茶色い大地 上
サクッと楽しんで下さいね。
時は少し遡り、ロマニエルがメルトンに帰国する一月前の事。
ヘンリエッタは、侍女のアンと従者達を連れ王都から東に位置するドラメント伯爵領地に降り立った。
普段暮らしている都会の王都からすれば、田舎な地域だがヘンリエッタは自身の気持ちは晴れやかだった。
幼少期に過ごしていた自然溢れるこの地にいるということは、彼女にとって細やかな幸せな記憶に触れる事を意味しているからだ。
あの頃は、母様もまだお元気だった…。
「お待ち申し上げておりました、お嬢様!」
屋敷に主の馬車が着いたと、普段管理している従者達が嬉しそうに集まって来た。
「厄介になるわ。よろしくね、ノートン。貴方の元気な顔が見られて嬉しいわ。」
ヘンリエッタの言葉に、屋敷の責任者であり祖父の代から仕えている老齢の執事ノートンは嬉しそうに頬を緩める。
「厄介だなんて、何を仰います!領地の屋敷だって、お嬢様のお家ではないですか。私を始め、皆がお越しになるのを待ちわびておりましたよ。」
「ありがとう。私も、楽しみにしていたわ。」
「今夜は、お嬢様の好物の鴨をお出し出来ますよ。長旅でお疲れでしょう。色々と気になることは御座いましょうが、先ずはお休み下さい。明日から、しっかりと動けるように。」
ノートンの言葉に、ヘンリエッタは苦笑いする。この老齢には、いつも自分の考えなどお見通しなのだ。そして目敏い彼は、積荷にあった大人二人はすっぽりと納まりそうな毛皮の毛布と見慣れない顔に気が付いた。
「おや、立派な毛皮の毛布ですね!確かに、こちらは朝晩はまだ冷えますが。ん…?こちらの女性は?」
「護衛のアルマよ。今回の帰郷中、私に付いてくれているの。」
それは、どちらも同行できなかったランドールから懇願されて託されたのだ。
卒業前からイリウスに指名され、王宮遣いになった彼は出立前日まで粘って日程調整していたが遂には叶わなかった。
そこで彼は、冷え性のヘンリエッタを案じて毛皮の毛布と、自身が信頼する護衛の中から一人選りすぐりの彼女をヘンリエッタの帰郷に同行させることにしたのだ。
そして、見送りの時にはすっかりとしょげた様子で、彼女の手に小さな小箱を渡しながら言った。
「キャラメルが無くなる前に、無事に帰ってきてね…。」
「ランドール、貴方の信頼する護衛を借りて、平和なメルトン内の領地へ行くのよ?そんなに心配しないで。」
「それはそうだけれど。アルマ、ヘンリエッタをくれぐれも頼むよ。」
「はい。」
アルマは、短くカットしている青い髪をきっちりと後ろに長し静かに主に頭を下げた。優秀な護衛である彼女は、道中ヘンリエッタの影のように付き従ってくれた。
「ほぉ、左様で御座いましたか。それでは、彼女の部屋をお嬢様のお部屋近くに準備させましょう。さあお嬢様、お茶の支度が出来ておりますよ。シェフが、ベリーパイを焼き上げておりますから中へ参りましょう。」
そうして、ヘンリエッタはノートンの計らいで懐かしい屋敷へと足を踏み入れた。
◇◇◇◇◇
次の日、ヘンリエッタは侍女のアンと護衛のアルマを連れて領地の農耕地を見て回る。
ドラメント伯爵領地の名産の一つ、小麦。その穂はどれもがよく太り、来月には刈り入れの時期になりそうだ。
「今年も、どの畑もよく実っているから収穫が期待できそうね。」
ヘンリエッタの言葉に、畑の持ち主が頷く。
「はい、今年は天候にも恵まれた方でしたから、どの畑でも質の良い小麦が量産出来るかと思います。」
「良かったわ。うちの領地の冬は、北側の凍り付くほどでは無いけれど収入としては落ちるから。この小麦が少しでも高く売れて欲しいわ。来年は、あっちの大麦の畑と入れ替えね。」
「はい、周知済みです。」
ドラメント伯爵領では、麦の連作障害を防ぐため数年ごとに小麦と大麦の植える畑を変えていた。
「あの、お嬢様。」
「なに?」
「新たな収入源を開拓したいという声が、若者達から出ています。」
「聞いているわ。各家庭の収入を上げる為にも、新たな特産物を増やしたいわね。でも、それには今ある麦の作業を邪魔しない物が良いのでしょう?今の畑の広さと領民達の比率では目一杯広げているし。そんなに手がかけられる?」
「そう、ですね…。」
言葉に詰まる相手に、ヘンリエッタは微笑んで言った。
「そんな顔をしないで。それをどうにかする為に、私は戻ってきたのよ。」
領民達がやる気があるという事が嬉しい。その気持ちを現実化する為に、自分はいるのだ。
けれど、大変な麦の栽培から脱穀までをしている彼等に、過大な無理はさせられない。
領地で栽培される麦は、領地の収入源としてトップだ。だから、麦畑を新たに開墾すれば話は簡単だが、流通させられる状態にするまでが手がかかる。
今問題になっているのは脱穀だった。刈り取った麦を、金属の針が並んだ間ですいて穂先を落とす。それから、伸びている毛を押し叩く様にして落とす。そこまでの全てに時間がかかるのだ。
しかも、硬く尖った稲穂は柔らかな皮膚を簡単に傷付ける。手袋が貴重なこの時代、幼い子どもや若い娘にさせるには酷な作業だと思う。
穂先の部分を、今より効率よく脱穀出来れば麦畑を広げても良い。それには、根本的にやり方を考え直さなくてはならなかった。
持続可能な別の産業が無いかと、ヘンリエッタは色々と考えたが良い案が浮かばないまま自分は領地に来ることになってしまったのだ。
◇◇◇◇◇
領地を見下ろせる小高い丘の上に、ヘンリエッタの母の眠る墓があった。
彼女は、父を育てたこの土地と民を愛し慈しんでいた。自分が死んだ後は、領地が見渡せるこの丘に埋葬して欲しいと願っていた程に…。
「中々来られなくて、ごめんなさい。お母様。」
まだ新しさの残る墓石の前にしゃがんで、ヘンリエッタは語りかける。
母が死んだのは、十年前。ヘンリエッタが八歳の時だった。
当時流行っていた流行病にかかり、早くから隔離されると会わないまま逝ってしまった。その為、病に苦しむ母の姿を幼いヘンリエッタは見ていない。
次に見た母の姿は、棺に静かに眠る姿だった。
ヘンリエッタからすれば、あっという間の別れだったと今でも思う。
母との記憶は、領地を連れ回された事ばかり。
彼女は、王都で王室関係の用事がある時以外は娘を連れてよく領地で過ごしていた。王宮に仕事があるドラメント伯爵と、早くから音楽の才を見いだされ留学した兄とは別居状態だった。
日除けの帽子や袖抜き、汚れよけのエプロンを自ら作り上げて領地を散策するのが母の日課。
新しい農作物の栽培や収穫を始めたり、外部の専門家を読んで領民達を教育をする。周辺の領地だけだった物流を、王都まで伸ばし小遣い稼ぎ位にしか出来ていなかった婦人達の手仕事の価値を上げ、彼女達の家庭内での地位を上げた。
伯爵夫人としてはかなり異例な程、領地内を動き回り領民達を巻き込んで領地経営をしていた。その頃に出来上がり、今も領地の収入源として残っている物も多い。母の姿は無くとも、彼女の情熱はこの地に深く根付いる。
領地内のそこかしこに彼女の息吹を感じ、その内ひょっこりと出て来そうな気さえするのだ。
墓には今でも彼女の死を悼む領民達が生花を供えに来る為、ヘンリエッタが墓に来た時も真新しい花が供えられていた。
「私にも、何か出来れば良いのだけど…。」
ヘンリエッタは、墓石を眺めて呟いた。
と、一緒にいたアルマが警戒するのを感じた。ヘンリエッタがそちらを見れば、数人の青年達の中から一人の青年が手に数本の黄色い野菊を持ってこちらに歩いてきているのが見える。
「ウィン…?」
「お久しぶりです、お嬢様。」
ウィンと呼ばれた青年の、グレーの短い髪が風に揺れ、オレンジ色の瞳が優しく微笑んだ。彼女より頭一つ分高い華奢な体をかがめて手に持っていた花を墓に供える。
「お墓に来られると思っていたので、会えて良かったです。」
「丁度良かったわ。私も貴方に会いたかったの。若者から、新たな収入源を開拓したいと言う話を聞いたわ。貴方が、その話をまとめているのでしょう?」
ヘンリエッタの言葉に、ウィンは静かに頷く。
「はい。次男三男でも、皆が家庭を望み稼ぐ未来を思い描いていますから。」
「それは、良いことね。私は、皆の気持ちを汲みたいと思う。麦の仕事は、絶対に外せない。でも、出来る事は有るはずよ。だから、貴方達の話を聞かせて欲しいわ。」
ヘンリエッタを見つめる、ウィンは微笑んで頷いた。
彼女は、早速青年達と墓石を囲んで話し合いを始める。
今の領地利用と、各収益、彼等の動きを洗い出す。それから、話は夫々の夢や希望、未来にまで広がりあっという間に日が傾き解散となった。
移動の馬車に向かうヘンリエッタに、見送るウィンが言った。
「ありがとうございました、お嬢様。」
「何が?」
「俺達の話を、聞いてくれて。」
「そんなの、当たり前でしょう?それが、私の役割だわ。」
「でも、皆喜んでます。聞いて貰えないと、思っていましたから。」
「私は、貴方達の話を聞きたいと思っていたし聞けて良かったわ。」
その言葉に、ウィンはにこりと笑う。かつてのやんちゃな遊び友達だった頃の面影が残る顔で。
「貴方は、変わらないわね。昔から、皆を纏める力があった。」
「変わらないのは、お嬢様もです。あ、見た目は凄く変わりましたよ?本当に。びっくりしました。」
「そうかしら。…自分では、分からないものね。それじゃあウィン、また会いましょう。」
「はい、お嬢様。」
ヘンリエッタは、笑った。
「ふふ。私の事を、お嬢様なんて呼ぶ辺りは貴方も大人になったと思うわ。」
「そんなの、当たり前じゃないですか!もう、あの頃じゃないんですから。」
「そうね。…本当にそうだわ。」
ヘンリエッタは今度こそ馬車に乗り込み、日が傾く道を揺られながら屋敷へと戻った。
次回投稿は、明日20時です。