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第79話 相談、選択肢、単身赴任?

 その夜、空は厚い積雲に覆われ、月も星もひとつとして見えなかった。全体に重く、鈍く、不気味な光が滲んでいる。

 日野家の門札は闇の中に沈み、庭の草むらからはかすかに虫の音が聞こえていた。

夕食を終えてからすでに一時間が経過し、一学期の期末テストを目前に控えた陽太は、自室で机に向かって集中して勉強していた。


 陽菜は長い髪を下ろし、風呂から上がったばかり。湯に浸かったことで、一日の疲れを少しだけ癒していた。兄妹がそれぞれの時間を過ごす中、辰昭はリビングでプロ野球の試合を見つめていた。


 黛璃はキッチンで洗った食器を洗浄機の棚に並べ、子どもたちの夜食を準備している。

テレビに映るスコアは3対8。試合は9回裏、二死、ランナーなし。カウントはボール2、ストライク2。


 劣勢のチームにとっては、これが最後の攻撃だったが、逆転の望みは限りなく薄い。

「もう決まったようなもんだな……」


辰昭は呟き、リモコンを手に取ってテレビを消した。


リビングから離れ、食卓に立ち寄った辰昭は、黛璃に声をかけた。


「黛璃」


「どうしたの?」


「しばらく手を休めてくれないか。話したいことがあるんだ、大事なことを」


「いいわよ。ビールのお代わり?」


「いや、いらない」


「そう……」


 漬物を取りながらおにぎりを作っていた黛璃は、夫の真剣な様子にすぐ察した。使っていた長箸を置き、タッパーの蓋を閉じると、手を拭いて食卓の椅子に腰掛ける。


「さっきの野球中継、どうなったの?」

「もう勝負は決まった。これ以上見ていても意味はないだろう」

「そう。……でも、食事のときからずっと難しい顔してたわよね。それと関係ある話?」

「ああ。子どもたちに話す前に、まずは黛璃に相談したくてな」

「で、なに?」


「社長から部長昇進の内示があった」

「すごいじゃない。なのに、どうしてそんな顔してるの?」

「……福岡に転勤になるんだ」


黛璃はふっと笑みを失い、目を細めたまま俯いた。


「そう……」


「俺は、家族全員で一緒に福岡に引っ越したいと考えている。黛璃は、どう思う?」


黛璃は言葉に詰まり、沈黙の中で目を伏せる。空気が一瞬で重くなった。

しばしの間を置いて、彼女は憂いを浮かべたまま問い返す。


「返事は、いつまでに?」


「来週の頭までだ」


「そう……考えさせられる時間、ないのね?」


「福岡支部の部長職は長らく空席だったらしくて、人事にも余裕がないらしい」


黛璃は再び沈黙し、不安そうな表情で口を閉ざした。

重くなった空気に耐えられず、辰昭が意を決したように切り出す。


「黛璃……反対か?」

「結論から言うと、私は反対」


「理由を聞かせてくれるか?」


「このタイミングでの引っ越しは、子どもたちに悪影響よ。陽菜はるなは中学三年で来年は受験。陽太ようたは異能の力と向き合ってる最中。やっと落ち着いたと思ったのに、いま環境を変えるのは負担が大きすぎる」


「陽太なら耐えられるさ。陽菜だって、夏休み中に引っ越せば、まだ新しい環境に慣れる時間がある」


だが、黛璃は首を横に振る。その口調には苛立ちが混じっていた。


「それは、あなたの都合でしかないじゃない。子どもたちはもう親の決定に無条件で従う年じゃないのよ。ちゃんと説明して、納得させなければ」


辰昭は少し声を荒げる。


「そんな勝手な言い方を……これは滅多にないチャンスなんだぞ。明日すぐに引っ越すわけじゃない、夏休みを使えば」


「その“夏休みを使えば”が、もうあなたのペースじゃない」


黛璃は視線を逸らし、しばらく言葉を溜めたあと、一気に吐き出した。


「陽太は毎週、虎本くんの道場に通って、ようやく安定してきたじゃない。訓練も順調にいってる。穏やかに過ごせるようになった今、また環境を変えるなんて……そんなに簡単に新しい道場が見つかると思ってるの?」


「異能者なんて、どこにでもいる。向こうにも鍛えられる場所くらいあるさ」


「また無責任なこと言って……じゃあ、この16年住んだこの家はどうするの? 資産として置いておく? 戻れる保証もないのに?」


その言葉に、辰昭はしばし沈黙し――そして、低く、しかし固い声で答えた。


「それでも……このチャンスは捨てたくない」


「別に、捨てろって言ってるわけじゃない。ただ、転勤にはいろんな選択肢があるはずよ。辰っちゃんだって、若い頃はワールドメジャーを挑戦するため一人で海外に住んだことがあったじゃない」


「……あのときとは違うんだ。今の俺には……守りたいものがある。お前たち家族と一緒に過ごしたい、それだけなんだ」


「気持ちは分かる。でも……計画もなく、都合に合わせて何でも強引に進めるのは、良くないと思う」


妻に説得しきれず、辰昭は肩を落とし、静かに呟いた。


「……単身赴任ってことになるのかな」


「もう少し前向きに考えてみたら? 昇進を前提にしても、即座に引っ越すのは現実的じゃないわ。短期間でも、準備に時間をかけるべきよ」


「そんな冷たい言い方をしないでくれよ……」


引っ越しをめぐって意見が対立する中、辰昭は言葉に詰まり、黛璃の表情をうかがった。


――三年前の事故。あの時、彼は利き腕を複雑骨折し、腱や靭帯にも深刻な損傷を負った。完治後、何度も投球を試みたが、ボールの制御はままならず、以前のような力強い球を連投することもできなかった。医師の言葉どおり、プロレベルの投球はもう無理だと痛感し、野球人生に別れを告げた。


 野球を失った彼は、スポーツ用品メーカーに再就職し、黙々と三年間働き続けた。結果を積み上げ、評価も得てきた。だが、そのすべてを支えてくれたのは、妻と子どもたちの存在だった。昇進はもちろん嬉しい。けれど、それ以上に望んでいるのは、家族が一緒に過ごすこと。それが、彼にとっての本当の願いだった。


「……子どもたちに意見を聞いてみないか?もう二人とも、自分の意志をしっかり持っている年頃だしね。こういう大事な話には、ちゃんと子どもの気持ちも聞くべきだと思う。もしかしたら、今まで思いつかなかった別の選択肢が見えてくるかもしれないし」


「分かっている、だけど……」


 子どもたちの意見を入れるとなると、さらに複雑になることは想像できた。

 たとえば、陽菜と陽太をどちらか一人だけ連れて福岡に行く、そんな選択もあるかもしれない。でも、陽菜が大好きな兄・陽太と離れて暮らすなんて、きっと受け入れられない。逆に、子どもたち二人を八王子に残して、夫婦だけで福岡に赴くという案もある。しかし、それは今の生活を大切にしたい黛璃にとって、受け入れがたい提案だ。


最悪の場合、一家がばらばらになる単身赴任しかない。

家族四人の、小さくも温かな日々が引き裂かれることを想像するだけで、胸の奥にじわりと喪失感が広がる。



その頃、お風呂を終えた陽菜はパジャマに着替え、ヘアドライヤーで濡れた髪を丁寧に乾かしていた。


一方、部屋にこもっていた陽太は、数学の問題集に向かい、解答をノートに書き込んでは、一つひとつ答えを確認していた。


「正解率、八割か……でも、このレベルで期末テストは乗り切れるかな……」

ふと手を止めて、遠くを見るようにぼんやりと目を泳がせる陽太。集中が途切れたのか、しばらく何も考えずにぼーっとしていた。


そのとき――

机の脇に置かれていたMPディバイスが、突如アラーム音を響かせた。


「……まさか、シャドマイラが出たのか……?」


緊張が一気に走る。陽太はディバイスを手に取り、アラートの詳細に目を向けた。


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