第104話 見学、検討、次の闇を向け ②
心桜は、向こうで稽古に励む銀士をまた見守っている。
丸い瞳でまっすぐ、感情を映さずにこちらを見つめる彼女を前に、陽太はどんな話題を切り出せばいいのか悩んでいた。
そのとき、糸世が階段を上がってきた。静かでゆったりとした足取り。
陽太たちは軽く会釈して挨拶する。糸世は手を振って応え、陽太のテーブルへ歩み寄った。
「紅先輩、こんにちは。これから稽古ですか?」
「ええ。……日野くん、二階に来たのね?」
「はい。コーチの特別許可をもらいました」
閉じられた瞼のまま、安らぎの笑みが浮かぶ。
「それはよかった。喜ぶべきことよ」
「喜ぶべき、ですか?」
「入段者でなくてもここを使える。それはコーチの大きな期待を受けている証。師に期待されるのは、弟子にとって至福でしょう?」
コーチだけでなく、UCBD関係者三名からの推薦。特別扱いかもしれない、そんな思いに、陽太は照れ笑いで髪をかいた。
「はい。みんなの期待に応えられるよう、頑張ります」
「その顔が見られて少し安心した。……ご両親のこと、心からお悔やみを」
薄雲の向こうからオレンジの光が差すような、寂しくも温かな笑顔だった。
「ありがとうございます」
年下の心桜は、以前の予言の件を思い出し、不満げに口を開く。
「よく分からないけど、紅さんは日野さんの家族が亡くなるって見たんだよね?なんで、先に誰かに知らせなかったの?そちらの家に待機させていれば、不幸は起きなかったでしょ」
目上にも遠慮のない問い。緊張が走り、陽太は黙り込む。糸世は落ち着いたまま答えた。
「定められた運命は、完全には止められない。ある災厄を無理に食い止めれば、必ず別の形で現れる」
さらに続ける。
「負の感情を糧にするシャドマイラは、とても不安定。今まで経験は、私がUCBDに通報して先に配置が整えば、その瞬間は何も起こらない。でも退去した途端、別のタイミングで事案が起きる。……予測がずれるのが厄介なの」
「だから、先輩が教えてくれた期日なしの警告だったんですね」
「それに、重点配置をすれば、別の隙に現れる」
「なるほど……追悼会には重装特務隊がいたのに発生せず、離れた大町市で起きた、ってあれですね」
「でも、止める方法、全くないわけじゃないでしょ?」
「私たちにできるのは、“被害の最小化”。大きい災いを小さく、小さい災いを無くすこと。……実際、私が見た予知では、結果的に妹さんが生きているのは、不幸中の幸い」
「えっ、元の予知では僕だけが生き残るはずだった?」
「私が見たのは、日野くんが家に侵入したシャドマイラを積極的に追って討伐。だが家屋が炎上し、家族は火災で亡くなる、という結末」
もし衝動のままに一階へ降りていたら。最悪の皮肉で家族を失っていた。陽太の胸に冷たい震えが走る。
「父さんの指示は、本当に正しかったんだ……」
瑤妤のシミュレーション判定は慰めではなかった。辰昭は、子ども二人と家屋を守るため、自らの犠牲を選んだ。
「紅さん……あのとき、両親は、どんな最後だったんでしょう。辛かった、ですか」
「少し失礼ね」
糸世はそっと手を伸ばし、陽太の肩に触れる。
「君の父は、最後まで妻を庇って時間を作ろうとした。……でも、君の母は逃げなかった。愛する夫の傍にいることを選んだ」
陽菜のスカート裾に付いた糸が、帰宅後にソファのクッションへ移っていた。それが視座を結び、最後の光景が見えたのだ。
テーザーウェブ銃を撃ちながら飛びかかるシャドマイラを迎え撃つ辰昭。黛璃を二階へ行かせようと促すも、彼女は首を振って傍に残る。夫婦は並び立ち、そして刺された。
「単身赴任で離れていた寂しさも、最後には解けた。二人は、愛の中で息を引き取ったの」
まだ息のあるうちに、二人は手を重ね、愛の言葉を交わした。
陽太の目に涙が滲み、切なさの底に、微かな安堵が灯る。
「そうか……鑑識の人が言ってた。ケンファクニードスに刺された跡はあるけど、噛まれた痕はないの奇跡って。……そういうことか」
負の感情がシャドマイラを呼ぶなら、正の感情はそれを遠ざける。生態が、少し見えてきた気がした。
それでも心桜は、異能者である糸世が直接動けなかった事実に納得しない。
「私なら、どんなことがあっても瞬間移動してでも助けに行く。人の死は見過ごせないから」
彼女の執着は、確かに救命に向いている。
一方、陽太は自分を責めない。現場にいた自分は、両親の喧嘩を止められず、最適解も出せなかった。未熟だから守れなかった、それだけだ。肩をすくめ、前を見る。
「今になって思う。もし父さんと母さんの喧嘩を止められてたら、シャドマイラの出現も防げたかもしれない」
「負の感情を和らげる。それが一番の防災策かもしれないね」
「防災も大事だけど、心桜が気にしてるのは起きた時にどう救うかだよ」
「生活を常時監視するのが効率的だけど、政府も個人も介入の限度がある。現実的じゃない」
「心桜、誰かの家に居候するつもりか?」




