カマかけ
短子が帰った後、小春は掃除を始めた。
前に佐助から教えられた通り、コの字を描くように廊下を拭いていく。
少しずつやっていこう。
ゆっくりやっていけば、できないことなんてないから。
大丈夫。ここには優しい人しかいない。
小さな失敗をしたところで、殴ってくる人はいないのだ。
本当にあの日統一郎さんに出会ってよかった。
小春は、あの晩統一郎に巡り合わせてくれた神様に感謝した。
***
「怪しい薬を売っている不届き者を調査せよと、町奉行所から依頼が来た」
統一郎の言葉に、やっぱりそうなったか……と佐助は肩をすくめた。
あんこが泥棒に入った先で、その家の奥さんに振り掛けられたという怪しげな薬——その薬を売った売人は、皆目見当がつかないという。
「それにしたってこちらに頼るのが早すぎでは?」
「町奉行所も人手が足りていないのだそうだ。——ま、面倒な案件は私たちに押し付けたいのかもしれないが」
後者の理由は大きいだろうな、と佐助は思った。
しばらくは、この案件に打ち込むことになるだろうと。
「ところで、御奉行様からこんな物を賜った」
「なんですかそれは……風鈴?」
「これを家の門に吊るしておくと、あやかしが侵入した時に激しく鳴り出すのだ。ただ風を起こしただけでは音を発さない、特別な作りになっている」
ほら、と統一郎が片側の手を団扇のようにして仰ぐが、風鈴はピクリとも音を立てない。
「これを今日から門のところに吊るす」
もちろん統一郎の屋敷ではなく『魔性討伐軍』とデカデカと書かれた看板がある拠点の入り口にだ。
「小春のためですか」
「そうだ。御奉行様に昨夜襲撃されたことを伝えたらこれをくださった。ありがたいことだ」
多分、大袈裟に襲撃事件のことを語って聞かせ、圧をかけまくったのだろう。
そうでなくて、あのケチで有名な奉行がこんなそれなりに希少で値の張る道具をよこすわけがない。
あやかし除けの道具を売っている人物は、市中を探し回ればいないわけではない。
しかし、あやかしに影響のある物を作れる者は、退魔の力を持つ人物しかいない。
退魔の圧倒的名門の永爽家が小春を除き全滅した今、このような便利な物を作成できる退魔の血を引く者は、江戸内で片手で数えるほどしかいない。
この防犯道具だって安くないだろう。
「これで不届き者が侵入した際はすぐにわかるな。隊員たちにとっても良いだろう。あくまでもあやかし限定だがな。……ところで」
統一郎がかすかな圧を纏う。
「昨晩の彼女の様子はどうだった?」
机の上で組んだ両手に顎を乗せて、統一郎は佐助を見据える。
佐助は平静を装って答える。
「少々怖がっていましたが、寝る時間帯になると落ち着いてきました」
「そうか。彼女に何か頼まれはしなかったか? 例えば——」
統一郎は立ち上がり、佐助の横に来る。
佐助の肩に右手を置き、ごく小さい声で尋ねた。
「不安なので今夜は同じ部屋で寝てください……とか」
察せられている。
いや、ただの鎌かけか。
前者の場合、嘘をつくととんでもないことになるので、佐助は白状することを選んだ。
「彼女と同じ部屋で寝ました。一人で眠るようにと言ったのですが、彼女がどうしてもと譲らなくて。それで同じ部屋で眠ったのですが、誓って彼女には指一本触れていません」
「はは、そんなに怯えるな」
慌てている佐助を目を細めて眺める統一郎。
怒っていない……?
「小春さんは特別な意図など込めずに言ったのだから。お前は彼女の恐怖を和らげようとしただけ——。私には全てわかっている」
その一言で、佐助はわかってしまった。
彼女が"そういうこと"を知らないのを、統一郎はとっくに知っていたのだと。
すなわち、統一郎がそのように小春を育てたのだと。
東雲家の者にキツく言い聞かせて、小春にその類の知識が入ってこないように"教育"したのだと。
「佐助」
統一郎が、やけに低い声で繰り返した。
「私には全てわかっているぞ」
そうだ。この人に隠しごとはできないし、自分もしたいとは思わない。
「もちろんお前の気持ちもよーくわかっている。——だからそう拗ねるな」
統一郎は、我が子を見るような慈愛に満ちた眼差しを佐助に注いだ。




