第57話 訓練方法を探る所 ③
妃緒莉が階段を上がって姿を消したあとも、陽太はしばらくその背中を見つめていた。
柔らかく静かな気配。慎ましくも芯のある所作。まるでその存在だけで、周囲の空気まで穏やかに変えてしまうような佇まいだった。
「……彼女が、妃緒莉ちゃんか」
数分後、どこからかピアノの音が聞こえてきた。ショパンの『英雄ポロネーズ』――ただ正確に鍵盤をなぞるだけではなく、指先から伝わる情熱と気迫が旋律に宿っていた。
リビングの空気は一変し、音楽に染まってほんのりと温もりを帯びる。
その響きと、先ほど彼女が小さな声で言葉を紡いだときの胸の震え、陽太の心の中で、微かに古い記憶が蘇る。
あの長い髪。あの眼差し。あの、丁寧な口調。
――たしかに、前も彼女のピアノを聴いたことがある。そうだ、あの夏の日だ。
海辺で手をつないだ、白いワンピースの少女。
笑ってもどこか恥ずかしげで、風に髪が揺れるたび、その横顔は月明かりに透けるように、幻想的で。
そして、陽菜がそのとき、嫉妬したのを覚えている。自分と反対の手を、兄がその子とつないでいたことに。
――あのとき、彼女は何かを言った。そして、最後に唇に指を当てて、微笑んだ。
忘れていたはずの記憶が、鮮やかに胸の奥に浮かび上がる。
「……陽太、思い出したか?」
隣のソファから、辰昭の声が優しくかけられる。
「うん……でも、あんなに綺麗な人だったっけって。驚いた。異能だけじゃなく、ピアノもあんなに上手くて……」
「はは、成長すれば、人は変わるものさ。良い意味でな」
妃緒莉の振る舞いは一つ一つに心がこもっていた。
紅茶を差し出す動作、まなざし、話すときの声、どれもがそっと人の心に触れてくるような優しさに満ちている。まるで、音もなく舞い降りる羽根のように。
――彼女が、念者で……しかもA級だなんて。
同じ異能者であるにもかかわらず、妃緒莉は自分の力と自然に向き合い、受け入れ、使いこなしている。
その姿は、陽太にはとても眩しく見えた。
――いつか、僕も……あんなふうに、自分の力を誇れるようになりたい
まだ名もない感情が、憧れとも尊敬ともつかない何かが、心の奥に静かに芽生えはじめていた。
「それにしても……娘さんのピアノ、本当に上手いな」
辰昭の言葉に、桐哉が微笑みを浮かべて答える。
「はは、あれは亜澄香の譲りかもな。最近は、ふとした瞬間に姿や仕草があすかと重なって見えて、思わず見間違えることもある」
ふと、桐哉の口調がわずかに切なさを含んだものになる。
「……もう、あの事件から三年か」
虎本亜澄香。旧姓・杉原。プロのピアニストとして活躍していた念者。
彼女は、ある犯人集団に拐われ、追跡にあたった警察の救助も間に合わず、その命を奪われた。
能力者である彼女なら、本来なら抵抗する力があったはずだ。しかし、相手が一般人だったがために、力を使えば法に問われる可能性があり、使えなかった。
法と正義の狭間で、守られるべき命が奪われた。
「……だから俺は、こんな仕事を続けてるんだ。こんな悲劇が、二度と繰り返されないように」
その言葉に、陽太は深く頷いた。
直後、裏口の扉が開く音が響いた。
「ただいまー」
サーフィンボードを片手に現れたのは、煌音だった。赤みを帯びた金髪のベリーショートに、日焼けした引き締まった体。陽太よりも頭一つ分背が高く、精悍な雰囲気を漂わせている。
「煌音、帰ってきたか」
「親父、今日の波は最高だったぜ」
「そうか。それより……こっちは俺の高校時代の親友、日野辰昭。そして彼の息子の陽太くんだ」
人を見下ろした眼差しでチラッと陽太を見た煌音は辰昭に見合わせる。
「おぉ、噂の“ダイヤの神の手”じゃん。……サインボール、後で貰ってもいい?高値で売れるかも」
「おい、煌音。お客さんに失礼なこと言うな!俺の友だぞ!」
桐哉がすかさず注意するが、当の本人は飄々と笑っている。
「だってさ、あの世界メジャーリーグでサイ・ヤング賞取った人だぜ?一個くらい、いーじゃん」
「そういう大事な物は、金で売るものじゃない」
「はは、大丈夫だよ、虎ちゃん」
辰昭は気にした様子もなく、柔らかく笑って言った。
「今は野球から離れてるし、ボールももう投げてない。だけど、欲しいって言ってくれるなら、サインくらいいくらでも書くよ」
「マジで?じゃあ、お願いしようかな」
「さて、煌音。そろそろレッスンだ。着替えてこい」
「えー、またかよ……姉ちゃんは好きにピアノ弾いてるだけなのに、なんで俺だけ強制なんだよ」
「妃緒莉はエージェントを目指してない。それに、彼女はすでにA級評価を受けてる。……お前は、先月の測定、Aに届かなかったろ?」
「うるせぇな。もう、学校のジャスティスキーパーならB級でも動けるんだぜ? 別にAにこだわらなくても……」
「それなら、来月のお小遣い半分にするぞ?」
「卑怯だ!」
「じゃあ、全額没収か?」
「くっ……分かったよ。やればいいんだろ、やれば! でもな、男女差別だぞ!」
ぶつぶつ言いながらも、渋々階段を上がっていく煌音。
それを見送った桐哉は、苦笑いしながらため息をついた。
「まったく……口だけは一人前なんだから、それなら、レッスンのやり方の見本を見せてくらい十分だ、それから好きにすればいい」
その後ろで、陽太は静かに微笑んでいた。




