第76話 虎本道場 ⑧
「私のことを呼んだかしら?」
ジャイアントスペシャル抹茶パフェを載せたトレイを手に、糸世がちょうど戻ってきた。
「日野は、シャドマイラを追っているらしい」
「なるほどね」
そう言いながら、糸世は陽太の向かい側の席に静かに腰を下ろした。
「紅先輩って、スイーツだけで足りますか?」
「私は猫舌なの。熱い食べ物はすべて苦手だから、同じお金を出すなら、おにぎりやお寿司よりも甘いスイーツのほうがコスパが高いと思ってるのよ」
そう語ると、糸世は細長いスプーンでパフェをすくい、口元に運んだ。
「確かに……熱くないけれど、エネルギーがぎゅっと詰まった塊ですね」
不思議なことに、彼女は目を閉じたまま、まるで周囲が見えているかのように自然に食事をこなしている。おそらく、視力以外の感覚で環境を把握しているのだろう。
陽菜は陽太越しに、興味津々で尋ねた。
「紅さん、ずっと目を閉じてるのに、どうして周りのものが分かるんですか?」
「私は目の代わりに、聴覚や嗅覚、そして触覚で物を“視て”いるの。たとえば、千メートル離れた特定の存在の状態も、ある程度なら把握できるわ」
「そんなことができるんですか?」
「私の指先が触れたものには、微細な繊維が残るの。それが私の分身として情報を収集してくれるのよ。私に触れた無数の物体、那由多にも及ぶ存在が織りなす情報網の中にいる限り、その者が私に隠し事をするのは不可能よ」
「繊維って……糸ってこと?」
「ええ。その糸が、切れても、触れたものに残された“分身”は、電送網のように私のもとへ情報を返してくるの」
「たとえば、今この瞬間、紅さんは何を知っているんですか?」
「そうね、日常的なことなら、近所のスーパーでどこが一番お得かすぐにわかるし、仕事の話なら……。たとえば、州知事を襲おうと企んでいたテロ組織の構成員たちは、今まさに連邦警察に全員逮捕されたところよ。たぶん明日にはニュースになるわね」
「うわ〜〜、それってチート級の情報処理能力じゃない?」
感嘆する陽菜の隣で、心桜は少し拗ねたように顔をそらして呟いた。
「ふん、大したことないわよ。私だって、ハッカー機能を強化すれば、それくらいできるんだから」
そのとき、糸世の羽織に内蔵されたブザーが短く鳴った。
彼女は裏ポケットからディバイスを取り出し、すぐに通話に応じる。
「はい、芹鴨警視長。……例のテロ組織の構成員、身元は確保されましたか?」
相手の声は聞こえないが、そのやり取りの空気から、相当信頼されている様子が伝わってくる。
「そうですか、それはお疲れ様でした」
「いえ、恐縮です。私にとってはささやかな仕事ですから。何かあれば、また遠慮なくお申し付けください。失礼いたします」
通話を終えたタイミングで、陽菜が目を輝かせながら言った。
「ねぇ、お兄ちゃん。もしかして紅さんや黒川さんって、現役でバリバリのヒーローなの?」
陽太は頷いて言う。
「うん、黒川先輩が追ってることはあまり教えてくれないけど、紅先輩は警察やUCBDの案件にも積極的に関わってるらしいよ。情報提供だけじゃなく、実際に現場に出向くこともあるって」
「わあ〜……憧れちゃうなあ……紅さん、みんなに頼りにされているなんて、本当にすごいですね」
陽菜が目を輝かせながらそう言うと、糸世は涼やかな微笑みを浮かべて応じた。
「知っている情報が、誰かの役に立つのであれば、迷う理由なんてありません。私はただ、当たり前のことをしているだけよ」
その言葉に、心桜が少し皮肉っぽく尋ねる。
「そんなに完璧なあんたが、どうしてこの道場に通ってるの?」
糸世は心桜を真っすぐ見て答えた。
「黒川君と目的は真逆よ。彼は《《人間としての感情》》を探るためにここへ通っているけれど、私は《《人間としての自我》》を失わないために通ってるの」
「……どういうことですか?」
「私は、自分の真実を知った上で、それでも“人間”であり生き続けたいの。虎本コーチはそんな私を受け入れてくれた。だからこそ、彼に恩返しがしたい。そして今では、この道場に通っている若い子たちを見守ることも、私の役目のひとつなのよ」
「紅さんにも、そういう“悩み”があったんですね……」
陽菜がしんみりと呟いたその時、糸世は話題を戻すように切り出した。
「それより、さっき日野くんがシャドマイラを追っていると言っていましたよね?」
「うん」
「シャドマイラについて、何か知ってるんですか?」
「ええ。《《シャドマイラは『負の感情』を抱いた生命体を捕食します》》。特に人間のように強い情動を持った存在が大好物なのよ」
「でも、もう五日も姿を見せていないんです。次にいつ現れるか、見当がつかなくて……」
「シャドマイラは非常に貪欲な存在。だからこそ、《《満足を超える条件が整わない限り、そう簡単には姿を現しません》》」
「……じゃあ、ケンファクニードスが姿を見せないのは、前の17人よりも強い感情を持った、次の犠牲者がまだ現れていないからってことですか?」
「そういう解釈も成り立ちます。少し失礼」
そう言うと、糸世はそっと手を伸ばし、陽太の肩に指先を触れた。
彼女はその接触を起点に、陽太を中心とした情報網、彼が抱える私的な事情、シャドマイラとの因縁、そしてケンファクニードスの発現兆候、すべての情報を関東エリア全域にわたって探査した。
やがて、静かに目を閉じていた糸世の眉が、ピクリと寄る。
「……不穏な闇が、また現れますね」
「え……?」
「日野くん、あなたがシャドマイラを特別に追わずとも……そう遠くない未来に、あれは必ず“あなたの身近”に姿を見せます」
その言葉に、陽太はぞっとし、喉を詰まらせるように呟いた。
「……僕の身近な誰かが、何かを『別れる』……?」
その様子を見た陽菜は、自分のことかもしれないという直感に駆られ、不安を募らせながら口を開く。
「もう少し、詳しく教えてもらえませんか?」
「《《熱を持って輝く者の心が沈んだとき、その隙間に、闇のモノは滑り込んでくる。それは彼らにとって、絶好の獲物なのです。そして、その“闇”を抱えたのが君に身近いその人であるのなら……その災厄が乗り越えられるかどうかに関わらず、君たちにとっては人生で一度きりの、大きな“試練”となるでしょう》》」
その“予言”のような糸世の言葉に、陽太は言葉を失い、胸の奥で重い感情を抱えながら、静かに呟いた。
「……僕たちの、身内の誰かが……」




