断章
男は疲弊していた。
つい先ほどまで続いていた快進撃が一瞬で、ただ風向きが変わったという一点のために覆ってしまったのだ。
全身を包む鎧は重く、大きな肩当てが圧し掛かるように両肩にかかる負担を増やしていた。
自陣の旗色がよかった時は思い切り振るえた武器も、今となっては邪魔でしかない。
一時の油断が――すでに敵は皆逃亡し、戦は終わったのだという勘違いが生んだ敗北でもあった。
ただでさえ少なかった味方は散り散りになり、自分に付き従う兵はごくわずか。
「いたぞ。向こうだ!」
敵兵の怒号と足音が聞こえてくる。
さくりと音をたてて足元に矢が刺さる。自軍の矢を運んでくれていた風が、今度は相手の矢をその流れに乗せて牙を剥いてくるのだ。
それは運命という名の皮肉か。はたまた報いという名の因果なのか。
「お逃げください! ここは某が」
「否。我がここで退くわけにはいかぬ」
馬上の自分を心配そうに見上げる家臣たちに、落ち着いて言葉を返した。
ここで軍を失っては、遅かれ早かれ自分は殺されてしまうだろう。
ここにいる者たちは、もはや自分自身の一部といっても過言ではなかった。
刃をぎらつかせて迫り来る敵は大軍。
多勢に無勢といった戦を幾度となく乗り越えてきた彼であったが、絶対と思えた勝ち戦がひっくり返った直後。この冷静さが、いつまでもつのやら。
敵味方の前衛同士が切り結び始め、いくつもの金属音と掛け声が周囲にこだまする。
「殿! あなた様が討ち取られてはなりません」
「わかっておる! だが退けぬのだ!」
悲痛さえも覚える家臣の懇願に、ついに怒気が漏れてしまう。男はぎりりと悔しさを噛み締めた。
己がもう少し長く自陣に留まっていれば、帰還の途中このような伏兵に遭遇することもなかったろうに。
男が自ら最前線に立たんと手綱を強く握りしめた、その時だった。
「やあやあ、某は――」
己と同じように馬にまたがり、立派な甲冑を身に着けた武者が名乗りをあげ、猛々しく向かってくる。
武者は前衛の小競り合いを蹴散らすように馬を駆りながら、馬上で弓を引き絞る。
弓は満月のようにしなり、男を貫かんと唸りをあげていた。
この地を護りたい。
まるで経文のように、男の頭の中で反復していた。
そう、ただこの土地を護りたい。ただそれだけなのだ。
「殿!」
家臣たちが叫び、自らの乗る馬がいななく。
そして、武者の手から矢は放たれた。