第一話 「腫瘍形態学応用」
「DNAはホルマリン固定に弱く、ホルマリン固定標本では診断制度がさがるとされてきましたが、最近ではホルマリン固定標本からでも新鮮な標本であればDNAでも診断が行えるようになってきていて、しかし時間のたった標本ではさすがに無理であるから、生物学者などはエタノール固定標本を好む傾向があって、しかしエタノール固定標本では形態的な比較に難があり・・・」
はあ、恐竜でも作れたらなあ。
DNAが壊れるって話、ねぇ。
20世紀末、私が生まれるより少し前。
「ジュラシックパーク」という映画がヒットした。
小学生のころ原作小説を読んで、のめりこんだものだ。
しかし21世紀の情報に触れるにつれ、DNAが残るのはどうも無理らしい、ということを知った。
琥珀に保存されたDNAも、あっという間にこわれてしまうんだっけ。
ああ、ジュラシックパークに夢見れてた20世紀末の人は、良かったよなあ。
その頃と違って、私たちには輝かしい一般的な未来像も、そこに向かう夢も残されていない。
知らないがゆえに幸せだった。時というものが、どんなに残酷で不可逆なものだということを。
そして、かれらは言うのだ。
「もっと夢を見なよ」とね。
あぁ、そうですかそうですかってね。
眠い目をこすりながら、私は思った。
ああいけない、あまりにも講義がつまらなさ過ぎて、ついつい内容が頭から抜けていた。
医学部の講義というのは、じつに退屈なものである。
難解を極める試験を突破した学生が大学で何をするかと言えば、講義中の昼寝であった。
彼らは、優秀であるがゆえに学習していた。
有意義に学生という自由を使う方が、将来のためになると。
フルに講義に出れば、朝9時から夜6時、ときに7時まで座学が続く。月曜日から金曜日まで、全部。
皮肉なことに、医学的に正しくない教育だ。集中力は40分で尽きるのに、90分の講義を朝から晩まで詰め込んでも学習効果は薄いし、帰ってから復習する気力は残らない。
さらに困ったことに、カリキュラム上全ての単位を一個も落とさないようにしないと進級できないのである。それでいて試験問題の一部は異常に難しい。
そういう問題は、講義に出ても出なくても解けない。完全に趣味の問題に思えるのだ。腫瘍学の講義なのに突然、薬理学の問題や発生学の問題が出るのは当たり前。それらには大抵「薬剤の結合する標的分子はかならず記入すること。必要な酵素や基質はなるべくすべて記入すること、説明のない記述は加点しない」などと但し書きが書いてある。アウトラインだけなんとなく覚えていてもだめ、ということである。
しかしそういう問題にこそ教員のこだわりめいたものがあるようで、試験問題の3割を占める。
しかし、合格ラインは6割。つまり、7割は誰でも解けるレベルのサービス問題にして、それを9割以上の正答率でこたえられるかどうかで合否が決まる。逆にサービス問題がないと、必修科目の試験合格率が半分を割ったりして、次の年からしれっと講義の担当が変わったりすることになる。
結果。同級生が落第してどんどん減っていくのは避けたいところなので、学生は団結して試験対策に当たる。
つまり・・・誰かが講義中にどこが出そうかをメモしておいて、その周囲を集中して勉強するのだ。
いろいろな分業がされていて、ローテーションで講義に出て助け合う。
そうしたループに乗れずに自力で勉強する人は・・・
2年生までにだいたいいなくなる。
全く皮肉なものだ。
私は自力で卒業してやる。
基礎科目は、特に人気がない。
この「腫瘍形態学応用」という講義もまた、そんな中の一つであった。
講義担当の三木教授は教授と名は突いているが、医学部の教授ではない。つまり進級には関与しないはずだ。しかも前の講義がそれまたやる気をなくさせるもので、しかも夕方4時45分から講義が始まるという微妙なタイミング。講義室の占有率は5割と言ったところだった。
この大学には、30分遅れたらその講義はなかったものにする、という慣例が認められている。
20分を過ぎて先生が現れないのを見て、退出する学生が続出した。
私とて、眠い。
瞼が下がってきたり、視界がふらふら揺れる。ペンを握る手が一瞬緩み、ノートに線がぐにゃりと伸びた。睡魔が頭の後ろを重く叩く感覚に、私は奥歯を噛み締めて抵抗していた。
三木教授が入ってきたのは、27分後だった。
よれよれのシャツに、穴が開きかかったチノパン。まだジーパンなら様になるだろうに。
髪には白髪が混じっているが、染める気配もない。見た目には全く頓着しない人という印象を受けた。
ネクタイは曲がっているし、クロックスにはひびが入っている。
そんな三木教授の講義がはじまる。
しかし、講義のPowerPointがなかなか立ち上がらず、講義はデスクトップ画面のままだ。
そのデスクトップにでかでかと映っていたのは、ジュラシック・パークのロゴだった。
恐竜、好きなのかな。
教授は咳払いをして、講義を始める。
「ここまで待ってくれてありがとう。僕の講義のルールなんだけど、ひとつお願いね。講義の内容は全て撮影禁止。講義資料も持ちだし禁止。ノートはとっていいけど、手書きだけね。パソコン、タブレット、スマートフォン。電子機器を使っている人、いたら追い出すからね。そこ、イヤホンもだめだよ」
あー、めんどくさいやつだ。
「その代わり。この教室・・・なんか少ないね。僕医学部じゃなくて生物学部の教授だから気にしなくていいけどさ、来てない人、ラッキーかも。僕の試験問題、誰でも解けるんだよね。もし出すとしても、本当に誰でも解ける問題にするから。」
そして、教授はデスクトップにあった「過去問」というファイルを開いた。
そのとき、私はWhte rbt.とか、compyとかいうフォルダがあることに気づいた。
まず間違いなく、ジュラシックパークの猛烈なファンにちがいない。
教授は、そのみすぼらしい身なりからは想像もつかないほどよく通る声で講義を始める。
「去年の過去問見せるよ。
問1 卵を体の外に産んで、正常な場合、一つの卵から一匹が育つのはどれか。A. マウス B. ウシ C. プラナリア D. ニワトリ E. キンウワバトビコバチ」
講義室に笑いが起こった。誰かが咳払いで笑いを隠し、隣の席の学生が肩を震わせて机に突っ伏した。
「マウス、ウシだと思った人。ちょっとは勉強しようね。」
「プラナリアとキンウワバトビコバチだと思う人、いるかな。もしいたら大切なこと教えてあげる。まともな試験というのはね、普通は解けるように作られてるんだよ。プラナリアの卵は複合卵だから何匹も子供がかえるとか、キンウワバトビコバチは卵一個から胚が分裂して何十匹も生まれてくるとか、そういう解説をする参考書があるけどね。そういうのは読み飛ばしていいんだよ。」
「だからね、ニワトリの卵から一羽のヒヨコがかえると知っていればCとEは見なくていいんだよね。これは資格試験で一番重要なことだから、ここで教える。来てない人にも共有してね。」
案外いい先生じゃないか。
「ってお茶を濁してたんだけどね。スライドの動画がうまく再生されないね。もう僕の試験問題は解けるだろうから、もうすぐ5時半だし、講義を受けずに帰っていいよ」
現在、時刻は夕方の5時35分。
その声を聞くや否や、ぞろぞろと学生が帰っていく。もう五時半も過ぎているし、仕方ない。
15人ほどの学生だけが残った。
教授は目を丸くして首を振った。
「帰らない学生さんもいるんだね。よほど僕の話を聞きたいようで、嬉しいよ。」
と、くしゃっとしたシャツの袖をまくりながら続けた。
「動画は再生されないけど、いいかい。僕の話したいことを話すから、いつまで伸びるかはわからない。時間が困るなら途中退席してもいいよ。」
そして、その講義「腫瘍形態学応用」は始まった。
時は5時40分。そとはもう、真っ暗である。