三秒を飛ばさない日
私は三秒後へ跳んでいる。
それに気づいたのは、小学生のころだった。
事故も失言も、いつも三秒先で回避できた。
ただ、その三秒のあいだ、私は世界から消えている。
跳躍は一瞬だ。
視界がわずかに暗転し、世界が三秒ぶん進む。
会話は続きから始まる。
笑いは終わりかけている。
私はいつも、少し遅れてそこに立つ。
跳躍は選べない。
衝突や危険の直前で、無意識に発動する。
だから失言は起きない。
だから事故も起きない。
三秒後の私は、だいたい正しい。
ただし、宝くじの番号だけは分からない。
跳んだ先には、もう結果しか残っていないからだ。
そのせいで、聞き損ねた言葉がある。
昔、誰かが笑いながら言った
「ありがとう」が、
私のいない三秒のあいだに消えた。
後から聞き返したとき、
相手はもう照れていて、
同じ調子では言ってくれなかった。
それは些細なことだ。
けれど私は、
その三秒を持っていない。
私が跳ぶたびに、三秒後の世界は確定していた。
私は未来を避けていたのではない。
未来を、固定していたのだ。
ある冬の夕方、私は駅のホームに立っていた。
足元の黄色い凹凸。
一歩前は線路。
電車が近づく。
いつもなら、ここで跳ぶ。
安全な三秒後へ。
私の前で、誰かがわずかによろめく。
跳べば安全だ。
三秒後には、すべて終わっている。
けれど私は跳ばなかった。
手を伸ばす。
世界と同じ速度で。
世界は初めて、三秒のあいだ揺らぐ。
指先が触れる。
何も起きない。
それは、初めて確定していない三秒だった。
私は三秒を失ったのではない。
初めて、三秒を生きた。




