第七話 「逃げたって何も変わらない」
試験が終わった時の爽快感といったら、ない。どこまでも遠く見渡せそうな青空。
私は大きく手を広げ、開放感を満喫した。
今回の試験はたぶん、大丈夫だろう。試験が終わるたび、答え合わせをする輩がいる。
試験は全部解き終わったら早期退場して、とっととその場を後にする。
そういう輩が増えてくる前に。
終わったことは、振り返らない。
今を楽しもう。
だって今は、次の試験から一番遠い日だから。2か月後には、またこの地獄がやってくる。いやー、晴れ晴れした。
青空の下、私はスキップしたくなるほどだった。
しかし、少し体が重い。足腰が弱ったのだろうか。試験前の10日間、講義はお休みだ。
しかしその休みを満喫すれば、地獄に突き落とされる羽目になる。
家に引きこもり、朝から晩まで勉強して過去問と関連問題をやりこむのだ。
朝8時に起きて深夜23時まで勉強する、気が狂いそうな10日間である。
あの受験勉強よりしんどい。私はどこか遠くにいって、今の爽快感を楽しもうと思った。
電車に乗って、とりあえず、行く先もなく。車窓から流れる景色をぼんやりと眺める。
ゆくあてもなく、ふらりふらりと行く旅が好きだ。
どこに通じるともなく、目的もなく。
ぐるりと回って、また駅に帰ってしまってもよい。
そしたらハンバーガーでも食べて、ごまかそう。スマートフォンが鳴った。
大野さんだ。
「私、研究室に入ることにしたの。腫瘍学の講義で、腫瘍を予想するAIの話、あったでしょ?池園教授の研究室なんだけど、興味ない?いま試しにつかってみてるんだけど、凄すぎるわ。これは医学の正しい未来よ、完璧な未来よ!あのマッドサイエンティストとは正反対だわ」
その底抜けの明るさが、私に深々と突き刺さった。空の青が、透明感を失ったような気がした。そう、テイルが死んだあの日から、私は全力で現実逃避をしていた。
そのことにすら気付かないほどに。
試験勉強は、ちょうどよく気を紛らわせてくれた。
限界まで自分を追い込む過程で、私はその原罪を忘れることができていたのだ。私は頭を抱え込んだ。
周囲からの視線が全部恐ろしく感じるような気がして、心臓がバクついた。勝手に来て、機密を見て、そして勝手に居なくなった私を、三木教授はどうとらえるだろうか。
彼にはどうも、禁忌を禁忌ととらえていない節があるようにすら思えた。
そして、私も禁忌を破ったものの一員だ。小学生が電車に乗り込んできた。
「俺木登りできるんだぜ」
「どのくらい?」
「猿くらいかな。すっげーだろ」
「じゃあオランウータンとどっちがうまい?」その無邪気な会話に、あの日見た悪夢がフラッシュバックした。
「先生、おれ、木に登れるようになったんだぜ」
そう小学生くらいの子供が叫びながら、長い尾で木からぶら下がって手足で樹冠を駆け回り、だんだん猿になっていくという夢だ。最初は話せていたのが、だんだんウキキとしか言わなくなっていく。そしてネズミのようになっていき、トカゲのように地面を這う。ええん、と赤ちゃんのような鳴き声を上げて・・・そして私はと言えば、そうなる様子を見てらんらんと目を輝かせて「猿になれ、サルになれ」といいながら、記録していた。そう、私がテイルにしたことは、そういうことだ。
ヒヨコは、ヒヨコであるべきなのだ。
その進化の流れを巻き戻し、ヒヨコに尾を生やして恐竜のようにして喜んだあげく、殺した。
テイルはピイとも鳴かなかった。いや、鳴けなかった。
剖検・・・「ゼク」で調べたところ、彼の鳴管は形成不全だった。
それは、人をむりやり猿にもどし、ネズミのような姿に戻していくのとそう変わらない。
私はその共犯者だ。命を弄び、無邪気に笑っていたんだ。そう、人でなし。みんなが私を睨んでいるような気がする。心臓のバクつきが止まらない。息が上がって、倒れそうだ。目の前が青黒く染まっていく。耳鳴りがごんごんと、キンキンと鳴り響き、視界が緩やかに回転していく。死にそう。私はたまたま止まった駅で降り、ベンチで息を整えた。
そのときだった。また携帯が鳴った。
「そうそう、池園教授からなんか博物館のチケット貰ったわ。恐竜とか、好きでしょ?」
とどめだった。私は駅のホームで、嘔吐した。いうまでもなく、周囲の目は白かった。
しかしそれは、私がマッドサイエンティストだからではない。
白昼から駅のホームで吐いていたからだ。そのとき私は、何かを吐き捨てた気がした。逃げたって何も変わらない。
私はもう、マッドサイエンティストの一員なのだから。
この辛い気持ちを抱えたまま、何かにおびえて生きるより、いっそ朱に交わって赤くなれ。
私はひとしきり吐いた後、トイレで口をゆすいだ。
そして大学に戻り、「窓のないビル」にセキュリティカードをかざす。
ピッと音が鳴って、かちゃりと鍵が開く。
研究室に入ると、三木教授がいた。
「試験、お疲れ様。」
私はなぜか、ほっとした気がした。