虐げられた令嬢
「縁談ですか? 私に? 珠生ちゃ——珠生様にではなく?」
「そうだ。お前に来た縁談だ」
久しぶりに入ることを許された大広間で、小春はこの家の当主である男に怪訝な眼差しを向ける。
「なんだその目は。まさか不満があるのか」
「そういうわけでは。……ですが、なぜ一度もお話したことがない仲馬家の長男が私を嫁に欲しがるのかと疑問に思いまして」
「町を歩いているお前を見そめたらしい。どうしてもお前が欲しい、とたいそう熱心なようだ」
仲馬家の長男は、召し使いにお使いを押し付けられた小春を町で見かけて一目惚れした。
その後、こっそりあとをつけて屋敷に入るのを見届けた。それで家の方に問い合わせてみたというわけである。
「式は一週間後だ。仲馬家は豪商。ここで恩を売っておけば……。お前もたまには役に立つではないか」
赤ら顔の当主は、すっかり小春がこの縁談を受けるものと思っている。
「あの……私をそこまで求めてくださっているのはありがたいのですが、この縁談は断ってほしいのです」
「はあ?」
「会ったこともないのにいきなり結婚なんて急すぎます。私、相手の方の顔もわからないのに——」
「知るか!」
ワナワナと唇を震わせ立ち上がった当主に、小春の体が強張る。
「お前の心情など関係ないわ! 居候の分際で生意気な!」
ヒュッと拳が空を切る。小春は目を瞑り、久しぶりにやって来る衝撃に構えた。
「やめてお父様!」
凛と響いた声に、拳がピタリと空中で静止する。
「珠生——なぜここに?」
「すみません。庭を彷徨いていましたら、小春の縁談がどうこう、と聞こえてきたもので」
「盗み聞きしていたのか?」
「罰を与えますか?」
「そんなことはせんよ」
珠生が上目遣いに父を見ると、彼は途端に締まりのない表情になる。
「小春を許してあげて。悪気があったわけじゃないのよ。ねえ、小春?」
「は、はい。それはもちろん」
「ね、お父様。小春も反省しているようですし、この辺で勘弁してくださいな」
「お前の頼みとあらば仕方ないなあ。小春。下がりなさい」
「あっ……しかし私は——」
「行きましょう、小春」
珠生に手を取られてグイグイ引っ張られると、立ち上がらないわけにはいかなかった。
言いたいことを飲み込んで、小春は一旦その場を去ることにした。
***
蔵に入った途端、小春は髪の毛を鷲掴みにされて引っ張られる。
「なんで私より先にあんたが結婚するのよ。しかも相手は仲馬家の長男!」
仲馬家といえば代々続く豪商の家。潤沢な資金と高い家柄を誇る一族。しかも、長男は江戸でも五本指に入るという評判の美男だ。
何を隠そう、珠生は時折町で見かける彼に淡い恋心を抱いていた。
小春ごときがあの人と結婚する?
「許せない! なんであんたなんかが! 町を彷徨いてる時にあの人を誘ったんだ! なんていやらしい女!」
「そ、そんなことはしてな……!」
「うるさい!」
小春は蔵中を引きずり回され苦悶の声を上げた。が、珠生はいっこうに静まる気配がない。
珠生が父を止めた理由は、一刻も早く小春に制裁を加えてやりたかったからに他ならない。
決して父の暴力から庇ったわけではなく、自分の暴力衝動を早く発散させたかっただけだ。
珠生は決して他人から見える場所を傷つけない。
髪の毛を掴んで引きずり回すのはお気に入りで、その他に臍を針でつついたり腹を殴りつけたりすることも好んでいた。
小春がこの家に来て以来、珠生は彼女を虐めて鬱憤を晴らすようにしていた。
「やめて珠生ちゃん……」
「その呼び方やめろ!」
拳が腹に突き刺さる。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。小さい頃は——まだ私の家族が生きていた頃は、あんなに仲良くしていたのに。
***
江戸時代。永爽家という平安時代から続く退魔の一族がいた。
永爽家の人間は、元来魔性の者に好かれやすく、自然と魔が寄ってくる体質である。魔に助けてもらうことも多いが、反対に厄介なことに巻き込まれる可能性も高い。
小春は16歳の娘で、本家永爽家の唯一の"生き残り"である。
今から五年前、小春の住む本家の屋敷が何者かに奇襲され、家中の者が惨殺された。
小春はその日、同い年で分家の娘である珠生に呼びつけられていたので、一人だけ難を逃れることができた。
家族を全員殺された小春は、分家で世話になることになった。
小春はこれ以上の地獄を味わうことはないと思っていたが、愛する家族を失った小春を新たな責苦が迎え入れた。
小春は家中の人間に疎まれ蔑まれた。
分家の家族はもちろんのこと、小間使いなどの下働きの者に至るまで、小春に聞こえるように悪口を言った。
小春が家の者たちと同じ食事の席につくことは叶わず、いつも台所の隅で残飯を一人寂しく食べることを強制されていた。
着物も、召し使いでさえ着ていないような一番古い物を与えられていた。
娯楽品は一切与えられず、小春は羽つきで遊ぶ分家の子どもたちの様子を、蔵の中の小さな窓から羨ましげに眺めていた。
前に「混ぜてほしい」と頼んだら、珠生の父に髪の毛を掴んで引きずり回された。それから二度と混ぜてほしいとは言わなかった。
小春は屋敷から数十メートル離れた蔵の中を寝床にさせられていた。冬は肌を刺すように寒く夏は蒸し風呂のように暑い。
小春が酷い扱いに元来の朗らかさと覇気を失うのに対して、分家は急に羽振りがよくなった。まるで小春の幸運を吸い上げるように。
本家を襲った犯人はわからない。町奉行所によれば、あやかしの仕業だろうという見立てだ。
小春の家族を惨殺した犯人は、五年経った今でも見つかっていない。
見渡す限り敵ばかり。頼れる人もいない。
こんな日々がずっと続くのかと半ば絶望していた小春だが、転機が訪れる。
小春16歳。二月に仲馬家の長男との縁談が舞い込んできたのだ。
***
珠生の怒りは治らず、小春を罵倒し続ける。
「あんたがあの屋敷で暮らしてた時からずっと嫌いだった! 本家の人間だからってこっちを見下して——」
そんなつもりなかった。何度もそう言ってきたのだが、珠生は決して信じてくれなかった。
小春は幼少時から同い年の女子である珠生とよく遊んでいた。家族を全て殺された小春は、親友の珠生と暮らせることだけが心の支えだと思った。
しかし、親友と思っていたのは小春だけだった。
本家から遊びに行っていた時とは打って変わった珠生の酷い態度、罵詈雑言と暴力の数々に、小春は深く傷ついた。
家族を殺され、親友も失い、果ては見知らぬ相手と強制的に結婚させられそうになっている。
私の人生ってなんだったの?
暴力に耐える小春の目は徐々に光を失っていく。
いつかは幸せになれると——その日がやってくることを信じていた。そう信じないと生きることに耐えられなかった。
だからどんなに辛くても、希望を捨てずに耐えて耐えて耐えて耐えて——ひたすら耐えて一人涙をのむ毎日だった。
無力な私は、一生こうやって頭を抱えて体を縮めて、嵐をやり過ごす生き方しかできない……。
きっと結婚したって同じ。自由なんてどこにもない。
小春はこの日の夜、家族の下に旅立つことを決意した。
川に身を投げることにした小春は、夜中に蔵から抜け出した。
「お世話になりました」
裏門を出る際、深々と頭を下げる。どんな形であれ、五年間世話になった場所だ。
小春は酷い扱いを受けてなお、分家の者たちへの感謝を忘れなかった。奉公人の一人一人に至るまで、小春は常に感謝の念を抱いていた。
朧月夜の日だった。
深夜の町は人っ子一人いない。時折雲の間からさす月光が照らす道を、小春は一人進んでいく。
目当ての橋に辿り着き、小春は覚悟を決める。
橋の中ほどまできたら、身を乗り出して冬の川に抱き止めてもらう。
冷たい川は、心の痛みも恐怖も凍らせてくれるだろう。暗く冷たいけれど静かで苦しみのない水底に私を招いてくれるはず——。
小春は何となく目を瞑って、橋を進み始める。
ちょうど橋の中間まで来た時、小春は何者かとぶつかった。
「す、すみませ——」
相手を見上げた瞬間、小春は目を見張る。
その時、ちょうど雲に覆われていた満月がその者の姿を照らし出した。
絹のように美しく長い黒髪を垂らした彼は、天女のように優美な雰囲気を纏っており、月夜の中とても幻想的に見えた。
夜のせいで彼の顔はよく見えなかった。高い背丈に着流しという格好をしていなければ、小春は彼を女性だと思っていただろう。
「こんな時間にお出かけとは感心しませんよ」
静かな夜に溶け込むようなしっとりした声が、どこか愉快そうに告げる。
「こんな時間にこんなところで何をしているのですか」
「あ……な、なんでもありません。今帰るところで——」
帰る? あの家に?
小春は数時間前の折檻を思い出す。
結婚すればあの家に帰ることはなくなる。
でも。でも私は——。
「何か辛いことがあったのですか?」
優しい口調に、小春の張り詰めていた心が爆発した。
「私……幸せな結婚をするのが夢なんです」
小春は、一週間後に顔も知らない男と結婚させられる自身のことを、会ったばかりの彼に打ち明けた。
「地位も名誉もいりません。家柄も財産も関係ない。ただ好きな方と添い遂げることが私の夢だったのですが……この調子だと叶いそうもありません」
浮かんできた涙を見せまいと、小春は顔を背けようとする。
しかし、背ける前に滑らかな指先が顎をさらう。
「貴女の願いは叶いますよ」
彼が宣言する。
「私が叶えて差し上げます。断言します。貴女は必ず幸せな結婚をします」
彼は指先で小春の目尻に浮かんだ涙を拭うと、五秒間ほど小春の頭に手を置いて呪文のようなものを呟いた。
「早く帰りなさい。——明日になれば貴女を取り巻く状況が変わっていることでしょう」
意味深なセリフを残すと、彼は踵を返して月夜の中に消えていった。
いつの間にか月が再び隠れていた。
小春の脳裏には、彼のしとやかな声がずっと響いていた。
***
翌日。屋敷の方が何やら慌ただしいので、小春は目が覚めてしまった。
蔵の扉を開けて屋敷の方を見やると、廊下を忙しなく駆ける下女の姿が多数。
お客さん?
小春の予感は当たっていた。
正門に三、四人ほどの従者を連れた来客の姿が見えている。
誰だろう……。
はやる心で正門へと駆ける。
家の者に見つかったら咎められるという不安も消えていた。
正門に辿り着いた時、従者と話していた男が駆けてきた小春に視線を移した。
男はスラリとした体格を持ち、目が覚めるような美青年だった。
眉目秀麗な青年と、小春の視線がバチッと合う。
察しの良い従者が主人に尋ねる。
「この女性が嫁に迎えたいという方ですか?」
こくこくと頷く美青年。
となるとこの人が仲馬家の長男——。
「何してる!」
背後から飛んできた声に身がすくむ。
当主だ。般若のような形相で小春を睨んでいる。
怒られる! 小春がさらなる怒声に身構えた時。
「騒がしいですよ」
仲馬家の長男が、実に機嫌悪そうに言った。
「私は小春さんに会いに来たのです。彼女との時間を邪魔することは許しません」
「はっ、はいっ。失礼しました。……ですがその前に一つ。小春を着替えさせたいので少しの間借りてもよいでしょうか。今のままではとても貴方様にお見せできないので……」
まるで家来のような口調。あまりのへりくだりように、この縁談を絶対に壊したくないという当主の思惑が見てとれた。
「なぜ彼女はこのような酷い格好をしているのです」
「本人が質素な服装を好みますので……もちろん嫁入りの暁には貴方様好みにしていただいて構いません」
「慎ましい性格なのですね。ますます好ましくなりました」
自分などその場にいないかのように話す二人を、小春は夢の中の景色のように眺めていた。
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