第59話 別れの獣
夜。大都会の光に照らされ、夜空は薄黄色に染まり、星も月も見えなくなっていた。
相模郡・秦野市を望む山地。細く高い、獣のような声、「コンコンッ」という鳴き声が遠くに響く。
やがて、闇がひとつの塊となって凝縮し、獣の姿へと変貌する。
それは、シャドマイラ。
全長約70センチ。外見はキツネに似ているが、口元は狼のように鋭く、太く長い後脚はカンガルーを思わせる。尻尾は根元から針のように細くなり、鋭く揺れている。
一つ大きい赤い目がぎょろぎょろと周囲を見回し、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。何かを察知したのか、再び「コンッ」と鳴くと、その黒い影はすばやく街の隅へと跳び、姿を消した。
その頃、一台のマシンが住宅地の公衆停泊場に静かに着陸した。
昆虫の翅のように扉が上へと開き、二十代前半のカップルが降りてくる。男は金髪のベリーショートにポロシャツとズボンのラフな格好。女は髪型に工夫を凝らし、洒落た服を身に着けていた。
女は周囲の様子を気にしながら、不安げに男を見つめる。
「ねぇ、輝喜くん。どうして今日は、家に送るの?」
運転席の男――輝喜は、目を逸らして前方を見据えたまま答えた。
「あのさ……明日の朝、ゼミに顔出さないといけないし、論文も全然進んでない。このままじゃ卒業も危ういって、先生に言われてさ。」
女は寂しげに目を伏せ、ぽつりとこぼす。
「今夜、一緒にいたかったのに……」
その言葉に、輝喜はため息をつき、窓の外を見ながら返す。
「はぁ……今はそんな余裕ないって、恵。少しは俺の立場も考えてくれよ。」
「でも、バイト先の子の買い物には付き合えたんでしょ?」
彼女の突っ込みに、輝喜はふっと鼻で笑い、肩をすくめる。
「それは、彼氏へのプレゼントを選ぶのにアドバイスがほしいって頼まれてさ。友達だから、断れなかっただけ。」
「他人には付き合えるのに、私はダメなの? 私、彼女なんだよ?」
輝喜は大きく息を吸い、吐きながら呟いた。
「……何度もこういうすれ違いが続くなら……もう、別れた方がいいのかもな。」
その一言に、恵は泣きそうな顔で言葉を絞り出す。
「……わかったよ。でも、そんな冷たい言い方、やめてよ……」
「しばらく、お互いに冷静になろう。」
「……うん。論文、頑張ってね。応援してる。……おやすみ。」
恵はマシンを降りた。
扉が閉まると、彼女は泣きそうな顔で手を振り、マシンが去っていくのをじっと見送った。
そしてその後、彼女は停泊場を後にして、家へと向かう。
静かな住宅街の道を歩く先、街灯の下に一見なんの変哲もない風景が広がっていた。
だが次の瞬間、黒い影が飛び出す。まるでオットセイを襲うオオメジロザメのようなスピードで、首元に噛みついた。
声をあげる間もなく、彼女の命は絶たれた。
30分後。男の運転するマシンが、私有のパーキングスペースに静かに着地した。ライトを消し、エンジンを止めた彼はマシンをロックし、隣接する2階建ての学生寮へと向かう。
そのとき、彼のディバイスが鳴った。着信名を確認し、笑みを浮かべながら通話を開始する。
「どうした? みあちゃん?」
『輝喜先輩、こんばんは。今バイト終わったんですけど、そっちに行っても大丈夫ですか?』
「ちょっと忙しいけど、いいよ。待ってる。」
『わあ、嬉しい! 差し入れ持っていくね! じゃあ、また後で~』
通話を終えた輝喜は、ニヤニヤとした顔を浮かべながら2階の207号室へと入っていった。室内は、玄関から繋がるコンパクトなキッチン、ユニットバス、そして1DKのプライベート空間。
彼は机に置かれたパソコンを起動させる。外からは、『ミャーミャー』猫のような鋭い鳴き声が断続的に響いていた。
「……こんなときに野良猫か? うるさいな。」
数分後、ふと耳に馴染みのある女の声が聞こえてきた。
「輝喜くん……輝喜くん……部屋にいるの……?」
それは、明らかに恵の声だった。しかし、インターホンは鳴っていない。
彼女が玄関の前に立っていることを察した輝喜は、苛立ちを抑えきれず、つぶやいた。
「……くそっ、あの女、追ってきたのか? 面倒くせえ……」
玄関に向かい、勢いよく扉を開ける。
そこに立っていたのは、人間ほどの背丈を持つ、獣だった。
「なっ……!」
一瞬にして、輝喜の顔が青ざめる。目と口が見開かれ、言葉を失った。
次の瞬間、シャドマイラの尾が鋭く突き出され、針のような一撃が彼を貫いた。
――パシャッ!!
倒れる音が、寮の静寂に響いた。




