第三章
教室の時計が静かに時を刻む中、先生の長い朗読が終わった。
リュウジはあくびを噛み殺しながら、この退屈ながらも律儀な時間の流れに身をゆだねている。
「はい、作品の朗読は以上になります。なかなか感動的だったでしょう。それでは各班でこの作品の作者が、読者にもっとも伝えたかったテーマが何なのかを話し合ってください」
衝動から亡霊に自分から話しかけたり同級生が鬼を召喚したり、さらには自分自身が霊を呼び出したり。
昨夜にそんな非日常を体験したということが夢であったかのように明日はやってきて、リュウジは現実的で単調な日常の大部分を占める学校の授業を受けていた。
倫理の授業。今回は教科書の内容から少し離れ、先生の紹介した童話から学ぶという内容だった。
神の血を引き死んでも蘇ることのできる英雄が普通の人間の女性と結婚し、自分とは違う儚い人間の命に涙するという、どこかの神話をアレンジした童話だ。
今日は分厚い雲が空を覆い、空気がじめっとしているためかやる気が起こらない。
リュウジは静かに班員たちの意見に耳を傾けていた。
リュウジがいる五人の班には、幸い活発に意見を出す人物が二人ほどいる。
そのためリュウジは彼らの質問に答えたり意見に同調したりして、どうにか話し合いをやり過ごそうとしていた。なんといっても面倒くさいからである。
「そうね、やっぱり作者が言いたいのって命の大切さとかそんなんじゃない?」
「やっぱそのへんの答えになるよな」
「はいはーい! 奥さんが亡くなるシーンで生まれ変わったらまた会いましょうって言うけどさ、それって輪廻転生を表していると思うの」
無難に話し合いがまとまろうとしていたとき、班員の高野由美が新提案を打ち出した。
「リンネテンセイねえ。高野、なんかそれって宗教じゃね?」
「アハハ! 由美、それなんかすっごい怪しいよ」
おもしろがって反応する他の班員たち。
「宗教、か……」
科学技術が発達し人口が都市部に集中した現代の日本。
人間が妙に自信を持ち、自然への畏敬とか神とか仏とかいう言葉はすっかり胡散臭いものとなり――
詐欺まがいの新興宗教のみならず、古くから続く宗教やその用語でさえ現代人にとっては敬遠すべき存在になっている。
正月に神社に詣で、盆に仏前で手を合わせ、クリスマスも祝いながら「自分は無宗教です」というのが当たり前な日本人の姿だ。
「あーもう、輪廻転生は大昔からある言葉よ! 怪しくなんかないわ」
「あ、そうか。由美の家ってたしかお寺だったよね。そういう言葉にも詳しいわけね」
実家が神社であるとはいえ、つい最近までリュウジも似たような感情を抱いていた。
神も仏も存在しない。それゆえに恵みも祟りもあろうはずがなく、自然の仕組みを科学で解き明かした人間が自分たちの力で世界を動かしているのだと、そう思っていた。
しかしここ数日の間に、リュウジがこの日本という国に対して抱いていた世界観が変わりつつある。
「おいおい。高野が俺の家に変な壺とか売りに来ても、俺ぜってー買わないからな」
「ひどいわね。うちはそんないかがわしいことなんかしてないわ」
「じ、冗談だっての」
警察の管轄から外れた霊的な事件。神や妖怪が人の思念を通り現れる『映し神』という関係。そして秘密裏に存在し神と人の橋渡しをしている『神祇省』という組織の存在。
新しく得た知識と経験は、世の中が科学だけで動いているわけではないことをリュウジに伝えてくる。
リュウジはこれまで非合理な過去の風習としか思っていなかった宗教の世界に、少しずつ入り込みつつあることを自覚した。
「神田君は怪しいって思わないよね、仏教とか」
高野由美がアーモンドのようにぱっちり開いた目でリュウジの方を見ている。
リュウジは個人での考え事を切り上げ、グループでの話し合いに戻ることにした。
「そうだな。詐欺とかに利用する奴らは悪いと思うけど、基本的にはいいもんなんじゃないか」
「おおー! 神田君ってばさすがね。そうなの、その人の解釈次第で仏は神にも悪魔にもなりうるの」
大きな瞳をさらに輝かせて由美が喜ぶ。
「心がけと正しい理解さえあれば、仏教の教えは人を強くするわ――あ、別に勧誘してるとかそんなのじゃなくて、わたしの持論を言ったのよ」
「へえ、さすがトーキョー育ちは頭が柔軟で理解力があるねえ」
からかいにふくれっ面で反応していた由美がリュウジの理解を得たことによって笑顔を見せる。
その流れを受けて班員の男子生徒はこんなことを言った。
表情を見る限り、特別皮肉が込められているようには思えない。ただなんとなく言っただけなんだろう。
そうとわかっていても、どこか嫌味が含まれているような気がした。
リュウジは怒りを抑えながら「そんなことはねーよ」とだけ返しておく。男子生徒はやはりヘラヘラしているだけだった。
少し考え過ぎなのかもしれない。転校してから東京がどうとか散々聞かれたりしたわけだし、彼も軽いノリで東京育ちがどうのこうのと言っただけだろう。
「ほらほら、そろそろ結論まとめるよ」
「また時間のある時にお話しましょう、神田君」
由美が他の皆に気付かれないように、無邪気な笑顔でパチリとウインクをする。
呆気にとられるリュウジを尻目に、由美は授業の議題に戻っていった。
何気ない日常の時間がゆっくりと流れていく。
リュウジは宗教がどうだの東京がどうだのということを一旦忘れ、授業に専念することにした。
そしてその日の放課後、心霊研究部室にリュウジは再び呼び出された。
窓から覗く灰色の空はとうとう泣き出したようだ。外からはぽつぽつと雨音が聞こえ、時折強い風が吹いて水滴が窓ガラスを叩く。
ただでさえ雨が降って暗い廊下は気味が悪いというのに、貼り出された怪しい掲示を多く見かける特別棟四階を通るのは気が引ける。
リュウジは逃げるように部室に入った。
市内を騒がせる首なしの亡霊たちについて、花梨と綾子が観察を行った結果の報告とリュウジが手に入れた手がかりをまとめて考察しよう。
そんな紀明の提案で、会議の席が設けられたのだ。
参考のためマサにも来てもらう。
リュウジが花梨から借り受けた召喚機器でマサを召し寄せると、紀明はやはり驚いていた。
「それでは、まずはわたくしと高坂さんの調査結果を報告いたしますわ」
昨日と同じように会議ができるようまとめられた机。部室の奥にはいつのまにかホワイトボードが用意されており、街の簡単な地図が磁石で貼られていた。
マサは空中で寝そべりながら耳を傾けている。
「昨日といい、おとといといい、彼らは五人から十人程度の集団で行動していました。目撃場所はあの住宅街で、二百メートルほどの距離を巡回しているようでしたわ。
おとといあの小隊を殲滅させたにも関わらず、昨日も同じ場所に彼らは現れています。あの周囲に何か関係があるものと思われます」
花梨の発表に合わせ、綾子が地図上の道を赤マジックでなぞる。リュウジがいつも通る通学路を含む狭い範囲を、円を描くように亡霊たちは巡回しているようだ。
京都のように通りが碁盤状であったなら、間違いなく真四角なルートができていたであろう。
「この道を時計まわりに歩いてましたなあ」
「それから、彼らは通行人を見かけても特に反応はしませんでした。例外は結界が張られた場合で、おそらく術者を倒し結界を破ろうとしたのでしょう。おとといリュウジさんが襲われたのはそのためだと推測できます」
「ほう、ということはあの者たちは結界を感知することができるとな」
「……そのようです」
マサの質問が空中から降り注いで花梨はビクリとしたが、冷静に返した。
「歩き回る範囲が狭いのに結界を邪魔に思う。兵隊さんたちにも、帰る場所があるいうことみたいどすわ」
「なるほど、ご苦労だった」
紀明がホワイトボードから正面に視線を戻し、ずれた眼鏡の位置を調整する。
「ええ、なかなか苦労しましたわ」
「何もしてはらん部長はんには、メロンパンでも買うてきてもらいましょか」
「うむ、我も握り飯を所望する」
赤マジックを置いて綾子が席に戻る。
常々いじられている紀明だが、マサという新たなドSの出現に口をあんぐり開けて固まってしまった。その様子を見て、リュウジのいたずら心も刺激される。
「購買の営業時間ギリギリだけど、メロンパンは残っているのかねぇ? あ、俺はコロッケパンな」
「四階の部室から一階の購買部へ。まあなんてよい部長なのでしょう。わたくしはミルクティーを」
リュウジの追い討ちに顔を青くしてうなだれた紀明だったが、花梨の一言で瞬間的に生気を取り戻し、鼻息を荒らげながら立ち上がった。
「まあなんてよい部長なのでしょう」だなんて、明らかに棒読みだというのに。
「よい――部長。う、うむ。そうだな! よし、今日はわたしのおごりだ。使い走りでも何でもしよう」
すっかり乗せられている。目をらんらんと輝かせて席を立つ紀明の姿に、今更ながらリュウジは罪悪感を覚えた。
だが、罪悪感を超えてツッコミどころが満載なのでフォローする気にはなれず、結局冷めた目で彼を精神的に見下すことしかできなかった。このドMめ。
「フフフ、冗談ぞ。話を進めい」
「『豚もおだてりゃ木に登る』とは、部長はんのためにある言葉どすなあ」
マサと綾子のダブルドSに心を貫かれ席に戻る紀明。
受験に数年連続で失敗した浪人生のごとくしなびた彼にできるフォローは、今のリュウジには思いつかなかった。
いや、仮に名案が浮かんだとしてもしばらくはそっとしておくべきだろう。
「それではリュウジさん。あの時亡霊たちに話しかけた理由など、お聞かせ願えますか?」
「ああ、わかった」
よろよろと紀明が席に戻るのを確認すると、花梨がリュウジを促した。
「俺があの首なしの連中に出くわした場所にタバコ屋があって、ちょうどそこのおばさんと仲良くなった。で、おばさんが言うにはそこの旦那さんが首なしの幽霊を『見て』しまったみたいで、それ以来部屋からまる一日出てこなかったらしい」
「なるほど。それで『首なしの幽霊を見ると不幸になる』という噂と関係がありそうと踏んだのですね」
リュウジは首肯する。もし関連があるのなら、噂が語る『不幸』の度合いが判明し亡霊たちが与える影響もわかることになる。
「ただ怖がってはるだけなんか、それとも亡霊たちが何かしたんか。わからんどすなあ」
「でもよ、まるっきり無関係でもないと思うぞ」
「そのタバコ屋さんの場所は、この地図でいうどのあたりなのでしょう」
「この街にきたばっかだし、どうもはっきりとはわからんな」
「ちなみに、前に張った結界の範囲はこんな具合どす」
綾子は青のマジックを使い地図に円を描いた。死霊たちの行進ルートを囲むような青い円。ちょうど赤と青の二重丸が地図上に生まれた。
「えーと、結界の南端で俺が出ようとして、そこからちょっと進んだあたりだから……あ!」
「何かわかりましたの?」
「タバコ屋の位置はこの赤い円の南端だ。あいつらはこの場所を基点にぐるぐるまわっていたんだ」
時計回りに歩いていたという綾子の報告も含めて察するに、足軽小隊の行進は南端のタバコ屋から出発し、西、北、東。そして南下してタバコ屋前に戻るというルートのようである。
「ふむ、町内を巡り最後には『北東から店の前へ戻る』とな」
マサが漏らした一言に、部員たちの顔色が変わった。
「まさか、鬼門から邪気を運んでいたのでしょうか」
「あの歩き方も、反閇か何かの可能性があるな。おそらく邪気の浸透を早めるために」
「だとしたら敵さん、呪術に通じてはるんどすか? これは厄介になってきましたえ」
「おい、いきなり専門用語で語られてもわかんねーぞ」
飛び交う『反閇』だの『鬼門』だのといった用語に顔をしかめるリュウジだったが、マサも含めた全員が意味を理解しているらしくうんうんとお互いに頷き合っている。
止むことのない雨の音をバックに交わされる会話。意味が全く解らずに黙って聞いていたリュウジにようやく解説が入る。
「リュウジよ、北東の方角は風水でいう鬼門。すなわち凶方――不幸がやってくる方向だ。お前の実家たる神田明神は江戸城……現代の皇居の位置からすればどこにある?」
「――北東だ」
「そう、鬼門である北東から流れ来る邪気を防ぐためにあの場所にあるのだ」
鬼門を制すことは風水の基本である。昔から都市や城を建設する際には必ず鬼門の方角に寺や神社を置いて、その場所に不幸を招くのを防いだという。東京の神田明神の他、京都の比叡山延暦寺などが有名だ。
風水による方位から吉凶を知る概念は武家にも導入され、戦の時どこに陣を張るか、どこに城を建てるかなどを決めるうえで重要視されていた。武将であるマサが風水に通じているのはそのためである。
「亡霊たちは鬼門の方角から店に向かいました。自らの歩みと死者の穢れにより、邪気を意図的に流していた可能性が生まれます。それを加速するために、反閇と呼ばれる呪術的な歩行をしていた。という予想もできますわ」
「呪術的な歩行?」
歩みと呪いという組み合わせにリュウジは首をひねる。呪術といえば呪文を唱えたり印を結んだりといったイメージしかなかったからだ。
「ええ、もとは道教や陰陽道に由来します。独特のステップで地霊を鎮めたりする儀式が発展して、呪文唱えたりするんと同じくらい重要な動作になっているんどすえ」
相撲で踏まれる四股や、歌舞伎や狂言で使われる足運びなどもこの反閇が由来しているという。
こういった武道や芸能に使われる足捌きは総じてすり足と呼ばれ、反閇が呪術以外の分野に溶け込んだうえでの形なのである。
「フフフ、剣道のすり足も反閇が由来ぞ。覚えておくがよい」
左足をほとんど右足の前には出さず、前後の体重移動で一気に相手との間合いを詰める剣道の足捌き。
リュウジの身体に染み付いたその動きが理解を早めた。
合理的な動きの中にも、勝利を祈る気持ちが含まれているのだろうか。
生気を失って無気力に歩く亡霊たち。特にその歩みに注目はしてこなかったが、それが呪いの効果を持っているのなら事態は深刻だ。
「鬼門の方角と反閇の持つ呪術的効果を合わせて、亡霊たちがタバコ屋の旦那さんに不幸を与えている。彼らの目的などは未だわかりませんが、そのようなことをしているのであれば放ってはおけませんわ」
「ああ、散々怖がらせた上に呪いとはひどすぎるぜ」
「あの幽霊たちが反閇を用いているかは憶測の域を出ないが、鬼門の方角を通っていることは確実だ。昨日皆が調査をしている間あの土地そのものにいわくがあるか調べてみたが、特にはない。意図的に不幸を起こしているのだろうな」
「あら、ちゃんと仕事してはったんどすか」
「意外そうにするな。わたしはいつでもこうして情報を集めているぞ」
話をまとめたはずが邪険にされる紀明。歩くどころか、ぴくりと動いただけで棒にあたってしまうかわいそうな犬のように思えてくる。
「少し話は逸れるが、よいか?」
顔を赤くして反論する紀明を無視してのマサの発言に一同が頷く。紀明も慌てて口を閉じた。
「彼の者たち、刀の扱いが妙だと思うてな」
今度は花梨と紀明が首をかしげる番だった。綾子には何か思い当たる節があるようで、マサが話を続けるのを黙って待っている。
「柄を握る手には力が入りすぎであったし、動きも大きすぎる。あまりに不自然であった」
「けどよ、足軽兵はほとんどが出稼ぎの農民だったらしいぜ。子供の頃から剣の稽古を受けてきた侍のお前からしたら、下手くそなのは当たり前なんじゃないか?」
経津丘に国があったのは、北条や武田が勢力争いをしていた戦国時代初、中期のことである。
兵農分離が行われるかなり前の時代であり、農夫が武器を持って戦に出かけるのが一般的だった頃だ。
リュウジはそんな農夫たちであるならば、出鱈目に剣を振り回すのも自然なことだと考えていた。
「そうかも知れぬが、何かが引っかかる」
「言われてみれば、兵隊さんたちはあの動きに慣れてはったようにも見えましたなあ。まるであんな『型』があるみたいどしたわ」
綾子の指摘に、マサも納得したように頷く。
「うむ。大太刀や長巻きのごとく、さらに重い武器を振るうような動きであったわ」
「重たい武器から軽い普通の剣に持ち替えて、でもそれを使いこなせていないってことか?」
「そうだ。解せぬことではあるが立派な事実だ」
「折角情報が増えたというのに、かえって相手の正体がわからなくなってしまいましたわね」
花梨のため息に、一同は口をつぐんだ。
戦国時代の足軽の亡霊であり、タバコ屋の旦那さんに呪いをかけようとしている。農夫か傭兵という出身でありながら呪術に通じた可能性があり、重い武器を使うようなフォームで戦う。
得た情報を組み合わせてもそれぞれが噛みあわず、どのようにあの亡霊たちという接点で交わったのか見当もつかない。
「これまではチラチラと姿を見せるだけと思われていたが、この先は直接的な被害が出る恐れがあるな」
紀明が眼鏡を押し上げながら言った。
その表情は真剣そのものであり、今回は誰も彼を茶化さず、皆雨音を聞きながら彼が再び口を開くのを待っていた。
「金剛院君、高坂君。この雨の中悪いが早速例のタバコ屋の周辺を調べて欲しい。
神田君にマサさん、貴重な情報を感謝する。入部のことも前向きに考えてもらいたいところだが、事態が深刻化している以上こちらも返答を急かしたりはしない。じっくりと考えてくれたまえ」
リュウジが初めてこの心霊研究部を訪れた時さながらの貫禄を放つ紀明。
その重みのある言葉に、リュウジは事件のこの先が気軽に関わってよいものではないということを自覚した。
旦那さんが倒れたことによって悲しむおばさんを放っておけず、つい首なしの亡霊たちに話しかけるという危険を犯してしまった。
そしてここまで知ってしまった以上、この恐怖の現象を見過ごすわけにはいかない。そう思う強い気持ちが自分の中に芽生えていることは、はっきりとわかっている。
それもまた事実なのであるが。
これまで必死に打ち込んできた剣道ができなくなった。その後に不思議な体験をし、さらにはその不思議なことを主な活動内容とする心霊研究部から勧誘を受けた。
怪奇現象への興味が湧いていた矢先、それは願ってもない申し出である。
それに今回を含めて二度入っただけの部室だが、リュウジにはとても居心地が良い場所になっていた。
都会からの転校生である自分は、未だクラスでは好奇の目でしか見られていない気がしているし、対する自分も気構えが抜け切れていない。
それに対し心霊研究部メンバーたちの方が、気楽に接することができるように思っていた。
街が危険にさらされている中不謹慎であっても、これらの理由がリュウジの入部希望を後押ししていたのだ。
このままの勢いで入部しようかと考えていたリュウジだったが、ひとつ冷静に考える必要があるようである。
「わかった、もう一回じっくり考えてみる」
「それがいい。活動内容が危険になる可能性も高いからな」
紀明に促されて花梨と綾子、そしてリュウジは部室を出た。
特別棟四階の廊下は雨だというのに電気が点けられておらず、薄暗さがこの空間の胡散臭さを倍増させていた。
気の弱い生徒なら絶対に通るのを敬遠するだろう。
「さて、調査開始ですわね」
「なるべく早う兵隊さんたちのこと知らんとな。旦那さんに何かあってからでは遅いどす」
「俺も行くよ。ちょうど帰り道だし、おばさんと知り合いの俺がいれば聞き込みも楽になるだろう」
「よろしゅう頼んます」
オカルト系の部活が張り出した掲示物で壁が埋め尽くされた廊下を、三人は勇んで歩く。
「我はそろそろ神田家へ戻ろう」
ふわふわと浮かびながら後ろをついてきていたマサだったが、ふと足を止めた。
リュウジが振り返ると、マサはいつものように微笑を浮かべている。
「また何かあれば我を呼ぶといい」
「ああ、皆にも俺は元気だと伝えてくれ」
「承知した」
マサはそれまでそこにいたのがウソのようにふっと消えた。まったく幽霊とは便利なもんだとリュウジは再び前を向く。
階段を下るとちゃんと電気が点いていて、文化部員たちは生き生きと活動していた。いい意味でも悪い意味でも、この階段は非日常との境目なのかもしれない。
雨粒が傘を叩き、ぱらぱらと音がする。
曇り空の下に広がる住宅街はリュウジに結界の中を連想させた。雨のため人通りがいつもより少ないからなおさらだ。
「もうすぐ着きますが、今日は霊気を全然感じませんわね」
「ほんまどすな。もうこの場所を離れたんやろか?」
綾子の言葉通りであればよいのだが。亡霊たちについての調査が途切れてしまうのも問題だが、タバコ屋に迫る危険が一時的に去ることになる。
「とりあえず今日はタバコ屋さんへの聞き込みだけに集中しましょう。それだけでも充分何か手がかりが得られるかも知れません」
リュウジと綾子に向けられていた花梨の視線が、ふいに斜め下へと落とされる。
「今日はリュウジさんが着いてきてくれて、その、本当によかったです」
「ほんまやわ。うちらは心霊研究部や言うて人様の家の事情聞くわけにもいかんからなあ」
二人が温かいまなざしを向けてくれる。いつも首なしの亡霊たちと出会うときに感じる異常な寒気をおぼえることも今日はない。
心霊研究部室で亡霊たちに関することを挙げていったときは彼らの得体の知れなさに恐怖したが、今日の調査は穏便に済みそうだ。
リュウジは元気に自分や日野に話しかけるおばさんを思い出した。
タバコ屋までの距離は、すでに五十メートルを切っていた。雨は相変わらず傘を打ち続けており、まだまだ止む気配はない。
春先の雨であるが空気を冷やすことはなく、むしろ梅雨時のように生暖かい気温である。分厚い雲が太陽を隠してはいたが、不思議と不安を覚えることはなかった。
リュウジはそんな空気に、どこか懐かしいものを感じていた。田舎のおばあちゃんの家に遊びに行ったときのにおいのような、ぼんやりとした懐かしさ。
良い気分に浸っていたリュウジだったが、二人の様子がおかしいことに気付いた。花梨も綾子も顔を引きつらせ、深刻になっている。
「おい、どうかしたのか?」
「この香りは……」
「護摩、それにお線香……でしょうか」
そう言われリュウジもようやく空気中を漂う匂いの正体がわかった。この懐かしく、そして優しい香りは紛れもなく仏前で焚かれる線香のものである。
三人は自然と歩みを止めていた。閑散とした住宅街にはただ雨の音だけがあり、砂嵐が映りノイズが流れるテレビのような虚無感を三人に与えてくる。
「……行きましょう」
喉の奥から搾り出すように出された花梨の提案に頷き、再び歩き出す。
今更ながら真実を知ることが怖くなってきた。足取りは重く、逆方向へ逃げ出してしまいたいという衝動に駆られる。しかしリュウジは自分がすでに、後戻りのできない領域にまで踏み出していることをわかっていた。
ようやく着いた店に人の気配はなく、「忌」と書かれた白い紙が貼られたガラス戸から覗く店内の明りは消えている。
店の前で立ち尽くす三人が目にしたのは、少し離れた位置にある公民館だった。
普段なら住宅街に自然と溶け込んでいるはずの地味な建物は飾りつけられ、喪服姿の人々が悲しくも厳かに出入りしている。
「そんな、嘘だろ。なんでなんだよ」
通夜の行われている公民館を見ていると、すすり泣きと読経がここまで聞こえてきそうな気がしてくる。
一足遅かったのだ、何もかもが。亡霊たちの怪しげな行動に気付くことも、タバコ屋が狙われていたと察知することも、すべてが。
降りしきる雨の音は、何もできずに呆けてばかりのリュウジをせせら笑うかのように単調に鳴り続けている。
雨は次第に粒を大きくし、傘を打つ音も次第に激しくなっていく。白い光が天を駆け抜け、遠くで大太鼓を叩いたような遠雷の低音が響いた。
誰もが発言をためらいその場を動くこともできなかったが、リュウジが静かに口を開いた。
「なあ、二人とも。こんな時に悪いんだが、一ついいか」
顔を蒼白にして俯いたままの花梨に、切れ目を悲しそうに見開いてこちらに視線を向けてくる綾子。
「俺、もうこんなのは嫌だ。もしこんなことが続くんだったら、俺の手で止めたい。だから……」
言葉は決まっていた。
「俺を、心霊研究部に入れてくれないか。もう黙って見てる気も、中途半端に齧るつもりもない。俺もお前らみたいにいろいろ知って、この街に起こっていることを完全に突き止めて、繰り返さないようにしたいんだ」
下を向いていた花梨がようやく顔を上げ、彼女の涙がたまった大きな瞳をあらわにする。涙をこらえるように引き結んだ口元が開かれた。
「……わかりましたわ。もし次があるというなら、わたくしたちが一丸となって止めましょう」
「よろしく頼む」
マリンブルーの瞳は潤んだままだったが、花梨の口元は笑うようにほころんでいた。綾子も優しく頷いている。
「さて、三条部長からあなたに渡したいものがあり、それを今わたくしの家で預かっているのですが……この後お時間を頂けないでしょうか」
「ん? おまえん家?」
「花梨ちゃんの家、リュウジはんびっくりしはるやろうなあ」
「そんな豪邸なのか? そういやお前、貴族の家系がどうのこうの言ってたもんな」
「そんなにすごいものではありません。それよりも来ていただけるのですか?」
「ああ、引っ越してからは一人暮らしだし、多少遅くなっても誰も文句言わねーからな」
「手間は取らせませんのでご安心を。それに、新入部員が深夜徘徊で警察に補導されても困りますからね」
「あー、確かに制服じゃまずいか」
三人はもと来た道を引き返していた。
リュウジの住むマンションが学校の南側に位置するのに対し、花梨の家は学校の東側にあるからである。
だいぶ慣れてきた普段の通学路だが、こんな時間帯に学校の方へ向かうことは珍しく、リュウジは新鮮な気分になっていた。
途中で家が西方面にあるという綾子と別れ、リュウジと花梨は東方面へ向かう。
引越してからすぐに学校が始まり、その後霊的事件に巻き込まれてばかりだったリュウジは家と学校の間しか経津丘市を知らない。
東方面には何があるのか楽しみになってきた。
「東方面はそこそこ発展しておりますわよ。東京と比べられても困りますけどね」
住宅が密集し道幅も狭い南地区を抜けてしばらく歩くと、花梨の言う通り大きな国道が。そしてその道沿いにたくさんの量販店が見えてきた。
スーパーやコンビニはもちろん、全国チェーンのファミレスや回転寿司。本やゲームの中古店に服飾店と、なかなか華やかな様子を見せている。
「へえ、前にクラスの連中がバイトがどうとか言ってたけど、こっちにならバイトのできそうな店がたくさんあるな」
「あら、アルバイトを始めようとしていらしたの?」
「最初は剣道部に入ろうと思ってたけど、廃部になりそうでさ。やることがなくなったから、何をしようかいろいろ考えてた」
「たしかに、去年の秋頃からまったく活動をしておりませんわね」
「ま、今は心霊研究部があるけどな」
「うふふ、先輩として容赦しませんわよ。みっちり指導して差し上げます」
花梨が、まるで紀明でも見るように意地の悪い視線を向けてくる。
紀明のような扱いを受けるのはごめんだが、花梨自身にもけっこうからかい甲斐があったりするので、来るなら来いとリュウジも不敵に笑った。
リアクションの大きい花梨にちょっかいを出すのはなかなか面白いし、いざという時はクロワッサンと言ってやればよいのだ。
国道沿いの歩道は傘を差して二人並べばもう塞がってしまうほど狭かった。
しかし他に通行人も見当たらず、リュウジと花梨はのんびりと世間話をしながら歩いていた。
時折後ろからやってくる歩行者を、どちらか(主にリュウジ)が道を開けて通せばいい程度だ。
やがて二人は国道を逸れ、狭い道へと入っていく。こちらでは個人経営の美容室や喫茶店などがちらほらと見受けられた。
南地区に比べると全体的にオシャレで、こざっぱりとした印象を受ける。
「さて、着きましたわよ」
「……すげえ」
案内されたのは一般家屋を四つほど組み合わせたような大きさをした洋館だった。
木造の外壁には白いペンキが塗られ、二階には広めにとられたベランダがある。
ドアの金属部品に金メッキが施されていたり窓枠に小さな装飾があったりと、シンプルながら上質な古さと高級感が演出されており、そこに成金臭い無駄な派手さはない。
「わたくしの金剛院家がこの街に赴任した、明治の後期に建てられたものです。床が軋む場所があったりもしますが、わたくしは気にいっておりますわ」
「明治時代か。どうりでレトロな造りをしているわけだ」
西洋的な建物であるというのに、屋根だけが瓦葺なのも当時を彷彿させる要素である。
「さ、雨の中歩いてきたのです。どうぞあがってくださいな」
板チョコのような洋館の扉を押すと、目の前にはオレンジ色の光が広がった。
蛍光灯の白い光に慣れたリュウジには珍しい。
同じ電気の明りではあるようだが、館の雰囲気を壊さないようにあえてランプのような色のものを使っているのだろう。
年季の入った木の床はニスが塗られ、ベージュの壁紙にランプ風の照明。
古いカフェかホテルのような歴史を感じさせる光景は光の色の効果もあり、リュウジはまるでセピアカラーの写真の中にでも入ったように思えた。
「おや?」
戸口から続く廊下に人影が見える。黄色い花柄の着物の少女と、黒いスーツを着た銀髪の壮年男性だ。
二人は顔を見合わせ頷きあうと、少女はこちらへ、男性は奥へとそれぞれ向かった。
「お帰りなさい花梨お嬢様。それにようこそいらっしゃいましたお客様。確か、以前に亜空結界の中で倒れていらっしゃった方ですね」
おかっぱ頭をおじぎさせて挨拶をしてきた彼女。前に鬼と一緒に花梨が召喚した子だ。たしか名前は……。
「神室姫、応接室に二人分のお茶をお願い」
「かしこまりました。緑茶は玉露から紅茶はアールグレイ、珈琲はキリマンジャロまで、なんでもご用意いたします。なんなりとご注文を」
そうだ、カムロヒメだとリュウジは思い出す。
真っ直ぐにこちらを見上げてくる神室姫に、とりあえずリュウジは注文をすることにした。
「そうだな。苦いのは嫌いだし、麦茶とかあるか?」
お茶受けにクロワッサンなんてどうだろうとうっかり口が滑りそうになるのをリュウジは堪えた。
もっとも、神室姫が冗談の通じそうな相手ならばいつかこのネタにも笑ってくれそうなのだが。
「むー……それは夏限定メニューなのです。いじわる」
ぶうっと頬を膨らませる神室姫に、花梨が苦笑する。
「かわりに温かいココアでも用意して差し上げなさい。さ、応接間へ案内いたしますわ」
優雅に身を翻してリュウジを先導する花梨。もう少し身長があればハリウッド映画にでも出演できそうなほど決まっていた。
いそいそと厨房へ向かう神室姫を見送りながら花梨に続くリュウジ。
本格的に欧米スタイルをとっているようで、玄関先で靴は脱がない。木の床が靴を受けてコトコトと乾いた音をたてる。
「さあ、こちらです」
真鍮のドアノブを捻ると、赤いクッションのソファーと立派なテーブルが印象的な応接室の景色が目に飛び込んできた。
「おかけになってお待ちを。わたくしは部長から頼まれたものを取って参りますわ」
花梨と入れ替わるように、トレイに飲み物を乗せた神室姫が入室してくる。
「お、お待たせいたしました」
「いや、普通に早いじゃんか。すげえぞお前」
「ホントですか!」
丸い顔を林檎のように赤くして喜ぶ神室姫。かちゃりと音をたてて、ココアの入ったカップがソファーに座ったリュウジの前に置かれる。
「もしかして、何分以内に用意できなかったらお仕置きとかそんなペナルティがあるとか」
「うふふ、ここはそんなブラック企業ではございませんよ。紅茶の方は花梨お嬢様がお帰りになる時間帯にはいつも用意しておりますし。それにわたくしはなんというか、金剛院家の皆様の指示を受ければそればっかりになってしまうもので」
リュウジの向かい側にミルクティーのセットを用意しながら話す神室姫に、リュウジは疑問を覚えた。
「なんかロボットみたいじゃねえか。ってかお前、こないだ鬼と一緒に召喚されてただろ。お前ってもしかして……」
「ええ、人ではありませんよ。命を吹き込まれた紙切れです」
質問をためらっていたリュウジに、神室姫は平然と笑顔で答えを示す。そこに嘘や我慢の気配はなく、心から幸せそうに言っているようだった。
「たしかに昔は、完全な召使いとして、心のない作業員として扱われてきましたし、わたくし自身にも感情なんてありませんでした。
けれどこの館が建てられた頃でしょうか、花梨お嬢様のお爺様とお婆様にあたるお方がたいそうわたくしをかわいがってくださいまして、わたくしもまた心というものを少しずつ理解していったのです」
「最初は本当にロボットみたいだったのか」
心を込めて使い続けたモノには魂が宿るというが、紙人形が心を持つこともあるのかとリュウジは納得した。
「当時は人間同士でも召使いと華族という身分差があるなかで、式神のわたくしを大事にしてくれましたから。なおさら金剛院の家が好きになりました。
花梨お嬢様に至っては、まだまだ未完成なわたくしの心をよく気にしていただき、なんとしがない紙切れのわたくしを映し神にしてくれたのです。そこに心酔します、うっとりしちゃいます」
うれしそうに話し続ける神室姫の姿は微笑ましく、本物の人間であるかのようだ。
中国の仙人や日本の陰陽師が使役したという絶対服従の使い魔『式神』であるようにはとても見えない。
神室姫の話から察するに、金剛院の一族は何百年も前から彼女を女中として雇っているようだ。
リュウジは花梨の家がただものではないことを今更ながらに実感した。
そもそも普通の華族(貴族)の家系であるならば、明治時代にこんな地方に飛ばされることはなく東京の中心で議員をしていたはずであるし、左遷されたとしたらこのような立派な館を与えられるはずもない。
今でいう県知事のような職についていたのか、それともやはりオカルト的な何かが関係しているのだろうか。
リュウジが思わず首を傾げそうになったところに神室姫が口を開いた。
「花梨お嬢様のこと、よろしく頼みますね」
その満面の笑みを写真で見たならば、誰しもが一点の翳りもなく思えるであろう。
しかしリュウジには、何か言いようのない憂いが一点、その顔に混じっているように思えた。
ドアの金具がわずかに軋む音がして、花梨が応接室に戻ってくる。
スカートを優雅に翻してリュウジの向かい席にふわりと腰掛けた。
「遅くなりましたわね」
「もうお嬢様。お茶が冷めてしまいますよ」
「うふふ、ご苦労ですわ神室姫。少し込み入った話になりそうですので、席を外していただけるかしら」
「あら、込み入った話ですと! あらあらぁお嬢様いけませんよぉ。殿方を呼び出したかと思えば。ぁんいきなり……」
紀明を見るときの綾子のような薄笑いを浮べ、妙に色っぽい口調になった神室姫に、一瞬で花梨は両目をつり上げ頬を紅潮させた。
頭のクロワッサンが炎を上げんばかりの熱気が巻き起こり、乾燥した熱風がリュウジの顔面に吹き付けた――ような気がする。
「こ、これは極めて真面目な、真剣極まりない話ですわ! いいからさっさと部屋を出なさい」
「かしこまりました。わたくしはこれよりディナーの仕上げに参ります」
おかっぱ頭をぺこりと一礼させ、もう一度いたずらっぽく笑って神室姫が退出する。
リュウジの向かい側に座った花梨はカップにミルクと砂糖をトッピングしてスプーンでかき混ぜる。
一口啜ると落ち着いたようで、花梨は頬に赤みを残しながらも冷静な顔つきに戻って、ソファーの後ろに置いていたものを取り出した。
「先ほどは失礼を……まずはこちらです」
それはリュウジには見慣れた竹刀袋だった。黒い皮製のタイプで、釣竿や野球のバットを入れるケースとよく似ている。
大きめの袋状のものと比べると収容本数は二本だけと劣るが、肩から提げるためのストラップもついているため持ち運びには優れた品である。
中には一振り竹刀が納められているようだが妙に薄い。
それにケース自体が若干短いようにも見える。花梨は留め金を外すと中のものをゆっくりと取り出した。
「どうです? あなたが扱いやすいように高校生用の竹刀とほぼ同じ寸法に拵えたのですよ。重いので少し短いですが」
「嘘おっ!」
竹刀袋から取り出されたのはなんと、本物の日本刀だった。
竹刀のケースに入れてもおかしくないようにか反りはなく鍔もついていないのだが、柄に鮫皮が巻かれ漆の塗られた鞘に納まったそれはどうみても刀である。
「いつまでも目を丸くしているのではありませんことよ。肝心なのは刃部なのですから」
そう言って花梨は刀の柄に手をかけた。
「ま、待て! 危ないぞそんなもん」
「ではあなたが抜いてください。これからはあなたが扱うものなのですから」
初めて目にする真剣をうろたえながら受け取るリュウジ。
ずっしりとした鋼の感覚が手にのしかかる。おそるおそる刀を抜くと鏡のような輝きが目に飛び込んできた。
「すげえ」
刃渡りは七十センチほどはあろう。反りのない直刀であるためか江戸時代以降の打刀に比べればわずかに長い。
真っ直ぐな日本刀といえば杖などを鞘とした仕込み杖刀が有名だが、この刀は真っ直ぐであることを除けば普通で、特別細く作られているわけではない。
むしろ鍔がなく、長めに拵えられた忍者刀といった具合か。
「刀身には魔を祓う呪文が彫られています。これで切り付けられれば、あの亡霊たちもただでは済まないでしょう」
「おいおい、俺が持ち歩くって言われてもな、これって銃刀法違反じゃね?」
「大丈夫です、使用するのは亜空結界の内部だけなのですから。普段は経津丘高校の剣道部員として涼しい顔をしていればよいのです」
「なるほど。竹刀っぽく拵えたのは扱いだけでなく、カムフラージュのためってのもあるのか」
居合刀を収容するための反りのあるケースなども存在するが、高校で居合道というのはあまり一般的ではない。
少なくとも経津丘高校には居合道部なんてないわけだし、竹刀のように見える方が人の目にはつかないだろう。
「それから、次はこれです」
今度のものはすでにリュウジも見慣れていた。あの音楽プレーヤー型の召喚機器とイヤホンである。
「古来からの呪術と最先端の科学の結晶と言えましょう」
「映し神か、不思議な存在だよな。そういえばお前、俺がマサを呼んだときにノリトがどうのとか言ってたがありゃ何なんだ?」
「いくつか疑問がおありのようですわね。それでは順を追ってこの機器と映し神について説明していきましょうか」
花梨はそう言うと紅茶を一口飲み、召喚機器を手にした。
以前見せたように右のイヤホンを右耳に、左のイヤホンを口元にあてている。
「マサさんもおっしゃっていたように、映し神は人間の思念を通って召喚者のもとに現れます。この機械は人間の内面である精神世界と現世をつなぐ役割を果たすのです。そのために、耳にあてた右のイヤホンが脳波をキャッチします。そして召喚者が相手の映し神をきちんと理解し、その姿を鮮明に思い浮かべる。こうして思念の道が形成されるのです」
思念の道。その言葉から、リュウジは気絶した時にマサと共に見た謎の廊下を思い出した。
得た知識とこれまでの記憶が複雑に絡む人間の思念を、映し神となるまでに絆を深めた神霊たちは真っ直ぐに進むことができる。
召喚時に映し神を想うように、映し神たちもまた召喚者を理解しているからこそ成しえるのであろう。
「そして、精神世界と物質世界の扉を開く鍵。それこそが、神に奉げる言葉である祝詞です。左のイヤホンにそれを吹き込むことによって、はじめてこの境を越えられるのです。これは妖怪や幽霊を召喚するときとて同じ。人間が映し神を呼ぶときの約束の言葉なのです。事前にこういった取り決めもなしに召喚をした。あなたとマサさんは、よほど深い絆で繋がっているのでしょうね」
「たしかに、ちっちゃい頃からあいつに剣を教わってきたからな。それにあいつも家族の一員で、なんというか、師匠と兄ちゃんを兼ねてる感じかな」
なるほどと頷きながら花梨はイヤホンを外し、召喚機器をリュウジに手渡す。
「なかなかわかりやすい説明だったぜ、センパイ。マサを呼んだあの時もやぶれかぶれで、頭では何も理解していなかったからな」
「うふふ、心霊研究部員として覚えておかなければならないことはまだまだたくさんございますわよ」
同級生ながら先輩という響きを気に入ったのだろう。花梨は満足げにコロコロと笑った。
呪文の彫られた刀に召喚機器。
タバコ屋での悲劇を繰り返さないためにも、街を騒がせる亡霊たちの謎を解明し、彼らを止めなければならない。
リュウジは激しい戦いの予感を覚え、受け取った召喚機器を強く握り締めた。
「なあ、嫌だったら答えなくてもいいんだがな、お前――いやお前ん家って一体何者なんだ? 何百年も生きる紙人形が働いていたり、召喚機器があったり。いろいろと疑問なんだが」
質問を受けた花梨は押し黙り、応接室が静寂に包まれる。
年代ものの柱時計が刻む乾いた音が時間の経過を告げていた。
ごくりと唾を飲み込む音さえも相手に聞こえてしまいそうな中、花梨が口を開く。
「……金剛院家は、代々続く神祇官の家系。明治の頃からこの経津丘を守護するよう命じられた一族なのです」
「神祇官って、もしかして神祇省の」
「ええ。古来より都に住んでいた貴族の系譜は、帝のもつ天津神の血を多かれ少なかれ受け継いだ存在。ゆえに歴史にその名を一切残さず、その強い霊力を駆使して神祇官として祭事を担当する一族が多く存在するのです」
源氏物語などにもそのようなシーンがあるが、昔の天皇は跡継ぎを絶やさないように数多くの妻を娶ったという。
藤原氏や源氏、平氏のように天皇家と強い交わりを持ったり、枝分かれしたりした貴族や武士の家系は枚挙に暇がない。
金剛院の家系にも皇族の流れがあり、一族の者はそのためか強い霊力を持っているようである。
「明治維新の頃より、政府は迷信的な分野を民の目にさらすことなくすべて裏で片付けるという姿勢をとり続けました。神祇省の組織が固まった頃、金剛院家がこの地の守護として派遣されたのです」
「ってことは明治時代にはすでに日本全国に神祇官が駐在していて、それぞれの持ち場を霊的に護っていたってことか?」
「ええ……」
説明し終えると花梨は突然うつむき口を閉じてしまった。
斜め下に落とされた視線は特別何かをとらえているようではなく、マリンブルーの瞳が虚ろにくすむ。
「それなのに……わたくしは救うことができなかった」
「おい」
「あの場所が狙われていると知りながら、わたくしは――何が神祇官でしょう。何が霊的な守護でしょう!」
こぼれ落ちそうなくらいに大きな両目から、じわりと滲み出た涙。
「金剛院家が――わたくしが憎くなったでしょう。偉そうなことばかり言っておきながら、結局は役立たずの飾り物なのですから」
「待てよ。そりゃ俺だって今回のことは悔しい。けどよ」
葬儀の様子を目の当たりにし、助けようとしていた人を助けられなかったことを知ったときから心に重くのしかかっていたもの。
「心霊研究部に入りたいって俺が最初に言ったとき。正直、ただの高校生の心霊研究部なんかにはそんなことできるはずがない、また半端に関わって犠牲者が出るのを繰り返すだけなんじゃないかって少し不安だった」
それがわずかに軽くなったのだ。
「でもお前が神祇官の家系だって知ったときに、ちょっと安心できたんだよ。ちゃんとした専門家が俺たちの仲間にいるってことがわかったし、お前がそんなになるまで真剣にこの街のこと考えてるってことも知ってる」
呆気にとられたのか、見開かれた双眸は力なくこちらに向けられて、小さな唇がわずかに開いていた。
「あなた……」
「それにお前言ってたろう。『もし次があるというなら、わたくしたちが一丸となって止めましょう』って。高坂も紀明もいるし、俺も微力ながら手を貸すしよ」
青ざめていた花梨の顔に、仄かに熱が戻ってくる。
「俺もそうだし、きっと他のみんなもお前のことを結構あてにしてると思うぜ。だから元気だせ」
「ええ。……その、ありがとうございます」
再び俯いた彼女の顔は赤らんでいて、生気が戻ったように思える。
レトロチックなオレンジ色の明りは、花梨と始めて出会ったあの夕焼け空の下の柔らかな光をリュウジの記憶から引き出していた。
花梨の頬は緩められ、細くなったマリンブルーの瞳に映る悲しみは完全に隠されていた。