第25話 今後の対応にご用心 ②
クビキリギスのか細い鳴き声が、遠くから途切れることなく響き続けていた。
その涼やかな音色が、静まり返った部屋の空気に溶け込むように、淡々と流れていく。
黛璃と辰昭が並んでソファに座り、向かいのローテーブル越しに瑶妤が座っていた。
テーブルには、冷めかけたコーヒー。
会話の内容が重くなるにつれ、それを口にする余裕もなくなっていた。
陽太の話が進む中、辰昭がじっと目を細め、低い声で問いかける。
「シャドマイラが不明の異能者に倒された現場で、陽太を見つけた……そう言ったな?」
「ええ。UCBDは、他の異能者管理機関にも確認しましたが、現場に介入した人物の正体は、今も判明していません。」
「つまり……まだ未確認の異能生命体の可能性が高いということか?」
「はい。」
その一言に、黛璃の体がピクリと震えた。
まるで傷口に触れられたかのように。
彼女の瞳がわずかに揺らぎ、白黒させた唇から、か細い声がこぼれる。
「……ねぇ、瑶妤。そ……その存在は、今後、陽太を傷つける可能性があるの?」
未知なる異能の存在などの話、それは、彼女にとって耐え難い恐怖だった。
瑶妤は、そんな黛璃の様子を静かに見つめながら、慎重に言葉を選ぶ。
「100%無害だとは断言できません。」
淡々とした答えに、黛璃の表情が強張る。
しかし、瑶妤は続けた。
「ただ、その存在は、おそらく陽太と何らかの関係を持った可能性が高い。再び接触する機会もあるかもしれません。」
「……!」
「今のところ、陽太の体に異常は見られませんが、精密な検査を受けることを推奨します。」
それは、UCBDが異能生命体との接触事件を調査する際の標準的な対処法だった。
もし、瑶妤がここで**「陽太が異能者に変異した」**と伝えれば、黛璃はきっと受け入れられず、精神的に追い詰められてしまうだろう。
あたかも、医者が絶望的な病の患者に優しい嘘を伝えるようにと考えた。
沈黙の中、辰昭がそっと黛璃と目を合わせた。
彼女の瞳には、言いようのない不安が宿っている。
やがて、彼女は震える声で言った。
「辰ちゃん……どうしよう?」
夫の力強い瞳を頼るように見つめる。
そんな妻を見て、辰昭は低く、しかし迷いのない声で答えた。
「……陽太の健康と安全を考えれば、やはり精密な検査を受けるべきだ。」
その言葉に、黛璃は小さく頷く。
「分かった……ただの健康診断なのよね? なら、検査を受けさせるわ。」
「ありがとう。では、陽太の健康医療保存センターから、彼の幹細胞と予備の血液サンプル、そして少量の組織検体を抽出します。」
「……それで、何が分かるの?」
「彼の遺伝子に何らかの異変が起きていないかを分析します。」
瑶妤はそう言いながら、手元のデバイスを操作し、申請書を作成した。
データを送信し、辰昭にサインを求める。
夫婦は書類の内容を確認し、問題がないと判断すると、辰昭が筆を走らせ、印鑑を押した。
「……よし、手続きを進める。」
「今後、陽太に何か異変があったら、すぐに知らせてください。」
「分かった。」
「それと――」
瑶妤の声が少し柔らかくなる。
「彼は被災者です。精神的なケアが必要です。できる限り心理的刺激を与えないようにし、普段通りの環境を保ってください。」
「分かっている。彼の様子には、今まで以上に注意を払うつもりだ。」
辰昭が頷く。
「検査の結果が分かり次第、すぐに知らせるわ。」
「……ありがとう。」
ようやく話が一段落した空気が流れた。
しかし、黛璃の表情は晴れない。
「……よかったね。瑶妤ちゃんがいてくれて。私、そう言う物事があまり詳しくないので」
そう言いながらも、どこか不安を拭えないまま、彼女は瑶妤の手をそっと握りしめる。その指先は、冷たく震えていた。
「お姉ちゃん、私たちがついているから。最善を尽くしましょうね。」
陽太を守るために、そして、日野家の平穏を保つために、瑶妤は、夫婦二人が納得できる言葉を慎重に選びながら、静かに誓った。




