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婚活詐欺師に全財産を奪われ自死した私、今度は彼が狙う百億令嬢になりました

作者: 熾星
掲載日:2026/07/16

婚活詐欺師に全財産を奪われ自死した私、今度は彼が狙う百億令嬢になりました



1



 恋人が消えた。


 三日前、私はまた感情を抑えきれなくなり、電話越しに別れを告げた。それきり、彼は私のLINEをブロックし、何度電話をかけても出なかった。彼が借りていた1DKのマンションまで行ってみると、管理会社から、二日前に退去手続きを済ませ、荷物もすべて運び出したと聞かされた。


 自分の狭いアパートで二日間、何も手につかないまま過ごした末に、ようやく一つの場所を思い出した。会員制婚活サロン「エテルナ」。私たちが出会った場所だ。


 ほとんど本能に導かれるように、受付と廊下を抜け、従業員用のオフィスへ向かった。朝倉怜司はパーティションで区切られたデスクに座り、パソコンで会員管理シートを更新していた。画面には、女性会員の情報がびっしりと並んでいる。


 その中に、自分の名前を見つけた。


 小川紗季、二十五歳。地方出身、私立名門大学卒業、出版社の編集アシスタント。年収四百二十万円。両親の仲は良好。恋愛経験はほとんどなく、プライドが高い一方で、恋愛相手への依存傾向が強い。自由に動かせる預金は約三百八十万円。


 自分自身でさえ、ここまで細かく分析したことはない。最後の欄には「対応状況」とあり、私の行には、こう記されていた。


「対応終了・成果報酬精算中」


 怜司はファイルを保存すると、複数のチャット画面を次々に切り替えた。失恋したばかりの看護師を優しく慰め、一人暮らしの女性教師を褒め、別の女性には、二人の将来のために事業を始める準備をしていると匂わせている。それぞれに違う口調を使い分けながら、同時に何人もの女を口説いていた。


 そこで初めて、すべてを理解した。


 私が心から愛していた恋人は、婚活サロンに雇われ、女性から感情と金を引き出すプロの詐欺師だった。


 私は駆け寄り、彼の襟元をつかもうとした。けれど、手はその身体をすり抜けた。


 怜司は小さく身震いし、首の後ろをさすっただけで、すぐにキーボードを叩き始めた。その時になって、ようやく思い出した。


 私はもう、死んでいる。


 あの夜、携帯電話を浴室の外に置き、湯船いっぱいに水を張った。警察は、精神的な不調を背景にした自死として処理したのだろう。けれど、私を本当に最後の一歩まで追い詰めたのは、怜司から届いた最後のメッセージだった。


「だったら死ねばいい。おまえみたいな人間は、生きていたって周りに迷惑をかけるだけだ」


 もう一度彼に飛びかかろうとした瞬間、背後から強い力に引かれた。オフィスが急速に遠ざかり、私は光のない闇へ落ちていった。


 次に目を開けると、白い狩衣をまとった女が霧の中に立っていた。名は九夜。現世に残された魂を導くことのできる、最後の巫女だという。


「強い悪意を抱き、自分という存在に異常なほど執着する魂が必要なの。法器を完成させるためにね」


「朝倉怜司は、その条件にぴったりよ」


 私は半透明になった両手を見下ろした。


「生きていた時でさえ勝てなかった。今は触れることもできないのに、私に何ができるの?」


 九夜の袖がわずかに揺れ、暗い赤色の小さな蛾が指先に止まった。


「一時的に、九条綾乃の身体へあなたを送る。彼女は事故で昏睡していて、魂は身体を貸すことに同意している。あなたは彼女の執着を断ち切り、彼女はあなたに復讐の機会を与える」


「殺す必要はない。あの男が最も得意とする方法で、すべてを支配していると信じ込ませてから、その確信をあなたの手で壊しなさい」


「恐怖、羞恥、欲望、怒り。そのすべてが同時に制御を失った時、私は彼の心の奥底へ入り込める」


 赤い蛾が、指先で羽を震わせた。


「これは霊通赤蛾。標的が今、何をしているのかを見せてくれる。ただし映像を残すことはできないし、現実世界の証拠にもならない」


 私は九夜を見つめた。


「期限は?」


「七十七日」


 言葉が途切れると同時に、赤蛾が私の手のひらへ飛び込んだ。


 私は勢いよく目を覚ました。身体の下には、沈み込みそうなほど柔らかなマットレスがある。広く静かな部屋の窓からは、丁寧に手入れされた庭が見えた。壁も家具も照明も華美ではない。それでも、どれもが控えめな高級感を漂わせていた。


 鏡の前まで歩き、見知らぬ顔と向き合った。白い肌に整った目鼻立ち。肩の後ろへ流れる長い髪。ベッドサイドには会員制医療機関の薬袋があり、氏名欄には「九条綾乃」と書かれている。


 本当に、別の女の身体へ生まれ変わったのだ。



2



 ウォークインクローゼットは、以前私が借りていた部屋全体よりも広かった。服は季節と用途ごとに並べられ、宝飾品やバッグは温度管理されたガラスケースに収められている。私は目立つものを避け、端正なアイボリーのワンピースに濃色のジャケットを合わせ、ロゴのない革のバッグを選んだ。


 九条綾乃は、ブランド名を全身に貼りつける必要などない。


 運転手はすでに本邸の玄関前で待っていた。携帯電話の予定と連絡先を確認し、この身体の持ち主がどんな人物なのかを把握していく。


 九条ホールディングス会長の一人娘、二十六歳。家族信託、投資ファンドの持分、不動産などを所有し、本人が動かせる信託資産だけで約百二十億円。私立名門大学の文学部芸術学科を卒業後、美術館の財団や文化支援事業に長く関わってきた。怜司にとって、これ以上魅力的な標的はない。


 二時間後、私はエテルナの受付ロビーにいた。担当カウンセラーは本人確認書類、独身証明書、職業に関する資料を確認し、契約内容、クーリング・オフ、中途解約について順に説明した。表向きは、結婚相手紹介サービスとして必要な手続きをきちんと整えている。


 私は最上位のプライベート・コンシェルジュプランを選んだ。入会金と半年分のサービス料は、合わせて百六十五万円。資産状況の欄に「百二十億円」と記入すると、カウンセラーのペン先が止まった。


「九条様、エグゼクティブ会員同士のご紹介には、年収や資産状況の確認が必要となります。詳しい資料は、顧問弁護士かファミリーオフィスから直接お送りいただければ結構です。原本をこちらでお預かりすることはありません」


「秘書から連絡させます」


「承知いたしました。どのような方をご希望でしょうか」


 私はペンのキャップを閉じた。


「まずは、そちらがどんな方を紹介できるのか見せてください」


 カウンセラーは丁寧な笑顔を崩さなかったが、視線が私の服とバッグの上で一瞬止まった。それらが高価な品だとは分かっていても、百億円を自由に動かせる人間が一人で婚活サロンへ来るとは信じていないらしい。私は説明せず、席を立った。


 ビルを出てから手のひらを開き、そっと息を吹きかけた。赤蛾が何もない空間から現れ、自動ドアの隙間を抜けていく。すぐに、受付ロビーの光景が目の前に浮かんだ。


 落ち着いた足音が、オフィスの奥から近づいてくる。


「さっきの人が、資産百二十億って書いた会員?」


 聞き慣れた声に、指先が冷たくなる。怜司は受付まで来ると、私の申込書を手に取った。カウンセラーが小さく鼻を鳴らす。


「証明書類は追加で出してもらうことになっています。夢見がちな人か、家の資産まで全部自分のものとして書いたかでしょうね」


 怜司は基本情報のページをめくり、写真の上で目を止めた。


「本人確認は通ってる。服もバッグもレンタルじゃない。百二十億が少し盛られていたとしても、本人が動かせる金は相当あるはずだ」


「朝倉さんが担当するんですか?」


「俺に回して」


 彼は笑った。


「百二十億もあるなら、将来の夫の起業に二、三千万出すくらい、たいしたことじゃないだろ」


 二人は、意味を共有した者同士の笑い声を上げた。


 三日後、エテルナから電話が入った。


「九条様、条件の合う男性会員を一名お選びしました。まずはプロフィールをご覧になりますか?」


「送ってください」


 ほどなくPDFがメールに届いた。


 朝倉怜司、二十八歳、身長百八十五センチ。英国の名門ビジネススクール修了。外資系プライベートエクイティファンドの投資マネージャー。個人金融資産約三十億円。英語とフランス語に堪能で、趣味は馬術、セーリング、現代美術、文学。


 プロフィールには、選び抜かれた写真が添えられていた。クルーザーのデッキ、ビジネスクラスのラウンジ、海辺の別荘、チャリティーガラ。ガラス張りのオフィスで撮られた横顔まである。どれも、彼が若く、裕福で、品があり、人生の楽しみ方を知る男だと証明するための写真だった。


 思わず口元が緩んだ。


 前の人生で私が受け取ったのは、別のプロフィールだった。地方で育ち、受験だけを頼りに名門大学へ進んだ普通の女に合わせ、怜司は年収千二百万円のシステムエンジニアとして作り込まれていた。作業着でサーバールームに立ち、真剣な顔を見せる写真。その横には、「華やかな人付き合いより、穏やかな家庭を大切にしたい」と書かれていた。


 同じ男が、顧客の心の隙間に合わせ、まったく別の商品へ作り替えられている。


 私はカウンセラーへ返信した。


「まずは連絡を取ってみます」



3



 怜司はすぐに私のLINEを追加しなかった。前の人生と同じやり方だ。最初に待たせ、期待を不安へ変え、ちょうどいいタイミングで姿を現して喜びを与える。関係が始まる前から、相手の意識の半分を自分に向けさせる手口だった。


 三日後、友だち追加の申請が届いた。私は承認しなかった。五日目に二度目の申請が来て、ようやく許可する。ほとんど同時にメッセージが表示された。


「九条さん、はじめまして。しばらく地方へ出張していて、戻ってからも投資委員会の資料作成に追われていました。ご連絡が遅くなってしまい、本当に申し訳ありません」


 私は携帯電話を脇に置き、古い映画を一本見終えてから返信した。


「気にしないでください。私も最近忙しくて、今気づきました」


 それきり、彼から返事はなかった。私も追わなかった。


 その後の一週間は、綾乃が本来送っていた生活をなぞった。ブランドの受注会、財団の晩餐会、招待客だけの小さなアートサロン。週末には急きょ欧州まで展覧会を見に行き、帰りのプライベートラウンジから窓の外を撮った写真も載せた。それらを少しずつInstagramへ投稿していく。


 怜司から新しい連絡は来なかった。けれど赤蛾を通して見れば、彼が毎日、私のアカウントを繰り返し調べていることが分かった。


 最初は、レンタルドレスと撮影用の場所で身分を飾り立てた「偽令嬢」だと思っていたらしい。けれど、一般には公開されない財団の内覧会、九条家と長く取引のあるプライベートバンカー、名家出身の知人たちが投稿に現れるにつれ、自分の判断が間違っていたと気づいた。


 その日の夜、怜司は五万円を払い、恋愛攻略をうたうオンライン個別講座を申し込んだ。画面の向こうには、黒崎と名乗る男がいる。


「大物に当たった。これはあんたに手伝ってもらわないと無理だ」


 黒崎はマイクの音量を少し下げた。


「どんな相手だ?」


「九条綾乃。最初は、金持ち狙いで身分を盛ってる女だと思った。でも、本当に九条家の一人娘かもしれない」


「アカウントを送れ」


 数分後、黒崎は黙り込んだ。


「ほぼ本物だな。このクラスは、俺も実際に相手をしたことがない」


 怜司の表情が曇った。


「じゃあ、この上級講座に払った金は何なんだよ」


「焦るな。どれだけ身分が高くても人間だ。恋愛を求めているなら、必ず穴がある。今までと同じようにやれ。ただし、早い段階で金の話はするな」


「それだけ?」


「過去の交際相手を洗え。本人が本当に手放せていない相手を探すんだ。講座代は半分返す。残りは相談料だ」


 怜司は不満そうに背もたれへ身体を沈めた。黒崎が笑う。


「今までの見事な実績を思い出せ。十人以上の女を破産寸前まで追い込んだんだ。今回は難易度が少し高いだけだろ」


 怜司の目に、再び光が戻った。


 私はゆっくりと拳を握った。彼らが「実績」と呼ぶものに、私も一件分、貢献している。


 生まれ変わった後、あの会員管理シートで見た名前を一人ずつ調べた。「対応終了」とされた十六人のうち、一人は自死していた。過去の私だ。五人は重い精神症状で長期治療を受け、六人は中等度以上のうつ病と診断され、以前の職場を離れていた。


 残る者たちは公に助けを求めていなかった。ただ、消費者金融、リボ払い、個人間融資で作った借金を抱え、以前いた生活圏からひっそり姿を消している。


 今の私には金がある。誰かに頼み、直接始末することもできるのではないか。そう考えた瞬間、九夜の声が頭の中に響いた。


「その身体で罪を犯せば、すぐに返してもらうわ」


 私は指の力を抜いた。


 殺すだけでは、あまりにも安い。


 あの男自身を、これまで他人のために用意してきた罠へ歩かせる。


 数日後、怜司から新しいメッセージが届いた。


「今週末、時間はありますか? 落ち着いた雰囲気のフレンチがあるんです。季節のコースがとても評判で」


「最近は会食が多いので、難しいと思います。お誘いはありがとうございます」


 すぐに返事が来た。


「分かりました。時間ができたら、いつでも連絡してください」


 文章には余裕があるのに、返信の速さが焦りを隠せていない。その後の数日間、怜司はInstagramを頻繁に更新するようになった。深夜まで明かりのついたオフィス、プロジェクトのキックオフ会議、現代美術館の展示、英字の経済誌の横に置かれたハンドドリップコーヒー。


 作り込みすぎたエリートの日常に、こちらから投稿文を直してやりたくなるほどだった。


 やがて彼は、九条綾乃の過去に突破口を見つけた。


 橘玲央。


 家柄も教養も容姿も申し分なく、綾乃が長年忘れられずにいた相手。ただ一つの問題は、玲央が一度も彼女を愛さなかったことだ。


 怜司は十分すぎるほど調査を重ね、一つの偶然を演出した。



4



 その日は、美術財団の会員と寄付者だけを招いた内覧会だった。旧華族の邸宅を改装した会場には柔らかな照明が落ち、客たちはシャンパンを手に、作品の前で声を抑えて言葉を交わしている。


 淡い紫のドレスでメインホールへ入り、給仕のトレーからグラスを取った時、少し離れた場所に怜司の姿を見つけた。


 金色の細いフレームの眼鏡をかけている。ライトグレーのスーツの仕立て、ネクタイの色、額にかかるわずかに巻いた髪まで、玲央が以前、公の場に出た時の装いによく似ていた。


 数秒だけ彼を見つめた。怜司は一枚の絵の前に立ち、私にはまるで気づいていないふりをしている。私はその隣へ歩み寄った。


「この作品、お好きなんですか?」


 振り向いた彼の目に、計算された驚きが一瞬だけ浮かんだ。


「筆致が繊細で、色の重なり方もきれいだと思っていました」


「私には、技法を積み上げただけに見えます」


 私はグラスを軽く揺らした。


「訓練を積んだことは分かるけれど、作家が本当に残したかったものが見えない」


 怜司はわずかに間を置き、穏やかに笑った。


「芸術に一つの正解はありませんから。隣には印象派以降の作品もあります。そちらの方が、お好みに合うかもしれません」


 昨夜、印刷した展覧会評を相手に、夜中まで暗記していた言葉だ。それを今は、思いつきのように口にしている。


「一瞬の光や色に頼って感情を作る作品が、必ずしも深いとは思いません」


 私は目を上げた。


「本当に残るものは、最初の視覚的な衝撃だけでは終わらないでしょう」


 彼は反論せず、軽く肩をすくめた。玲央がインタビューでよく見せていた仕草だった。私が見つめていることに気づくと、怜司の口元にかすかな笑みが浮かぶ。


「まだ、お名前を伺っていませんでしたね」


「九条綾乃です」


「九条さん?」


 驚いたように目を見開き、すぐに笑顔へ変えた。


「あなたでしたか。何度かお会いする機会を作れないかと思っていたんです。こんな場所で偶然お目にかかれるなんて、やはりご縁があるのかもしれませんね」


 私は、今ようやく思い出したような顔を作った。


「あなたは……朝倉さん」


「覚えていただけて光栄です」


 冷たい反応にも彼は引かなかった。それどころか、自分の狙いが正しいという確信を深めたようだった。


 ちょうどその時、携帯電話が鳴った。怜司は画面を確認すると、急に表情を引き締めた。少し離れた場所で声を落として短く応答し、戻ってきた時には申し訳なさそうな顔になっている。


「会社が関わっている公益基金の案件で、急な問題が起きました。寄付企業から、今夜中に計画を見直してほしいと言われまして。すぐ戻らなければなりません」


「お仕事なら仕方ありません」


「今日は本当に失礼しました。次はきちんとお詫びさせてください」


 彼は軽く頭を下げ、足早に会場を出ていった。私はその背中を見送り、グラスに残ったシャンパンを飲み干した。


 玲央に似せた姿で印象を残し、最も効果的なところで立ち去る。会話には公益基金や寄付企業という言葉を混ぜ、架空の経歴を本物らしく見せる。前の人生と本質は何も変わらない。ただ相手が、普通の編集アシスタントから大企業一族の令嬢へ変わっただけだ。


 数日後、彼から誘いが届いた。


「この前は、ゆっくりお話しできなかったことがずっと気になっています。郊外に会員制の乗馬クラブがあるのですが、環境もとてもいいんです。一緒に行きませんか?」


 今度は三十分だけ待たせた。


「明後日の午前なら」


 約束の日、怜司はクラブの入口で先に待っていた。身体に合った乗馬服を着こなし、姿勢もいい。遠目には、幼い頃から上流階級の習い事に親しんできた男に見える。


「今日の装い、とてもお似合いです」


 軽くうなずき、私はそのまま厩舎へ向かった。毛艶のいい一頭のサラブレッドが目に留まる。


「この馬にします」


 スタッフが予約表を確認した。


「こちらは上位会員様向けの特別貸出馬で、半日二十八万円となります。専属インストラクターも別途必要です」


 怜司の笑顔が、一瞬だけ固まった。


「体高がありますし、女性の初心者には少し難しいかもしれません」


「子どもの頃から乗っています」


 彼はクレジットカードを取り出すしかなかった。


「では、彼女の希望どおりにお願いします」


 プロテクターを着けた後、私はクラブが用意する上位モデルへの交換を頼んだ。馬に乗って間もなく、インストラクターに終始付き添ってもらい、スタッフにはプロ用の撮影機材で騎乗中の写真を残すよう頼む。どれも追加料金がかかる。


 怜司はずっとそばにいたが、その笑顔は次第に薄く、硬くなっていった。乗馬を終えた頃には、もう夕方が近い。


「ここで食事をしていきましょう」


 メニューを開き、シェフのおまかせコースと、少し古いヴィンテージのブルゴーニュを注文した。


「せっかく来たんですもの。遠慮する必要はないでしょう」


「もちろんです。あなたが楽しんでくれるなら」


 帰る頃、会計は六十八万四千円になっていた。怜司はわざと半歩遅れ、私が自分から支払いを申し出るのを待っているようだった。私はカウンターの前に立ち、何も言わず彼を見る。


 結局、彼は自分のカードを差し出した。サインをする指先に、わずかに力が入っていた。



5



 九条家へ戻ると、コートを脱ぐなり赤蛾を呼び出した。怜司は自宅で黒崎と通話している。住んでいるのは、駅に近い築浅の1LDKマンション。家具も画面に映る範囲まで計算して配置され、現実の暮らしが分かるものは何一つ見当たらない。


 今は、いつもの穏やかな顔が完全に消えていた。


「今日だけで七十万近く使わされた。この調子じゃ、あの女から金を引き出す前に、こっちが潰れる」


「正式なデートは、まだ一回目だろ」


「普通の女なら、少しくらい遠慮する。あいつ、最初から最後まで俺が払うのを待ってたんだぞ」


 黒崎が笑った。


「九条家の一人娘を狙ってるんだろ。食事を何回か奢った程度で落とせる女なら、とっくに誰かのものになってる」


 怜司はソファに身体を沈め、今日払った金額を一つずつ並べて不満を吐き続けた。私は携帯電話から、彼の口座へ百五十万円を振り込んだ。摘要欄には一言だけ入力する。


「今日はありがとうございました。まだ友人ですし、借りを作るのは好きではありません」


 入金通知を見た怜司は、勢いよく起き上がった。


「百五十万、振り込んできた!」


「すぐ返せ」


「なんでだよ。今日使った金は本物だぞ」


「会計は七十万にも届いてない。それなのに百五十万だ。礼じゃない、試してるんだよ。その金を平然と受け取ったら、女の金を当てにする男だと判断される」


 怜司は画面を見つめたまま、明らかに惜しそうな顔をした。


「じゃあ、六十万以上が丸損か?」


「これまで女からいくら取ってきた? その程度の先行投資もできないのに、名門一族の婿を狙うつもりか」


 黒崎は少し間を置いた。


「この案件が成功するなら、初期費用の一部は俺が出してもいい。その代わり、あの女から得た金の半分をよこせ」


 怜司はようやく納得し、翌朝、百五十万円を私の口座へ送り返した。


 数日後、彼からイベントの案内が届いた。旧華族邸宅で、土曜日に和装文化サロンが開かれるらしい。茶道、香道、骨董鑑賞が予定されている。


「あなたが好きそうだと思って。ご一緒しませんか?」


 庭園で待っていた怜司は、落ち着いた色の着物と羽織を身につけていた。手にしている扇子まで、玲央が過去に伝統文化の催しで使っていたものによく似ている。


 私は彼を見つめ、わざと一瞬だけ我を忘れたような顔をした。視線が重なる前に目をそらす。怜司の目に、得意げな色が浮かんだ。


 その夜、彼は待ちきれない様子で黒崎に報告した。


「今日、俺を見る目が変わった。やっぱり橘玲央を忘れられてない」


「そのまま続けろ。まずは代わりとして意識させて、そのうち本物よりおまえの方が自分を理解していると思わせるんだ」


 その後、何度か誘われるたび、私は以前のように冷たくあしらうのをやめた。小さな室内楽の演奏会にも同行し、綾乃が好きな作品を扱うというプライベートギャラリーにも足を運んだ。


 会うたびに、怜司は服装や仕草、話し方のどこかを玲央に似せながら、わざと少しだけ自分らしさを残している。


 私の態度は徐々に柔らかくなり、時には十数万円ほどの小物を贈った。赤蛾が映す怜司は、自宅でよく鼻歌を歌うようになっていた。私が贈ったカフリンクスを着けたり外したりしながら、鏡の前で何度も角度を確かめる。すでに九条家の一員になった自分を想像しているようだった。


 そろそろ頃合いだ。


 私はメッセージに返事をしなくなった。電話が鳴れば切り、催しへの誘いもすべて放置した。


 前の人生で、怜司が私に使った方法だ。関係が安定し始めたところで突然、関心を引き上げる。取り残された側は、自分に何か落ち度があったのではないかと考え始める。以前の優しさを取り戻すために、自ら基準を下げ、相手から返事が来るだけで救われたように感じるようになる。


 一か月が過ぎた頃、怜司はもう余裕を保てなくなっていた。部屋の中を行き来しながら、私に費やした時間と金を何度も計算し、チャット画面を開いては閉じている。


 私は彼の口座へ五百万円を振り込んだ。入金通知が表示されると、怜司はソファから立ち上がった。続けて、長いメッセージを送る。


「このお金は、これまで私に付き合ってくれたことへのお礼です」


「エテルナであなたが本当は何をしているのかも、なぜ玲央をまねていたのかも、もう知っています。随分と調べたようですが、ここまでにしてください」


「あなたを見ると、彼を思い出す時があります。でも、あなたのまねが彼を侮辱しているように感じる時もある」


 怜司は携帯電話をカーペットへ投げつけた。数秒後には拾い上げ、入金を確かめている。罵倒の文章を長々と打ち込み、送信ボタンの上で指を止めた後、すべて消した。


 そのまま黒崎へ電話をかける。


「あの女、俺がサロンの交際担当だと知ってる。橘玲央をまねしてたことまで」


「金は?」


「五百万。もう口座に入ってる」


「なら、続けろ」


 怜司の呼吸が少しずつ落ち着いていく。


「正体を知られたんだぞ」


「正体を暴いた後に五百万も渡す女が、興味を失っていると思うか? 本当にどうでもよければ、本人じゃなく弁護士から連絡が来る」


 黒崎の声には確信があった。


「今度は代役だけを演じるな。少しずつ弱みを見せて、本当のおまえを知ったと思わせろ。名家の女は、普通の女以上に、自分なら誰かを救えると信じたがることがある」


 怜司はしばらく黙った。


「分かった」


 私は赤蛾の視界を閉じ、九条ホールディングスの法務責任者へ電話をかけた。


「エテルナの買収は、どこまで進んでいますか?」


「独立系の投資会社を通じて、すでに議決権の過半数を取得しています。旧株主には財務投資だと説明しており、九条ホールディングスの関与には気づいていません」


「内部監査を始めてください」


「重点項目は?」


「会員情報の利用方法、従業員の成果報酬制度、架空プロフィール、それから会員に借入を促していないか」


 私は窓の外へ目を向けた。


「電子データはすべて証拠保全を。まだ、相手には気づかれないようにしてください」



6



 三日後、エテルナで全従業員を集めた説明会が開かれた。新しい代表取締役は、エグゼクティブ会員向け事業の再編、給与と評価制度の見直し、外部弁護士と情報セキュリティ会社によるコンプライアンス調査の実施を発表した。


 怜司は監査に興味を示さなかった。「プレミアム会員事業の中核人材には、長期インセンティブを用意する」という説明を聞いた時だけ、明らかに表情が変わった。


 説明会が終わると、彼だけが会議室に残された。新任の代表取締役が、一枚の任用意向書をテーブルへ置く。


「朝倉さんには、富裕層の女性会員を対象にした事業を担当してもらいたいと考えています。正式な任命まで三か月の選考期間を設けますので、事業計画と過去の成功事例をまとめて提出してください」


「ありがとうございます。期待に応えられるよう、全力を尽くします」


「必要な経費は会社が負担します。法人カードの利用限度額は五百万円。すべて領収書が必要です。個人口座への振替は禁止します」


 さらに、新しい名刺が入った箱が差し出された。


「エテルナ プレミアム会員事業部 統括マネージャー」


 怜司は一枚を手に取り、しばらく視線を離さなかった。


 これまで彼は、借り物のクルーザー、時間貸しの会議室、偽造した経歴を使ってエリートを演じてきた。今度は本物の会社が、肩書と予算、富裕層の社交界へ近づく機会を与えたのだ。


 ようやく婚活詐欺師をやめ、別の人生へ進める。彼はそう信じ始めた。


 会社を出た後、怜司は私から受け取った五百万円を振り込み返した。メッセージはなかった。私は同じ金額を、再び彼の口座へ送り返した。


 その後、一週間、互いに連絡を取らなかった。


 怜司のInstagramに、プライベートクルーザーの写真が投稿された。文章は短い。


「過去に別れを」


 私は夕暮れの海を載せた。


「思い出の中にしか置けない人もいる」


 三十分もしないうちに、メッセージが届いた。


「少し時間をいただけませんか? あのお金を、直接お返ししたいんです」


 答える代わりに、玲央の古い写真を一枚送った。


「片づけをしていたら、昔の写真が出てきました」


 二時間以上たってから、ようやく返事が来た。


「橘さんは、本当に魅力のある方ですね。これまでの失礼な振る舞いをお詫びします。あなたの言うとおり、他人をまねて近づくべきではありませんでした」


「私もあの日は機嫌が悪くて、言い過ぎました」


「気にしないでください。私も過去から抜け出せずにいます。ただ、理解してほしいと言える立場ではありません」


 さらに一時間後、もう一度、金を返したいと連絡してきた。今度は、高級ホテルのラウンジを指定した。


 会った時、怜司は簡素なダークスーツを着ていた。金縁の眼鏡もなく、玲央を意識した様子もない。


「お久しぶりです」


 彼が椅子を引いた。私は腰を下ろし、コーヒーカップを手に取る。


「あの五百万円は、持っていてください。あなたを別の人として見ていたことへの埋め合わせです」


 怜司は困ったように笑った。


「あなたは、いつも率直ですね」


 私は答えなかった。彼の視線が顔に留まり、この一か月の冷たさで本当に心が揺れたのかを探っている。コーヒーの湯気がゆっくり薄れていく中、過去の自分を思い出した。


 大学を卒業するまで、両親は勉強と就職だけに集中しろと言い続けた。地方の県立進学校から私立名門大学へ進み、文学部日本文学科で学びながら、編集・出版実務の講座も履修した。二十二歳で出版社に入った途端、家族は急に結婚を急かし始めた。


 まともな恋愛をしたこともないのに、早く信頼できる男性を連れてこいと言われる。そんな時に現れたのがエテルナだった。


 怜司は私の資料を見るなり、刺激ではなく、安定と肯定、そして誰かに真剣に選ばれることを望んでいると見抜いたのだろう。


 出会った頃の彼は優しく、慎重で、決して無理に距離を縮めようとしなかった。私が残業する日を覚え、深夜まで原稿整理に追われていれば温かい飲み物を届けてくれた。同僚さえ興味を示さないような細かな話にも、真剣に耳を傾けた。


 交際が始まると、二人の暮らしのためだと言って金を借りた。最初は起業資金の一時的な不足。次は投資案件に生じた急な穴。預金が尽きると、消費者金融の申込条件まで代わりに調べ、クレジットカードのリボ払いも使わせた。


 借りられる枠をすべて使い切った途端、服装や仕事、家族を見下すようになった。少し反論すれば連絡を絶つ。私が不安に耐えられなくなる頃、贈り物を持って戻ってきて、自分は幼い頃に愛されたことがなく、正しい関係の築き方を知らないのだと謝った。


 優しさと無視を繰り返されるうちに、私は判断力を失った。やがてうつ病と診断され、彼を引き留めるために死ぬと口にするようになった。そして、怜司から届いた最後の一文が、前の人生で目にした最後の言葉になった。


 記憶から意識を戻すと、彼と目が合った。私はすぐに視線を伏せ、カップの中のコーヒーを見る。


 怜司の理論では、気位の高い人間が突然目を合わせられなくなるのは、心が揺れている証拠だった。


 彼は小さく息を吐いた。


「私を軽蔑していることは分かっています」


 私は何も答えなかった。


「でも、最初から人をだましたかったわけではありません」


 怜司はカップの縁を指でなぞった。


「私は地方の小さな町で育ちました。父はパチンコと競馬にのめり込み、母は酒を手放せなかった。毎日のように喧嘩をして、家の物を壊すこともありました」


「大学へ進めば、やっとあの家から逃げられると思っていました。卒業後に金融会社へ入り、生活が落ち着き始めた頃、初恋の相手に裏切られたんです」


 声が次第に低くなる。


「私は必死に働いて、二人の未来を作ろうとしていた。それなのに彼女は、金のある男とホテルで会っていました。プロポーズをした日、彼女は皆の前で私を拒絶した」


 怜司は顔を上げた。


「それから愛情を信じられなくなり、間違った方法で人を傷つけるようになったんです」


 テーブルの上に置いていた私の手を握った。


「何をしてきたか知っているのに、あなたは今も会ってくれている。あなたには、私が今まで見たことのないほど、人を愛する力がある」


「今ここにいるのは、一度は沈んだまま戻れなくなった、それでも普通の人生へ戻りたいと思っている人間です」


 彼の指に、少しだけ力が加わる。


「私を、引き上げてもらえませんか?」


 ここに座っているのが本当の綾乃なら、この芝居に同情したかもしれない。


 だが私は、彼に沈められた人間を知っている。


 その一人は、私自身だ。



7



 私は顔を上げ、怜司の目を見た。


「よくできた話ですね」


 彼は、ようやく緊張を解いたように見えた。


「演技も見事です」


 その表情から、柔らかな笑みが消えた。


 私はバッグから調査資料を取り出し、彼の前へ滑らせた。


「朝倉怜司という名前は、あなたの戸籍名ではありません」


 一枚目には、戸籍情報と過去の刑事事件に関する記録がまとめられていた。


「田島剛志。ごく普通の会社員家庭に生まれた。父親は地方銀行勤務、母親は市立図書館の職員。裕福ではなかったけれど、食べるものにも困っていない。酒に溺れた親も、賭け事で家を壊した親もいなかった」


 怜司の顔から、少しずつ血の気が引いていく。


「大学卒業後は中堅証券会社に入社し、安定した収入を得ていた。会社を辞めた理由は、初恋相手の裏切りではなく、刑事事件です」


 彼は椅子を蹴るように立ち上がった。


「俺を調べたのか?」


「大学時代、交際相手を長期間監視し、友人との連絡を制限した。別れを切り出された後は、彼女を部屋に閉じ込めて暴力を振るい、オンラインアカウントを不正に使って私的な情報まで拡散した」


 次のページを開く。


「彼女はその後、自ら命を絶った。検察は死亡そのものについて殺人責任を問わなかったけれど、あなたは監禁、傷害、脅迫などの罪で、拘禁刑二年の実刑判決を受けた」


 怜司の唇が動いたが、声は出なかった。


「出所後、顧客には朝倉怜司と名乗り、エテルナで交際担当として働き始めた。そして、プレミアム会員を扱うまでになった」


 私は資料から手を離した。


「社会にこの道を選ばされたわけじゃない。人を支配することが好きだっただけ。まともに暮らしていた人が、あなたのために自分を疑い、家族を遠ざけ、最後には金をすべて差し出す。その過程を見ることが、楽しくてたまらなかった」


 彼はテーブルに手をつき、喉を絞るような声を出した。


「おまえは……何者なんだ」


 私は席を立ち、一歩近づいた。


「知ってのとおり、九条綾乃です」


「そして、今のエテルナを実質的に支配している株主でもある」


 彼の瞳孔が大きく開いた。


「内部監査では、すでに証拠保全が終わっています。会員分析シート、架空プロフィールの雛形、借金をさせるための話法、従業員の成果報酬記録。それに、あなた自身が提出したプレミアム会員攻略の事業計画書も、すべて外部弁護士の手元にある」


 怜司はよろめき、後ろへ下がった。椅子の脚が床を激しくこすり、不快な音を立てる。私は彼の前で足を止めた。


「小川紗季を覚えていますか?」


 全身が震えた。彼の視線は私の顔を通り越し、そこに別の人間を見ている。


「紗季……?」


 椅子を倒し、その場へ無様に尻もちをついた。静かだったラウンジで、周囲の客が一斉にこちらを振り向く。怜司は恐怖に引きつった顔で、私を見上げた。


「おまえは九条綾乃じゃない」


 ほとんど透明になった赤蛾が、彼の襟元に止まっている。


 自分という存在を支えていたものが、ついにひび割れた。


 もう一言、何かを告げようとした時、怜司の身体が突然硬直した。


 数秒後、顔から恐怖がきれいに消えた。両脚をそろえ、身体にぴったりしたスカートを履いた若い女のような動きで、ゆっくり立ち上がる。スラックスの両脇を軽く払い、そこにはない裾を整えた。


 驚きと疑いの視線が集まる中、顎をわずかに上げ、優雅な足取りでラウンジを出ていった。


 その背中を見ながら、思わず笑みがこぼれた。


 九夜の復讐は、想像していたよりずっと悪趣味だった。



8



 その後の十六日間、怜司の身体には、次々と違う女性の意識が現れた。


 社会に出たばかりの若い会社員。子どもを一人で育てている母親。言葉を慎重に選ぶ教師。制服のまま病院で夜勤をしていた看護師。それぞれ話し方も、好む服も、化粧の仕方も違うのに、誰かと顔を合わせるたび、同じ名で相手を呼んだ。


「朝倉怜司」


 目の前にいる人間へ向けるまなざしは、優しすぎて、かえって背筋が寒くなるほどだった。


 ある意識は会社の会議室で男性社員の手を握り、怜司がかつて使った愛の言葉を繰り返した。別の意識はコンビニエンスストアで突然しゃがみ込み、見知らぬ女性に、捨てないでほしいと泣きながら謝った。


 仲間たちを最も恐れさせたのは、被害者しか知り得ないことを、正確に口にしたことだった。振込をした日付。消費者金融の利用限度額。深夜に届いた侮辱的なメッセージ。相手が壊れていく時、怜司がどんな顔をしていたか。


 どれも、本人と被害者しか知らないはずのことだった。


 家族は、最初こそ精神に異常を来したのだと思ったらしい。けれど、過去に彼と組んでいた者たちは次第に距離を取った。自分の名を口にされることを恐れる者。夜通しチャット履歴を削除する者。会社へ連絡し、内部監査の状況を探ろうとする者もいた。


 十六日目の朝、すべての異常が突然消えた。


 怜司は自宅のベッドで目を覚まし、その間に起きたことを何一つ覚えていなかった。携帯電話には大量の不在着信と見覚えのない写真が残っている。クローゼットには買った覚えのない女性物が数着かかり、化粧台には色の違う口紅が並んでいた。


 鏡には赤い口紅で、十六人分の名前が書かれている。その中に、小川紗季もあった。


 彼は会社へ駆けつけたが、入館ゲートを通れなかった。応接室で待っていたのは、外部弁護士と人事責任者だった。


 内部調査が始まった後、会社は登録住所へ自宅待機命令と事情聴取の通知を送付し、メールでも説明を求めていた。怜司がすべてを欠席している間に、弁護士はサーバー上のデータ、会員からの証言、本人が提出した事業計画書を基に調査を終えていた。


 エテルナは就業規則に基づき、彼を懲戒解雇した。書面による通知、退職関係の書類、支払うべき賃金なども、必要な手続きに従って処理されている。


 怜司は受け入れられなかった。


「あの企画書は、会社に書けと言われたんだ」


「会社が求めたのは、法令に従った富裕層向けサービスの提案です」


 弁護士は書類を開いた。


「あなたが提出した内容には、会員の心理的弱点を特定する方法、家族や友人から孤立させる手順、架空の投資損失を作る方法、消費者金融から借り入れさせるための誘導まで記載されています。結婚相手紹介サービスの業務とは認められません」


 会社を出る時、誰も彼を見ようとしなかった。以前親しかった同僚は、姿を見つけると遠回りする。友人は電話に出ず、家族まで、知らない人間を見るような警戒した目を向けた。


 記憶を失っていた十六日間、彼の口を借りた意識たちは、被害者の秘密をあまりにも多く語っていた。


 怜司は、全員が手を組んで自分をだましていると思い始めた。誰かが小声で話せば、自分の噂をしていると決めつける。恐れて一歩下がった相手には、何を知っているのかと詰め寄った。


 数日後には、家族へ向かって、おまえたちは何か別のものに入れ替わったのだと怒鳴るようになった。


 ある夜、鏡の中で、十六人の女が自分の背後に立っているのを見た。


 振り返っても、部屋には誰もいない。


 鏡の中からは、自分だけが消えていた。


 怜司は鏡を叩き割り、台所から包丁を持ち出して、家族に真実を認めろと迫った。通報を受けた警察官が取り押さえ、精神科救急へ搬送した。


 自傷他害のおそれがあるとして、二名の指定医による診察を経た後、措置入院となった。


 ほどなくして、彼が死亡したという知らせが届いた。


 残されていたのは、筆跡の異なる十六通の手紙だった。どれも被害者の口調で書かれており、最後の一通には、小川紗季と署名されていた。


 そこに書かれていたのは、一文だけだった。


「朝倉怜司。あなたが自分を見失うその時まで、ずっと愛している」



9



 怜司の異常が続いていた間に、九条ホールディングスが依頼した外部弁護士とデジタル・フォレンジック会社は、エテルナのサーバーから必要なデータを保全していた。


 表向き、会社は会員へ契約書面を交付し、料金、クーリング・オフ、中途解約について説明している。独身証明書や収入資料も求めていた。違法な仕組みは、限られた従業員しかアクセスできない社内システムに隠されていた。


 女性会員は、最初にいくつもの種類へ分類される。安定した結婚を望んでいる。家族との関係が悪い。恋愛経験が少ない。仕事で挫折している。預金がある。融資を受けやすい。


 すべての項目に、専用の話法と交際担当者が割り当てられていた。


 彼らが成果報酬と呼んでいたのは、結婚を成立させた際の正規の手数料ではない。架空の恋人が、女性から引き出した金額に応じて支払われる報酬だった。


 社内チャット、会員評価基準、架空プロフィール、資金の流れ。私はそれらを匿名で調査報道の記者へ渡し、同時に弁護士から県警の捜査二課へ証拠を提出させた。


 記事が出た翌日、エテルナの前には報道陣が押し寄せた。次々と被害者が警察や弁護士へ連絡を始める。銀行の取引履歴を残していた人。LINEの会話を保存していた人。なぜ突然仕事を辞めたのか、離婚したのか、借金を背負ったのか、ようやく話す決意をした人もいた。


 黒崎や「トップ交際担当」と呼ばれていた者たちは、慌ててデータを削除しようとした。しかし、サーバーはすでにフォレンジックイメージが作成され、捜査や裁判に使える状態で保全されていた。


 県警は、組織的な詐欺事件として捜査を進めた。エテルナには消費者行政当局の調査も入り、取引先や会員が相次いで契約を解除した。資金繰りはすぐに行き詰まり、会社は破産手続へ入った。


 黒崎を含む複数の関係者は、詐欺を実行し、あるいは手助けした程度に応じて逮捕、起訴され、それぞれ有罪判決を受けた。


 九条ホールディングスが、この会社を継続して運営することはなかった。被害者の法律相談、心理治療、債務整理に必要な費用の一部は、会社を清算して得た残余資産と、九条家が設立した支援基金から支払われた。


 私は、どの報道にも登場しなかった。


 世間は、九条綾乃が買収先企業の重大な不正を偶然発見したのだと思っている。


 この崩壊が、一匹の赤い蛾から始まったことを知っているのは、私だけだった。



10



 七十七日目の夜、九夜が再び夢の中に現れた。手にしている法器には、初めて会った時にはなかった暗紅色の光が宿っている。


「朝倉怜司の心は崩れた。これで契約は完了よ」


「綾乃は?」


「ずっと眠っていた。でも、あなたが経験したことは見ていたわ」


 霧の向こうに、ぼんやりとした人影が浮かんだ。静かで、感情を抑えた気配が伝わってくる。感謝でも、恨みでもない。過去をようやく見つめ終えた人が、同じように恋に囚われた人へ別れを告げているようだった。


 綾乃が身体を貸したのは、彼女自身も玲央を手放せずにいたからだ。私はその執着を利用して怜司を誘い込み、同時に彼女にも見せた。自分という存在を誰かに預けてしまえば、愛と支配の境目がどれほど簡単に曖昧になるのかを。


「もう、出ていくの?」


「夜が明けるまでに」


 私は部屋へ戻り、最後にもう一度、鏡の前に立った。この顔は、最初から私のものではない。


 玲央の古い写真を机の上へ置き、その隣に短い手紙を残した。


「人生を貸してくれて、ありがとう」


「これからは、自分のために生きてください」


 窓の外が白み始める頃、身体が少しずつ軽くなった。


 ベッドの上で、九条綾乃が目を開ける。


 私は部屋の反対側に立ち、彼女がゆっくりと起き上がるのを見守った。綾乃は机の写真を手に取り、長い間、黙って見つめた後、真ん中から二つに破いた。


 朝の光に溶けるように、私の姿が薄くなっていく。扉の外では、九夜が待っていた。


「後悔してる?」


「してない」


 前の人生で、私は死ぬ瞬間まで、怜司が一度でも自分を愛していたと認めてくれるのを待っていた。


 今なら分かる。


 生きる価値を、誰かに愛されることで証明してもらう必要などなかった。


 私は九夜の後を追い、白い霧の中へ足を踏み入れた。


 輪廻へ続く道は長かったけれど、思っていたほど寒くはない。


 次の人生では、もっと目を開いていたい。


 自由に生きて、自分自身を心から愛せる人になりたい。





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