京士郎
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小春は今までに触らせてもらったことすらない豪奢な着物に身を包んでいた。
庭園で仲馬家の長男と二人きり。小春はどういうふうに振る舞ったらいいのか考えていた。
池の鯉に夢中なふりをしてやり過ごして、とりあえず相手の出方を待つ。そんなことが10分以上続いていた。
仲馬家の長男は一言も喋らない。
小春の顔をうっとりと眺めるだけで、話しかける気配はない。
小春は、着替えを終えた際に当主から言われたことを思い出した。
「決して失礼のないようにな」
この縁談は考え直してくれないかと仲馬家の長男に提案するつもりだったが、小春は何となく切り出しづらかった。
怖いのだ。この男が。
何せさっきから一言も喋らずに、穴が空くほどこちらの顔ばかりを見つめる男。時折吐く感嘆のため息がいっそう不気味である。
「あの……今日はどんな用事があってこちらへいらしたのですか?」
「用という用はないんです。小春さんに会いに来ただけで。——あなたの顔が忘れられなくて」
「ちょっ、あの……!?」
「また見たかった。結婚まで待てずに来てしまった。居ても立ってもいられなくて。……一目惚れなんです」
急に肩を掴んで顔を接近させてきた彼に、小春は戸惑う。
「あなたは最高の女性だ。今までで一番だ」
今まで出会ってきた女性の中で一番——そう言われて悪い気はしないが、いかんせん少し離れてほしい。
「すみません。驚かせてしまいましたね」
小春が恐怖に強張っていることがわかると、彼はスッと身を引いた。
「今日はもう帰ります。急に訪ねてしまいすみません」
「あのっ! あなたのお名前を教えてください」
小春は、結婚相手の名前すら知らされていなかった。
「……京士郎」
赤くなった顔を俯けて、仲馬家の長男はボソリと言った。
「京士郎さん……」
小春が門から出ていく彼を見送っていた時だった。
突然、背中に強烈な痛みが走った。
小春が地面に手をつくと、その手を踏みつける足があった。
「珠生ちゃん——」
「だからその呼び方すんじゃないって言ってんでしょ!」
前髪を鷲掴みにされ、苦痛に顔を歪める。
ずっと見られていたのだと気づいた。京士郎と一緒にいるところを。
「なんなのさ、あの顔!」
京士郎のとろけるような表情を思い出した珠生が、心の抑制を失う。
「あんな顔をあの人にさせるなんて……小春のくせに!」
完全に失恋したことを悟った珠生は、その悲しみも苛立ちも小春にぶつけた。
「なんであんたなんかが幸せになるの! あんたなんか家族と一緒に殺されてれば良かったんだ!」
その言葉が、小春の心に一番深く刺さった。
ずっと気に病んでいた。
たまたま屋敷を離れていたために、自分一人だけが運良く生き残ってしまった負い目が、ずっと心に重たく残っていた。
「あんたも"殺人鬼"に殺されればいいんだ!」
珠生が大きな石を持った手を振り上げるのが見えて、小春は頭を守った。
だが、三秒経っても攻撃は降りてこない。
恐る恐る目を開けると、さっき別れたはずの京士郎が珠生の腕を捻り上げていた。
「いたた! いたい! やめて!!」
珠生は身を捩るが、大の男に敵うはずもなし。半泣き面をさらして、情けない泣き声をあげる。
「なんだよもお……なんでこうなるの……」
京士郎がパッと手を離したので、珠生は地面に頽れる。
京士郎は殺気を身に纏っていた。
「京士郎さん……なぜここに」
「嫌な予感がして戻ってきたんです。——予感は的中していたようですね」
珠生が「ひっ!」と声をもらす。京士郎の眼差しは冷たく、珠生は身の危険を感じた。
「こんな家にあなたを置いておけません。結婚はまだ先ですけど、こうなったらもう関係ない」
「え!? あの、何を……!?」
突如京士郎に横抱きにされ、小春は困惑する。
おろしてくださいという制止もきかず、京士郎は自分がここまで来るのに乗ってきた籠に小春を押し込めた。
「行け」
「えっ、まっ、待ってください!」
振り絞った声は無視され、小春はあれよあれよという間に京士郎の屋敷に連れていかれた。




