先生の笑顔を見たくて
学校に戻ったのは、柊にとって大きな一歩だった。
週に2日、午前中だけの登校許可。体力的には厳しいが、それでも「普通の生活」に触れる時間は、何よりも貴重だった。
久しぶりに登校したその日。教室のざわめきが一瞬止まり、みんなが柊に視線を向けた。
「……おかえり、柊!」
真っ先に声をかけたのは、友達の一人・美咲だった。
柊は照れたように笑いながら、「ただいま」と返す。
その後ろから現れた担任の望先生は、無表情のまま一言だけ言った。
「席に着いていいよ」
望先生は30代前半で、見た目は落ち着いた雰囲気の男性教師。
眼鏡越しの視線はいつも静かで、感情をあまり表に出さない。
柊はずっと思っていた――この先生、笑ってるところを見たことがないと。
休み時間、柊はこっそり願いノートを広げる。
2つ目の願いに書かれていたのは、こうだった。
2. 望先生を笑わせたい
結人が笑った日から、柊の中で何かが変わりはじめていた。
「人の笑顔って、すごい力があるんだなって思ったの」
その日、昼休みに職員室を訪ねると、望先生は一瞬驚いたように目を細めた。
「どうした?」
「聞きたいことがあって…先生、ギター弾けるんですよね?」
しばらく沈黙が流れた。
望先生の指がペン先で机をとんとんと叩く。
「…誰に聞いた?」
「結人くんが言ってました。昔、ライブとか出てたって」
「昔の話だよ。今はもう…やってない」
「でも先生が弾いてるの、見てみたいな」
望先生は答えなかった。
その代わりに、柊をじっと見つめた。
その目は、なにかを押し殺すような――悲しみの色をしていた。
翌週の木曜日
教室で授業が終わった後、先生は唐突に言った。
「柊さん、ちょっと残ってくれる?」
教室に二人だけが残る。
望先生はゆっくりと鞄から黒いケースを取り出した。
「古いギターだ。高校の頃から使ってる」
「えっ、本当に…?」
「音、出るかわからないけどな」
照明が夕焼けのように赤く染まりはじめた教室で、先生はゆっくりとギターの弦を鳴らしはじめた。
音は少し不安定だったが、そのメロディは、なぜかとても優しく響いた。
曲は昔のフォークソング。
歌詞はなかったけど、その旋律に込められた感情は確かにあった。
演奏が終わると、柊はぽろぽろと涙をこぼした。
「すごく…あたたかかったです」
先生は照れたように苦笑した――その瞬間だった。
柊は小さく声を上げた。
「先生、笑った…!」
望先生は少しだけ目を伏せ、ギターを静かにケースに戻す。
「…ありがとう、柊さん。こんな気持ち、久しぶりだ」
「次は、もっと大きく笑ってくださいね。私のリスト、まだ途中なんですから」
先生は顔を少しだけ横にそむけながら、小さく笑った。
その日、柊のノートにはまた一つ線が引かれた。
2. 望先生を笑わせたい ――達成
そして、次のページをそっとめくる。
3. 学校の教室に戻りたい(あと1回!)
4. 七海に夢を思い出してほしい
その目には、未来を照らす光が静かに宿っていた。