。


 鎧をつけているとはいえ自分は亡霊。無限の体力があり、疲れることはない。


 もし彼女がこちらを疲れさせようとしているのだとしても無駄なことである。むしろ向こうが消耗していくのだ。


 下を向いたままの彼女はすっかり弱っているようで。


「小娘よ、策も尽きたようじゃのう」


 円を描くように逃げる綾子。同じ場所を二度も三度も逃げている。亡霊は嫌気が差し、一度止まることにした。


「きりがないぞ、小娘よ」


「いいえ、あんさんを詰む準備は整いました」


「何? 声に張りがあるな。まさか、下を向いていたのは弱っていたのではなく、ここの地形を……」


「ええ。ここにはうちのお友達がぎょうさんおりましてなあ」


 綾子は召喚機器のスイッチを入れると量耳の耳掛けヘッドホンを外した。器用に右手で両方を持つと左手で本体のボリュームを上げていく。


 ヘッドホンからは尺八のような、竹笛の音色がする。


「この音色、ワシが生きていたときに聞いたような」


「ほう、さすがうちらの初代を知る時代のお人やなあ」


 亡霊は記憶に合致した事柄を思い出すと、全身に鳥肌が立った。


「そ、そうだ。確かこれは武田の軍が夜襲をかけてきたときに……」


「ええ。うちの家は武田信玄はんに仕えとった忍びの家系。『裏百足衆』を率いる高坂甚内こうさか じんないの一族どす」


 はんなりとした綾子のかわいらしい声とは間逆に、己の立つ大地がうぞうぞと気味悪く蠢いているのを亡霊は感じていた。


 甲斐の武田信玄といえば、百足の旗を背にさした情報伝達部隊『百足衆』を有していたことで有名であるが、その裏には決して明るみに出さない特殊部隊があった。


 それこそが、綾子の祖先である高坂甚内の率いる忍者集団、『裏百足衆』である。


「さあ、みんなあのおじちゃんが遊んでくれますえ」


 綾子がヘッドホンからの笛の音色と重ねるようにひゅうと口笛を吹けば、亡霊の足元がざわめき始める。


「よ、よせ! やめろ!」


 裏百足衆はただの情報部隊ではなく、独特の技能を持っていた。


 人間とは相容れない。けれど妖怪とも違う生き物を飼育し、自在に操る能力。


 亡霊は脛当ての裏に、小さな針のようなものがびっしりと高速で動いているのを感じた。


 それはおびただしい数であり、あっという間に鎧の裏へ、首筋へ、次々に体をよじ登ってくる。


「うわああああああ!」


「ちゃあんと霊にも攻撃できるように訓練しているどす」


 正体は百足だ。百足たちは亡霊の全身を覆いつくし、今にも牙を剥かんとしている。


「うちにいろいろ教えてくれるんなら、毒までは流さないどすえ」


「し、忍びの刃に刺され百足の毒に倒れたワシが、魂までも同じ方法に敗れるとは……」


 亡霊は悶絶しながら敗北を認めた。


「おーい高坂、無事かー!」


「あら遅い」


 ケータイの明りが振られているのがぼんやりと確認できる。


 遠くから聞こえるリュウジの声に、綾子は肩をすくめて目を細めた。


「よかった。突然いなくなるしあの崖を下りるのは大変だし、マジ心配したんだからな」


「うふふ。それは悪いことしました」


「お、おい小娘! いつまでワシを放り出しておくつもりじゃあ」


 足元に転がされている亡霊は丸太のように動かない。あらそういえばそうでしたと綾子は召喚機器のボリュームを下げ、口笛を短く鳴らした。


 がさがさと百足の大群は亡霊を離れ、腐葉土の下へと帰っていく。


 リュウジは一瞬ぞっとしたが、召喚機器を操作する綾子の姿から、この百足たちは味方なのだと悟った。


「さて白状してもらうぞ。タバコ屋の旦那さんをなぜ殺した」


「殺す、だと? ワシらはただ静かに眠っていたいだけじゃ」


「おいおい、首のないお前の部下が最近街で騒ぎを起こしているのを知らねえのかよ」


 リュウジの発言に、亡霊はつり上げた目を戻し、ゆっくりと開いた口をしぼめた。


「首のない者たちか。あれはワシらではない。侵略者どもじゃ」


「侵略者?」


「まさか、あの首なしは武田や北条あたりの兵士どすか?」


 戦国時代に小国であった経津丘を攻め滅ぼした大国の兵士の霊。


 そう考えれば、この侵略者という言葉にも納得がいく。しかし亡霊はそんな推測は違うと静かに首を振った。


「ワシらが生きておった頃の話ではない。奴らは今、侵略してきておるのだ」


「今だって?」


「そうじゃ。あ奴らの鉄鎧の前にはワシらの細い刀では歯が立たん。それにあの重い剣は多くの仲間を奪っていきおった……。あれは高原寺の仕業じゃ。あの寺はワシらを供養しているように思わせ、実際は首なしの化け物を呼び込んでおるのじゃ」


「おい、どうした」


 亡霊は突然興奮し始めたのか、かっと目を見開いて熱弁する。


 経津丘の鬼門封じにして高野の実家である高原寺。亡霊の言うことが正しいなら、首なしの亡霊たちがそこから現れたことになる。


「姿かたちに騙されてはいかん。奴らは足軽の姿に擬態し始めたが、ワシらが最初に見たときには見たこともない鎧と、見たこともない大きな剣を携えておった。ありゃ噂に聞く、南蛮胴の具足じゃわい」


「南蛮胴て、西洋のプレートアーマーのことどすか?」


 プレートアーマーに大剣。これではまるで中世ヨーロッパの騎士である。


 ヨーロッパから亡霊を呼び寄せてまで、高原寺は地元の亡霊を消し去りたかったのだろうかと考えるリュウジ。


 しかし相変わらず情報同士に繋がりがなく、うまくまとまりそうになかった。


「赤い目の小娘じゃ……」


 わなわなと震えながら、亡霊が恨みのこもった声で呟く。


「思えばあの銀の髪を生やし赤い目をした小娘がうろつくようになってから、この山は荒れ始めたのじゃ」


 リュウジと綾子は怒りと悲しみを抱えたまま倒れている亡霊の言葉から、どのように真実を導こうかと頭を抱えた。


「本当の相手は西洋の魔物、いうことですか。うちらは一杯食わされましたな」


 綾子の切れ目がいつになく冴え、黒々とした闇の向こうを見据えていた。


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