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第五話 「病気のヒヨコ」

その夜。

結局私はその後、一晩じゅうテイルを眺めていた。

孵卵室の隣に併設された観察室には、簡易な折り畳みベッドと毛布が用意されていて、そこで仮眠を取るつもりだった。でも、テイルがガラスケージの中で小さく動き回る姿。まるで奇蹟を目の当たりにしているようで、目を閉じるのがもったいなかった。

薄暗い部屋に響く小さな爪の音が、つぶらな瞳が、頭から離れない。


結局、まともに寝たのは明け方の2時間ほどだ。

翌朝、研究室を出て講義に向かう。

シャツはしわくちゃで、目はしょぼしょぼする。


講義が始まると・・・だめだ、内容が全然頭に入らない。

教授がホワイトボードに描く分子構造の図も、教科書に並ぶ細かい文字も、ただの模様にしか見えない。隣の席の学生がうつらうつらしているのを見て、少し安心する——私だけじゃないんだ、と。


昼休み、コンビニで買ったチキン南蛮弁当をベンチで食べていると、大野さんが声をかけてきた。

彼女もまた、私と同じ“ちゃんと講義に出ている生き残り組”である。

彼女の手には、手作りの弁当が入ったカラフルなタッパー。

毎日作ってきているらしい。彩り豊かなおかずと、ご飯の上に載った梅干しが妙に眩しく見える。


「なんかいいことあった?」

彼女の明るい声に、ついテイルのことが口を突いて出そうになった。でも、脳裏に三木教授の「絶対に口外しない」という言葉と、にこやかなのにどこか鋭い視線がちらつき、慌てて飲み込んだ。


「いや、別に」

「昨日の講義、面白かったよね!人工肉とか」

大野さんが箸を動かしながら言う。私はチキンを口に放り込みつつ、曖昧に頷いた。


「まるでSFだよね」

まさか、いつの間にかキャンパスがジュラシック・パークになっているとは、彼女も思うまい。私は内心で苦笑しながら、弁当の蓋をいじった。


「そのうち私たちも顔から遺伝子読まれちゃうのかしら」

大野さんが冗談めかして言うと、私は少し考えて答えた。

「割とすぐ来ちゃいそうだね。小児科方面だと、顔を読ませるとどの疾患か判定してくれるAIがあるんだって」

「こわい」

彼女が目を丸くして笑う。私はその笑顔を見ながら、昨夜のテイルの小さな目と鋭い歯を思い出し、胸がざわついた。確かに怖いかも。

でも、まだ見ぬ未来をもたらす、どこかワクワクするものでもある。

「あの教授、絶対裏でヤバい研究やってるよね。私、マッドサイエンティストって本当にいるんだ!ってワクワクしちゃった!」

そう言って笑う彼女を見て、私は思った。

もう笑う側じゃないんだ。笑われる側なんだ、と。



結局、午後の講義も頭に入らず、教授の声が遠くで響くだけだった。

時計の針が5時45分を指した瞬間、私は鞄を掴んで教室を飛び出した。


春先。

凍てつく真っ暗なキャンパスには、研究室の明かりだけがぽつぽつと灯っている。

そして私の足は自然と「窓のないビル」に向かっていた。


ビルに着き、パスキーをかざして中に入る。

あの不気味な「窓のないビル」に入れたことに、自分でも驚く。

研究室の一員になった実感がわいて、小さく足踏みした。


孵卵室の隣にある飼育室に直行すると、そこには保温されたガラスケージが並んでいた。

ほとんどは空だが、その一つに、テイルがいる。小さな体でひょこひょこと歩き回り、時折立ち止まってこちらを見上げる。濡れた羽毛は乾いてふわふわになり、尾が小さく揺れる姿は、まるでぬいぐるみのようだ。でも、その鋭い歯と爪が、紛れもない恐竜であることを思い出させる。

私はケージの前にしゃがみ込み、じっとその姿を見つめた。

すると、

「とりあえず一日目は生存ってとこだな」

背後から低い声が聞こえた。振り返ると、刈り上げ頭で大柄な院生が立っていた。

作業着の胸に付いた名札を見ると、「坂戸」と書かれている。坂戸さんはケージの横に置かれたタブレットを手に、温度や湿度をチェックしているようだ。

「昨日からずっと生きてるってことは、第一関門突破って感じですか?」

私が尋ねると、彼は鼻を鳴らして笑った。

「まあな。まだ餌は食わせてねえが、少なくとも立って、歩いて、呼吸して、循環はしてる。初日は卵黄の栄養が残ってるから、そこで評価するんだ」

「餌はまだやってないんですか?」

私が首をかしげると、坂戸さんはタブレットを一旦置き、説明を始めた。


「おうよ。お前医学部だろ、ABCって習わなかったか?気道、呼吸、循環、それからだ。あとDつったらDysfunction of CNSな。餌はその次以降だ。正直CVいれて餌やらずに静脈栄養、でもいいんだが・・・教授は餌やりまでやって初めて生き物だって言うんだよな。」

うんうん、と私は頷く。

すると、坂戸医師は暗い表情で言った。

「俺はあんまり気が進まないけど・・・餌やってみるぞ」

彼はケージの横に置かれた小さな容器から、ゼリーのようなすり餌を爪楊枝で掬って小皿に置き、爪楊枝で少しつつく。動きに反応したのか、勢いよくテイルは食いついた。

たしかに、小さい恐竜だ。

「おお~いいねいいね。ちゃんと餌は食えるか。」

「水とかペレットとかじゃないんですね」

私が驚いて言うと、彼は少し真面目な顔になった。

「とろみをつけてないと、誤嚥するからな。誤嚥予防にとろみ、国試で出るぞ。そう言うのに限って講義であんまり習わないから、ここでしっかり覚えておくんだな」

「あ、国家試験……今日の講義、興奮で全然頭に入りませんでした」

私が苦笑すると、坂戸さんは肩をすくめた。

「まだ2年の冬だろ?進級して6年の春で何とかすりゃいいのさ。俺もそうだった」

「…ですね。坂戸…先生はお医者さんなんですか?」

ここまで「先生」と付けなかったことを少し後悔しながら尋ねると、彼は小さく笑った。

「救急科にいたはずなんだが・・・なんでこうなったんやら。救急の教授に押し付けられて、いまじゃヒヨコもどきのお守だよ。さて、今夜はつきっきりだぞ。」

そう言っているそばから、テイルの動きが急に止まった。小さな体がうずくまり、口元から白い泡がぷくぷくと溢れ出した。全く鳴かないものだから、一瞬の変化も見逃せない。私は慌てて立ち上がった。

「坂戸先生、なんかうずくまって泡吹いてます!」

「なんかじゃねえ、すぐ隣の透視室に持ってこい!」

坂戸さんが声を張り上げ、タブレットを放り投げるように置くと、ケージをガチャリと開け、さっと足に何か、コードの付いたモニターを取り付けた。

「両手が塞がってる、ドア開けろ!」

私は急いで駆け寄り、透視室のドアに手をかけた。分厚くて重い——放射線遮蔽用の鉛扉だ。力を込めて押し開くと、坂戸さんがテイルを抱えたまま勢いよく駆け込んだ。

部屋の中は薄暗く、壁に並んだモニターと機械が低い轟音を立てている。

「よし、渡すぞ!両手で押さえて固定してろ。両肩に手をそえて、頭が動かないようにな。サチュレーションモニタの波形を見逃すな。ちょっと被ばくするが被爆服を着る時間もねえ」

青い波線と、75という数字。波はあるが、低い。羽毛がふわっと指に触れ、微かな体温が伝わってくる。でも、その体が頼りなく震えているのが分かる。

首のあたりから、ピープーと音が鳴っている。たぶん、誤嚥だ。

「透視出すぞ!」

独特の轟轟とした機械音が鳴り響き、透視画像が出るとともに、極細の吸引管を坂戸医師が構える。


一瞥した彼の表情が一瞬硬くなる。

「気管食道瘻だ。吸引で助かるかどうか…少なくとも餌は食わせられねえな」

そう言いながらも、手際よく吸引管をテイルの口に近づけ、慎重にかつ素早く操作する。どういうわけかわからないが、誤嚥した餌が白く光って見える。それは胃と曲がりくねった気管の一部に入っていて、そこをめがけてすっと吸引管が走っていく。吸引管は本当にただのチューブで、先端が少し曲がっているだけ。坂戸医師はそのごつい指でチューブをねじり、本当に器用にするすると向かっていく。

吸引管を通って吸い取られていく様子を、息を詰めて見守るしかなかった。


「今吸ってる光って見えるやつな、エサだ。こういうのが多発するから、エサに造影剤を混ぜて与えるようにしてるんだ。いいか中野、俺たちが作ってるのは恐竜じゃねえ、病気のヒヨコなんだぜ」

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