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第六話 「ゼク」

その夜、テイルは死んだ。

透視室での吸引後、静脈路を確保した。

糸のように細い血管に針を刺して入れる坂戸医師の手腕は目を見張るものだった。

保温され、酸素を投与され、暴れて留置針が外れないようにテープでがんじがらめに拘束されたテイルは、なんとも言えないようなつぶらな瞳で私を見ているような気がした。

サチュレーションは、いまも70台後半。

「誤嚥は解除したはずなのに、サチ上がらないな」

そう低い声で言う坂戸医師の眉間には、深いしわが刻まれていた。

院生たちが集い始め、原因精査がはじまった。

まるで緊急手術のような緊迫感だ。

その様子を、何もできない私はそれを後ろから眺めるしかできなかった。

そして、人だかりがはけたときには、もう息はなかった。

ただ、ピーというモニターの警告音だけが響いていた。


院生たちはすぐに動き出し、慌ただしく内線で他の研究室と調整している。

マイクロCTとMRIを撮影するのだというが、非常に高価で、他の研究室の実験で普段は使われているものらしい。私はその喧騒の中で、蚊帳の外にいる気分だった。

いや、蚊帳の外というより、衝撃と喪失感と無力さから、呆然として何もできなかった。

テイルを押さえていた私の手が、まだ微かに震えている気がした。


ドアが勢いよく開き、三木教授と新井さんが飛び込んできた。教授のよれよれのシャツが汗で張り付き、いつも穏やかな顔に焦りの色が浮かんでいる。

新井さんはタブレットを手に、すでにデータを確認しながら坂戸医師に近づいた。


坂戸医師はケージの前で立ち尽くし、拳を握りながら深々と頭を下げた。

「またステりました。ゼクの準備は整っています」

その声は低く、かすかに震えていた。坂戸医師の背中は、体格に見合わず小さく見えた。


「解剖、見たいかい」


研究室に戻った後、教授がモニターをオンにした。

私の目は開いているものの、そこに映る像は結ばず、ただぼんやりと光を見つめていた。

「お茶入れてくるね」

教授はキッチンコーナーへ行き、甘い紅茶を淹れてくれた。カップから立ち上る湯気と、かすかなダージリンの香りが漂う。でも、私はそれを口に運んでも味を感じられなかった。手が冷たく、震えが止まらない。

画面越しに、澄んだ アナウンス音声が鳴り響く。

[Standby}[Ready to operation}

解剖のために手術支援ロボットが使われているのだ。

一台数百万円を超えるそれが使われているのには驚くべきだが、しかし私には何もかもがどうでもよく感じてしまっていた。

ロボットアームが静かに動き、坂戸さんが指示を出しながらメスをガイドする。モニターには、テイルの内部が鮮明に映し出されていく。気管食道瘻のほか、房室中隔欠損、鎖肛、生殖腺や腎の形成不全——ありとあらゆる奇形が次々に明らかになった。「人間ならどの疾患に対応するか」「原因遺伝子は何か」と、教授や院生たちの声が飛び交う。

しかし、どれひとつとして全くとして頭に入ってこなかった。


三木教授は、私の肩にそっと手を置いた。

「中野君、初めてだとショックだよね。でも、これが研究だ。失敗はつきものなんだよ」

その声は優しかったが、私には届かなかった。私はただ小さく頷き、目を伏せた。

教授は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局何も言わず、新井さんと一緒に部屋を出て行った。


坂戸さんが最後にケージを片付けながら、ぽつりと呟いた。

「次はもっとうまくやるさ。テイル、ごめんな」

その言葉が、静寂の中で重く響いた。私は立ち上がる気力もなく、ただその背中を見つめていた。

この人は、たぶん何十、もしかしたら何百というテイルを見送ってきたんだ。

たくさん並んでいたガラスケージのうち、住人がいたのはテイルのいたひとつだけ。

つまり・・・そういうことだ。

本物の恐竜が生まれる、そういう明るいことに目を輝かせすぎて、それが闇の中の瞬きであることを忘れてしまっていたんだ。


翌日。私は初めて大学を休んだ。

朝、目が覚めても体が鉛のように重く、ベッドから起き上がる気になれなかった。

窓の外を見ると、冬の空が灰色に広がっていて、キャンパスの喧騒が遠くに感じられた。講義に出るべきか迷ったが、テイルの小さな目が頭から離れず、結局布団に潜り込んだ。


昼過ぎ、スマホに大野さんからメッセージが入っていた。

「今日いないけど大丈夫?風邪?」


返信しようとしたが、何を書けばいいか分からず閉じた。

大野さんに「変な研究室に入った」なんて言えない。

教授の怪しげな眼光が脳裏に浮かぶ。

私は、もう、逃げられない。そう思って、枕をギュッと握りしめた。

もう私は、マッドサイエンティストの一員になってしまったのだから。


私はただ、目を閉じて、昨日の出来事を反芻するしかなかった。

その晩、テイルの姿は何度でも脳裏にちらついた。


「俺たちが作ってるのは、病気のヒヨコだよ」

坂戸医師の言葉が反響する。

たしかにそうだ。ヒヨコには尾や爪が生えているべきじゃない。

もし、「猿みたいに木にぶら下がれるようにしたよ」といって、尾が生えて、足の指を対向させた人を作ったら、どうだろうか。

軽蔑されるべき存在だ。


私は、そういう禁忌に手を出してしまったんだ。

もう戻れない。


私は監獄のような宿舎のベッドで一人、泣いた。


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