第二章
燦々と照りつける春の太陽が、朝の冷たい空気を少しずつ暖めていく。
奇妙な体験をした通学路は平和な様子で、自分と同じ学生服を羽織った生徒たちや、ネクタイを締めた出勤途中の会社員たちが、それぞれの学校や勤め先へと歩いている。
挨拶を交わしたり世間話をしたりする彼らの様子を見ていると、昨日味わった結界内の静けさが嘘のようだ。
とはいえ結界の境として目印にしていたあのポストが視界に入ると、どうしても幽鬼たちの放つ寒気や空虚な白い空を思い出してしまう。
当分の間、登下校時のトラウマスポットになりそうだ。
「やあ、神田君」
背後からかかった声。振り返るとそこには、昨日剣道場で出会った、あの小柄な男子生徒の姿があった。
彼はリュウジのところへ駆け寄ると、隣りを歩き始める。
「おう、おはよう。登校時間に関しちゃ意外とマジメなんだな」
「まあね。遅刻したら学校入りづらいし、何よりサボるなら道場に行けばいい」
「すっかり依存しちまってるんだな」
さわやかな微笑を浮かべながらも際どい発言をする男子生徒に、リュウジは呆れがっくりと肩を落とした。
こいつがサボっていたことが生徒指導部あたりにばれて、それをきっかけに道場の使用禁止を食らうことだってありそうなのに。
「心配しなくても、授業に出られそうな日はちゃんと教室に行ってるよ」
男子生徒は妙に余裕そうだ。こいつなら生徒指導の先生たちにいくら叱られたって蛙の面に水だろう。
こういうやつばかりが集まったせいで、あの名門剣道部は廃れてしまったんだろうか。
リュウジが彼のサボりを指摘したとき、「ここは『そういう所』なんだよ」と言っていたくらいだし。
「そういえば昨日は剣道部のことばっかりで、僕自身の紹介がまだだったね。僕は日野速男。これからよろしく頼むよ」
リュウジの白けた目つきに気付いているのかいないのか。日野は人懐っこい笑顔を浮べて名乗った。
その表情と好意的な内容のせいか、さっきまでの悪い印象が少し和らいだ気がする。
「ああ、よろしく」
とりあえずその一言を、無難に返しておいた。
うららかな春の陽気の中を、通行人たちがせわしなく流されていく。
それは冬の寒空の下であろうと夏の逃げ水の上であろうと変わらない光景だ。
時間に縛られて行動しなければならない人間という生き物の常である。
それでも、このおだやかな気候にはつい足を止めてしまいたくなる何かがある。
「あら、ハヤオくんじゃないの」
「おはよう、おばさん」
四十歳くらいの女性に不意に呼び止められた。日野の知り合いのようで、彼は親しげにあいさつを返す。
日野に微笑みかけた後にリュウジとも目があってしまい、リュウジもあわてて会釈をした。
「神田君、学校始まるまでまだ時間もあるし、ジュースでも飲んでいかないかい」
「ジュース?」
昨日腹を空かせながら歩いたときには、このあたりにはコンビニも自動販売機も見当たらなかったというのに。
日野の鞄に飲み物が入っている様子もない。
ニコニコしたままの日野とおばさんの視線を追ってみると、おばさんの出てきた家の奥に色とりどりのお菓子やおもちゃが並んでいるのが見えた。
正面の扉がガラスになっているところを見ると商店なのだろう。
思わず物珍しそうな顔をしていたリュウジの様子に気付いたおばさんが声を掛けてくる。
「あれ、お兄ちゃんもしかして都会から来たのかい?」
「なんでわかったんすか」
「こういうタバコ屋、今じゃ田舎の商店街くらいにしかないだろうからねえ」
言われてみれば、リュウジは今までにこういった店に立ち寄ったことがなかった。
お菓子やジュースといえばもっぱらコンビニかショッピングモールで買っていたし、そもそもこういった店は近所になかったからである。
「うちの店はお菓子を買うちっちゃい子たちと、タバコを買う近所のお年寄りのお客さんが中心でね。高校生のお兄ちゃんが寄ってくれるなんて珍しいよ。あ、ハヤオくんはいつもありがとうね」
たばこと書かれた小さな看板とガラスの出入り口から覗く商品だけがここを商店たらしめており、コンビニのような外装を探していた昨日のリュウジにはパッと見ただの家に見えていたのだろう。
狭い店内にお菓子やおもちゃを思いっきり詰め込んだように展示した店内が、自分の中の遊び心のようなものをくすぐってくるように思えた。
「神田君、このお店が気に入ったみたいだね。あ、おばちゃん。瓶入りのオレンジジュース二本ちょうだい」
いつのまにか顔がにやけていたらしい。日野に肩をポンと叩かれて、冷たい瓶を手渡される。
「瓶で飲むとうまいんだよ」
グルメ番組に出てくる食通のように、粋を語りながら瓶を傾ける日野。その姿にはもう憎たらしさは感じなかった。
そうだ。春の陽気に似ているんだ、こいつは。
時間を忘れて思わず足を止めたくなる、甘ったるい暖かさ。
「悪くないな、こういうのも」
たまになら、授業をまるまるサボるのにもつきあってやろうかな。
リュウジは日の光をいっぱいに浴びながら、タバコ屋の前でこのゆったりとした時間を楽しんだ。
その日の放課後、クラスメイトたちへの挨拶を済ませてリュウジは教室を後にした。
もう少しこの街のことを聞いたり都会の学校について語ってもよかったのだが。
集団を相手に自分について話したり、矢継ぎ早に質問されたりすることがやや苦であった。
「転校生ってのも楽じゃないな」
さらには転校の理由である剣道部がまともな状態ではないのだ。
そんな自分を尻目に部活へ、バイトへ、それまで話していたクラスメイトたちが自分の打ち込める時間へ一人、また一人と向かっていく姿が羨ましく、そして自分が取り残されているようで不安になったのだ。
「打ち込めるもの……か」
気晴らしも兼ねてバイト募集の張り紙を探しに外へ出てみようか。
それとも、道場で日野のやつと一緒にくつろぐことにでもしようか。
廊下を歩く生徒たちは目的地がすでに決まっているようで、玄関や部活の活動場所へと勢いのある人の川ができている。
リュウジは廊下を流されるように歩いた。
人ごみというのはいつも身動きがとりにくいもので、速く進むことも立ち止まることもままならない。
それぞれの歩調もまた微妙に違うため、何を基準に進むかは個人に委ねられる。
その様子は個人と社会のあり方にも似ている。そう考えると、すこし窮屈になった。
出る杭は打たれるが、凡庸すぎてもつまらない。加減を数ミリでも間違えると、とたんに生きにくくなる世界。
そう考えると、クラスでの会話を早めに切り上げたのは失敗だったかなとリュウジは嘆息した。自分にとってはちょうどいい頃合いだったようにも思えるが。
廊下を流れる人の川は、速すぎず遅すぎず。律儀にも同じスピードを保ちながら進んでいた。
「ちょっと失礼しますわ、ごめんなさいね」
その流れを背に受けて加速しながら、人ごみをかきわけてリュウジへと迫ってくる少女がひとり。
「はあ、やっと追いつきましたわ」
荒く息をしながらも手を腰に当てて胸を張る花梨の姿は堂々としていた。
秩序的な流れを潜り抜けることによって、存在感が溢れ出している。はたから見ればかっこいいのかも知れないが押しのけられた人々には迷惑なわけで。
槍のように鋭い視線が背後からいくつも飛んでくる。本来は花梨に向けられているであろう非難の目という弾丸を、真横にいるリュウジもバッチリ被弾していた。
「せっかくこのわたくしが教室まで迎えに行って差し上げたというのに。あなたときたら既に教室を出ていましたとは」
「迎えにきた?」
そしてそんな視線は完全にスルーしてしまう花梨。しかたないのでリュウジも彼女の言葉を追うことにした。
「ええ、こんな大サービス一生に一度あるかないかの出来事と思いなさい」
「俺に、何か用事でもあるのか?」
リュウジにはその理由が特に浮かんではこなかった。自分の知っていることはすべて教えたし、昨日のことは誰にも話したりはしていない。
そもそも、結界に閉じ込められて幽霊に襲われそうになったところを同級生の金剛院花梨と高坂綾子に助けてもらったなんてトンデモ話、仮にしたとしても誰も信じたりはしないだろう。
逆に中途半端な興味を持たれて質問攻めにされたり、からかわれたりするのも面倒だ。
「この騒がしい廊下で立ち話というのもなんです。あなたを案内したい場所があるのでそこへ向かいましょう」
とりあえず、彼女の真意(あるいは綾子も合わせた彼女らの真意)が何かというのはしばしおあずけのようだ。
西洋の血脈を隠しきれない瞳と顔立ちを持つ彼女だが、背丈は160センチ手前程度だ。
こちらを見上げてくるマリンブルーの視線は相変わらず真っ直ぐで、彼女の生真面目さが表れている。
「わかった。どうせ暇だし、案内を頼む」
リュウジはこの時、極めて軽い気持ちで同意をした。
実際退屈していたし、霊や魔術への興味が芽生えていた今、花梨についていけば何かおもしろいことを体験できそうだと考えていたからである。
廊下を流れる人の川は玄関という分岐点に突き当たり、帰宅する者や外で活動を行う者たちが一斉に外へ出て行った。
窮屈だった周囲に少し余裕が生まれる。
「とりあえず、特別教室や文化部の部室が集まる特別棟へ参りましょう」
リュウジと花梨はそのまま廊下を真っ直ぐに進んで、隣の棟へと移った。
調理実習の後なのだろうか。調理室からは香ばしい香りが漏れている。
他にも内履きを脱ぐための玄関が設けられた和室(主に茶道部や書道部が使うらしい)があったりと、なかなか目を引く場所になっていた。
「これから案内する場所は、ここの四階ですわ」
そう導かれて階段を登っていく。
二階は生物室や実験室といった理系の実習室が、三階は音楽室や映像鑑賞室、美術室といった芸術関係の部屋があった。
二階でも三階でも文化部員らしい生徒を多く見かけたが、彼らは運動部員に負けず劣らず楽しそうで、充実した時間を過ごしているようだった。
「やっぱ、熱中できる部活があるのっていいよな」
楽器や画材を抱えて廊下を歩く彼らの足取りは軽い。階段を登りながらちょっと見るだけでも、それは明らかだった。
四階ではどのような活動が行われているのだろうか。時間をおいた分、期待も高まってくる。
三階から聞こえる吹奏楽部の力強いトランペットの音色をバックに踏み出し、階段も踊り場にさしかかった。
「最新刊の写真の件。自宅コンピュータにてスキャン。画質を向上……」
「で、どうだ? 見えたのかよ宇宙人」
二人の男子生徒が横を通り過ぎていく。すれ違いざまに聞こえた会話の内容は、リュウジにはよくわからないものだった。
それにぶつぶつと低く囁くようにしゃべる男と、妙なテンションで騒ぐ奴の二人組だ。
醸しだす雰囲気も重苦しく、あまり関わり合いになりたくない。
窓からの日差しや湿気が変わったわけでもないというのに、暗くじめじめしているように感じる。
たどり着いた四階はこれまでとは全く違う場所だった。
「あ、怪しい……」
これまでに見かけた生徒たちに比べて、廊下を歩く部員たちの顔からは生気を感じられず、どうも根暗な印象を受ける人物が多かった。
それぞれの部屋の前には『創造的宇宙研究会』や、『ビシャモン聖典解明同好会』、『フリーメーソンと闇の世界史研究部』などと聞き慣れない部名ばかりが並んでいる。
「どうして世の中、でかい期待を抱いた時に限って外れるんだろうな」
思わず立ち止まり、がっくりと下を向いてしまう。
「おや? 長い階段に疲れてしまったのですか」
「いや、運命の不条理さというか、世の中の残酷さというか、そういうものに疲れた」
ロール髪をバネのように揺らして花梨がこちらを振り返ってくるも、すぐにまた先に行ってしまう。
揺れるクロワッサンを目印に慌てて追うリュウジ。
『非情な運命に立ち向かえ! 死なんと戦へば生き、生きんと戦へば必ず死すものなり! 毘沙門天は見ていて下さる』という謎の張り紙が、とにかく皮肉である。
そんな胡散臭い廊下の一番奥に、花梨が案内しようとしていた部屋『心霊研究部』はあった。
部活の名前を見て「さっきのやつらよりマシだな」と思ってしまうのは、リュウジにダメな免疫がついてしまったせいなのであろうか。
「連れてきましたわよ」
「おかえりやす」
綾子がお茶を用意しながらそこにいた。
部室内は案外こざっぱりとしていて、デスクやパソコンなど一般的な事務所にあるようなものしかない。
あやしげな魔方陣だの祭壇だの、人型に切り取られた紙人形だのが置かれているのをリュウジは想像していたが、そんなことはないようだ。
部屋の中心では机を四つ組み合わせて会議ができるようにセッティングされている。
奥の席には綾子と、もう一人男子生徒が座っていた。
「ほう、彼がそうか」
フレームがなく薄いレンズの眼鏡をクイッと上げながら、男子生徒が興味深そうにリュウジをうかがう。
いかにもインテリといった風体の彼には、このようなオカルト関係の部活にいるよりも科学関係の部活でビーカーやフラスコと戯れている方が性に合いそうだ。
「ええ、二年一組の神田リュウジさんですわ」
「神田神宮の跡取り。剣道二段。テストの成績は平凡。といったところかな」
「な、何なんだよいきなり」
男子生徒は口元をわずかにつり上げてはいるものの、その瞳には一切の感情を出していない。
初対面ながら実家のことや成績のことまで知られていることにリュウジは薄ら寒い気配を覚えた。
「単に事実を述べたまでだ。これといった感想は持ち合わせていないから安心したまえ」
ガラス玉のように無機質な目を見る限り、本当にリュウジを見下しても尊敬してもいないようだ。
そもそもどうしてリュウジについて知っているのかという疑問は残るが、わざわざ教えてくれそうな雰囲気はない。あとで花梨か綾子にでも聞くとしよう。
「世間話に呼んだんじゃないみたいだな」
リュウジのプロフィールを言ったこと自体に意味はないようである。本題にはこれから突入するのだろうか。
立ったままガラスのまなざしを受け続けるリュウジを、綾子がまあまあと席にすすめる。
花梨はすでに着席しているようで、湯のみを傾けてすっかりくつろいでいた。
来客と男子生徒がこういったやりとりをするのは日常茶飯事なのだろうか。あまり客が来るとは思えない部活だが。
「ようこそ心霊研究部へ。わたしが部長の三条紀明だ」
「ま、お茶どうぞ」
両手を広げ、カリスマ全開で紀明が言うも、いつの間にかリュウジの側に立っていた綾子がお茶を差し出すことによって空気が和んでしまった。
紀明がちょっと残念そうな目で綾子の方に視線を移す。
どうやら今までの不敵な態度は演出だったようだ。こいつ、案外普通な奴なんじゃないかとリュウジは安心した。
花梨が普通にくつろいでいたのも、紀明がそんなに危険な人物ではないとわかっていたからなんだろう。
後で頭をグリグリして情報源を聞きだしてやろうか。少なくとも腕っ節では勝っていそうなわけだし。
「え、えへん。その、今回キミにこうして来てもらったのはだね」
慌てて威厳を立て直そうとする紀明を、花梨と綾子が意地の悪そうな微笑を浮かべて見守っている。
「亜空結界に入れるほどの霊力と、二段の実力を有する剣道の腕前を見込み、この心霊研究部に入部して欲しいのぢ――」
「オホホ、やっぱり噛みましたわね」
「んもう。小難しい言葉なんて使うて格好つけるからこうなるんどすえ」
それまで得意げな顔で話していた紀明の頬が見る見るうちに紅潮していく。
その様子を確認した女性陣はさらにボリュームを上げて笑った。
「わ、笑うな。この程度のミスは誰にでもある」
「これでは部長なんて到底務まりそうにありませんわね。リュウジさんに任せた方がよっぽどよろしいのでは?」
「何を言うか!」
もしかしてこの部活は心霊研究部なんかじゃなくて、『ノリアキいじり部』なのだろうか。
リュウジは慌てふためく紀明の首でも背後から絞めてやろうかと、密かにいたずら心を燃やした。
「ま、まあまあ。部長はんが拗ねる前に話を戻しましょか」
未だに爆笑しながらではあったが、綾子が場を鎮める。
椅子から立ち上がろうとしていたリュウジとさらに意地悪を言おうとしていた花梨は少し残念そうに聞く姿勢に戻る。
「先ほども述べた点より、キミにこの部活に入って欲しいのだ。今日はそのための説明と、活動風景を少し見てもらおうと思い呼んだ次第。金剛院君、説明したまえ」
「かしこまりましたわ、ヘッポコ部長サマ」
ビシリと指図するもこの扱いである。
どや顔を一気に捨てられた犬のような表情に変える紀明。
悲痛にまみれたその視線などどこ吹く風で、花梨は優雅に髪をかき上げて説明を始める。
「当心霊研究部では、表向きにはその名の通りの活動をしておりますわ。市内の心霊スポットを巡ったり、歴史的ないわくがあるかを調査したりして、その結果をまとめた掲示を文化祭にいたしますの」
「うむ、どこにでもあるオカルト研究の同好会だな」
堂々とあいづちを打つ紀明。貫禄を示すタイミングを常にうかがっているようなのだが、もはや苦し紛れにしか映らない。
「ですが最近の活動はもっぱら、異常なまでに現れる戦国時代の兵士たちを調査することです。あなたも、あの首のない足軽兵たちをご覧になったでしょう」
「ああ。確かこの街は昔小さな国があった場所で、大きな国同士の戦いに巻き込まれて滅んだ。そのせいでここにはその時代の幽霊がたくさん出るんだよな」
「よくぞ覚えておりました。この春になってから目撃情報が増え、霊力に乏しい市民の目に彼らの姿が映ることも多くなったようです。さらには、妙な噂まで広がっているのです」
「噂?」
花梨の声のトーンが下がる。
「首のない亡霊を目撃した者は、不幸になるという噂です」
世間を漂う怖い噂に必ずといっていいほどついてくる『不幸』という単語。
具体性をあえて示さないことにより、かえって不気味さを醸しだすのである。
「彼の亡霊たちによる現実的な被害は、今のところ確認されておりません。しかしながら、わたくしども心霊研究部では嫌な予感を隠しきれないのです。何かの、前触れではないのかと」
「うむ。こういった類の話は警察や消防といった表の機関では扱わぬので、不安がる市民も多いのだ。解決までとは言わぬが、とりあえず調べてはみようと今の活動をしている」
紀明をはじめとする部員一同の顔にも、その不安は表れている。
そんな中、リュウジは紀明の言いまわしにどこか引っかかりを覚えた。
「なあ、今『表の機関』って言ったけどよ、こういう心霊現象への対策をする『裏の機関』でも日本にはあるってことか?」
裏に機関がないのなら、『表』なんて言わないはずだ。
リュウジの問いを受けた部員たちは一瞬戸惑ったようにも見えた。
「それは本来なら知ってはならぬことだ。まあしかし、実家が神社ならキミが家督を継ぐとき、あるいは神職の資格を得たときにいずれわかることでもある。今少しくらい話しても問題はあるまい」
「リュウジはん、意外と鋭いんやなぁ。このことは絶対に内緒どすえ」
念を押す綾子。そんなにも『裏』とは危険なのだろうか。
三人の中では一番花梨が迷いを見せているようだったが、やがて意を決したように喋り始める。
「この国には、迷信的分野の問題を一手に引き受ける『神祇省』という機関があります」
「何だそれ? 霊能力者か、霊媒師か何かの集団か?」
「当たらずとも遠からず、といったところでしょうか。この国は長い歴史の中、仏教、密教、風水、陰陽道、宿曜道など、様々な信仰や占術、呪術、哲学を取り入れてきました。通常なら受け入れきれないほどの多くの教えを吸収するに至ったその土台こそ、日本古来より根付く『神道』なのです。『神祇省』は神々と人が協力し、国を守護するために生まれた、神官の組織です」
「ちょっと待て、そもそも神様なんているのかよ」
神社に生まれたリュウジにさえ、にわかには信じられなかった。
住み着いた武士の亡霊マサを除けば、神はおろか、妖怪や幽霊といった神秘的な存在を目にしたことなんてほとんどなかったからだ。
「ええ。ご実家が神社のあなたなら、祀っている神様にお会いしたことがあるかもしれないとは思ったのですが……」
「あるわけねーだろ! ってゆーか、そんなホイホイこの世に顕現しちゃダメだろ神様」
「リュウジはんが宮司になれば、普通に会えます」
神祇省とやらが話題に上がってから、疑問が次々と湧き上がってくる。
裏と呼ばれるだけに非現実的であり、あまりに理解し難かったし認められなかったのだ。
とはいえ、リュウジが疑問に思うことはすべて心霊研究部員たちにとっては常識の範囲内らしい。
このままでは話が先に進まないことは歯がゆくも、リュウジには予想できていた。
「――わかった、百歩譲って神様の存在は認めよう。でもそんなスゲー組織なら、幽霊なんて楽勝なんじゃねえの?」
「それは……」
とたんに綾子と紀明が表情を曇らせる。そして二人は一斉に花梨の方を向いた。
「この街を担当するのは――」
花梨は唇を噛み締めて下を向いていた。小刻みに体が震えている。
「神祇省の役人はこの街にもいますが、あてにはなりません! だからこそ、わたくしたちがどうにかしなければならないのです」
マリンブルーの瞳が涙に濡れ、口元は引き結ばれ、花梨は強いまなざしをこちらに向けてくる。
彼女の姿からは言葉通りの決意とともに、何かとても、悲しいものをリュウジは感じた。
目の前で少女が今にも泣き出しそうになっているも、この話題を出したのは自分。まして自分は、部外者だ。
神祇省がどうとか、『裏』の機関だから隠さなきゃいけなかったとか、そういうことはあまり問題ではなかったのだ。
このあたりの問題は秘密であっても、実家が神社でそこを継ぐ予定のあるリュウジには、遅かれ早かれ知るはずのことだった。
部員たちが顔を渋らせた本当の理由。
それはこの話題が、花梨と深い関係にあったためなのであろう。
もどかしくも、今のリュウジには様子を見ていることしかできなかった。
花梨が気を静めるまでの間、部室内を気まずい静寂が支配する。
綾子に背中をさすられたり頭を撫でられたりして、ようやく花梨は平静をとりもどしたようだ。
「……少し、取り乱しました」
「すまなかった」
「あなたが謝罪をする意味がわかりませんわ。わたくしが一人で取り乱した。ただそれだけのことです」
花梨は表情を殺して視線を斜め下にずらす。
顔の筋肉がこわばっているようにも見えたが、それでも表情を崩す気配はない。
花梨は何事もなかったかのように、説明を続けた。
「神祇省は、神々の言葉である『神託』を受けなければ動くことができないのです。事態が悪化する前に先手を打ちたいところですが、指示が来ないために傍観にまわっています」
「逮捕状がなきゃあ犯人を捕まえられないのと同じってわけだ」
妖怪、幽霊といったものたちを相手にした、神々の戦いの先鋒である神祇省。
そのため人間が勝手に判断を下すことはほとんどできず、「上からの指示待ち」状態になってしまっているようだ。
「神託は言わば予言に近く、神祇省は常に大きな手がかりを掴んだ状態で捜査を始めることができました。そのため日本では大きな霊的事件が表沙汰になることがほとんどなかったのです」
ただの号令ではなく、事件解決の足がかりをつくるきっかけでもある神託。
それが来ないことによって、神祇省もまた日和見をせざるをえなくなっている。
ただでさえ上下関係の厳しい公共機関。神祇省ではそれに加え神という巨大な概念や歴史的なしきたりなどが深く関わっている。
それだけに、なおさら経津丘にある支部は動きにくくなっているのであろう。
「しかたないことなんだよな」
リュウジがその言葉を発した瞬間、花梨の目つきが鋭くなる。つり上げられたマリンブルーの相貌は熱を帯びていた。
だが、先ほどのことを踏まえてのことだろう。花梨はすぐに表情を取り繕い、再び視線を落とした。
リュウジは再び、申し訳のない気持ちになった。花梨はきっと「しかたない」の一言で片付けて欲しくはなかったのであろう。
神祇省が動けないという状況に一番憤慨していたのは彼女だったし、街に侍の亡霊がたくさん出現するようになった事態を一番重くみていたのも彼女だ。
それだけでなく、もっと個人的な何かが関わっている可能性もある。
心霊研究部の一員でもなく、ましてこの街に来たばかりのリュウジ。
一介の高校生には手出しできない内容であるにしろ「しかたない」では終わらない問題だ。
他人事のようにしか聞こえなかったとしてもおかしくはない。そう考えると情けなかった。
えへんと咳払いが聞こえる。
「さて、少し脱線はしたがこの部活に関する説明はこんなところだろう。細かいことは追々説明しようと思う。入部に関して今すぐ返答はできないだろうから、今すぐには聞かない。また時間に都合がつくときにでも足を運んでくれたまえ」
紀明の落ち着いた口調に、リュウジは我にかえる
「あんまりお構いできなくてすんまへんなあ。けど、うちらも人材不足やさかいに前向きな答えを期待してますえ」
綾子が柔らかい笑みを浮かべながら軽く頭を下げる。なめらかな黒髪で顔が隠れてしまうのが惜しいほどに艶やかな笑顔だった。
霊や魔術への興味もあったし、花梨と綾子には恩もある。
何より退屈しのぎになりそうと気軽にくぐった門だったが、これは真剣に考える必要がありそうだ。
花梨は未だリュウジと視線を合わせてくれない。
リュウジは部員たちに簡単な挨拶をして、心霊研究部室を後にした。
『初対面の相手と言い争いをしたかと思えば、謝ったり、感謝の意を示したり――がさつに見えて、意外に器用な生き方をしているようですわね』
花梨と初めて会って言われたこと。そして彼女はそんな自分を羨ましいとも言ってくれた。
それがどうだろう。今日は空気の読めない質問ばかりして花梨を傷つけてしまった。
「ごめんな、俺は器用なんかじゃないんだ」
ものの見事に期待を裏切ってしまった。リュウジは小さくため息をつきながら階段を下りていく。
こつり、こつりと硬い足音だけが空しく響いた。
夕闇が町並みを包み、夜の足音が聞こえ始める頃。
薄暗い住宅街を眺めながら、リュウジは紀明が最初に部の説明だけでなく活動風景も見て欲しいと言っていたことを思い出した。
結局説明と質問だけで終わってしまった心霊研究部の初見学。本当だったら何か活動の様子を見せてもらえたのかも知れない。
場の雰囲気を悪くしてしまった自分は、追い出されてしまったのだろう。
通学路は薄闇を纏うと一層寂しさが強まり、そして寂しさは悲しい記憶ばかりをリュウジの脳から引き出そうとする。
光沢のある赤い巻き髪に、涙に霞んだ青い瞳。
ふくれっ面ばかり見せたかと思えば夕焼けの中笑顔を見せ、部室では爽やかに説明をしてくれた彼女。
いつまで経っても離れることのない面影を、頭を振って引き離そうと試みるもなかなかうまくいかない。
自分の言葉をきっかけに、あいつは泣いてしまったのだから。
春先は昼と夜の気温差が激しく、冷たい風が吹き抜けていく。
家々の窓にはぽつぽつと明りが灯り始め、本格的な夜の訪れを告げようとしていた。
その様子を確認したリュウジは、自分も早く帰ろうと少し早足になった。
ごつごつと左右を固める建物や植木の影。リュウジの前方にある家の玄関の明かりが突然灯される。
「はーい、そんじゃ今日はこの辺でね」
ガラガラと戸の開く音がして、その家から伸びきった金髪を揺らしながら男が出てきた。
ピカピカに磨かれた革靴を履いた足を気だるそうに動かし、リュウジの前にまで出てくる。
蟹股で歩くその様子から、リュウジにはまったく気づいていないようである。リュウジはちょっと曲がり男を避けようとした。
「ありゃ、高校生? あんだよぉ、ガキはさっさと帰んなきゃ」
男は粘着質な視線をこちらに投げてくる。
またまた面倒な奴に会ってしまったものだと、リュウジは言葉を返すことはせずに落ち着いて相手を観察した。
長い金髪にとがった顎、耳には派手な銀のピアス。すらっと伸びた体躯は猫背と蟹股のせいで台無しになっている。
ホストのような風貌ではあるが、シャツの上に羽織っている上着がそれを否定していた。医者か研究員が着るような白衣である。
興味があるのかないのか。チャラそうな男にじろじろと眺めまわされるのは気分がいいものではない。
リュウジはさっさと立ち去ってしまおうかと足をわずかに浮かせる。
「あら、確か朝ハヤオくんと一緒だった神田くんじゃないの」
「あ、おばさん。こんばんは」
ふくよかな声が耳に飛び込んでくる。明かりの点いた玄関の中から微笑みかけてきたのは、タバコ屋のおばさんだった。
声の調子だけならば朝と余り変化はなかったのだが、その笑顔は疲れているのか、翳りが見受けられる。
「ああ、知り合い? まあいいや、俺はこのへんで帰りますよっと。また何かあったら連絡ください」
おばさんに対して適当に呼びかけると、軟派そうな男は白衣のポケットに手を突っ込んで去っていった。このチャラ医者め。
何はともあれ、ウザそうな男が去っていったのはいいことだ。リュウジは心の中でほっと一息つきながらおばさんの方を向いた。
「高校生のお兄ちゃんはこんな遅い時間まで学校にいるのね」
「この時間帯はまだまだ序の口っすよ。俺はただチラッと部活を見学して帰っただけで、本格的にやってる所は今も部活中っす」
「そうなの……」
「ところでおばさん、なんか疲れてるみたいだけど大丈夫っすか? それに、さっきの人はいったい……」
おばさんは少し頬がやつれ、顔色もどこか優れないように見える。
チャラ医者の去っていった方向を見ながら、おばさんは静かに口を開いた。
「うちの人が、昨日の夜に眠ったきり部屋から出てこないのよ。呼んでも返事しないしドアも開かないし。元気だけがとりえみたいな人なのに。さっきの人、志賀先生っていうんだけどね。先生が診察しても、疲労で寝ているだけだって」
「旦那さん、疲れているんですかね?」
「ただ疲れてるだけだといいけど。おかげで気持ちがどうも落ち着かなくてね」
おばさんの調子が悪そうなのは、旦那さんのことが気がかりなためであろう。
一陣の冷えた風がおばさんの髪を揺らし、ビュオオと気味の悪い唸りをあげる。
冷めた空気に覆われた住宅街を、風は重苦しく流れていった。
四月の上旬であれば当たり前の気温のはず。毎晩のようにこのくらいの寒さにはなるものだ。
そうとわかっていながら、リュウジには嫌な予感がしていた。全身を舐めるこの冷気と身震いが、本能に危険なメッセージを伝えてくる。
「昨日の夕飯の時も元気がなくてね、あの人。『噂の首なし幽霊を見ちまった』とか言って怖がっているのよ。まったくあの人らしくない」
その言葉を聞いて、リュウジは顔に出ないよう必死に驚きを隠した。
さっき心霊研究部で聞いた噂の通りの体験を、旦那さんがしてしまったのだ。
おばさんの様子を見るかぎり、おばさん自身は噂についてはまだ知らないようだ。
部屋から出てこられない。これが噂の語る『不幸』の一環なのだろうか。
リュウジは不吉な予感とこの事実がどこかで繋がっているのではないかという気がしてならなかった。
「さて、ちょっと遅れちゃったけど夕飯の支度をしないとね、あの人もお腹を空かせているだろうし。またいつでもお店に来てちょうだいね」
「ありがとうな、おばさん」
家に戻ったおばさんの姿を見届けると、リュウジは冷たい空気を裂いて学校の方向へ一目散に駆け出した。
向かい風が進行を妨げようとするも、懸命に足を動かす。
「あいつらなら、何か知っているかもしれない。何か手を打つことができるかもしれない」
心霊研究部に相談して、このタバコ屋を調べてもらおう。そうリュウジは考えた。
タバコ屋の住所は、昨日首なしの足軽たちに出会った場所のすぐ近く。旦那さんが倒れたことと関係がある可能性は大だ。
志賀とかいうチャラ医者の診断結果は正常。医学という表の常識でならそうなるのだろう。
しかし裏に、霊や呪術に通じた者たちがこのことについて調べたならば、結果は変わるかも知れない。
太陽は西の空にわずかな夕焼けを残すのみで、すでに沈んでいる。トルコ石のように淡かった空の青さに、濃紺がじわりと広がっていく。
急速に下がりつつある気温がリュウジの不安を煽った。
「頼む、間に合ってくれ」
学校に着くまではまだ時間がかかる。
今も部室にみんな居るとよいのだが、すでに活動が終わっている可能性もある。急がなければ。
時計の砂がこぼれるようにゆっくりと、しかし確実に夕闇は静かな田舎町を飲み込んでいく。
走るリュウジの視界の先で、通りに人影がうごめいているのが見えた。
「あれは!」
むき出しの青白い手足に古びた胴鎧、そして首のない十人ほどの集団。
噂の亡霊たちだ。
前回見かけた時と同じく、彼らは隊列を組みながらも力なく歩いていた。
特に目的意識を感じさせるわけでもなく、その歩きかたはむしろ虚無感さえ感じさせる。
おぞましい姿に身震いがするも、リュウジはそのまま走り続けた。
「おいお前ら、タバコ屋の旦那さんに何をした!」
五メートルほど距離を置いて、足軽たちとリュウジは対峙する。
彼らは足を止めるもリュウジの問いの答える様子はなく、ただ黙ってこちらの様子をうかがっていた。
「な、なんとか言えよ!」
リュウジの怒声だけがこだまする。足軽たちは両腕をだらりと下げ、立ち尽くしているだけだ。
顔がない上に一切の動作もないので、何を考えているのかさっぱりわからなかった。
「おい、いい加減に――」
「危険です、下がっていてください!」
狭い路地からいきなり二つの人影が飛び出してきてリュウジをかばうように立った。
赤いロール髪と長い黒髪、そして経津丘高校指定のセーラー服。花梨と綾子だろう。
「まったく。一体何をお考えなのですか」
後ろからなので表情はわからないが、花梨の口調からは苛立ちが感じられる。
「生憎今日は偵察の予定しかしとりませんでした。早いとこ逃げましょ」
「けどよ……」
綾子がいつになく緊張した面持ちでこちらを振り返ってくる。
だがリュウジはその提案をにわかに受け入れる気にはならなかった。心霊研究部のメンバーと首なしの幽霊が一同に会している今こそ、タバコ屋の旦那さんに起こったことの答えを掴むチャンスだと思ったからである。
リュウジと綾子がそんなやりとりをしている中、花梨はポケットから素早くイヤホンを取り出し、右側を耳に付けて左側を自身の口元へ運んだ。
左のイヤホンをマイクのようにして何か吹き込んでいるのだろうか、ぶつぶつと何事かを呟いている。
「お前何してんだよ」
「花梨ちゃん、下手に刺激したら……」
綾子の忠告も間に合わず、花梨は亡霊たちに向かって右の手のひらをかざした。
「おいでなさい。八部背童子、神室姫」
薄闇に光が生まれる。嵐の暗夜に閃く稲光のように闇を裂いて、二つの人影が花梨の眼前に躍り出た。
ひとつは、ひらひらと着物の裾をなびかせるショートヘアの可憐な少女。
そしてもうひとつは、頭に角を生やし、少女の倍近くはあろう背丈を誇る『鬼』だった。
「お、もうひと暴れできるのかお嬢ちゃん」
「あわわわ、ダメですよ花梨お嬢様! また無断でわたしたちを呼んだんですか」
昔話で語られる通りの巨大な金棒を振り回して勇む鬼。その肌は紅潮した人のものとは異なり、絵の具でも塗ったような赤さをしていた。
その一方で、少女は困惑の表情を向けながら花梨へと抗議を始める。
「ああもう。こないだは人助けのためということでどうにかなりましたがね、二度目とあらば旦那様から怒られちゃいますよ」
「今回もちゃんとした人助けですわ」
神室姫と呼ばれていた少女がバタバタと両手を振って懸命に抗議するも、花梨はさらりと聞き流した。
「それに、その様子だと何か手がかりを掴んだ上であの亡霊たちに話しかけたのでしょう。神田リュウジさん」
「ああ、そうだ」
「それならばわたくしが協力いたします」
花梨はちらりとリュウジを振り返る。その口元にわずかな笑みがあったことをリュウジは見逃さなかった。
「さあ八部背童子、神室姫。あの者たちを蹴散らし、そのうち一人を捕らえなさい」
「おうよ!」
「だからダメですってばあぁぁぁ! わたしはお嬢様を止めに来たんです」
びしりと指示をしたというのに神室姫に反抗され、花梨は少し残念そうだ。
だが鬼の八部背童子の方は乗り気のようで、意気揚々と足軽たちに向かって金棒を振り上げながら突進していく。
亡霊たちもまたそれぞれの得物を引き抜いて身構えた。
その様子を見て得意げな顔をする花梨。神室姫は鬼とお嬢様を交互に見ながら慌てふためいている。
「うおらあっ!」
八部背童子の金棒が大地を揺らす。押しつぶされた一人の足軽の姿が、塵のようになって霧散していく。
他の幽霊たちも応戦しようと槍先を向け、刀を構えるも、鬼が蹴るように脚で牽制しているためか、なかなか攻めに転じることができないようである。
意を決して一人の足軽が刀をかざして八部背童子へと向かっていく。
まるで薪割り用の斧でも構えるように、頭の後ろまで剣先を振りかぶって両腕に力を入れていた。
「甘めぇ」
鬼は片足を引いて距離をおくと、その体の回転の勢いを利用して再び金棒を振り下ろした。懸命に立ち向かった足軽が消えていく。
「グハハハハ! そんなお粗末な剣法で俺様は倒せんぞ」
「ああもう、旦那様に雷落とされても知らないんだから」
「あ、いけね」
神室姫の怒声に八部背童子はハッとする。
「もう、わたしたちは帰りますからね。お嬢様もこんな危ないことに首を突っ込んでいないで、本省から神託が届くのをおとなしく待っていてください!」
「ま、待ちなさい」
言うが早いか、神室姫の姿は光に包まれて消えてしまった。八部背童子も名残惜しそうに光の中へ帰還する。
「そんな……」
残る足軽は七人。武器を持ってじりじりと迫り来る敵を目の前に、花梨は力なくうなだれる。その手から音楽プレーヤーが落ち、からんと音をたてた。
「さあ、うちらもはよう逃げんと」
綾子に促されながらも、花梨はまだ納得がいかないようである。
亡者たちの刃が月明かりを受け、青白く不吉に輝く。
落ちた音楽プレーヤー。そして、そのイヤホンを無線か電話のように使い、鬼と少女を呼び出した花梨。
『異界に蠢く妖怪や魔物たちは、人間の作り出した概念を通って人の住まう世界に現れる。我がお前の思念を通っているのは、その応用よ』
目の前で起こったこの現象と亡霊マサの言葉が、リュウジの脳内で結びついた。
「借りるぞ」
音楽プレーヤーを拾い上げるリュウジ。迫り来る刃。唖然としてその光景を見る二人。
がちゃり、がちゃり……。
亡者たち動きは非常に遅く、されど確実にこちらの不安を煽ってくる。リュウジは額にじわりと汗が滲むのを感じた。
冷たい風が顔をなで、汗をなぞりさらなる寒気をあたえてくる。
何百年も前からの居候で、笑い上戸で、剣の腕前は一級の平安武士。リュウジは彼の姿を頭に浮かべながら、左側のイヤホンに声を吹き込んでみた。
「おいマサ! 聞こえるか?」
震えの混じった力のない声で呼びかけてみる。
がちゃり、がちゃり……。
周囲は静まりかえったままで、亡霊の足音だけが不気味に響いていた。
ふとリュウジはマサとの稽古を思い出す。腹の底から声を絞り出せ、気合こそ武道の根底だという、彼の教えが頭をよぎった。
がちゃり、がちゃり……。
血糊で錆び付いた剣が、槍が、飢えた獣のごとく迫り来る。
「来れるならきてくれ。っていうか来い! 絶対来い!」
冷風が幾度となくリュウジの身体を冷やそうとするも、内からは熱い何かが込み上げてくる。
リュウジは顔をいからせて懸命に叫んだ。
「頼む、マサ!」
古来より、神々は自分を祀る神官たちや氏神と崇める家系の者たちと交流してきた。
親が子を育て、子が親を慕うように。
心の交流を持つことにより、神々は人間との間に絆を得た。
神々は巫女の身体に御霊を宿し神託を与えた。審神者の立ち会いのもと行われるこの儀式を神懸り、帰神法という。
そして。
心を交わし強い絆を信じた神は人の呼びかけに応え、その姿を直に現した。
信じた者の思念、すなわち心を通り顕現する。それこそが神道の極意、映し神の召喚である。
「我を呼んだか、リュウジよ!」
周囲の薄闇をはるかに超える暗黒の渦がまきおこり、轟々と唸りをあげた。
渦の中から舞い降りたのは、侍烏帽子に大鎧を身に着けた猛々しい武士である。
装飾が施され人工美溢れる武具に、色白に切れ目の上品な顔立ち。
そうでありながら、武士が放つ闘気は野性的で、本能に直接訴えかけてくるような問答無用の恐怖を帯びている。
マサがその切れ目で足軽たちを一瞥すると、彼らはまさに蛇に睨まれた蛙のごとく立ちすくんだ。
腰に佩いた太刀をすらりと抜けば、氷のように輝く刀身があらわになる。
冷水に濡れたようになめらかに月光を照り返す刃。そこに浮かぶ波紋は業物の証だ。
「フフフ、首を失ってなお戦がしたいか」
マサが不敵に笑う。それはリュウジに冗談を言う時のものとは違った、獣じみた笑みだった。
かちりと鍔鳴りの音を響かせて、マサが太刀の切っ先を亡霊たちに向け中段に構える。
その先は一瞬だった。
最下級の武士か出稼ぎの農夫の集団である足軽兵たちの動きにはあまりに無駄が多く、マサの洗練された剣捌きに次々と餌食にされていった。
ある者は鎧の隙間を貫かれ、またある者は防具ごとその胴を裂かれ、小隊が全滅するのにさほどの時間はかからなかった。
冷たい鋼の輝きが一閃し、龍の牙のごとく刀が振るわれる。
最後の一人が塵となって風に消えるのが確認できると、マサは静かに納刀した。
「すごいなぁ」
あまりの早業に綾子が感嘆の声を漏らす。
花梨もはじめはマサに注目していたが、やがてリュウジの方を振り返った。
「祝詞もなしに召喚? ありえないですわ」
「俺もお前が鬼とかを呼び出したのを見た時はびっくりしたよ。それにしてもこれすげえな。本当に遠くにいる霊を呼べるのか」
突然現れたマサの姿に疑問を覚えた花梨と綾子をよそに、リュウジは興味深そうに音楽プレーヤーの形をした機器を調べている。
見たところ市販の音楽プレーヤーと何ら変わりはなく、これが霊や鬼を召喚するものであるとは想像し難い。
「リュウジはん。もしかして花梨ちゃんが使ってはるのを見て、やぶれかぶれで使ったんどすか?」
「ああ、ダメもとでやってみたが、案外うまくいった」
「妙に余裕そうなのが癪に障りますわね」
「いや、俺だって恐かったんだからな。マサ呼んだのもやばかったからだし」
「うふふ。たしかにリュウジはん、必死に叫んではりましたからなあ」
これは恥ずかしいところを見られたと、リュウジが赤面する。女性陣が笑い声をあげた。
「フフフ、面白い集団だな」
しかしマサの冷静な分析を受けて、一同は我にかえった。
今度は自分たちも笑いの対象に入ってしまったと、花梨と綾子が慌てて口を閉じる。
リュウジはマサのことについて簡単に紹介し、花梨に音楽プレーヤー型の召喚機器を返した。
「それでだ、マサ。こいつらを紹介しようか?」
「それには及ばぬ。我はお前の思念――つまりは記憶を通ってここへ来たのだ。金剛院花梨嬢と高坂綾子嬢のこと、街を騒がせる戦国の亡霊どものこと、近くで菓子を売る店の者が怪異に巻き込まれたやも知れぬこと、寝床の下の猥画の書のこと……大方心得ておる。二人とも、このリュウジが世話になったこと、礼を言うぞ」
「いえいえ、リュウジはんが機転をきかせてくれたんとあんさんのおかげで今回は助かりました」
「よ、よろしくお願いしますわ」
マサの謝礼に対しいつも通りはんなりと返す綾子と、少し緊張した面持ちの花梨。その様子に気付いたマサが花梨に語りかける。
「怖がることはない。我はあやつらと同じ、しがない亡霊よ」
花梨は未だ緊張を解くことができなかった。剣を振るう立ち回りといい霊力といい、戦っているときのマサから尋常ならぬ何かを感じたからである。
「ところでなあ、マサはん」
花梨の様子を察してのことなのか勝手にそうなってしまうのかはわからないが、綾子が京なまりで発言すると場がなごむ。
「何事ぞ」
「さっき言うてた『寝床の下の猥画の書』て。猥画なんて言葉うちには難しうてようわかりませんのや。何のことでっしゃろ?」
「フフフ、それはな――」
まるで部室の紀明をいじるときのような顔で、横目でちらちらリュウジを見ながらマサに質問する綾子。それを受けたマサも意地の悪い微笑を浮かべて返す。リュウジは背中に悪寒が走るのを覚えた。
「わああああ! 待て、落ち着くんだ」
「わたくしも気になりますわね。聞きなれない言葉ですし」
「お前も便乗してくんな! とにかく、今はそんなことより大事なことがあるだろ」
「な、何ですって。このわたくしをないがしろにするとはいかに寝ぼけたことをおっしゃっているか、ご理解なさっていまして? 中世より続く貴族の系譜に連なるこのわたくしを愚弄するなど不届きですわ。この平等な時代において古い身分制を語るのも古臭いでしょうからここまでにしておきますが、それにしても何なのですかあなたのその態度は。野蛮で品性の『ひ』の字も見当たらぬ振る舞いには腹が立ちます。以前もわたくしの髪型をクロワッサン扱いしたりして! まったく、一度小学校あたりからやり直されてはどうかと――」
両目をつり上げ、頭のクロワッサンが焦げる勢いで説教を始めた花梨。
リュウジはすっかり彼女の勢いに押されて反論できずにいた。誰かこのクロワッさんの説教マシンガンを止めてくれと、リュウジの表情が情けないものに変わる。
「花梨ちゃん元気になりましたなぁ」
「フフフ……花梨嬢はいつもあのような調子なのか?」
「ええ、元気な子ぉですやろ」
月の明りが優しく四人を包み、都会から離れた地方都市の夜空にはリュウジがかつて見たことのないほどの星が輝いていた。
「ちょっと、聞いていますの?」
もっとも、夜空を楽しんでいる余裕なんてないのだが。