第一章
その場所はリュウジの予想に反して静まりかえっていた。
いや、扉の前に立ち、何の物音も聞こえなかった時点で大方の見当はついていたのだが。それでもこうして実際に中を覗き、現実を知った瞬間のショックは大きかった。
「お、俺の剣道生活が……」
剣道場の入り口で、ぼうっと立ち尽くすことしかできない。
自分の中のいろいろなものが、からっぽになった気がした。
剣道の名門として知られてきた経津丘高等学校。
中学の頃からずっと憧れてきたその道場はさぞ活気があって、強い選手たちと交流できる場所なのであろう。というリュウジの希望はほぼ完全に崩壊した。
正面に神棚を有し年季の入った板張りの床が続く、バレーボールのコートひとつよりも少し広めの道場。
大勢の剣道部員で賑わうであろうと想像していた放課後にここに来てはみたものの、誰一人としてそこにはいなかったのである。
「なんのために、わざわざ転校までしたんだよ」
剣道場特有の、剣士たちが流す汗臭さは鼻に伝わってはこない。かわりにうっすらとカビの臭いがする。ここ数ヶ月のあいだ、掃除さえされていないのだろう。
換気のために大きくとられた窓から差し込む四月の日差し。外は暖かそうだがまだ室内の空気はひんやりしていて、そこにこのかび臭さが加わるといかにも『見捨てられた』場所のように思えてくる。
窓のある方とは反対側の壁にびっしりと飾られた賞状やトロフィーが、過去の栄光を寂しそうに物語っていた。
静けさに水をさすように、横からガラガラと更衣室の戸が開く音が聞こえてくる。
「あれ、もしかして見学の人?」
一人、小柄な男子生徒がそう言いながらこちらに向かって来るのを確認した瞬間、希望が生まれた。
柔らかい微笑と優しそうな口調。新入生を勧誘する現役部員のそれっぽい。
「ああ、そうだ。俺は神田リュウジ、二年生だ」
「お、やる気まんまんだな。てか転校してきたのって君なんだ」
熱のこもった視線に気圧されたように男子生徒は一瞬表情を硬くした。いやな予感がする。
「あ、いや……張り切って来てくれたところ悪いんだけどさ、見ての通りこの剣道部って廃部寸前なんだ」
「やっぱり、そうなのか」
すでに予想はしていたとはいえ、こうして直接言葉で言われてしまうとたまらない。
とはいえ、こうして部員らしき人物を発見できたのだ。何か聞けるかもしれない。
「なあ、お前はここの部員なんだよな」
「まあ、一応」
男子生徒は若干頬を引きつらせながら曖昧な返事をした。
「その、あれだよ。卒業していった先輩たちはみんな経験者で強かったんだけど、今の三年生も、僕ら二年生もみんな初心者だったり、経験者なのにここの厳しさについていけなかったりしてね。
登録人数そのものはそれなりにいるんだけど、実際に活動をしているやつはほとんどいないのさ」
「もうちょっと詳しく聞いてもいいか?」
「お、怒らないで聞いてくれよ。君って卒業していった先輩たちみたいな目つきをしているからさ、こういう話はしにくいんだよ」
どうやら無意識に相手を威圧していたらしい。
身長175センチ程度のリュウジに対し男子生徒は160センチくらいのようだし、見るからにおとなしそうな彼にとって、大会をいくつも制覇してきた剣道部の先輩たちはいろいろな意味で恐怖だったのだろう。
いかにも「剣道やります」と言わんばかりのリュウジに、厳しい先輩たちの姿が重なったのかもしれない。
「す、すまん」
「へえ、君は先輩たちと違って、意外と話せそうだな」
無理やりながらも表情を和らげたリュウジを見て、小柄な男子生徒は少し安心したようだ。
「ほらさ、去年の夏までここの部って、休憩はほとんどないし学校閉まる時間のずっと後まで活動時間が長引いたりとかして、辞めたり来なくなったりする部員が続出していたんだ。熱心とか真面目とかいう評価を通り越して、下校時間や下級生の問題で生徒指導部の先生たちに目をつけられるくらいにね。頑張るのはわかるけど初心者は置いてきぼりみたいな感じで、時代錯誤だろう。
でも、夏のインターハイが終わって先輩たちが引退したあたりからぽつぽつと復帰し始めた生徒もいるよ。ま、息抜きに個人練習……おっと、稽古をしたりサボる場所にしたりってところかな。残念ながら、集団としての機能はほとんど失われているよ、この部活」
「インターハイか、俺も出たかった……」
男子生徒が練習という単語を慌てて『稽古』という武道の専門用語に置き換えたことから、先輩たちの厳しい指導は用語のひとつひとつに至るまで行き届いていたのであろうことがうかがえる。
それほどまでに熱心な活動が行われていたというのに、自分がこの場所の門をくぐった今はもうそうではなくなっていた。
リュウジは自分の運のなさにがっくりとうなだれる。
「そ、そんなに気を落とすなって。ほら、キツいのはさすがに無理だけどね。ここでサボるときの話し相手とか、ちょっとした稽古の相手くらいなら僕も付き合うよ」
高校剣道界を賑わせた優秀な選手のほとんどが卒業してしまった今となってはすでに、剣道部員であるメリットは『道場という名の休憩所を使う権利』程度のものらしい。
この学校で真剣に剣道をすることは、もはや無理なようである。
「仕方ないこと……なんだよな」
「ま、世の中我慢できたもん勝ちだよ」
男子生徒は愛想笑いを浮べたまま、リュウジだけでなく自分自身にも言い聞かせるように呟いた。
「我慢――ってお前、今放課後になったばかりなんだが、まさか」
「うん、朝からずっとこの更衣室でサボタージュだよ」
「いいこと言ったように見せかけて、全然ガマンなんかできてねーじゃねえか」
「まあまあ。ここは『そういう所』なんだよ」
「お前の先輩たちが厳しかった理由、なんとなくわかったわ」
こんな環境ではどうあがいても剣道に集中できそうにない。
むしろ道場で稽古なんかしていたら、更衣室で漫画を読んだりゲームをしていたりする奴らからうるさいと抗議がきそうなくらいだ。
「はあ、ついてねえ」
「大丈夫だって。ほら、さっきも言ったように軽い稽古くらいなら付き合うし、大会なら個人戦に出ればいいじゃん」
「お前って、意外とマシなやつなのかもな」
「もう他の皆は、ほぼ退部したか道場に来ないかだからね。でも僕はこの部活が続いて欲しいって気持ちが少しだけある。勧誘活動とかもしてなくて一年生も来ないけど、君が来てくれて安心したよ」
「お前……」
リュウジの目頭がわずかに熱くなった。転校初日から、こんな友情が芽生えるなんて。
インターハイだなんて贅沢はもう言わない。ここにはとりあえず一緒に剣道のできる仲間がいるのだ。
「だってこの部活なくなったら、ここの鍵の貸し出しが難しくなるからね。せっかくのサボりスポットがなくなっちゃうよ」
「……少しでも期待した俺が馬鹿だった」
やっぱり大失敗だ、この転校。
これから卒業までの二年間、どうやって過ごしていこうか。
ガラガラと音をたてて崩れ落ちた剣道への熱意と高校生活のプランのかけらを拾い集める気には、とてもなれない。
「そうだ。確か君、転校生なんだよね」
「あぁ?」
部活ライフ断絶を余儀なくされて落ち込むリュウジ。
しかし、そんなリュウジにはおかまいなしに、男子生徒はいたずらっぽく語りかける。
「どこから来たの?」
「……東京」
彼のテンションについていけないリュウジはぶっきらぼうに返す。
「そうなんだ。ここ、田舎だけど楽しくやっていけそう?」
「剣道をまともにやれりゃ、俺は田舎だろうが構わんさ」
関東と甲信越の、ちょうど境に位置するこの経津丘市。
東京に比べれば、たしかに田舎という肩書きにはなるだろう、地方都市だ。
「実は今、ココはホットな噂があってね」
やっぱりリュウジにはおかまいなしな男子生徒。
「昔からさ、この街って出やすいんだ」
「なにがだ?」
ついに根負けし、リュウジはしぶしぶ男子生徒の出す話題に乗ってみる。
面倒ではあるが、これも処世術だ。
目を輝かせて男子生徒は話しを続ける。
「ゆ・う・れ・い」
「そ、そうなのか」
とは言え、やはり興味を持つことができない。
リュウジは、それは大変だなどと適当に話を合わせて、剣道場を去ることにした。
住宅街の景色に高い建物の影はなく、延々と民家ばかりが連なっていた。
どこか買い食いのできそうな店でもないかと、リュウジはまだ慣れない通学路を歩いていく。
「はあ、まるで砂漠だ。アスファルトと家の砂漠だ」
東京から引っ越してきたリュウジにとっては、歩いていて十分おきくらいにはコンビニがあることが普通なのだが。
それは地方都市である、この経津丘市には通用しない常識なようだ。
「せめて自販機でもありゃいいんだがな」
軽く肩をすくめるも、目の前には車二台がギリギリですれ違うことができる程度の細い県道と、二階建ての住居ばかりが広がっていて、喉を潤すことも腹を満たすことも、当分できそうにはなかった。
どこからか掃除機の音や赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。そしてそれらの音に混じって、わずかに漂ってくる料理の匂い。
「まだ夕飯には早いだろ。腹減ってる俺へのいやがらせかっつーの!」
春の陽気が真っ黒な学生服に染み渡り、下に着たシャツを汗ばませていく。
剣道の稽古を通して蒸し暑さには慣れているはずなのだが、気分が落胆しているとこの程度でも辛くなってしまうのだろうか。
制服のボタンを三つほど開けて、空気を入れようとシャツをバタバタと前後させてみる。
「ふう、なかなか涼しくなってきた――ってアレ?」
シャツと胸板の間に流れ込んできた空気は、まるで冷房から出てきた風のように冷たかった。
汗が一瞬で引き、体がどんどん冷えていくのがわかる。
ついさっきまで蒸し暑さに苦しんでいたというのに。
それだけではない。周囲が妙に静かすぎるのだ。
さっきまでは遠くを車が通る音がしたり、民家から夕飯の下ごしらえや洗濯物を取り込む時の音がしていたというのに、今は生活の気配を全く感じない。
うるさいほど聞こえてきた子供の声や、食欲をそそる料理の匂いも、今は感じることができないのだ。
息づかいを失った街は、自分がそれまでとは全く違う空間に放り込まれたかのような心地にさせてくる。
「おいおい、嘘だろ」
周囲を見渡すも、付近には自分以外に誰かが居る様子はない。
不気味な静けさに包まれた街に、ぽつりと自分だけが取り残されている。
リュウジは背筋に何か冷たいものを感じた。
想像もつかない、得体の知れない現象に巻き込まれているんじゃないか。理屈ではなんとも言えないが、動物的な勘がビンビンとそれを伝えてくる。
急に気温が下がったのは、ちょっと太陽が隠れたせいなのだろう。リュウジは上空を見上げた。そう、雲に包まれた太陽と青い空があるはずだ。
しかしそんな期待に空は応えてはくれなかった。そこには雲も太陽も、垣間見える青空もなかった。
ただ、真っ白なだけ。
心臓は早鐘を打ち始め、全身を先ほどとはまた違った汗が舐めだした。
「やべえ。なんかやべえぞ」
さらに目を凝らせば、白紙の空は陽炎のようにわずかに揺らめいている。この異常な光景に、心臓の動きがどんどん加速していくのを感じる。
一刻も早くこの場所を去らなければ。リュウジはごくりと唾を飲み込むと一目散に走り始めた。
走り始めてすぐに、視界の隅に真っ赤な郵便ポストがよぎった。
印象に残ったものはその程度で、その後はただでさえ無機質な住宅街の景色が延々と続く中を走り抜けていくだけだった。
「クソッ、どうなっているんだ」
二百メートルほど全力疾走してみたものの空模様は相変わらずで、走って熱くなったはずの体が急速に冷めていくほどに空気の冷たさもそのままだった。
膝に手をついて荒く息をするリュウジを嘲笑うかのように、真っ白な空はユラユラと蠢いている。マジかよ、とリュウジは眉をしかめた。
朝に一度通っただけの通学路。そのため現在地がどこであるのか、家までどの程度距離があるのかもわからない。
やってきたばかりの街はまるで迷路で、この異常な天候と寒気、そして人気のなさは、もはや人間の住む領域を超えた『どこか』に迷い込み、そこに閉じ込められたかのような絶望感を与えてくる。
そういえば、子供の頃は旅人が狐や天狗のいたずらに悩まされる昔話をギャグのように聞いていたな。
自分自身の身に異常現象が降りかかった時という最悪のタイミングで、ピンポイントに脳はその記憶を引っ張り出してくる。
まさか自分が今こうして迷っているのは、物語に登場した天狗を馬鹿にしたせいなんじゃないかなどといらない思考がまわり、さらに不安がこみ上げてきた。
アスファルトやブロック塀ばかりが映る味気ない視界の隅に、鮮やかな朱色が顔を覗かせている。リュウジはほぼ無意識にそちらの方を注目した。
郵便ポストだった。
「そういえば……さっきも!」
確か走り出す直前にも郵便ポストを見かけたはずだ。そしてポスト同士の距離がたかだか二百メートルおきだなんて近すぎる。
リュウジの中に一つの疑いが生まれた。
まず慎重にポストを確認する。自分自身の位置から見て向かって右にあり、ポストの後ろにはブロック塀が立っていて、根元には雑草が生えていた。
これらの条件を念入りに記憶し、リュウジはもう一度走り出す。
「嫌な予感が、当たらないといいんだが」
ありえない予想であることも、常識的に考えて馬鹿げた実験であることも承知で、必死に足を動かした。
ただでさえ自分の理解を超えた状況にいるのだ、把握できることがあるのなら把握しておきたい。
静寂を、自分の足音と心臓の鼓動が裂いていく。
そしてその心臓から送り込まれるエネルギーを受けて、普段よりも激しく駆動する身体。
疾走する速度が落ちていったのは、視界の先にあの鮮やかな朱色が飛び込んでからである。
「やっぱりか」
唯一の目印だったポストが再び目の前に現れた。そうなれば、もはやこのような結論をださざるをえない。
「俺は同じ場所に、戻ってきているんだ……」
道をまっすぐに走っていたはずが、無意識のうちにUターンしてここに戻ってきていたのだ。
走り出す前に向かって右にあったポストは、今は反対の左に確認できる。
周囲の状態と照らし合わせてもここは走り出したあの場所に間違いなく、変わっているのは自分自身の向いている方向だけである。
リュウジは自分が理解の及ばないところに閉じ込められてしまったことを、理解できないなりに理解した。
いつの間にか両手が制服の裾を握り締めている。気休めにしかならなかったとしても、少しでも恐怖を和らげればと思い、そのまま握り続けた。
荒い息づかいと暴れる心臓。そして物音ひとつたたない町並みが、この世界には必死になっている自分ひとりしかいないということを、執拗に伝えてくる。
深々と雪が降り積もる冬の夜のように、音という概念が消えた世界。
がさり、がさり……
そう思った矢先、小さな音が聞こえた。
「誰か、居るのか?」
独りはいやだ。こんな意味のわからない場所に独りきりなんて耐えられない。リュウジはその、足音らしきものが聞こえた方向へ走り出した。
ちゃんと人の気配がする。リュウジは小さな路地へと続く枝道へ身を翻した。
近づけば近づくほど、物音ははっきりしていく。どうやら向かう先にいるのは一人ではなく、ある程度の集団のようだ。足音が複数聞こえる。かちりと金属的な音もした。
路地裏は建物の影によって薄暗く、じめじめとして気味が悪かったが、先ほどまでの異様さと比べればはるかにましだ。
そして他の誰かに会えるかもしれないという希望もある。平気で抜けることができた。
隣りの通りに出ると、天から曇り空のようにうすぼんやりとした光が差しているのがわかる。
「おーい、誰か……」
予想通り、いくつかの人影が見える。だがその異常な風体にリュウジは絶句した。
「う、嘘だ。何なんだよこいつら」
その五人ほどの集団は、時代錯誤で奇怪な格好をしていた。
「……」
がさつに身に付けられた胴鎧。腰に提げた刀。むき出しの腕や足は妙に青ざめていて生気を感じない。そして何より、彼らには首がなかった。
落ち武者のようなそいつらは、ユラユラと重たい足取りで辺りを巡回している。生前組んでいた隊列を懐かしんでいるのだろうか。
いびつなその動きは、彼らがこの世の法則を越えて動き続ける亡者であることを明確にしていた。
がちゃり、がちゃり……。
彼らが一歩足を踏み出すたびに、腰の武器と鎧が不気味に響く。
「や、やべえ」
「!」
思わず漏らしてしまったその一言に、ぱっと首のない落ち武者たちが反応する。
それぞれが武器の柄に手をかけ、その切っ先をリュウジへと向けた。
錆びたり欠けたりしているとはいえ、放たれる殺気の鋭さはリュウジに冷や汗をかかせ、足を動かなくさせるには十分だった。
いや、むしろ錆びた刃は磨きぬかれたそれよりも禍々しく、悲しい恐怖を与える存在だった。
足がすくんで動けないなんてみっともねえ。
そんなことを考えている場合ではないと知りながらも、リュウジはその場に立ち尽くすしかなかった。
がちゃり、がちゃり……。
亡者たちの重い足取りは人生のタイムリミットを告げる時計の音。
彼らの武器の間合いに入れば、自分が八つ裂きにされることは明白だ。
「ちくしょうなんでだ。なんでよりによって俺なんだよ」
意味のわからない空間に閉じ込められたあげく、武士の幽霊に集団リンチされて人生終了なんて理不尽すぎる。俺が何か悪いことでもしたか。
行き場のない憤りが起こりつつも、すでに全身の血の気は失せ、足に力が入らない。
刃を振り上げてゆっくり近づいてくる異形の集団は、すでに三メートルほど手前にまで迫っていて……。
「ようやく見つけましたわ。覚悟なさい!」
少女の金切り声と爆発音に耳を裂かれながら、リュウジの意識は遠のいていった。
長い廊下が続いている。
剣道場のような板張りの床。壁には数メートルおきに神棚や飾り物の刀剣。
人ふたりがようやくすれ違うことができる程度の細い廊下がずっと続いているようで、前後とも先は闇に覆われて見えない。
よく見れば神棚には小さな灯篭が設けられており、その仄かな明りが現在地を照らしているようだ。
妙に澄んだ空気が漂っており、不思議と気分が安定してくる。
「おいおい……」
いつのまに気を失っていたのだろうか。
リュウジはゆっくり起き上がると、自分がこの不思議な回廊に寝ていたことにようやく疑問を持ち始めた。
「まさかこの先は天国、とかじゃないだろうな」
「フフフ、その心配は不要だ」
リュウジの背後から、やや低めの青年の声がする。
「ここはお前の思念の領域。平たく言うなれば、夢の中ぞ」
振り返ると、そこには平安時代の絵巻物から抜け出してきたような武者がひとり。
先ほど謎の空間で出会った落ち武者たちとは違い、彼は立派な大鎧で全身を覆っていた。
「リュウジよ、我を忘れておるようだな」
「……」
口元を片方だけつり上げて不敵に微笑む平安武士。彼の切れ目は真っ直ぐにリュウジを捕らえていた。
その一方で、いかにも「寝起きです」と言わんばかりに呆けた顔のリュウジ。
「フフフ、その様子では二重の意味で『我』を忘れておるなぁ。フハハハハ!」
「安心しろ。俺は俺自身のことも、マサのことも忘れちゃいない。そしてダジャレが寒い」
この笑い上戸の亡霊、マサをリュウジは知っている。
一言で言うなればリュウジの剣の師匠。幽霊として与えられた悠久の時間の一部をリュウジの稽古に使っている。
リュウジの実家は神社である。
その神社ではとある武神を祀っているようで、その武神に奉納試合――要するに武神に見せるための試合――を行う道場に住み着いている霊が、このマサである。
神聖な神社に亡霊なんていうのもおかしな話だが、もう何百年も前から住み着いているようで、すっかり神田家の一員と化している。
転校し、一人暮らしを始めて以来の再会だ。
「まったく、あの程度の者どもを見て驚くとは。我と稽古をしておれば、あれくらいなんともなかろう」
「いや、フツーにやばいだろあれ。首ねーんだぞ」
リュウジを鼻で笑うマサに対し、リュウジは少しムキになって返す。
剣の師匠であり家族であるマサは、いかに大時代な格好をしていようとリュウジの中で幽霊として認識されていなかったのだ。
「フフフ、あの手の者たちが人目に触れぬようにする者たちもまたいるのだがな」
「そんで、ここはどこなんだよ」
「何度も言わせるでない。お前の夢の中だ」
自分自身の夢の中とはいまいちぱっとこない。
「ここが夢なんだとしたら、今のお前は俺の記憶が作り出しているのか? それとも幽霊ってやつは、人の夢に入れるのか?」
「うむ。両方とでも答えておこう」
「……意味わかんねーよ」
マサは不敵な微笑をうかべたまま、籠手をガシャリと鳴らして腕を組んだ。
「異界に蠢く妖怪や魔物たちは、人間の作り出した『概念』を通って人の住まう世界に現れる。我がお前の思念を通っているのは、その応用よ」
「まあ、幽霊のお前が言うなら妖怪だのが存在してもおかしくはないけどよ、それにしても話がぶっ飛びすぎじゃね? もっと科学的根拠ってやつを使って、わかるように説明してくれよ」
夢の中で明確な意思を持った自分がいて、自身の記憶であると同時に現世の本人である存在がいる。
これだけで理解に苦しむというのに、妖怪だの魔物だのといった名前や『概念を通る』などといった言葉を持ち出されても、さらに混乱するだけである。
「フフフ、現実のお前が目覚めようとしているぞ」
「待て、ちゃんと最後まで説明を――」
謎の光景もマサの姿も、強い光に包まれて消えていった。
「おーい、おーい」
体が少し揺れた。
意識の大半がまどろみに沈んでいる中、聴覚と触覚だけがわずかに働いているようだ。
「まったくいつまでだらしなく寝転がっているつもりなのでしょうか。この男は」
真っ暗で何も見えなかった視界が、うすぼんやりと明るくなっていく。
「まあまあ。目ぇ覚ましたら、ゆっくりお話聞きましょ」
「ゆっくり……甘いですわ高坂さん。こんな怪しい相手、油断なりませんわよ」
遠くで少女たちの話し声が聞こえる。
はんなりとした京なまりの艶やかな声と、お嬢様口調のヒステリックな声が、片や日向ぼっこでもしているかのようにおだやかに、片や戦場にでも駆り出されたかのように物騒に会話している。
「でも着てはるの、うちらの学校の制服どすえ」
「フン! どうせ地元に紛れ込むための工作ですわ」
「花梨ちゃんは疑い過ぎどす。さっきまでは必死にこの人護ろうとしてはったのに」
「そ、そんなことはありませんわ! わたくしは――」
「あらあ、よう見たらそこそこの色男どすなあ。花梨ちゃんが頑張る理由がわかった気がしましたわ」
「だ、誰がこんな胡散臭い男のためになど。ええいあなた、いい加減に目を覚ましなさい!」
「ぐおっ」
脇腹に激痛が走り、視界が一瞬で開けた。
短くひるがえるカーテンのような生地と、すらりと伸びた太ももとふくらはぎのしなやかな脚線美。そしてその奥に垣間見える、小さくレースで飾り付けられた布製の何か。
正体を確かめたかったが、痛みと耳に響く声のせいで、一瞬でパノラマを駆け抜けていった何かを目に焼き付けることはできなかった。
ちなみにそれをじっくり見られなかったのがちょっと残念なことであったとリュウジが認識できたのは、もう少し後。完全に意識を取り戻してしばらくした後のことである。
「ようやく目を覚ましましたわね」
「いてて……」
アスファルトの硬い感覚が後頭部にある。リュウジは痛みをこらえながら上体を起こした。仰向けに寝かされていたようだ。
「無理やりどすなあ」
京なまりの少女が手を差し伸べてくれた。
その手をとって立ち上がってみると、リュウジとそれほど目線が変わらずそれなりの長身であることがわかる。
「とんだ災難どしたなあ。うちは高坂綾子。あんさんと同じ経津丘高校の二年生どす」
「ああ、俺は神田リュウジ。なんか助けてくれたみたいだな」
綾子と名乗った女生徒はどういたしましてと小さく首を振った。
彼女の瑞々しく長い黒髪が揺れる。その長髪に野暮ったい印象はなく、身につけた濃紺のセーラー服の効果もあってか彼女の日本的な魅力を引き出していた。
「神田リュウジ……確か、一組にやってきたという転校生ですわね。幽霊騒ぎが起こり始めたのはこの春から。そして亜空結界にまで侵入してきた。怪しい。怪しすぎですわ」
ヒステリックな方の声がぶつぶつと何かをつぶやくのが聞こえる。
そちらに目を向けると案の定、いかにもお嬢様といった風貌の女生徒が考え事をしていた。
彼女が首をかしげるたびに、ストロベリーブロンドの縦ロール髪がバネのように弾む。
漫画か何かでしかお目にかかれないその髪型に、リュウジは一瞬目を奪われた。
赤っぽい色合いに、くるくると巻かれた毛束。よく冗談でドリルとか呼ばれるその髪型は、彼に何かを連想させようとしていた。
「まあまあ、まずは本人さんに聞いてみんと」
はんなりと綾子が声をかけるも、少女はうつむいたまま考察を続けるばかりであった。
「亜空に入る霊力を携えているのですもの。無関係である方がおかしいですわね」
まる聞こえの独り言には意味不明の単語がいくつか混じっている。亜空だの幽霊事件だのと現実離れしたものばかりだ。
と、ここまで考えたリュウジは、実際にありえない体験をしていたことをようやく思い出した。
少女たちと出会って人心地がついていたせいだろう、すっかり忘れていた。
空は相変わらず真っ白で陽炎のように揺らいで見えていたが、気温の方は春の陽気に戻っている。
まだ元の世界に戻ったわけじゃなさそうだが、この子たちなら何か知っているのかもしれない。
早速訊ねてみようとリュウジが決心したその時、都合よくも縦ロールの少女が話しかけてきた。
「とりあえず、今回の幽霊騒ぎについて知っていることをすべて、洗いざらい話していただきますわ」
すべてという部分が妙に強調されていたが、実のところ何も知らないというのが本音だ。
「ポカンと口を開けて間抜けな顔をしたところで無駄ですわよ。あなたが亜空結界の内部にいるというこの事実こそが、あなたが霊的事件に関与している動かぬ証拠です」
「亜空結界って、この出られない世界のことか?」
「しらばっくれたところで無意味ですわ」
まるで意味がわからずに質問を返してみたものの、縦ロールのお嬢様は依然としてリュウジに疑いのまなざしを向け続けている。
話の内容はさっぱりだが、面倒くさい相手であるということだけははっきりと認識できた。
こちらを、こぼれ落ちそうなくらいに大きなマリンブルーの瞳が睨みつけてくる。
くっきりした顔立ちや目の色からして、ハーフなのだろうか。
はじめに正面から対面していれば第一印象も変わったのであろうが、いまいち見えてこない会話の内容と珍しい髪型のせいで頭が混乱し、はっきりとした人物像を掴めずにいた。
彼女の強い眼力から逃れようと視線をずらすと、ストロベリーブロンドの毛束に焦点が合った。
やはり、見れば見るほど何かを連想させる髪型だ。くるくると巻かれた短めの縦ロール髪。
そういえば俺、腹減ってたんだ。赤茶色のこんがりとした生地。
ここにバターの香りでもただよっていれば完璧なのだが。と、妙な方向にリュウジの思考は展開していく。
「ちょっとあなた。聞いていますの?」
「そうだ、クロワッサンだ!」
リュウジは確信する。思わず大声をあげてしまった。
「このわたくしを見て、何故パンの名前などが飛び出すのですか」
たしかに、人の顔を見てパンの名前が出てきては問題だ。しかし今の論点は彼女の後頭部にあった。
「いや、その髪型がな。色といい形といい、マジそっくりじゃね」
器用に短く巻かれ、磨かれた銅貨のように赤く輝くその髪は、心なしかクロワッサンの形に見えなくもない。
だが当然のごとく、少女の表情がさらに敵対心を帯びるきっかけとなる一言になった。
「あなた、このわたくしを愚弄するのですか」
「あ、やっべ」
リュウジは今更になって話をさらにややこしくしてしまったことを悟った。
このクロワッさんが語る『霊的事件』だとか『亜空結界』だとかいった単語の意味や、そこに自分がどう絡んでいるのかを知らなければ話は先に進まないというのに。
「いや、そんなつもりはない。とりあえず、話の続きをだな――」
「このような屈辱、はじめてですわ。さらに謝罪もせずに流そうとするなんて。まったく言いたい放題に侮辱してくれましたわね」
少女は頭のクロワッサンがこんがりと焼けんばかりに頬を紅潮させて怒鳴りつけてくる。
だが相手の話を聞かずに自分の主張ばかり通そうとする姿勢は彼女とて同じである。
リュウジは話を進めることを半ば諦めて少女に突っかかっていった。
「言いたい放題なのはお前の方だろうが。大体さっきから意味のわからんことばっかり言いやがって。お前、新手の宗教か何かに騙されておかしくなってんじゃねーのか」
「な、さらにわたくしをコケにするおつもりですわね」
「まあまあ、神田はんはほんまになんも知らんみたいどすえ。それに、神田はんもいきなり花梨ちゃんにそんなん言うたらあきません」
さすがに険悪な空気を放っておけなくなったのか、綾子が会話に割って入る。
ようやく話がまとまりそうだ。この機を逃す手はない。
「ああ、クロワッサン呼ばわりして悪かった」
「まったく、この後におよんでまだわたくしのことを……あれ? 素直に謝った」
再び牙をむこうとリュウジを睨みつけていたクロワッさんは拍子抜けしたのか、呆気にとられた顔をしている。
「だから、とりあえず状況を詳しく説明して欲しいんだ」
「な、これではまるでわたくしが一人で騒いでいるだけのようではないですか……まあ、話が穏便にまとまるというのなら、構いませんが」
彼女は斜め下に視線を落としながら少し悲しそうな顔になって言った。
言葉は最後の方にいくにしたがってフェードアウトしていっている。
そのしおらしい姿を見て、意外とかわいいところもあるんだなと思ったリュウジだったが、あえて口には出さなかった。
「ほら花梨ちゃん。まずは自己紹介せんとなぁ」
綾子にポンと肩を叩かれて、彼女の表情にようやく覇気が戻った。
「わたくしは金剛院花梨。同じく二年生です」
「よしよし。ほんで、神田はんはこういう霊的な体験は初めてなんどすか?」
「そうだな。実家が神社だからちょっとした霊感みたいなもんはあるが、この出られない空間――亜空なんたらってやつか? とか、襲ってくるような凶暴な幽霊に出会うのは初めてだ。
この街にも越してきたばっかで、ここの幽霊騒ぎとやらも初耳だ。まるで漫画の中にでも入ったみたいだよ」
ついさっきまでたった一人で恐怖と孤独を味わっていたのだ。理解も納得もできない状態なんて早く終わらせたい。
リュウジは期待を込めて二人の少女の返答を待った。
「なるほど。ご実家が寺社仏閣なのであれば、本人に自覚がなくとも強い霊力を伴うことはありますからね」
「この亜空結界言う世界はなあ、ある程度の霊力を持った人しか入れないんどす。だから霊力の強い人間と、悪霊や妖怪みたいなんだけが、本来ここに居ることができるんですわ」
つまり、そういった存在とはほぼ無縁の生活を送っていたリュウジは、この空間においてはイレギュラーということになる。
「亜空結界は張った中心から半径一キロを覆い、完全に空間を封鎖します。結界の隅は、行けども行けども戻ってくるようになっているので、さぞ驚かれたことでしょう」
「ああ、人生最大のびっくりだったよ」
「この空間は、言わば現実世界のコピーみたいなもんどす。やから一般人は結界に入ることなく、現実のこの場所を普通に通り過ぎるだけなんどすわ」
リュウジはその言葉に唖然とした。
要するに結界とやらを張った瞬間半径一キロが亜空に変わり、さらには迷い込んだ人間が気付かない程精巧に空間がコピーされていたというのだ。
あまりにも現実離れした論であったが、体験した後になってはそうなのだと納得せざるをえない。
呆気にとられたままのリュウジに向かって、花梨は次に、幽霊騒ぎに関する説明を始める。
「関東甲信越では戦国時代に、北条、武田、上杉、今川といった大勢力が軒を連ねておりました。関東の玄関口であるこの経津丘市はその狭間であり、地元にあった小さな国々が大国同士の争いに巻き込まれて滅ぼされていったと聞きます」
「経津丘に居はったお殿さんは特に抵抗して激しい戦をしたらしくてなぁ。昔からこの街にはぎょうさん出るんやわ、幽霊が。さっきのも戦国時代の足軽が着るような鎧を着けておりましたなぁ」
戦国時代にあった小さな国が滅び、その国の兵士だった者たちの怨念が現代に至るまであふれ出ている。
織田や毛利といった大名は小勢ながら大軍を倒して国土を広げたというが、そのようにうまくいった例は稀で、大抵の小国は大国のされるがままにされたという。
この経津丘市にもそんな歴史があったとは。
「毎年のようにお祓いや鎮魂の儀が行われているようなのですが、この春を境に多くの亡霊が市内に出没するようになりましたわ」
「この春を境に、か」
リュウジはなぜ自分が問い詰められていたのかがようやくわかった。
自分の転校とほぼ同時期に幽霊が大量に現れるようになり、さらにはそんな人物が霊力の高い者にしか入れない結界の中で発見されたのだ。
それで何か関係があるのではないかと疑われたのだろう。
「さぁて、うちらはこのへんで失礼しますわ」
綾子はそう言うとポケットから、手のひらサイズの白い固体を取り出した。
リュウジは最初それがコンパクトか何かだろうと思ったが、それにはスイッチらしきものと格子のついた小窓がある。消臭用の置物に見えなくもない。
それはちょうどパソコンのデスクトップのようにウイーンとかすかな音を立てている。格子のついた小窓の中には小さなファンが回っているようだ。
綾子が側面にあるスイッチを押すと、空を覆っていた白い雲のような霧のようなものが霧散して、青空が姿を現した。
「結界は解きました。当分幽霊と出会うことはないみたいやけど、気ぃつけて帰ってなぁ」
綾子は笑顔で手を振ると、学校の方へと去っていった。
「さて、わたくしもそろそろもどりますわ」
「あ、待ってくれ」
綾子の方へ向かおうとする花梨をリュウジが呼び止める。
「お前にはまだ言ってなかったな。助けてくれてありがとうよ」
「あなた……」
リュウジの言葉を聞いた花梨は妙に口ごもる。
「初対面の相手と言い争いをしたかと思えば、謝ったり、感謝の意を示したり――がさつに見えて、意外に器用な生き方をしているようですわね」
その顔には、笑っているのとも、悲しんでいるのとも違う微妙な憂いがあった。
「そんなあなたが…その…羨ましい、です」
真っ直ぐにリュウジの側を向いていたマリンブルーの双眸が、斜め下に落とされる。
あらわになった空ではすでに太陽が傾いており、真っ赤になった日差しが雲の合間から顔を出して少女を照らし出した。
その斜陽によく似たストロベリーブロンドの髪が光を照り返す。
再び彼女の大きな瞳がリュウジを見据え、今度は活発な彼女らしくにぱっと笑い、花梨はきびすを返した。
結界を張ったり幽霊の軍団から自分を救ったりと、一体あの二人組は何者だったのだろうか。
喉元を過ぎれば熱さを忘れるというが、怪奇現象から無事に帰還してみると自然に興味が湧き、好奇心をくすぐられる。
この街のこと、幽霊たちのこと、不思議な魔術のこと、マサの言っていた、自分自身の夢のこと。
そしてそれ以上に。
もう一度あの二人に会ってみたいと、そう思った。