第101話 シャドマイラの新生
深夜。ネオ東京・練馬エリアの、とある3LDKの賃貸マンション。
灯りの消えた廊下の床には、トレーごと置かれた皿。山盛りの野菜とスタミナ炒め、ハンバーグ、白いご飯に味噌汁。『ルリのダンスと歌が大好きだよ。母さんより』――親の愛情がにじむメッセージシールが添えられている。
部屋の灯りは落ち、机のスタンドだけが点いている。
その微かな光に照らされ、壁のフックには手作りのコスプレ衣装が一着ずつ、ハンガーとビニールカバーで丁寧に掛けられていた。
机に突っ伏した少女の無造作な髪が、元気なく背に垂れている。
彼女が個人運営するネットチャンネルには、自撮りのダンスと歌の動画が数多く投稿されていた。近所の商店街で愛されている、どこか素朴で可愛らしい女の子。
その本人が撮って、本人が編集し、アップした映像だ。坂道や懐かしげな街並みを背景にしたテーマが多く、フラッシュモブ風の撮影や、ストーリー仕立てのライブパフォーマンスもある。コンセプトは、数日前に赤星実瀬が撮った映像とどこか似ていた。
以前は一本の動画に数千の「いいね」、再生は十数万が当たり前。好機には七桁に迫ることもあった。だが三週間前を境に、数字は急落。どの動画も千を越えず、人気は目に見えて落ち込んだ。
それだけではない。新しい投稿のコメント欄には、誹謗や中傷、アイドルと比較する心ない言葉が並ぶ。
<衣装だけ可愛いのに、歌もダンスも全然だね>
<これ、イレアナ様のパクリでしょ>
<このブスがイレアナ越え?十年早い>
<何そのダンス、ラジオ体操か?>
<この子、音痴じゃない?>
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目の下にクマ。頬には乾いた涙の跡。彼女の顔から力が抜けている。
コン、コン――扉が叩かれた。
「ルリ、起きてる?お昼ごはん、手つかずだけど……お母さん心配で。起きてるなら返事して?」
少女は顔を上げ、軽く咳き込み、かすれ声で空気に向かって答える。
「……お母さん。ちゃんと生きてるよ。食欲がないだけ……」
「そう。無理しなくていいのよ。おにぎりと、好きなするめそうめんとかまぼこ、置いとくからね」
「うん、ありがとう……外に置いていいよ。お風呂入る時に取るから」
「お母さん、アイドルのことはよく分からないけど、手作りのきれいな服で踊って歌うルリが、一番素敵よ」
「……うん、分かってる」
「じゃあ、お母さんは先に寝るね」
「……おやすみなさい」
返事はした。けれど、母親の言葉は彼女の心を軽くはしない。むしろ、腹の底に溜まった悔しさと憎しみが、ぐつぐつと煮立っていく。
数十分後。空腹が胃を刺し始め、彼女は耐えかねて扉を開けた。母の置いたおにぎりと好物が乗ったプレート。長く息を吐き、すぐには手を付けず、机に置く。
窓辺へ寄り、カーテンと窓を開け、ベランダに出る。雲が流れ、星は二つ三つしか見えない。遠くに、網の張られたゴルフ場。浮遊電車の車両。空の航路を、私用機のヘッドライトが点の列となって横切っていく。そして、建設中の空島。
風景を遠く眺めるうち、耳の奥に――フェアリーズのオーディションの記憶がよみがえる。最終選抜前の歌唱審査。自分は85点にも届かず、実瀬は96点。完敗――。
『最終選抜に進むのは、赤星実瀬さんです。おめでとうございます』
――もし、あのとき風邪をひいていなければ。負けるはずなんて、なかった。あいつは運が良かっただけ……でも“本番に弱い自分”を恨むことはできない……
――いや、違う。あいつのせいだ。私をどん底まで踏みにじった。オーディションに受かっただけじゃ飽き足らず、私がコツコツ積み上げたチャンネルまで、あいつの影で潰された。あいつさえいなければ!!……。
憎しみの渦が胸に渦巻く。ぐう〜〜、と腹が鳴る。
力の抜けたため息。彼女は部屋へ戻り、窓を閉めようとして、カーテンに、白い楕円の“何か”が付着しているのに気づいた。
漆のように艶めく滑らかな表面。蓮の実のような細かな孔は閉ざされ、蛾の繭にも見える。生き物の卵を思わせる形状。彼女は顔をしかめ、呟く。
「何これ、蛾の繭?気持ち悪……外に捨てよ」
ティッシュを二、三枚つまみ、カーテンからそれを剥がすと、住宅街の道路めがけて放り投げた。
夜食を頬張りながら、彼女は芸能ゴシップ掲示板を開く。すぐに目に飛び込んできた閲覧数熱いトピック――
〈エアーリアルズのクイーン・イレアナは凡庸?オーディション基準ブレてない?〉
クリックすると、コメントは数百に及ぶ。
“地味子”
“覚える特徴がない”
“田舎のミスコンレベル”
“彼女よりウェブチャンネルパフォーマーには他に可愛い子が山程がいるでしょ”
“エアーリアルズのクイーンなら、やっぱりグリーナさんでしょう”
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赤星実瀬の強みは無視し、外見やスタイルを弄る言葉が並ぶ。
「ふふ、ざまあみろ」
彼女はキーボードに指を走らせ、コメントの流れに乗って加勢する。燃え残った怨みのガスに、火が点いたように。口元には、歪んだ笑み。
その頃、外の道路に捨てられた白い卵は、たっぷりと怨念を吸い込んでいた。血のような赤と、墨のような黒のエネルギーを発し、縫い目が、花のように割れていく。
孵化した殻から、黒い影が這い出た。二足歩行の鳥を思わせる胴。尾には、ミミズやワーム虫めいた口器がいくつも揺れている。まだ雛のように小さい。だが、猛獣めいて口を大きく開き――
ギィィーーッ、ギィィーーッ!!
甲高い鳴き声を残し、闇の中へと飛び込んだ。
*
台東エリアと文京エリアのあいだの住宅街。あるコインランドリーのベンチで、紅糸世は道場通いのときと同じ、着物風の私服をまとって座っていた。
目を閉じ、コンビニで買ったソフトクリームコーンを舐めながら、彼女は都内各所に残した糸で、警察やUCBDエージェントのパトロールを見守っている。触角の感覚で、彼女には街の《《過去》》と《《現在》》がよく見える。手で触れたものだけでなく、糸で編んだ靴が通過した場所にも、微細な繊維が痕として残る。たとえ清掃されても、かすかな断片さえあれば効果は生きるのだ。
乾燥機の“冷風モード”で回る衣類が、何度もふわりと翻る。高熱に直接触れられない彼女は、いつも冷風で三回まわすようにしていた。そのとき、ふっと、わずかな怨念の気配を捉える。細い眉根が寄る。
(……シャドマイラ?怨念が濃い。姿は小さいが、これはUCBDでも気づきにくいかもしれない。注意しないと)




