伝えたい事、表せる事、欠落、補完、伝わる事
文中ではフィルターを濾す物としてだけではなく、加工機能のある物として扱っています。
忘れられない俳句に、象のウンコが出て来ます。
俳句?もしかしたら川柳かも知れません。季語は見当たらないですし、ウンコですし。もしかすると象のウンコ自体が、季語なのかも知れませんけれど。
でも、俳句にしろ川柳にしろ、作者が本当に言いたい事は受け取れているのでしょうか?
たとえ文字数制限がなくても、対面での会話でも、伝える事は難しいですけれど、そもそも本当を表せる事は出来るのでしょうか?
何かを言葉で表したいと思った時に、情動が意識や言語野にまで届いた瞬間に、忖度が入る事はありませんか?
普通はあるのではないかと、私は思っています。
それは気を遣う必要のある相手だけではなく、家族やわがままを言える様な友人に対してでもです。家族や友人と言える人にも、気を遣わなければならない関係だけなのかも知れませんけれど、それは今回は置いて置きます。
忖度と言うだけではなく、フィルタリングと言った方が良いかも知れません。この人には言ったらダメだ、とか、この人にはこう伝えた方が良い、とかですね。
その部分が悪い訳ではないのでしょう。共感と呼ばれる能力に由来していると思われますし。
でも、本来の情動がデコレート、あるいは伝わり易く変質される気がします。
こんな事を書くと、普段スマートでエレガントな会話を嗜んでいるかの様に見せたがっているみたいですけれど、実際には空気を読まずに場を凍らせる事はちょくちょくあります。
ただ、場を熱くする事だってなくはないのだと、ここに主張させて頂きます。
さて。
私がシリーズとしている「わたくしごと」は、ジャンルをエッセイとしています。しかし実際にはジャンルの判断が苦手で、エッセイかな?と思いながらジャンル設定をしています。
つまりエッセイを書こうと思って書いている訳ではありません。
振り返ってみると、私がジャンルをエッセイとした投稿の中には、その素性が愚痴の物もあります。愚痴をフィルタリングして、エッセイ仕立てにしているのです。
もちろん愚痴を書こうと心掛けている訳ではありませんが、何らかの憤りがあった時に、愚痴由来エッセイを投稿する事があるのは事実です。
そしてもし、愚痴でもエッセイとして成り立たせられると示せるのだとしたら、エッセイの幅を広げられるかも?
冒頭の象のウンコの俳句も、恋愛を詠んでいるとの事だったのですが、私には愚痴に感じられました。恋愛の愚痴ではあるのでしょうし、私の感度に問題があるのは確かですけれど。何せ私は恋愛物を書いている積りが、書き終わるとジャンルに恋愛を選べない状況がしばしばですし。
自分の感じた事をそのまま表すのは難しいと思います。
そしてその難しさの理由を表現力不足に求めていました。
でももしかしたら、意識しての忖度とか、無意識でのフィルタリングとかの所為で、情動を表しきれない事があるのかも知れません。
愚痴をそのまま皆様の目に触れる所に書くのは、さすがに私の無意識も気が引ける筈です。
芸術系の学校に通っている人に、自分の感情を表すのが芸術だと言われた事があります。たしか、表しさえすれば良いんだ、と言われたと思います。
それに対して私は、相手に伝わらなければ芸術ではないと反論していました。つまり芸術には伝える技術が必須なのだと。
しかし実は、フィルタリングを外す事の方が芸術にとっては大切だったのかも知れないと、今になって思います。その人はその事を私に伝えたかったのかも。
そして思った事がそのまま綺麗に伝わらなくても、受け手の人の心の何らかのトリガーが引ければ、良いのではないかとも。
考えてみたら、受け手の心に存在しない物は、作品を通しただけでは生み出せないですよね?
自然や人工物の美しさに感動するのも、それを見て何かが心の中に生まれると言うよりは、自分の中にある何かが発火すると言う感覚の方が近く思えます。同じ様な情景でも、心に響かない時もありますし。
もしかしたら他人の心にゼロから何かを生み出せる人もいるのかも知れませんが、私がイメージするその様な人は、煽動者のカテゴリーに入ってしまいます。でも多くの煽動者や詐欺師も、全くのゼロから生み出すのは大変だと思うのですよね?
なお、煽動されたり騙されたりする方の心に種があるから問題なのだなどと、言いたい訳ではありません。煽動者や詐欺師の方がいつでも悪いと思います。
ところで。
好きだと思っていた歌の歌詞を間違えて覚えていると言う、マヌケな事をした事があります。
これは送り手の人の情動や伝えたいと思った事と、その時に私が引いて欲しかったトリガーに、微妙な差があったからではないかと思っています。
つまり早とちりで自分のトリガーを勝手に引いた訳ですね。それで好きになっていたと。
何かを伝えようとする時にフィルタリングで変質させたり、受け取る時に誤変換したりしながら、それでも共感を生んだり出来るのは、不完全なコミュニケーションを取る事に慣れているとか、それを学んで身に着けたとかなのかも知れません。
そうすると多少文章がおかしくても、読み手の方に都合良く補完して貰えているのかも?
そう言えばそれ、覚えがあります。
国語のテストの記述式問題で回答がどちらか迷った時に、どちらとも取れる答を書いてマルを貰いました。あれは先生が正解を知っているから、正解要素を見掛けたら正解だと思ってしまうだろう、と考えての作戦でした。
テスト中にそんな事に頭を使ってないで回答を考えろ、と仰る方もいるでしょうけれど、自分もやったとか今も良くやっていると言う方もいる筈です。
そうか。あれで良いんですね?だって不完全でもコミュニケーションが取れる事を私達は学んでしまったのですから。
それなら今回のこの話も、読んで下さる方に補完して頂けるでしょうか?いつもして頂いているのでしょうけれど。補完のお手間を掛けて頂いている様でしたら、ありがとうございます。
私の好きな江戸時代の川柳に、「れていても、れぬふりをして、られたがり」と言うのがあります。
今回の話は、この川柳を紹介したくて書いたのですけれど、ちゃんと皆様に伝わりましたでしょうか?