生きた伝説―中編2―
クリストファー・マサイアスが何故この場にいるのか。
目の前であの伝説でしかない男が、王子と公爵家の子息、そして人形のように表情の無い子供を前にして、至極嬉しそうな顔をしているのをはっきりと見てしまった。
その笑顔は、まるで自分の孫を見ているかのように優しいものだ。
あまりに突然の事で驚いていたが、すぐさま意識を取り戻すのと同時にマサイアス家の老犬が俺の方に向き直った。
「ほう、やはり坊やの方に付くか」
「ん?翁知ってるの?」
「ああ。アタマ自治区の掃討作戦の時に少し、のぅ。そうじゃろ、ブリッグハウス伯爵家の末っ子や。いや、今は南方将軍と呼んだ方がいいのかの」
俺と彼が顔見知りだと言うことに驚いた顔をした王子だったが、それも一瞬で、すぐさま愛らしい顔が悔しそうに盛大に歪んだ。
「もー、やっぱり翁に先越されてたー!せっかく僕が見つけたと思ってたのに!!」
「落ち着けアレックス…。大体お前もそう言う割には悔しくなさそうだぞ。…まあ、何はともあれ、卿の行動範囲は俺達より格段に広いからな。いい人材と知り合える機会もおのずと増えると言うものだろうさ」
「全く、お嬢ちゃんは随分と醒めておるわ。少しは坊やの愛らしさを見習わんかい」
「愛らしさ?アレックスの?俺がソレを見習えと?ははっ、それこそ冗談だろう、卿。なあ、クリス」
こくこくと頷いた黒髪の子供の反応にしかめっ面を披露したマサイアスは、はぁー…と大げさにため息を付いた。
「全く…我が孫ながらじじい想いに欠けるわぃ」
「そう言われましても。それを望んだのは、クリストファー様なのですが」
「まあな。さて…。前置きはここまでにして、本題に入ろうか。なあ、アレクサンドロ王子」
「そうだね。さ、ブリッグハウス南方将軍。こちらに来てくれる?詳しい話をするからさ」
そう言って、四人全員が俺の方を向いた。
その時、何故だろう。俺は途轍もない場所に来てしまったのだという、困惑した気持ちに駆られた。
そして、この話を聞いたが最後、決してこの四人の側からは離れられないのだろうと言う事も、どこか感じていたのかも知れない。
黒髪の子供がクリストファー・マサイアスの孫だとか、アレクサンドロ王子やレイエス少年とどんな関係にあるのか。
沢山疑問に感じる事があったのだが、それを聞くより早く王子が口を開いた。
「率直に言うね、南方将軍。僕は皇帝位を狙ってる。狙ったからには必ず皇帝位は僕のモノにする。その為には、兄上である皇太子、そして父であるナバレルが邪魔なんだよ?」
唖然とした。
たった八歳の、子供が、一体全体何を言い出すのかと、単純に思った。
何かの笑い話なのか。その割には、あれだけ明るい顔を見せておきながら、今回に限っては嘘だよと冗談めかすつもりも無さそうで。
クリストファー・マサイアスまで揃ったこの面子、何かあるだろうとは思ったが、まさかたった四人が集まっただけでこんな謀反の話を聞く羽目になるとは予想だにしなかった俺は、ただただ唖然とするばかりだ。
「なっ…」
「君もさ、南方将軍の就任式で見たでしょう?ナバレルのあの馬鹿さ具合と、皇太子の無情なまでの他人への無関心さ。あれじゃあいくらルグレスと言えど、近々に崩壊してしまう。現に内側から除除に、除除に崩壊の音が鳴り始めているみたいだし。軍にいる君ならわかるよね?」
「そう。アレックスが言う通り、先だって、あのミカエリス将軍が罷免されて処刑されました。あれだけ人望があって歴戦の将だったあの方が、あのような野卑な事件を起こすわけがない。にも関わらず、事件そのものが全く黙殺されてしまったんですよ。一部の権力に取り付かれた奴等によって…ですけど。どうやら貴方や他の軍人達も軍部で動かれていたのでしょう?事件を見直すようにとの沢山の嘆願書に貴方の名前があった」
「なっ!どっ、どうしてそれを…!」
幹部連中にもミカエリス将軍を救いたいと思っている人間がいた。だからこそのミカエリス将軍の助命活動だった。ミカエリス将軍を慕っていた中央軍の軍人を始め、東西南北軍所属の軍人、そして俺も署名した嘆願書は王への上訴を行う前に一時保管され、それは発起人でもある幹部連中が厳重に保管しているはずだ。
それにも関わらず嘆願書を軍関係者以外の者…なまじ王子と言えど未だ幼いアレクサンドロ王子は勿論、レイエス少年などが簡単にお目にかかれる代物ではない。
それにも関わらず、この子供達は言うのだ。
その厳重に保管されてるはずの嘆願書を見た、と。
愕然としている俺を見て、王子は嗤った。
「ブリッグハウス将軍。本当に君、真っ直ぐなんだね。ますます気に入ったよ」
「…南方将軍、貴方は本当に軍上層部に、ましてや王に陳情されるとでも思ったんですか?ミカエリス将軍助命の嘆願なんて」
「…は…?」
「貴方達が陳情した時には既にミカエリス将軍の処刑は決定していたんだよ。王命で…いや、皇太子命令でね?つまり、君達がした嘆願は全くの無駄だったって事。あの嘆願書は秘密裏に処分されるところだったんだよ」
アレクサンドロ王子が愉しげに言葉を紡ぐ。
それは聞き方によっては「今日のおやつはなんなの?」とでも言いそうな口調で。にも関わらず、紡がれた内容は俺の常識の範囲を意図も簡単に飛び越える。
「あのね?ミカエリス将軍の失墜の影には現元帥とあの宰相閣下がいる。ほとんど宰相の言いなりだからね、あの無能の元帥くんは。」
「貴方はご存知無いと思いますが、宰相の娘と皇太子の婚約が近く発表される事になっています。その事に声高に反対されていたのが、」
「そのミカエリスと言うわけだ。まあ陰謀めいた割には深くも無ければ面白くもなんともない。のう、南方将軍。お主も顔ぐらいは見たことがあるだろう?宰相マルケス家の、あの娘」
くくくと口許を歪めて笑った老犬に、頷いて肯定を示す。
アンナマリア・フローレンス・マルケス
現宰相、ロドリゴ・マルケスの愛娘にしてルグレス社交界の華。
誰しもが魅了されずにはいられない華やかな美貌と、男の本能を擽る肉欲的な身体。立ち上る色香に、思わず聞き惚れる甘い声。
アンナマリア。
彼女が会場にいるだけで、色が増す。
ルグレス社交界にアンナマリア無しとまで言われた、名花中の名花。
しかしその実態は、場末の娼婦と見紛うばかりの醜悪な男好きでもある。
自分が気に入った男は手辺り次第に誘惑し、恋人や婚約者がいようがお構いなし。
節操が無いと断じてしまえば楽なのだが、如何せんマルケス家の令嬢である。おいそれと彼女を悪くは言え無いし、もし彼女の不貞を訴えようものならば、逆に父であるマルケス宰相によって潰されるのが関の山だ。
それで恋人・婚約者を寝取られた女性達は、アンナマリアに誘われた男の方から一方的に別れを告げられる。男達はと言うと、一度だけの逢瀬で完全にアンナマリアの手管に陥落し、我も我もと彼女に結婚を申し込むのである。
既に彼女の悪行は知れ渡り、名花どころか、毒花だと知れ渡っている。
にも関わらず、アンナマリアが社交界の華だと言われるのには宰相であるロドリゴの力が働いているのだ。
俺もブリッグハウス伯爵家の出であるので、とりあえずの社交界と言うモノは知っている。軍に所属しているので華やかな場には出席した事は無いが、それでも漏れ聞こえてくるのは彼女の醜聞。
人の口に戸口は立てられないとは良く言ったものである。
実際王家主催の夜会警備をしている時に、同僚が彼女に誘われてそのまま関係を持った。
その一時の快楽のツケは辺境警備と言う、明らかに帝都勤務からの左遷だった。その裏に居たのは、言わずもがなの宰相だと言うのは暗黙の了解だ。
そんな性に自由奔放な彼女の次の狙いが、まさか皇太子だとは。
「…マルケス嬢と皇太子殿下のご成婚…」
唖然として呟くと、ルーカスが鼻で笑いながらお茶に手を伸ばした。
「あの二人の事だ。とっくに既成事実は出来上がってるだろうし、あの娼婦の身体に嵌ったバカ兄貴が、あっさりと皇太子妃の椅子を差し出した事で宰相が何時になく元気だからな。全くどうしようもない奴等だ」
「ルーカスってばひどーい!僕の兄上を捉まえて『バカ兄貴』だなんて!」
「その割には目が笑ってる。アレックス」
「クリスも酷いなぁ」
くすくすと笑っているアレクサンドロ王子は、いたくご機嫌だった。
尚も微笑んでいる三人の子供を前にして、一人の老人が何を考えているのかわからない分怖かった。
「…で、でも。それが俺と何の関係が…」
「ん?ブリッグハウス将軍ともあろう人がここまで教えてあげたのに、結構鈍いんだね」
「失礼だぞ、アレックス。それに肝心の事を言ってないんだぞ。すみません、将軍。」
「いや…それより肝心の事、とは…」
この時アレクサンドロ王子と、ルーカス・レイエス。クリスにクリストファー・マサイアスが俺に教えてくれた事。
そして、俺にしか頼めないと言って俺に頼んだ内容の衝撃は生涯忘れない。
何も知らなかった方が幸せだったのかもしれないと、何度も自問自答した事がある。
しかし、いくら南方将軍に出世したからと言って、俺の一生にあるかないかの大重要分岐点だったことは間違いない。
何も知らないで一軍人として安穏と生きるのか。
それとも―-――
「『生きる伝説』の二つ名を持つ君に。是非とも僕の駒になって」
一旦言葉を切ったアレクサンドロ王子は、悪魔のように禍々しい笑顔を湛えてこう言った。
「ルグレスを…世界を創り直してみたいと思わない?」