神の導き 〜タウ&イオタ&レイブン〜
「勝者、フォルティス・フランマ級長、タウ・カエリ―!」
長い戦いのすえにようやく決着が着き、タウは宙に向かって大きく息を吐き出した。やはり手強かったなと思って相手を見ると、敗れたレイブン・ピスタシオは悔しさと満足が半々といった表情だった。
「入学前もしっかり鍛錬を積んでいたようだな、タウ」
「お前もな」
がっちり握手をかわすと、自分の組であるフォルティス・フランマの級旗だけでなく他の三つの旗も大きく振られ、拍手喝采に場内が揺れた。
「おめでとう、タウ」
「二人とも、すばらしい試合だった」
キトゥス・ウェントゥス級長のバトスと、オーリオーニス学院出身でレウァーレ・アクウァ級長のサパン・ヴィンクも寄ってくる。少し話をしていると集合の号令がかかったので、四人の級長はそれぞれの級旗を手に生徒たちの整列をうながした。
セルモス・クルード専攻長から称賛と総代表の徽章を贈られ、自分がこの学年の総代表になったことを実感する。絶対にタウだろうと周囲は楽観的に予想を立てていたが、油断しなくてよかった。レイブンは去年の交流戦のときよりさらに強くなっていたのだ。
最初にレイブンと当たったバトスも実力をつけてきていたが、さすがにレイブンにはかなわなかった。また自分と対戦したサパンもオーリオーニスの学院祭で剣専攻代表として出場したのは見ていたが、実際に戦ってみるとその攻撃は柔軟で読みにくく、勝負に夢中になった。レウァーレ・アクウァにはクラーテーリス学院の剣専攻代表だった生徒もいて、級長戦はかなりの激闘だったと聞いているので、副級長となった彼と合同演習で剣を交えるのも楽しみだ。
「タウ、少し早めに総代表就任を祝わないか?」
サパンからの昼食の誘いに、歩きながらタウは承知した。入学式で隣だったサパンは、表面上は強さを感じさせない穏やかな雰囲気をまとっている。最初から話しやすく、また聞き上手なので、打ち解けるのは早かった。
総代表が決まった今夜は、剣専攻一回生だけでおこなわれる親睦会がある。人数が多いぶん一人一人とじっくりは話せないだろう。それにこの親睦会では毎年必ず誰かが何かをやらかすと言われているので、級長として皆に目を配らなければならない。
「俺も行くぞ」
ぬっと背後から顔を寄せてきたレイブンに、タウはびくりと肩をはね上げた。
「お前は、せめて横に立ってから話せと何度言えばわかるんだ」
「後ろしかあいていないんだから仕方ないだろう。そもそも、バトス・テルソンとサパン・ヴィンクがなぜいつもタウの隣を占領しているんだ」
レイブンがむっつりとしてバトスとサパンをにらむ。確かにバトスはたいてい左側、サパンは右側にいることが多い。
「お前がへばりついているとタウが疲弊するんだよ」
バトスがしっしっと手で追い払うまねをする。武闘館に入学してから今日まで、レイブンは常にタウのいる場所を探し回り、あまりの粘着ぶりにタウ本人はもちろん、同期生たちも気味悪がっている。おかげでタウに同情が集まり、バトスとサパン、そしてフォルティス・フランマの仲間たちが配慮してくれるようになったのだ。
「タウは俺との一戦を楽しんでいたではないか。そうだろう、タウ?」
レイブンに同意を求められ、「いや、それは……」とタウは口ごもった。確かに一番緊張感と興奮に満ちた打ち合いができるのはレイブンなのだが、常に一緒にいたいかとなると話は別だ。
「貴様らに俺とタウの仲を裂く権利はない」
「権利ねえ。付き合いの長さで言えば俺のほうが上なんだが」
バトスが胸をそらしてレイブンを見返す。
「大事なのは長さではなく深さだろう」
「あいにく、深さでも負ける気はしないな」
敵意をぶつけ合うバトスとレイブンに、「まあまあ」とサパンが間に入った。
「じゃあ、級長四人で先に乾杯しよう」
サパンの提案に「いいだろう」とレイブンが偉そうにうなずく。そしてレイブンはそのままタウの右側に並ぼうとしたが、サパンに阻まれた。
「貴様、なぜ邪魔をする?」
「レイブンがへばりついているとタウが疲弊するんだよ」
同じ言葉を繰り返したサパンにバトスがぶはっと吹き出す。タウもつられて苦笑した。
「タウの隣は譲れないけど、俺の右側に来ればいいじゃないか」
「貴様の横などどうでもいい」
「ひどいな。級長同士、仲良くしようぜ」
にこにこしながらも絶対にどかないサパンに、レイブンが歯ぎしりする。結局レイブンが後ろからやいのやいのと会話に加わる形で、四人は食堂へと向かった。
翌日の午後、タウが神法学院の学生寮の門前に馬で到着してまもなく、イオタが現れた。
「二日酔いにはなってない?」
顔色をさぐるように見つめてきたイオタに、タウは微笑んだ。
「大丈夫だ。みんなの介抱で酔いそうにはなったがな」
ゲミノールム在学中に酒の匂いで気分が悪くなったことがあったため、卒業後に毎日少しずつ慣らしていたものの、やはり自分は体質的にあまり向いていないらしい。付き合い程度にはいけても、がばがば飲みたいとは思わなかったのだ。
それでも総代表と酒を酌み交わそうと自分のところに行列ができたが、会話でごまかしている間にバトスが代わりに飲んでくれたので、醜態をさらすこともなかった。
バトスは相当強いようで、最後まで意識が混濁することもなくしっかりしていた。ゲミノールム時代から酒をたしなんでいたのは問題だが、今回バトスがいて助かったのは事実だ。
「それならよかったわ。総代表就任おめでとう」
イオタが爪先立ちになるのにあわせてタウは少し腰をかがめた。総代表になったら、イオタからのご褒美が欲しいと事前に言っておいたのだ。しかし恥ずかしがり屋だからたぶん一発目では来ないだろうという予想どおり、柔らかい唇が触れたのは頬だったので、タウは「ここがいい」と自分の唇を人差し指でたたいた。
イオタはうつむきがちに視線を揺らし、やっと覚悟を決めたとばかりにもう一度祝福の接吻をした。今度はしっかり唇に届いたのでそのまま抱き寄せてさらに重ねる。
想いをはっきり認めたのは交流戦のときだったから、交際を始めてまだ一年もたっていない。だからあまり急いではいけないと思うものの、いざ通う学校が分かれて顔をあわせる頻度が減ると、物足りなさが増した。
下等学院で付き合いだした二人は、物理的な距離に心も離れて自然消滅という形が一番多いと聞いている。女生徒がほとんどいない武闘館と違い、神法学院やトカーナエ高等学院には異性が一定数いるため、たいていは女性側のほうが先に心変わりし、武闘館生は新しい出会いを求めて定期的に開かれる他学院との飲み会に参加するようになる。
長続きさせる秘訣は、どれだけこまめに連絡を取り合い、面倒臭がらずに相手に会う努力をするかだと先輩にも助言されたが、大事にしているつもりが一方的にがつがつ迫っていただけということも多々あり、下等学院では比較的モテる傾向にあった武闘学科生は、進学すると意外に苦戦する状況に陥っている。
バトスのように短い期間でとっかえひっかえする人間は、合同飲み会を存分に楽しめるだろうが、まだ入学して間もないというのに早くも恋人と別れて参加表明をしている同期生たちを見ると、他人事ではないだけに懸念せずにはいられなかった。
「今日は雑貨屋だったか?」
最後に軽く額に口づけてから尋ねると、「そうよ」とイオタがうなずいた。顔を伏せているが耳が赤い。どうやらご褒美を欲張りすぎたらしい。
一緒に冒険していたこともあり、イオタは自分に対して他の女生徒ほど過剰に美化した理想をいだいてはいないだろうが、気が強そうに見えて案外繊細なので注意が必要だ。
熱が高まるほど接し方に迷ってしまう。どこまでなら押していいのか、まさに手探り状態だった。
トカーナエ高等学院にほど近い場所につい最近できたという雑貨屋は、休日ということもあってか、わりと混んでいた。品揃えは一般受けするものもなくはないが、どちらかといえば個性的なほうに比重を置いているらしい。
フォーンの町の雑貨屋とはまるで異なるが、趣味はいいと感じる。何より、眺めているだけでも十分に楽しめる。
問題は、顔見知りに会うたびに相手の視線がイオタに釘付けになることだった。ゲミノールム出身者はさらっと離れるのに、他の学院出身者はぼうっとなるか明らかに落ち着きを失くすのが気に障り、必要最低限の挨拶だけしては別れるを繰り返していたとき、名を呼ばれた。
ふり向くと、サパンが手を振って近づいてきた。帽子をかぶった女生徒を連れている。
「二人とも目立ちすぎだぞ」
周りが急に騒ぎ出したから、奥のほうにいた自分たちにもわかったとサパンが笑う。
「いつからだ?」
タウはサパンに寄り添う女生徒に視線を投げた。たしかオーリオーニス学院の『青玉の姫』で、イオタが一番仲良くしていた代表だ。
「俺はオーリオーニスに入学してすぐ一目惚れしたんだけど、告白したのは去年の舞踏会だ。断られるのを覚悟で最後のダンスを申し込んだら、ミルヒも俺のことが好きだったって承諾してくれて」
サパンが照れながら彼女と微笑み合う。どちらも優しい顔立ちで、お似合いだった。
ミルヒとイオタが久しぶりと言って互いににこりとする。そのまま二人が一緒に商品を見て回りだしたので、タウとサパンも後をついていった。
「タウの恋人が彼女でよかったよ」
ミルヒは控えめで内気な面があり、積極的に交友関係を広げる性格ではないという。それでも他学院の代表と親しくなろうと頑張ったところ、唯一応じてくれたのがイオタだったらしい。
「イオタも助かったみたいだぞ」
こちらは他の代表と少しわだかまりがあったので、ミルヒのおかげで乗り切れたと感謝していた。
ミルヒの話し方に棘がないせいか、イオタの態度は丁寧で柔らかい。自分やミュー、仲間といるときとはまた違う雰囲気のイオタに、タウは目を細めた。
よければ一緒にお茶でもとサパンたちに誘われ、喜んで応じる。四人で近くの茶店へ移動し、注文をして待つ間も話に興じていたところで、不意にサパンがぎょっとした容相になった。つられて窓のほうを見やり、タウもかたまる。
「タウ、かぶれっ」
サパンがミルヒの帽子をさっと取ってタウの頭に乗せる。タウはそのまま窓に背を向け、イオタを抱きしめるようにかばった。
緊張のときを過ごすことしばし、ようやくサパンがふうと息をついた。
「大丈夫だ、もういいぞ」
タウもほっとしてイオタを解放する。何があったのかと尋ねるイオタに、レイブンが店の外を通りかかったのだと教えた。
「勝手に使ってしまって申し訳ない」
帽子を返すタウに、ミルヒは「いいえ、お役に立ててよかったです」と苦笑した。
「奥側を選んで正解だったな」
サパンが椅子の背もたれにどっともたれる。窓際に座っていれば、間違いなくすぐさま見つかったはずだ。
「いくら何でも遭遇率が高すぎないか?」
まさか休日まで付け回しているのかとあきれるサパンに、「さすがに偶然だろう」とタウは答えた。これまでイオタと二人で出かけたことは何度もあるが、一度もレイブンに出くわしたことはない。
「タウの金髪、きらきらしてきれいだから目につきやすいんだよな」
そしてレイブンは光り物に反応する動物みたいだとサパンが言い、イオタとミルヒも納得顔になる。以前妹に髪の色をうらやましがられたが、金髪でないほうがよかったなとタウは嘆息した。
休み明け、朝一番に会ったバトスから今日の合同演習で組まないかと声をかけられた。どの組と練習するかは級長同士の話し合いで決める。タウが了承したとき、サパンとレイブンが競うように走ってきた。
「おはよう、タウ! あー、もしかしてもうバトスと約束した?」
「ああ、今日はキトゥス・ウェントゥスとやる」
タウの返事を聞いてがっくりするサパンに、「悪いな」と全然そう思ってなさそうにバトスがにやつく。
「しょうがない。次はうちと頼むよ。レイブン、そういうわけだから組もうぜ」
「むう。バトス・テルソンは下等学院でタウと十分すぎるほど打ち合っているだろう。譲れ」
素直にあきらめるサパンとは対照的に、レイブンは不満丸出しでバトスに詰め寄った。
「嫌だね。俺の組の連中も総代表に相手をしてもらいたくてうずうずしてるんだよ」
早い者勝ちだとバトスが舌を出す。レイブンがゆらりと殺気を立ちのぼらせたため、「総当たりになるよう、順番に回そう」とタウは急ぎ提案した。
「お前がそう言うなら」とまだ未練たらしい表情ながらレイブンが渋々うなずく。ひとまず剣呑な空気が収まったことに安堵したタウは、「ところで、タウ」とレイブンに呼びかけられた。
「女物の帽子をかぶる趣味があるのなら、もっと早く教えてほしかったぞ」
何ならこれからどんどん贈るがどんなものがいいと聞かれ、タウとサパンは顔色を失くした。
「気づいていたのか」
「当然だ。お前の後ろ姿くらい見分けがつく」
腕組をしてレイブンがふんぞり返る。帽子で髪を隠したくらいではごまかせなかったと知り、相手のすさまじいまでの目敏さにタウは天を仰いだ。サパンから事情を聞いたバトスも、「背中だけで判断できるって、どんだけタウを観察してるんだ」と顔をひきつらせている。
「でも、タウだとわかったのに押しかけてこないなんて、体調でも悪かったのか?」
首をかしげるサパンに、「失礼だな」とレイブンは鼻を鳴らした。
「あの可愛げのない女と二人でいるのを何度も目にしているからな。理解に苦しむが、恋人なのだろう? わざわざ邪魔をするほど無粋ではないぞ」
そういえば、サパン・ヴィンクが連れていたのはオーリオーニスの『青玉の姫』だったなとまで語るレイブンに、タウとサパンはただただ驚いた。興味がなさそうで、レイブンは意外と見るものはしっかり見ているらしい。
「……すまん、どうやらお前を見くびっていたようだ」
実は気づかいのできる人間だったのかと感心してあやまるタウに、「待て待て」とサパンが遮った。
「俺ですら昨日初めて会ったのに、どうしてレイブンが頻繁に二人を見かけているんだ」
「たまたま向かった先にいつもタウがいるんだ。俺とタウの絆はきっと、天空神が定めた強固なものに違いあるまい」
今度は得意げにレイブンが口角を上げる。ぐらりとめまいを覚えたタウのそばで、「絶対に嘘だ」とバトスとサパンのつぶやきが重なった。
その日の昼食は、何となくの流れで級長四人でとることになった。今年の級長は仲がいいなと先輩に微笑まれながら食堂で席に着いたタウは、右側のレイブン、正面のサパンと言葉を交わしつつ食べ終わり、珍しく会話に参加しなかった斜め前のバトスを見やった。
バトスは食堂に来る途中で同じ組の上級生からもらった冊子をめくりながら、黙々と食べている。この位置からだと文字は小さくて読めないが、重要な引継ぎ文書か何かだろうかと思っていると挿絵が視界に入り、タウは飲んでいた水をあやうく吹きそうになった。いきなり咳き込んだタウに大丈夫かと尋ねたサパンが同じようにバトスをかえりみて、目を丸くする。
「お前、飯を食いながらよく読めるな」
裸の男女がさまざまな姿勢で絡み合っている挿絵は、むだに写実的で上手い。
「むしろ食が進むぞ」
恥ずかしげもなくさらりと答えたバトスは、確かにいつもより多い量を完食していた。
「キトゥス・ウェントゥスで毎年一回生にこっそり贈られる『愛の手ほどき』だそうだ」
「書名からしてすごいな」とサパンが苦笑する。
「他の組にはないのか? あ、ということは、シータもいずれもらうことになるな」
あごをなでるバトスに、「あいつには渡さなくていい」とタウはぴしゃりと言った。
「だよな。余計なものを見せるなって、『神々の寵児』から怒りの法術が飛んできそうだし」とバトスがくくっと笑う。
「なあ、それ、後で回してくれないか?」
サパンの頼みに、バトスは「いいぞ」と快く応じた。
「タウも見るか?」
「いや、俺はいい」
「まさかもう不要なのか? イオタと――」
「やってない」
好奇心いっぱいのまなざしで身を乗り出すバトスに即答し、タウは眉をひそめた。
「なぜサパンがほっとした顔をするんだ」
「え、だってさ、もしタウが済ませてるなら、俺も急いだほうがいいかなって」
照れ臭そうに髪をかくサパンに、「あせってするようなものではないだろう」とタウはため息をついた。
「まあ、冗談抜きで、ちゃんと知っとくべきことは知っといたほうがいいんじゃないか? いつそうなってもいいようにしておかないと」
熱心に勧めるバトスに、タウは渋面した。
「別に、お互いの合意があってからでも間に合うだろう」
「普通に間に合わないと思うぞ。それともお前、あれか? いついつにどこどこでやろうねって事前に話し合うのか?」
雰囲気に流される可能性はないのかよとバトスがからかう。あまりにも計画的すぎるだろうと。
「タウらしくていいじゃないか。そのほうが安心して付き合えると思うよ。急に押し倒されると、向こうだっていろいろ準備がってあせるだろうし」
「うむ。真面目で誠実なところはタウの美点だな」
ほめるサパンとレイブンに、「俺が不真面目で不誠実みたいに言うなよ」とバトスが反論する。話を切り上げるべくタウが盆を持って腰を浮かすと、他の三人もついてきた。
「レイブンも興味があるなら貸してやってもいいぞ」
食器の返却場所に四人が盆ごと置いたところで、バトスがにやにやして言う。まだ続ける気かとあきれたタウは、「いらん。我が家系には代々受け継がれている秘伝の書がある」というレイブンの返事に驚いた。
「本当か!?」
「見せてくれ!」
バトスとサパンに迫られたレイブンが、「タウも来るならかまわんが」と視線を寄越す。勘弁してくれとタウは逃走をはかったが、バトスとサパンに両腕をがっちりつかまれた。
「もちろん行くよな、タウ?」
「今週末はイオタと遠出――」
「イオタは逃げないが秘伝の書は逃げるぞ」
「逆だろう。そもそも、秘伝をそんな簡単に披露していいのか」
振り払いたくても、バトスもサパンもすさまじい力で抑え込んでくる。今までレイブンからかばってくれていた友情はどこにいったのかと、タウはがっくりうなだれた。
放課後、寮に戻る前に図書館に寄ろうとしたイオタは、炎の神の使いが現れたことに目をみはった。
学生寮にある受付で来訪者が自身と用のある相手の名前を記すと、紙が在籍者の守護神の御使いとなって呼びにいくのだ。
面会希望を伝えてきたのがタウだったので、イオタは小走りに寮へと急いだ。
「どうかしたの?」
少し息切れを起こしながら門へ着いたイオタに、タウは気まずそうに目をそらした。
「今週末なんだが……急用が入って、一日しか会えなくなった」
「そうなの……用事って?」
残念に思いながらもできるかぎり軽く尋ねると、タウはますますうつむいた。
「あ、ああ……バトスたちとレイブンの屋敷に行くんだ」
えっ、とイオタは驚いた。
「お茶会でもするの? それとも剣の稽古か何か?」
「いや……ちょっと、蔵書を見せてもらいに……」
「大丈夫? そのまま泊まりにならない?」
レイブンが簡単にタウを解放するとは思えない。下手をすれば翌日も会えないのではと心配するイオタに、タウはかぶりを振った。
「夕方には俺だけでも帰るつもりだ」
俺がついていくのが条件だから、それを満たせば後はバトスたちが勝手にするだろうと言うタウに、イオタはいぶかしんだ。
いったい何の蔵書なのか。のどまで出かかった問いを、結局イオタは口にできなかった。そして去っていくタウを見送り、違和感にさらなる疑問がわく。
いつもなら顔をあわせるなり抱きしめるか口づけるのに、触れるどころかタウはずっと視線をそむけていた。明らかに後ろめたい様子だったのだ。
本当にバトスたちと一緒にレイブンの屋敷を訪ねるのだろうか。タウらしくない態度が気になり、こっそり御使いを送って探るべきか迷いつつ数日を過ごしたイオタは、当の休日を迎えた。
募る不信感に苛立ちながら図書館へ向かっていたところで、男子寮からレクシスが出てきた。
「朝から図書館か? 相変わらず勤勉だな」
イオタの手にしている数冊の本を一瞥して肩をすくめたレクシスに、イオタは思い切って尋ねることにした。
「ねえ、今日バトスは何か予定があるって言ってた?」
「ん? ああ、タウたちとレイブンの屋敷に行くって言ってたな」
昨日一緒に飲んだときにそう聞いたというレクシスに、イオタはほっとした。どうやら嘘はついていないようだ。
「蔵書を見せてもらうんですって?」
「そうそう、秘伝の書だってな。俺も行きたかったな」
レクシスはにんまりした。
「まあ、タウがどれだけ堅物でも勉強はしておかないと、お前だって楽しめないだろ」
「……は?」
いぶかって首をかしげるイオタに、初めてレクシスがまずいという顔になった。
「もしかして知らなかったのか」
どこかおかしかったタウと秘伝の書の内容が結びつき、イオタはバキバキにかたまった。
「そんなの聞いてないわよ! 聞くわけないでしょ!」
「お前、案外かわいいとこあるな」
うろたえまくるイオタにレクシスが吹き出す。
「うるさいわね。何なのよ。なんでレイブンがそんなものを持ってるのよっ」
しかもタウまで引っ張り込んでと八つ当たり気味にわめくイオタを、「まあいいじゃないか」とレクシスはなだめた。
「あのタウが蔵書の閲覧に付き合うってことは、それだけお前に本気なんだろ」
バトスと違って興味本位で食いついているとは思えないしというレクシスに全面的に賛成できるものの、恥ずかしいものは恥ずかしい。
くるりと身をひるがえしたイオタを、レクシスの声が追った。
「図書館に行くんじゃなかったのか?」
「頭が痛いの!」
絶対に真っ赤になっているはずだが、隠しようがない。こらえきれなかったのか爆笑するレクシスを残し、イオタはずんずん大股で寮へ帰った。
翌日の昼前、約束していた学生寮の門前で馬を降りたタウは嘆息した。昨日の蔵書がまだ頭から離れない。ぱらぱら見ただけでも精神的な衝撃が半端ないのに、バトスやサパンは食事もまともにとらず時間ぎりぎりまで本を手放さなかったのだから、すごい集中力と執念だ。
眉間をもみほぐしていると靴音が耳に届いた。現れたイオタは目があうなり、びくりと縮こまった。
珍しくスカートだ。自分が馬で迎えにいくようになってから、イオタはズボンを履くことが増えた。そのほうが騎乗しやすいので都合はいいが、久しぶりのスカート姿にタウはしばし見とれた。
「……おはよう」
挨拶の声がぎこちない。イオタは妙にこわばっていた。
「イオタ、今日は――」
「買い物の気分じゃないの。この先の茶店に行かない?」
少し早いけどお昼にしましょうと言われ、タウは学生寮に馬を預かってもらって一緒に歩いたが、茶店に着くまでも着いてからも、イオタは口をきかなかった。
機嫌が悪いのか。やはり一日を他の用でつぶしたのがよくなかったのだろうか。しかもイオタが嫌っているレイブンを優先したのだ。
注文を済ませてからも続いた沈黙に、タウは耐え切れなくなった。
「イオタ、具合でも悪いのか?」
「別に、そんなことは……ないけど」
イオタがうつむく。それなら何が気に入らないのかとさらに追及しようとしたタウに、イオタがぼそりと言った。
「勉強会は無事に終わったの?」
タウは吃驚した。昨日自分たちが何の蔵書を見せてもらったか、イオタは知っていたのだ。
「……誰から聞いた?」
「レクシス」
タウは手で額を押さえた。そちらから情報が漏れる可能性を失念していた。
今さら取り繕っても仕方がないので、みっともない弁解にならないよう注意しながら正直に経緯を報告する。イオタは最後まで声を荒げることなく黙って聞いていた。
「事情は理解できたけど……それで、どうだったの?」
「実のところ、あまり頭に入っていない。読んでいるとお前の顔がちらついて……」
生々しい想像に及んでしまい、やましさに途中でやめたとタウは話した。バトスもサパンもかぶりつくように読みふけっていたので、自分が過敏すぎるのかと情けなくもなったとこぼす。
「私は少し安心したけど」
たとえ真剣に学ぶ意欲があったとしても、がっつりじっくり読み込んでいるタウというのがどうしても思い描けないと、ようやくイオタが小さく笑った。
イオタだけでなく、他人から見れば自分はそういう印象だろう。
「……その……お前は嫌がるかもしれないが、俺にもそういう気持ちはある」
そばにいると触れたくなるし、今はまだ早い気がするだけでそのうちとは思っているので、まったく関心がないということはないと、タウは素直に告白した。
「嫌だとは思ってないわよ。ずっと一緒にいて全然そんな気分にならないとか言われたら、それはそれで傷つくし」
少なくとも、書物を見て自分を重ねるくらいには意識してもらっているのだと前向きに喜ぶことにするわと、イオタがはにかみを混ぜた微笑を浮かべる。タウなら時期がくれば前もって伝えてくれるだろうから、きちんと心積もりしておけるし、と。
拒むときはとことん拒むイオタが恥じらいながら受けとめてくれるさまは可愛らしく甘やかで、タウの自制心がぐらぐらと揺れた。向かい合わせで座っていなければ、たまらず抱きしめていたかもしれない。
「信用が厚いのもよし悪しだな」
衝動的な行動を先に封じられ、はあとため息を吐き出したところで料理が運ばれてきたので、気持ちを切り替えて皿に取り分ける。まだふわふわした照れは互いににじんでいたが、会ったときの奇妙な緊張感のようなものは霧散していたので、ずっと楽になった。
その後、店を出てからは手をつないであてもなく歩いた。たまにはこんなふうに過ごすのもいいなと満足していると、目の前を子供連れの女性が横切り、イオタがちらりと見上げてきた。
「タウは……妻は家にいたほうがいいと考えてる?」
「時と場合によるな。だがイオタの夢は教官になることだろう? だったら共働きでやっていけるよう、俺も協力する」
都度相談すればいいとタウが答えると、イオタもうなずいた。それから、できれば職場に近い場所に住みたいがやはり子供たちはゲミノールムに通わせたいとか、二人で希望をあげていく。会話の流れが自然すぎて、タウはついイオタを見つめた。
「何?」
「いや……こんなふうに続いていくのかと思ったら、ちょっとこそばゆいな」
不思議そうな顔のイオタに微笑む。将来設計が具体的すぎたことに気づいたのか、イオタも視線をさまよわせた。
あのとき、虹の森で見た道はいくつかあった。独身はもちろん、イオタと紡がない未来も。
自分に選択肢があるように、イオタも自分以外の男と家庭を築く可能性がある。
イオタは自分を選んでくれるだろうか。そして自分は――。
この先のことはまだわからない。ただ、今イオタといるこのときが紛れもなく満たされているのは確かだった。
「……結婚したら、俺は少しでも長く家族といたい。お前や子供たちを悲しませることがないように」
だから戦いに身を投じる職ではなく、教官の試験を受けるつもりだとタウは告げた。
父が救ってくれた命を、家族との時間に活かしたいと。
それに応えてくれるかどうかはイオタしだいだ。心の中で祈るようにそうつぶやいたタウに、イオタが賛同した。
「そうね。一人は剣専攻生になりそうだから、タウに面倒見てもらわないと」
さらっとこぼされた発言にはっとする。それ以上は口にできなかったが、虹の森の池で同じ光景を目にしていたのだとわかり、二人は顔を見合わせて同時に笑った。
手をつないだまま、イオタが頭をもたせかけてくる。そのぬくもりが嬉しくて、愛しくて、大切にしたいとタウは思った。
武闘館卒業と同時に結婚したのは、ラムダとミュー、サパンとミルヒ、そして驚いたことに許嫁がいたというレイブンだった。タウとイオタはそれぞれ武闘館と神法学院の教官試験に合格し、副教官として採用されたため、一年間は仕事に慣れることを優先し、婚約だけして結婚は翌年に延ばした。
レイブンの結婚式に呼ばれたので、渋るイオタをなだめてタウはレイブンを自分たちの式に招待した。これでレイブンとの付き合いはきれいさっぱりなくなったと安堵したのだ。
しかし。
朝早くから鳴った呼び鈴に、タウは思わず息子たちをかえりみた。今日は降臨祭だが、オルトもフレッドも出かける予定はないと聞いている。
そもそも約束は前日までにするものだから、近所の誰かだろう。朝食の片付けをしつつ不審げな表情を浮かべたイオタに大丈夫だと言って玄関に向かったタウは、扉を開いて唖然とした。
「おはようございます。オルトのお父様でいらっしゃいますか?」
「久しぶりだな、タウ。元気そうで何よりだ」
明らかに親子とわかる二人連れに立ちつくすタウの後ろから、「うわっ」とオルトが顔を引きつらせて出てくる。さらに台所で派手に食器の割れる音がした。
「お前、何しに来たんだよ」
「おはよう、オルト。降臨祭だからあなたを誘いに来たのよ」
「あり得ないだろう。なんで当日なんだ。俺が誰かと出かけるとは思わなかったのか」
渋面したオルトは、いきなりずいっと顔を寄せてきた男にぎょっとして後ずさった。
「うむ。若い頃のタウにそっくりだな。剣の才も受け継いだようで、実にすばらしい」
「レイブン……いったい何の用だ」
娘はともかく、どうして親までついてきたのかとタウは大息した。
「これまで誰にもなびかなかった我が愛娘ウィオラの心を射止め、驕り高ぶった愚鈍な求婚者の手から救い出したのがお前の息子だと聞いてな。これはぜひとも挨拶をせねばと訪ねてきたのだが、期待以上だ」
タウはげんなりとしてオルトを横目に見た。オルトは必死に手をぱたぱた振って否定している。射止めたつもりはないと言いたいのだろう。
だからピスタシオ家とは距離を取れとしつこく念を押したのだ。一度でも関われば絶対に食いついてくると予想できたから。
「娘三人をどこへ縁づかせようかと悩みもしたが、よい婿を得られてよかった。いや、そんな言葉では言い表せないほど俺は感動している」
レイブンは胸に手を当てて大げさに喜びを吐露している。年をとっても先走った謎の思考を強引に展開するところは変わっていないらしい。
「勝手に婿に決めないでください。俺とウィオラはまだ交際すらしてないんですよ?」
言い返そうとした自分より先にオルトが反論する。両親に似て納得のいかないことは素直に承知しないオルトに、レイブンはひくりと眉をはね上げた。
「娘の唇を奪っておいて逃げるつもりか?」
「奪われたのは俺のほうなんですが」
「ではお互い奪い合ったということでどうかしら」
「事実をねじ曲げて話をまとめるな」
接吻したのか。初耳だ。衝撃の連続に指でこめかみを押さえたタウは、「母さん!?」と叫ぶフレッドの声にふり向いた。
台所の入口で倒れたイオタをフレッドが揺さぶっている。タウはイオタに駆け寄って抱き起こしたが、妻は気を失っていた。
「気絶するほど嬉しかったのか」
「そんなわけないだろう」
タウはため息をついた。できることなら自分も一緒に意識を飛ばしたい。目覚めたら、嫌な夢だったなと笑って流してしまいたかった。
「フレッド、頭を冷やす布を持ってこい。それからオルト、とりあえず彼女を連れて家を出ろ」
さもないと気がついたイオタが発狂しかねない。
オルトは顔をしかめたが、自分が原因を引き寄せた認識はあるようで、渋々着替えにいった。タウはイオタを寝室へ運び、たらいと布を持ってきたフレッドに看病を任せてから玄関へ戻った。
ちょうど準備ができたオルトがウィオラとともに出ていく。見送ったレイブンが「お似合いだな」と満足げにうなずいた。
「交流戦で初めて剣を交えたときからそんな気はしていたが、やはりお前とは縁が深いようだ。末永くよろしく頼む」
浅緋色の双眸を嬉々として輝かせ、レイブンが破顔する。
虹の森の池に未来がすべて映っていたわけではないが、この光景はなかった。あれば強く印象に残っていたはずだ。それとも無意識に拒否反応が出て視界に入らなかったのだろうか。もしくはすぐさま記憶から消去したか。
イオタと結びつけてくれた天空神の導きには感謝しているが、この男との絆は断ち切りたかったと、この先も続くだろう鬱屈にタウは肩を落とした。