未遂
その日の夕暮れに、小春の元を訪ねてきた者があった。
「あっ! 短子さん。いらっしゃい」
「やっほー小春ちゃん」
短子がひらひらと片手を振って、鷹揚な動きで小春に歩み寄る。
「どうしたんですか?」
「ちょっと近くに来たから寄ってみたんだ。佐助は仕事中?」
「はい。あんこはどこに行っちゃったのか朝からいなくて……」
「あんこなら、ほらここに」
短子が襟元を開くと、そこにはなぜか満足気な顔をした白い毛玉がいた。
「短子さんのところに遊びに行っていたんですか?」
「うん。この前大福やら饅頭やらご馳走したから、味をしめたんだろうね」
——あんこの菓子あるか!
あんこは朝イチで短子の住居に侵入して、居丈高にそんなことを訊いてきた。
「そうだったんですね……すみません、ご迷惑おかけして。あんこ、他人のお宅に勝手に入っちゃダメだよ。物をねだるのもダメ。約束して? もうそんなことしないって」
「キューン……」
あんこは反省したようにつぶらな瞳に水分を含ませて、うるうると上目遣いで小春を見上げる。
小春は一瞬であんこを許した。
眠そうなあんこを短子から受け取り、縁側にしいた座布団の上に下ろす。
すぐにすうすうと寝息が聞こえ出し、同時に化けの皮が剥がれて子狸の姿になる。鼻提灯まで出して完全なおやすみモードである。
短子は勝手知ったる様子で縁側に腰を下ろすと、小春にも座るように促した。
「あんこを送り届けるついでに、小春ちゃんの顔でも見れたらなーって思ってさ。腕まくりしてるけど、何か仕事中だったの?」
「はい。私、さっきまで掃除をしていたんです」
短子は小春の手に視線をやり、ギョッとする。
「ちょっ……! 手めっちゃガサガサじゃん! 今にも血が出てきそー……」
短子の慌てた様子に「そんなに酷い状態なのかな」と疑問に思う小春。
「これくらいまだ平気な方ですよ。血が出るのはもう少し荒れてからです」
乾燥の季節である真冬でも、小春は隙間風入り放題の蔵で寝起きしてきた。
なので、手が荒れることには慣れっこだ。大体どの程度で皮がひび割れて血が流れるかも、長年の経験で知っている。
「小春ちゃん、ちょっと手出して」
小春が手を出すと、ぬめり気のある液体が舞い降りてきた。
「わっ。これは——」
「手のひらの中で混ぜるんだよ。そんで指の間や指先にも染み込むように、丹念に塗っていくの」
短子は説明と共に小春の手に油——現代で言うところのハンドクリームである——を塗っていく。
小春の脳裏に、懐かしい光景が浮かぶ。
あれは永爽家で家族みんなと暮らしていた頃。お転婆な小春は、冬でも庭を駆け回って遊んでいた。
そんな小春に、母が毎日欠かさず特製の油を手に塗ってくれていた。
「これがあれば手が荒れないからね」
ありし日の母と同じことを短子が言う。
「これでよしっと……ええっ!? なんで泣いてんの?」
「ごっ、ごめんなさい……! 懐かしく、なってしまって……すぐに泣き止みますから……」
「いや、別にいいけどさ。泣きたい時は泣きなよ。俺は別に気にしてないし」
小春は気を取り直すと、短子に軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。心配してくださって」
「どういたしまして。そうだ。これ小春ちゃんにあげるよ」
短子は、今しがた小春に塗った油が入っている容れ物を差し出す。
「せっかくだしあげちゃう。なんぼあっても困らないでしょ、こんなん」
「そんな……悪いですよ」
「大したもんじゃないから大丈夫だって。取っとけ取っとけ」
押し付けられるように渡されたそれを、小春は受け取った。
小春は花が咲くような満面の笑顔になる。
短子の優しさと心遣いが、胸に沁みてあたたかい。
「ありがとうございます。短子さんは良い人ですね」
小春が最高の笑顔と共にそう言うと、なぜか短子の表情が曇った。
ハッと目を見開き、我に返ったような顔になる。自分の手のひらを睨んで、さっきの行動を後悔しているような——そんな素振りを小春は不思議そうに見ていた。
「小春ちゃん。ちょっとこっちに寄ってくれないかな」
「? はい」
小春が拳ひとつ分の距離を空けて短子に近づくと、短子の喉がゴクリと鳴った。
「ごめんね」
「え——」
驚きの声が短子の口の中に吸い込まれる。
二人の唇は、ピッタリと重なり合っていた。
「んんっ……ん!?」
短子の舌が口内に入ってきて、小春は咄嗟に押し返そうとするも、逆にこちらの舌を巧みに絡め取られてしまう。必死に逃げ惑うのだが、肉厚な舌は蛇のように巻き付いて離れない。
短子の舌は、錆びた鉄のような味がした。
何この——接吻? だよね?
でもこんな接吻は知らない。こんな、まるで捕食のような——脳みそを優しく揺らされて馬鹿にされていくような——。
「!?」
痛っ!
舌に歯を突き立てられた小春は激痛に身をよじる。口内を満たす錆びた鉄の味が強くなっていく。
短子の血まみれの舌が、小春の患部に触れようとした時だった。
突如小春の体が後方に飛んでいき、二人の唇から溢れる血は糸を引いて地面に落ちた。
佐助は左手で小春の腰を抱きながら、右手で刀を抜いていた。
「なんの真似だ」
小春の喉がひゅっと鳴る。
立ち上る殺気をすぐそばで感じているだけで、膝が笑い出す。頽れそうになるのを腰に回った佐助のゴツゴツした右手がなんとか支えている。
一方短子は、息が止まりそうな殺気を全身に浴びながらも眉一つ動かさない。
無表情な顔からは、さっきまでの親しみやすい気配は微塵も感じられない。
「答えろ。お前は彼女を……小春の体を…………奪おうとしたのか」
口にしただけで彼女が汚れるとでもいうように、振り絞るような声で尋ねる佐助。
家にある物を取りに来た佐助は、縁側で小春の唇を奪っている短子を見て、目玉が落ちるかと思った。
小春が嫌がるように身を捩っているのを確認した瞬間、佐助の頭に"強姦"の二文字が浮かんで、全身の血液が沸騰するような激情に呑まれた。
短子は何かを逡巡しているように沈黙するばかりで、質問に答えない。
「答えろ!!」
佐助の声のあまりの大きさに、小春は家が揺れたような気がした。
短子はこうなってはもう仕方ない、というように肩をすくめた。
「そうだ。俺は彼女の体を奪うつもりだった。残念だったなーあと少しだったのに」
「どうして……なんでそんなことを!」
「初めて会った時から、いいなと思っていたんだ。ほしくてほしくてたまらなくなった」
短子が小春の全身を舐めるように見つめると、佐助が小春の前に立ち塞がり、彼女の身を隠した。
「卑しい視線をこの人に注ぐな。目玉を抉り取ってやるぞ」
「おーこわ」
佐助が地面を蹴ると、短子は両腕を顔の前で交錯させて、守りの姿勢を取った。
「やっぱり刀は使わない、か。優しいね〜」
「勘違いするな。この庭を血で汚すわけにはいかない」
佐助は刀を鞘に納め、素手で短子に攻撃を与えようとしていた。
「忠義だねえ〜」
短子は軽い身のこなしで佐助の拳をやり過ごすと、重い鉄拳を腹に叩き込んだ。
「ぐッ……!」
「佐助さん!」
「離れていてください! 屯所の方へ走って!」
小春は「わかりました!」と言うと、大勢の隊員たちがいる屯所へと駆け出していった。
「やっぱお前、あの子のこと大好きなんじゃん。顔やべーぞ」
「黙れ。もう何も喋るな」
佐助がそう言っている途中で、短子は再び拳を腹部に命中させる。
「カハッ……!?」
「やっぱりステゴロだと俺の方に分があるね」
それなりの距離をとったはずなのに、拳がめり込むその瞬間まで、まったく反応できなかった。
佐助は刀を抜こうと手を伸ばすが——。
「させねーよ」
「ッ……!」
刀へ伸ばした指を蹴り付けられる。バキッという音がして、激痛が指先に走る。
「どうしたん? 動き鈍いじゃん。それでも副長なの? ああ、そうか……」
憐れみと呆れが入り混じった目で佐助を見下ろす短子。
「優しいね、佐助。いくら嫌いな奴でも人間は殺したくないってか」
「当たり……前だ……! 俺の敵は殺人鬼だけだ! お前がクズの犯罪者だったとしても、俺はただ奉行所に引き渡すだけ……!」
「憎くて憎くてたまらないのに? 殺さないんだ。殺せないんだ。大事なものを奪われそうになっても」
短子はどこか嬉しそうに口の端を持ち上げてみせる。
「そういう真面目なとこ、嫌いじゃなかったぜ」
あ、変わった。
佐助は肌でそう感じた。短子がさっきのとは比べ物にならない攻撃を繰り出す予兆を感じ取ったのだ。
俺をしとめる気だ。
形勢を整える暇はなさそうだ。佐助はせめて衝撃を最小限にしようと、体に力を込めた。
その時、生温かい液体が佐助の顔にかかった。
佐助は目を開くと、その小さな黒目を限界まで拡大する。
「おい。これはどういうことだ」
統一郎の広い背中が目の前にあった。
短子が片目を押さえてうめいている。先ほど顔に飛んできた液体は短子の血だった。
「局長……」
「負傷したのか」
「い、いえ……! 問題ありません、これくらい……!」
佐助は刀を手に持ち、上司の前に出ようとするが、統一郎によって押し止められる。
「やめておけ」
「しかし……!」
「お前から躊躇いが感じられる。……あの男はお前の知人なのか」
非難と叱責を含んだ目で見下ろされ、佐助は気圧されそうになる。
「確かに俺の知り合いではありますが、俺が招いたわけではありません。知人とは言いつつも、特に親しいわけでもないです」
「そうか。ならこいつを捕らえて尋問することに異論はないな」
「……もちろんです」
佐助が頷くと、統一郎は彼に下がるように命じた。
「一瞬で片付けてやる。お前は医局に行って診てもらえ」
統一郎が腰の刀を抜くと、周囲の空気が何倍もの質量を増したように思えた。
短子は、何もする前に全身で悟っていた。
(なんだあいつ……やべえ)。
今まで出会ったどの人間・あやかしよりも、濃い覇気。こうして対峙しているだけでも鳥肌が立ち、全身の震えが止まらない。
短子はほんの数歩先に死の気配を感じ取り、これはいけない、と背後に飛びすさった。
くるりと身を翻したが最後、一目散に駆けていく。
「逃すと思うか?」
あ、と声が出た。
統一郎の刀の先が短子の背中を撫でるように切り、着物の布地を貫通して皮膚へと届いた。
赤い飛沫が上がったのが短子にもわかったが、ここで止まれば本当に終わる! と痛みを無視して腹のあたりに力を入れる。
短子は敷地全体を囲んでいる塀目掛けて、負傷しているとは思えぬ跳躍力で一っ飛びすると、あっと思う間もなく向こう側へ消えていった。
統一郎がどれほど無念だったか、取り逃がしたことを悔いたか。それは想像に難くない。
統一郎は少しばかりの血液が付着した刀身を親の仇のように睨むと、深呼吸を一つした後に鞘に納めた。
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