第32話 一変した日常 ⑤
そう考えていると、不意に背後から強い気配を感じた。誰かが近づいてくる。陽太はジャージのことを考えるのをやめ、気配の正体を確かめようとした。
「日野くん」
呼びかける声に振り向くと、そこにはストレートの茶髪を右側で三つ編みにし、鎖骨まで垂らした女子生徒が立っていた。
「錦織さん、どうしたんですか?」
彼女の瞳は潤いを帯びた黒。白と黒のコントラストがはっきりした聡明な目が、どこか優等生らしい雰囲気を漂わせていた。少し内気で真面目そうな印象の彼女の名前は 錦織茜寧。1年B組の委員長であり、管弦楽部のバイオリニストとしても知られている。慎助が管弦楽部の写真を撮ることができたのは、彼女の協力があったからだと聞いたことがある。
「昨日、身元安全確認シートの返信が遅かったようだけど、何かあったの?」
「あっ、それは……」
「きっと、彼が忘れてただけだろ。陽太は物忘れが多いから」
慎輔が横から口を挟むと、茜寧は一瞬彼を見てから、再び陽太に視線を戻した。
「そうでしょうか?」
「ええと……昨晩は妹と大怪獣映画を観ていて、つい夢中になってしまって……それで、メッセージの確認が遅れました。本当に申し訳ないです」
「そうですか。先生がクラス全員の安否確認を徹底するように指示していたので、返信が遅いと心配になりますよ」
「そうだったんですね……」
街の一部が壊滅的な被害を受けたばかりだというのに、こんな時に大怪獣映画の話をするのは不謹慎に思われるかもしれない。あるいは、災害の重大さを理解していないと思われる可能性もある。そう感じたのか、茜寧の声は柔らかいが、その表情は少し硬かった。
「日野くん、趣味に熱中するのは悪くないですが、たまにはニュースや時事ネタにも目を向けたほうがいいと思います。昨日のシャドマイラの襲撃では、今も行方不明の人がいて、ご家族を亡くした方もいます。あなたは天文観測で街を回ることが多いですよね?最近は行動を控えたほうがいいかもしれません」
彼女は厳しく叱るような言い方ではなく、災害で多くの人が傷ついたことを思う切なさを滲ませていた。
「ありがとう、気をつけるよ」
陽太は小さく頷いた。
教室がざわつく中、陽太はふと、強いエネルギーの気配を感じた。それは廊下を進み、教室の外で止まった。彼は無意識に教室の前の扉に目を向けた。
扉が開き、入ってきたのは50代の男性教諭。痩せた体に眼鏡をかけた、世界史の先生だ。彼は普段から存在感が薄く、気がつけば教卓に立っていることが多い。
「あっ、先生が来た」
その直後、1時間目の授業開始を告げるチャイムが鳴った。
茜寧は前に進み出て、クラスメイトたちに呼びかけた。
「みんな、授業が始まるよ。席についてください」
慎輔は、陽太が先生が入るよりも前に扉を見ていたことが気になったのか、目を僅かに細めて彼の横顔をじっと見つめていた。
授業が始まり、教室は静寂に包まれた。しかし、陽太にとっては静寂とは言えなかった。集中を妨げる原因が大幅に減ったせいか、彼のエネルギー感知能力はさらに鋭敏になり、校内の1000人以上の生徒や教師、そして机に組み込まれたパソコンまで、全ての熱量が一気に押し寄せてきた。
まるで人混みの中にいるような感覚。息苦しく、意識を保つのが難しい。
――この窒息しそうな感覚……どうすればいいんだ……?
「次の段落を読みたい人はいますか?」
授業に集中できないままでは、この感覚を抑えられそうにない。少しでも意識を分散させようと、陽太は迷わず手を挙げた。
「はい」
「日野くんか。いいでしょう。読んでください」
陽太は立ち上がり、ディスプレイに映し出された教材を読み始めた。異常に敏感になったエネルギー感知能力を抑えるには、何か別のことに意識を向けるしかない。授業が終わるまで、この違和感と戦い続けるしかなかった。




