第77話 悩み相談と親の懇願
その頃、陽太の母、黛璃は赤城山の研究所にいた。
瑤妤が参加している研究プロジェクトは多岐にわたるため、週末であっても研究室にこもるのは日常茶飯事だった。
昼休みの時間帯。姉妹は研究所内の休憩スペースにいた。
そこはカフェレストラン風の設えで、ソファ席にテーブル、窓際と中央の島にはカウンター席が並び、軽食やドリンク、カレーやラーメンまで提供される、職員たちの憩いの場だった。
二人が腰かけるテーブルには、黛璃の手作り弁当が広げられている。唐揚げ、餃子、豚団子の煮込みに回鍋肉、彩り豊かな野菜炒めと三種のお新香、そしてふっくらと炊かれたご飯。芳ばしい香りが食欲をそそり、見るだけで唾を飲み込んでしまいそうなほど、いかにも美味しそうだ。
瑤妤は姉の差し入れを頬張り、箸を進めながら何度もご飯を口に運んだ。
「やっぱり、お姉ちゃんの中華は天下一品ね。どんな高級レストランにも負けてないわ」
向かいに座る黛璃は、どこか曇った表情を隠すように、ぎこちない笑みを浮かべて応える。
「気に入ってくれたなら、もっと食べて。たくさん作ったから」
「でも、お姉ちゃんの箸はあまり進んでないわね。どこか具合でも悪いの?」
「ううん、平気よ。私の分も食べていいわ」
会話をしながら食事が進み、やがて黛璃は水を一口飲むと、箸を置き、口を開いた。
「そういえば……昨日のこと、相談したいって言ってたわね?」
数秒間の沈黙の後、曇りがちにうつむきながら、黛璃はようやく声を絞り出した。
「……ずっと、不安で仕方なかったの」
それが陽太に関することだと、瑤妤はすぐに察した。
「陽太くんのこと?」
黛璃は言葉を発せず、静かに頷いた。
「陽太くんは、あれから三週間、力の制御のために一生懸命訓練しているじゃない。今もきっと頑張ってる。なのに……何をそんなに不安がってるの?」
「将来が、まったく想像できないの……。今の世の中、いつどこで不祥事や事件が起こってもおかしくないでしょ?そんなことを考え始めると、私はどうすればいいのか分からなくなるのよ」
「考えすぎじゃない?根拠もなく不安ばかり膨らませたら、精神的に持たなくなるわ」
黛璃は眉をひそめ、首を横に振る。そして潤んだ瞳で、訴えるように言った。
「私はね、ただの取り越し苦労じゃないと思ってる……。陽太がどれだけ頑張っても、異能者を受け入れようとしない人は、必ずどこかにいるわ……。かつての私のように、異能を遠ざけ、理解しようとすらしなかった……。そういう人の前で、陽太がどんな立場に立たされるかと思うと、息が詰まりそうになるのよ……」
親として、息子の立場を想像すればするほど、胸が締め付けられる。
瑤妤は、赤ん坊の頃から陽太を見守ってきた身として、姉の不安を痛いほど理解していた。
「お姉ちゃん……」
黛璃は胸に積もった想いを、とうとう堰を切ったように吐き出しはじめた。
「それだけじゃないのよ。この社会には、異能者に対して憎悪を抱いて過激な行動に出る人だっている。テロや襲撃事件、そういったニュースを目にするたびに思うの……いつか、陽太にも、そんな目が降りかかるかもしれないって……。いくら良い子でいても、世の中には理不尽を企てる者がいる……」
「分かってる。だからこそ、陽太くんが力をきちんとコントロールできるよう、私たちは全力でサポートしてきたじゃない。私だって、ずっと傍にいる。だから、楽観的に構えようよ」
黛璃はうつむきながら、静かに問いかける。
「瑤妤ちゃん、お願い……政府機関的な建前じゃなくて、本音で答えて。UCBDの中で、陽太のこと、どう思われてるの?」
UCBDは、連邦政府の憲法と方針に従って運営される機関だ。
民間人を含む関係者への対応も、明確なマニュアルが存在し、組織の秩序と安全のため、プロジェクトや情報の一部は関係者以外に公開されることもない。
だが、瑤妤にとっては、今はただの捜査官ではなく、親族としての立場がある。
葛藤を抱えながらも、彼女はできる限りの言葉を選んで、答えた。
「……長官は、陽太の存在を重く見ている。彼に潜在的なリスクがあることも、事実として懸念されてる。けれど、それと同時に、大きな可能性も信じてる人もいる」
「それでも、UCBDの中には、きっと陽太に偏見を持つ人がいるのでしょう?」
「……お姉ちゃん。誰にだって、全て人間から受け入れられることなんてできないよ」
「それは分かってる……でも、異能を持っているだけで、たとえ大人しく暮らしていても、いずれ何かの議論や標的になる。それは“力”がある人間に与えられた宿命のようなものよ……。なんで、うちの子がそんな運命を背負わなきゃいけないのよ……」
瑤妤は黙って耳を傾けていた。
言葉にできない辛い気持ちを抱える姉を、彼女なりに受け止めていた。
「……UCBDは、連邦政府の決めた理念に基づいて動いてる。どんなに異能者に対する偏見を持っていたとしても、構成員である以上、皆、その原則に従わなければならない。異能を持つ善良な人々の人権を、最大限に守る。それが私たちの使命だよ」
「でも……陽太は、ただの異能者じゃない」
沈黙が落ちたあと、瑤妤は静かに言った。
「たとえ何があろうと……立場がどうであれ、私は、陽太たちの味方であり続けたい。妹としても、研究者としても、誓うよ」
その言葉に、黛璃はこみ上げる涙を堪えながら、ぽつりとこぼした。
「今は……瑤妤が羨ましいわ。私は、母親であるはずなのに……。社会の不条理を前にして、あの子を守ってやれる力が何一つない……情けないの……。昔、異能者をただ怖がって、遠ざけていた自分が、今になって後悔してるの……」
悲痛な声で、自らの無力を責めるように黛璃は呟いた。
「……お姉ちゃん」
長いため息を吐いた黛璃は、俯いたまま言った。
「まったく……今日は瑤妤に愚痴を聞かせるために来たわけじゃないのに……」
「……じゃあ、他に話があったの?」
「ええ……。もしも、私か辰ちゃんに何かあったら――」
「お姉ちゃん!縁起でもないこと言わないでよ!」
「いいから、聞いて。今のうちに、ちゃんと頼んでおきたいの。……もしもの時は、陽太と陽菜のことを、あなたに託したいの」
そう言って、黛璃は鞄から小さな箱を取り出す。蓋を開けると、そこには一つの髪飾りが収められていた。
菊の花を模したその髪飾りには、大粒の宝石が嵌め込まれている。
アクアマリンよりも深く、サファイアよりも透き通った青。
まるで始まりの海をそのまま閉じ込めたような神秘的な輝きだった。
宝石を支える枠には、まるで海底植物のような繊細な装飾が施され、とても人の手で作られたとは思えない精緻さがあった。
「これ……市販の髪飾りには見えないわね?」
「辰ちゃんと結婚した時に渡されたの。この家に伝わるもので、《《日野家では、代々末の子に継承されてきたものらしいのよ。その家族に成人した娘が、結婚まで肌身離さず身につけているって》》」
「そんな大事なもの、なんで私に?」
「……まだ陽菜には早いわ。陽太も、この血筋の重さを背負うには、まだ幼すぎる」
言いながら、黛璃は切なげわずかに微笑む。
「本当はね、何も起きずに、こうして平穏な日々が続いてくれたら、それだけで良い。でも、そう簡単にいかないのがこの世界。もしも、私たちに何かあったら……この子たちの未来を、託したいの」
瑤妤は、姉の真摯な覚悟に、ただ頷いた。
外はどこか曇っていて、休憩所の明かりもわずかに陰って見えた。
重く、しかし切実な姉妹の対話は、静かに続いていった。




