赤髪の兄弟
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薄暗い静かな部屋は、吐物や屎尿の匂いが僅かに漂っていた。奥の簡素なベッドには、かつての面影を失い変わり果てた兄が力無く横たわっている。
トマスは、ギリギリと自らの拳を握り締めた。怒りのあまり、拳の全身の震えが止まらなかった。
王宮からの措置で、トゥール家の薬物使用を認めた使用人家族との面会が叶ったその日。トマスは、兄に対する喜びと不安と焦りとが入り混じった気持ちで、指定された郊外の静養施設に向かった。
けれど……。
頭の中を、先程話した医者の言葉がぐるぐると渦巻く竜巻の様に駆け巡っていた。
『貴方のお兄さんは、特に重体な状態です。』
『会話はおろか、自身の記憶さえ残っているかどうか…。』
『不規則的に現れる、禁断症状で暴れる以外は寝たまま動けない状態で…。』
『このまま、いつまで生きられるのかも定かではありません…。』
自身の頭を、強く投打された様な衝撃だった。
優秀で優しい、自慢の兄だった。兄はずっと、トマスの憧れそのもの。
両親が亡くなってからは、唯一の支え合う家族だった。
それなのに……。
「絶対に…。」
(許さねぇ…。)
「あの、どうされますか?」
掛けられた女性の声にハッとする。トマスがそちらを見れば、白いエプロンを掛けた病院のスタッフらしい小柄な女性が、遠慮がちにトマスを見上げている。
「他の方々が、全て引き取られた訳ではありません。医師からの話と、変わってしまった家族の状況をご覧になって、連れ帰るのを諦めたご家族もいらっしゃいます…。特にダットンさんは、独身で他に頼れる身内もいないとの事でしたので、先生も強制は出来ないと仰っていました。」
そこまで話した女性は、小さな声で「余計な事を言って、すみません。」と頭を下げた。
そこに、擦れたトマスの声が降る。
「…れて帰ります。」
「え…?」
「連れて帰ります。上手く出来るか分からないけれど、俺が、世話します…。」
「貴方が、お一人で…?」
女性は目を丸くして、トマスを見上げる。そんなのお構いなしに、トマスは頷いて言った。
「仕事は休めます。兄を受け入れる準備が出来たら、迎えに来ます。」
そうして、トマスは兄を引き取る準備に懸かる。
今自身が持っている情報の全てを、記事に起こした。そして王都が真っ赤に染まった日、彼は編集長にその記事を渡し、頭を下げて仕事を休む事を伝えた。
ドラメント伯爵令嬢を訪ね、暫く来ないと言った。お嬢様は、僅かに目を見開いて自分に何かを言いかけたが、黙って頷き「何か必要なら、力になる。」と言ってくれた。当座の金には困っていなかったので、頭だけ下げて帰宅する。
王都の間借りしていた部屋から、静養施設にほど近い小さな一軒家を借り、廃人同然の兄を引き取って二人の生活を始めた。
兄弟の生活が始まった頃、トマスの書いた記事が新聞に載る事となる。
〝トゥール家の薬物使用に、大国ハローティの関与の疑い〟
その記事は、メルトン国内を不安と恐怖に陥れた。そして、各紙こぞってこの件の記事を取り上げ、王宮側に真相を問い今後のハローティとの関係がどうなるのか迫る。
そんな世間に激震する中でトマスは、兄の狂乱と静寂を繰り返す日々を過ごす。
時折、不明瞭な叫びと嘔吐、全身の震えを起こす以外、兄は静かに横になっていた。半開きの濁った緑色の瞳は、焦点さえ合っていない。
そんな兄と向き合い、世話する日々。
兄弟が、こんな風に過ごせる日が来るなんて子供の頃以来だった。けれど、あの時ほどトマスは無力でも無知でも無い。
それでも孤独な生活になる事を、覚悟していた。
しかし、静養施設で世話してくれた女性、ナディーが訪ねてきては家の細々としたことを助けてくれた。ドラメント伯爵家からは毎週食料が届き、編集長からは何紙もの新聞が送られてきた。
そうしてトマスは腐らず堕ちず暮らしていれば、兄の狂乱は徐々に感覚が広くなり、弱くなっていった。
しかし、そんな兄弟の生活が二月になろうかという頃、兄は呆気なくこの世を去る。
棺に静かに横たわる兄は、家にいた頃より穏やかな顔をしていた。トマスは、最後にその赤髪を指で触れた。
馬鹿にされる事もあった赤髪だったが、トマスは兄と同じ色の髪が好きだった。
(兄さん…、どうか穏やかに。俺はまだ、こっちでやることがあるからそっちには行けない。見ていてくれるか?)
真新しい墓石の前に佇むトマスに、聞き慣れた声が降ってくる。
「王都に帰って来いよ、トマス!お前には、まだ書くことがあるだろう?」
トマスは立ち上がり、喪服に身を包んだ編集長に頭を下げた。
「今日はありがとうございます。そして俺の籍を、社に残していてくれて。」
「待ってるぞ。」
頷くトマスのその瞳は、僅かに不敵な光が宿っていた。
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次回投稿は、明日20時です。




