父さんの好きな人 〜ソール&リリー&子供たち〜
「シグ兄、これは?」
「どれ? ああ、いいな」
槍鍛錬所からの帰り道、もうじき誕生日がくる母への贈り物を探そうと市場に来たシグドールは、古くからある信頼できる店に立ち寄り、弟の提案にうなずいた。目の前で売られているのは装飾品で、値段も手ごろなせいか同年代の女の子たちも出入りしている。
「父さんは何を買うのかなあ」
アゼルの問いに、シグドールは「うーん」とこぶしを口に当てた。
「父さんは当日の料理担当だって言ってるけど、毎年他にも用意してるもんな」
母はどんな贈り物も喜んでくれるが、自分たちがどれだけ必死に考えて選んでも、やはり父のものにはかなわない。
誕生日の贈り物なんてわざわざ用意しないぞと、鍛錬所の仲間の何人かは驚いていた。自分の欲しいものは要求するが、親には何もしないし、夫婦間でのやり取りもないらしい。だから毎年欠かさず準備する我が家は、きっと仲がいいのだと思う。
父と母は自慢の両親だった。父はすごく強いし、母は美人で優しい。すでに三人の子供がいるのに、母はいまだに町に出れば声をかけられるから、母が買い物に行くときは荷物持ちを兼ねてできるだけ自分たちもついていくようにしていた。
本当は母もかなりの法術の使い手なので、自分の身は自分で守れるのだが、わざわざことを大きくしたくはないようで、可能なかぎり言葉でうまくかわしている。それでもどうしようもなくしつこくされたときは、吹っ飛ばしているが。
昔に比べればこれでも頻度が減ったほうだと、警兵のカルパ・ウォークは笑っていた。父の親友でもある彼は母のこともよく知っていて、母がやむを得ず法術を使った場合はいつも正当防衛としてさらさらと調書にまとめている。母が実はとても優秀な神法士だと身に沁みた連中は二度とちょっかいをかけないが、そうと知らない者や、話には聞いていながらなめていた者が返り討ちにあっているのだと。大人は結婚指輪が視界に入らないのかと真面目に質問したら、カルパは爆笑して自分の頭をわしゃわしゃなで、「お父さんがいないときはお前たちがお母さんを守るんだぞ」と言っていた。
アゼルと一緒に選んだ髪留めを購入し、贈り物用に包んでもらう。男二人であれこれ相談しているのは奇異に映ったのか、そばにいた女の子たちからやたら見られていたので、店を出てシグドールはほっとした。そして、彼女たちがよく鍛錬所に見学に来ていたのを思い出した。
誰か兄弟が通っているのかもしれない。もし話が伝わって変に冷やかされると面倒だが、母への贈り物なので別に恥じることはないかと考え直す。
「えっと、次は……」
出かけるときに母に渡された紙をポケットから取り出し、シグドールはあたりを見回した。
「アゼル、ちょっと買い物をして帰るぞ」
「りょーかい」
弟を連れ、シグドールは野菜屋をのぞいた。
「おや、シグとアゼルじゃないか。おつかいかい?」
恰幅のいい女店主に「こんにちは」とシグドールは挨拶をした。
「今日、これ売ってますか?」
シグドールが紙を見せると、女店主は「ああ、これね。ちょうど今届いたところだよ。人気があるからすぐ売り切れてしまうんだよね。ピトン!」
女店主が呼んだ先にいたのは、父にも劣らない筋肉質の男の人だった。箱いっぱいの野菜を軽々と荷馬車から降ろしている。そのそばでは自分と年の近そうな少年も手伝っていた。
「何だ?」と寄ってきた男の人に、先にこの野菜を五つ持ってきてほしいと女店主が頼む。
「この子たちが美人なお母さんに頼まれたそうだよ」
ピトンがへえと軽く目をみはる。毛深いので熊みたいだが、人のよさそうな顔だった。そのとき、店の外で悲鳴が上がった。
見ると、五匹の犬が無節操に通行人に襲いかかっている。首輪をしているので飼い犬だろうが、興奮しているのかもともと気性が荒いのか、おびえて逃げる人々を追い回していた。
逃げると犬はますます食いつくのでかえって危険だ。シグドールは「アゼル、いけるか?」と弟に視線を投げた。自分より二歳下だが、アゼルはその年の子供たちの中では一番強い。
「大丈夫」
アゼルが父親譲りの黄赤色の双眸を好戦的にきらめかせる。被害が拡大する前に、二人は槍を手に走り出た。
「うわああっ」
野菜の箱を落として縮こまる少年に飛びかかろうとした犬を、シグドールは槍の柄で払った。アゼルも兄のまねをして槍を反対に持ち、柄で犬に立ち向かう。二匹が地面に横倒しになり、三匹は小柄なアゼルに狙いを定めたが、一匹だけはアゼルに任せ、残り二匹をシグドールが柄ではじいた。悲鳴をあげて五匹すべてが転がったところで、飼い主らしき大柄な男が駆けてきた。
柵の補修中に犬が脱走してしまったのだという。あやうく大勢の人にけがをさせるところだった飼い主は皆から非難されて平謝りし、殺さない判断をしてくれた兄弟に感謝した。
動けなくなった五匹の犬は戸板に乗せて運ばれ、シグドールとアゼルは大きな拍手と称賛を浴びながらまた野菜屋に戻った。
「さすがシグとアゼル。あんたたち、本当に強いねえ」
女店主がにこにこしながら感嘆の息をつく。そこへピトンが少年を連れてやってきた。
「息子を助けてくれてありがとう。ちゃんとした自己紹介がまだだったな。俺はピトン・フランコ。こいつの名はハスクっていうんだ」
聞くと、シグドールと同い年だった。ハスクは鶏や牛なら平気だが、犬は苦手らしい。涙目で何度も頭を下げられ、シグドールは苦笑してもういいよとなだめた。
「おーい、シグ。これ受け取ってくれ」
「あたしんとこのもあげるよ。あんたたちがいてよかったわ」
早い段階で犬を抑えたおかげでけが人がほとんどなく、店の被害もなかったということで、あちこちの店から商品を渡され、シグドールは困惑した。気持ちはありがたいが、全部持って帰るのは不可能だ。
「ちょっと待ってな。積み荷を降ろしたら荷台に積んで運んでやるよ」
「それがいいね。そうしてもらいなよ、シグ」
ピトンの言葉に野菜屋の女店主も賛成したので、シグドールは好意に甘えることにした。アゼルとともに野菜を下ろすのをまず手伝い、それからいただいたものを乗せていく。ついでに荷台に上がらせてもらい、二人はピトンとハスクに送ってもらった。
道すがら、シグドールはピトンやハスクといろいろ話した。ピトンの農場はリーバの町の端にあり、こちらに野菜を届けているという。
「去年くらいから、あそこの店の野菜がすごくよくなったって母さんが言ってたんですが、フランコさんの農場で作った野菜に替わったからだったんですね」
「それは嬉しいな。シグのお母さんは違いがわかる人なんだな」
馬車を操作しながらピトンが笑う。
ピトンはもともとは別の仕事をしていたが、父が体を壊してしまったため農場を継ぐことにしたらしい。しかし農作業を嫌がった妻が他の男と家を出てしまい、以来ピトンは男手一つでハスクを育てているという。
「結構な重労働だからな。最初から覚悟して嫁に来るのとはわけが違うし、まあ、逃げられても仕方ないな」
ハスクにはつらい思いをさせて申し訳ないがと語るピトンも寂しそうだったが、シグドールはかける言葉が見つからず、その点については聞くだけにしておいた。
ハスクは槍に興味をもったようで、自分もやりたいとうらやましがっていた。通う学院は別々になりそうだなと話していると、家に到着した。
先にアゼルが飛び降りて玄関へ走っていく。まもなく母が妹のリリアを連れた状態でアゼルに手を引かれて現れた。アゼルが自分たちの活躍を自慢しているのがここまで聞こえてくる。
「あら、本当にすごい量ね」
目を丸くして笑った母は、荷台から降りて近づいたシグドールの頬を両手ではさんだ。
「けがはしてない?」
「大丈夫。余裕だった」
「そう」と薄緑色の瞳を優しく細める母のそばで、山盛りの荷物をのぞき込んだリリアが「お兄ちゃんすごーい」とシグドールにしがみつく。髪と瞳の色が母親と同じ妹は顔立ちもそっくりで、そんな妹にほめられるとつい頬が緩んでしまう。
「わざわざ運んでいただいてすみません。お世話になりました」
頭を下げる母に、しかしピトンとハスクは返事をしなかった。二人とも口を開けてかたまっていたのだ。
「あの……?」と母がかすかに眉根を寄せて首をかしげたところで、ようやく我に返ったようにピトンが御者台から慌てて降りてきた。
「あ、いや、その、シグ……む、息子さんにはうちの子を助けてもらったので、これくらいは当然といいますか、その……」
真っ赤な顔でしどろもどろになりながら、ピトンは視線を泳がせた。
「あの、お、重いでしょうから、よければ中まで運びましょうっ」
母が遠慮する前に、ピトンがハスクに荷物を下ろすよう指示する。その勢いに母も断り切れなかったらしく、みんなで運ぶことになった。
とりあえずと台所のすみの机に置けるだけ置いたところで、窓外を見やったピトンが反応した。視線をたどり、母が少し恥じらったさまで話す。
「趣味程度に、よく使うものだけ植えているんです」
「もしよければ、見せてもらってもかまいませんか?」
「どうぞ。専門の方にお見せするのは恥ずかしいですが」
台所にある裏口から庭に出て、ピトンは小さな畑に植えられている葉物野菜を観察した。
「すごいですね。土もいいし、よく育っている。ご実家は農家ですか?」
土にもさわりながら、ピトンが母をふり返る。
「いえいえ。まったく関係のない仕事です」
独学でぼちぼちと答えた母に、ピトンが目をみはった。
「それでここまでのものを、お一人で?」
「畑は主人や子供が耕してくれましたし、私は普段の世話だけなので」
でも油断するとすぐ虫が喰うのでなかなか難しいですねと言う母に、「虫が来るのはおいしい証拠ですよ」とピトンはあごをなでながらうなずいた。
「虫や土いじりは気持ち悪くないですか? そういうのを敬遠する女性は多いのに」
「手は汚れたら洗えばいいので。虫ももっと大きなものをたくさん見てきたので、これくらいならかわいいくらいです」
ふふっと母が思い出したように笑う。不思議そうな顔をしたピトンに、「母さん、学生の頃に冒険してたんだよ」とアゼルが教えた。
「父さんともそれで仲良くなったって」
こーんな大きな蜂とかと戦ったんだって、とアゼルが両手を広げてみせる。母が見た目よりはるかに活発だったことを知り、ピトンはますます驚嘆の面持ちになった。
「父さんは?」
「さっきお仕事に向かったわ」
シグドールはがっかりした。今日の鍛錬での反省点を父との打ち合いで修正したかったのに。
「いつも夕方からお勤めなんですか?」
「いえ、たまに不規則になりますが、普段は日勤です」
「たまにとはいえ大変ですね。ご主人が夜に不在だと心細くありませんか?」
「慣れていますから。それにこの子たちも頼りになりますし」
「一番強いのは母さんだよね」とアゼルが口をはさみ、場が笑いに包まれた。
「シグ、俺も槍を習ってみたい。教えてくれないか?」
ハスクに袖を引かれ、シグドールは少し迷った。初心者用の木槍がまだ家にあるのを母に確認し、それで基本的な型くらいならと言うと、それでもいいとハスクが喜んだので、鍛錬所に通わない日に家で教えることになった。
さっそく明日遊びにくる約束をし、フランコ親子はシグドールの家を発った。
帰り道、御者台に並んで座っていたハスクは、ぼんやりしている父を横目に見た。
「シグのお母さん、めちゃくちゃ美人だったね。妹のリリアもお母さん似ですごくかわいかったけど」
「ああ、そうだな」
父の口調はやはり芯がなかった。完全に気持ちがよそに飛んでいる。
「シグのお母さんみたいな人だったら、逃げずに一緒に農場で働いてくれたのかな」
毎日気合を入れておしゃれしていた実母よりももっと、品のいい茶店で優雅にお茶を飲むのが似合いそうなのに、シグドールの母親は手が汚れるのも虫も平気なのだ。
「……そうだな」
父の頬が赤らんでいるのは夕日のせいではないだろうと、ハスクは思った。
家族であの小さな畑を囲んで仲良く水やりをしている姿を想像し、うらやましさに唇をかむ。
「父さん、俺がシグの家に行く日、迎えに来てくれる?」
はっと父が息子をかえりみる。人のいい顔が興奮と期待に上気を抑えきれないさまを見て、父も自分と同じことを夢見ているのだと知った。
ほんの少しなら、幸せを分けてもらってもいいのではないか。温かい家庭にちょっとだけ入れてもらうくらいだったら。
親子で手を振って見送ってくれた優しいドムス家を思い出し、ハスクは暮れかけた空を仰いだ。
台所のすみで大量に積まれた野菜を前に、ソールはしばし沈黙した。
「……いっこうに減らないな」
縁あって知り合ったハスクに槍を教えてもいいかとシグドールに尋ねられ、素振りだけで絶対に打ち合わないことを条件に許した。リリアには普段から、兄たちが練習しているときには近寄らないよう言い聞かせているので、今のところ問題ないようだが。
「気にしないでくださいって何度も言ってるんだけど」
隣に並んだリリーも困り顔だ。
ハスクが遊びに来た日は必ず父親が迎えにきて、野菜や肥料などをどっさり渡されるのだという。最初はありがたく受け取っていたリリーも、さすがに申し訳なくなり断るようになったのだが、「余っているので」と押しつけられ、結局もらうはめになるらしい。もらわなければ帰ってくれないからと。
もともとリリーも気に入って買っていた店の野菜なので、ただでいただくにはもったいないほど質がよいが、子供一人の面倒を見たお礼にしては大げさすぎる。
しかも庭の畑が広くなってきていた。ハスクの父親がおすすめの種や苗を持ってきては説明しながら植えていき、ちょと様子を見せてくれと言って庭に入る。二人きりという機会を狙うのではなく、必ず子供たちと一緒に行動するので、リリーも変に突っぱねることができないようだ。
おそらく本来は世話焼きの、気のいい農場主なのだろう。ただ、離婚のいきさつから察するに、あの親子にとってリリーはとても魅力的に映るはずだ。
町を歩いているだけでも目を引く女性が自分の得意分野に興味をもっているとわかれば、接近したくもなる。その気持ちは理解できるが、リリーは自分の妻だ。それだけで警戒するには十分だった。
ふうとため息をついたソールに、リリーは「ごめんなさい」とうつむいた。初日に家に入れてしまったのは軽率だったと悔やんでいるのだ。
「お前に怒っているわけじゃない」
ソールはリリーの髪をそっとなでた。
「意図的にしろ、そうでないにしろ、俺の家族を悩ませる相手に苛立っているだけだ」
そしてソールは、今の仕事が片付いたら平日にまとめて休みをもらうと告げた。
「入学試験が近いからしごいてくれと、シグに言われているんだ。どうしても代表になりたいらしい」
「鍛錬所では負けなしだって聞いているのに」
「向上心のある子だからな」
小さく笑い、ソールはリリーを抱き寄せた。
「このところ忙しかったから、家族でゆったり過ごしたい」
「買い物も一緒に行ってくれる?」
「もちろんだ。その後は俺に付き合ってくれ」
「どこに行きたいの?」
尋ねるリリーに希望をささやくと、リリーの頬が薄く色づいた。
「たっぷり濃いめで頼む」
「もう」とリリーがソールの胸に軽く触れる。ソールは笑って愛しい妻に口づけた。
翌朝、身支度を終えたソールがいつものようにお守り袋を確認するのを、リリーはそばで見ていた。最初の頃は風の紋章石と『花冠の乙女』が散らした花びらを入れていたが、今は『砦の法』のかかった指輪が入っている。ゲミノールム学院二回生のとき、前年の学院祭で『花冠の乙女』のダンスを見た新入生がリリーに群がりやたら話しかけたので、虫よけを兼ねておそろいでつくってくれとソールに頼まれたのだ。高等学校に進学してもお互い左手の中指にはめていたが、結婚の際に指輪は正式なものに替え、ソールはリリーからもらったものをお守り袋に入れて持ち歩いている。
かなりすり切れてきたお守り袋をポケットにしまったソールがふり返る。二人はどちらからともなく歩み寄り、出勤前の習慣になっている接吻をした。
「気をつけて行ってきてね」
「ああ、これがあれば心配ない」
ソールがポケットをぽんとたたく。
最後の張り込みと証拠確保のため、今日から数日間ソールは家をあける。留守の間は実家に帰るかとソールに勧められたが、父が最近新薬の研究で家にも仕事を持ち帰っていると母に聞いていたので、子連れでの帰省は気がひけた。ペイアと約束している日もあるし大丈夫だと、リリーは笑顔でソールを送り出した。
「母さん、今日は市場に近い空き地で遊ぶから」
気合を入れてフランコ親子を待つ構えになったリリーに、シグドールが声をかけてきた。
「客が来るって、昨日鍛錬所の帰りにハスクに伝えたんだ。解散もそこでするから、フランコさんは来ないよ」
えっ、と目をみはるリリーに、シグドールは父によく似た優しい微笑を浮かべた。
「だから今日はゆっくりしてて」
「シグ……」
頑張って顔に出さないようにしていたつもりだったが、父親譲りのよく気がつく性格の息子には見透かされていたらしい。リリーはシグドールをぎゅっと抱きしめた。
「気をつかわせてごめんね」
「違うよ。もとは俺たちが連れてきたせいだから。いい人だとは思うけど、父さんがいないすきに頻繁に家に出入りされるのは俺も嫌だし。もっと早くこうしてればよかったなって……俺こそごめん」
リリーから離れ、シグドールはにこりとした。
「明日は鍛錬所に行く日だし、あさっては本当にペイア叔母さんが来るから断るよ。そうしてたら父さんも休みになるし。ハスクには悪いけど、父さんに鍛えてもらいたいんだ」
子供たちの祖父であるピュール・ドムス教官は、孫たちのゲミノールム卒業を見届けたら引退するつもりだと以前口にしていたので、祖父にいい格好を見せたいとシグドールとアゼルは張り切っている。ちなみにリリアは自分に似て風の法に適性があったため、ニトル・ロードン教官が後継者に欲しがっていた。風の法の担当教官は相変わらず人手不足なのだ。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。二人とも気をつけてね」
シグドールがアゼルを連れて外出していく。息子の配慮に感謝しつつ、リリーはその日久しぶりにリリアと二人でのんびり過ごした。やることはいつもと変わらないが、夕方の訪問がないというだけでずいぶん気が楽になり、いかに自分の中で大きな負担になっていたかを痛感する。
あからさまに安っぽい下心をもって近づいてきたなら、遠慮なく法術ではじき飛ばすのに。根はいい人だとわかるだけに、かえってやりにくかった。
リリアもハスクがいないせいか、いつもよりくつろいでいる。やはり遊びに来る回数を減らしてもらおうかと考えながら、夕方に洗濯物を取り込んでいると、呼び鈴が鳴った。近所の人だろうと油断していたので、玄関の扉を開けたリリーは立ちすくんだ。
「……あの……今日子供たちは市場の近くの空き地で遊んでいるはずですが」
動揺をかろうじてのみ込みながらリリーが告げると、ピトンは「え? そうなんですか」ととまどいの容相になった。
演技ではなさそうだ。本当に知らなかったらしい。
「ハスクは野菜屋の前でフランコさんを待っていると思います」
息子たちがいない状況で対面することに、じわじわと恐怖心が募る。
早く去ってほしいと祈る気持ちでいたリリーに、ピトンは「ああ、じゃあ、迎えに行きます」と両手で抱えた野菜カゴに視線を落とした。
自分一人では運べない量だ。しかし、自分とリリアしかいない家に入れるわけにはいかない。
ピトンもためらっている。ここぞとばかりに押し入らない彼は、やはり最低限の礼儀はわきまえているらしい。それでも今日は持って帰ってもらおうとリリーが口を開きかけたとき、ピトンの背後から新たに靴音がした。
「やあ、リリー。お客様かい?」
警兵の制服姿で現れたカルパに、ピトンがびくりと引きつった。
「カルパ! どうしたの?」
「うん、このあたりを巡回してたら見慣れない荷馬車が停まってたから、念のためにね」
カルパがちらりとピトンを見やる。
「うわ、おいしそうな野菜だね」
「そ、そうなの。私がよく行く野菜屋と契約している農場主さん」
カゴをのぞいたカルパにリリーが紹介すると、ピトンが「ど、どうも」と慌てて頭を下げた。
「注文すると配達してくれるのかい?」
「い、いえ。これは息子が世話になっているお礼で……あ、じゃあ、俺はこれで」
野菜カゴをその場に置き、ピトンは足早に去っていった。カルパはその後ろ姿をじっと見て、リリーをかえりみた。
「シグたちはいないのか? 一人じゃ無理だろう。俺が運ぼうか」
「ありがとう。助かったわ」
運んでもらう前の言葉にしてはおかしな言い方になり、リリーは口を手で覆った。安心のあまりつい本音が出てしまった。
そこへ、シグドールとアゼルが帰ってきた。
「ただいまー。あっ、カルパおじさんがいる」
「こんにちは」
カルパに挨拶をしたシグドールは、足元の野菜カゴを見るなり顔色を変えた。
「さっきの荷馬車、まさかと思ったけど……」
「ハスクから聞いてなかったみたい」
リリーは嘆息した。まだ鼓動が落ち着かない。
「母さん、大丈夫だった?」
心配げなシグドールに、「ちょうどいいところにカルパが来てくれたから」とリリーは瞳をやわらげた。
「カルパおじさん、ありがとう」
シグドールが頭を下げる。カルパは門のほうを一瞥して苦笑した。
「今朝早くにソールが訪ねてきてな。数日間、もし手があけば夕方に警兵の制服で家に寄ってみてくれないかって頼まれたんだ。時間もなかったし理由は言わなかったが、そういうことか。相変わらず気苦労が絶えないな」
納得顔でカルパに同情されたが、リリーはむしろ安堵に胸があたたかくなった。
ソールは気にかけてくれていたのだ。そばにいられない代わりにできるかぎりの対策を取るべく動いてくれた夫に、涙がにじむ。
「明日、俺が直接フランコさんに言おうか?」
シグドールの提案にリリーはかぶりを振った。
「子供たちがいないとわかったら無理に入ろうとしなくて、あの人も玄関先で困ってたの。あれだけいい野菜をつくれる人だし、きっと本当に愛情深くて優しいのよ」
ソールに会えば彼も冷静になるわとリリーが返すと、「確かに」とカルパがうなずいた。
「いっそのこと、ソールの似顔絵を背中にでも貼って歩くか」
「えっ、それはさすがに恥ずかしすぎるわ」
つい想像してしまい慌てたリリーに、カルパも息子たちも発笑した。
翌日は子供たちが鍛錬所に通う日だったので、フランコ親子は来なかった。その次の日は、昼前からペイアが息子二人を連れて遊びに来た。
イグニスはアゼルより一つ年下で、槍を習っている。そしてヴォ―ロはリリアと同い年で、法術のほうが向いているらしい。
ヴォ―ロとリリアは仲が良く、さっそく二人で手をつないでリリアの部屋へ走っていった。シグドールたちも庭へ向かいかけたところで、呼び鈴が鳴った。
訪ねてきたハスクは、初めて会うペイア親子にやや緊張した面持ちだった。
「あなたがハスクね。今日はイグニスとヴォ―ロも一緒だから、よろしくね」
ペイアの言葉にハスクは少し照れ臭そうにうなずき、シグドールたちに混ざって庭に出た。
最初はいとこが来るから遊べないと断っていたのだが、呼んでいいとペイアが言ったのでシグドールが改めて声をかけると、ハスクは喜んで応じたらしい。
今まであまり年の近い子と遊んでいなかったそうだから、友達ができて嬉しいのだろう。いつもとても楽しそうにしているだけに、完全に拒むのはやはりかわいそうに思えた。
「今日あの子のお父さんが来たら、私がはっきり注意するからね」
一緒に昼食の準備をしながらペイアが言う。そのためにハスクを呼んだのだと。
「お姉ちゃんの人の好さにつけこんでるんだから、そろそろ遠慮してもらわないと」
「でも、特に危険な目にあったとかではないのよ」
「そんなの、この先もそうだとはかぎらないじゃない。信用させておいて……ってことだってあり得るんだから」
いくらお姉ちゃんが強くても、法術が使えなければどうにもらならないのよと指摘され、リリーも黙るよりなかった。
「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、お互いが誰かにやられてたら強気でかばうのに、自分のことは我慢しちゃうよね」
二人とも優しすぎるよとペイアは苦笑した。だから大好きなんだけどね、と。
用意ができたので一度子供たちを全員集め、皆で昼食をとる。食器洗いはシグドールが引き受け、拭くのはイグニスとハスク、食器をしまうのはアゼルで、リリアとヴォ―ロは机を拭く担当になった。それぞれが動く中、大人用に温かい茶を淹れたリリーがペイアと一息つこうとしたときだった。
パアアアッンと法術のはじける気配が脳裏に響き、リリーは凝然とした。
「お姉ちゃん?」
席に座らないリリーを見たペイアが怪訝そうに眉をひそめる。ふらりとよろめいたリリーを、ペイアは慌てて支えた。
「お姉ちゃん!?」
ペイアの叫び声に、子供たちも集まってくる。
「母さん、どうしたの?」
どうにか座ったものの震えがとまらない。冷や汗が噴き出し、リリーは頭の中が真っ白になった。
「……『砦の法』が……」
目をみはるペイアたちの前で、リリーは手で顔を覆った。
「どうしよう……ソールに何かあったんだわ……!」
学生の頃に指輪にかけた法術は今まで一度とて発動したことはなかった。いざというときのためにとソールは持ち歩いていたけれど、警師団に入団した後は個別に護符ももらっていたので、指輪の力を使うまでにはいたらなかったのだ。
それが放たれた。つまりソールは今、護符だけではたりない危険な状況に置かれているということになる。
「お姉ちゃん、しっかりして。御使いでお兄ちゃんの様子を確認しようよ」
ペイアの励ましに、しかしリリーはますます縮こまった。
もしこれ以上身を守るものがなければ。もしまだ安全なところにたどり着いていなければ、ソールは――。
「母さん」
膝を折って顔をのぞき込んできたシグドールを、リリーは抱きしめた。
確かめるのが怖い。万が一にも倒れているソールを見てしまったら。
「父さんは絶対に大丈夫だから、御使いを飛ばそう」
ソールによく似た顔立ちの長男に背中をさすられ、リリーは唇をかんだ。怯えるあまりしゃくりあげそうになるのをぐっとこらえる。
「……そうね」
逃げてはだめだ。子供たちのためにも勇気を出さなければ。今、ソールのもとに御使いを送れるのは自分しかいない。
リリーはシグドールを放すと、風の神の使いを召喚した。青白く輝く半透明の鳥はリリーの意向を受け、さあっと空へ溶け込むように飛んでいく。
(どうか無事でいて……)
祈りを込めて御使いを見送るリリーの隣で、シグドールはハスクを見やり、けわしい表情でギリッと歯がみした。
貴族は私兵を有していることが多い。重職に就いていて命を狙われやすい者、あるいはやましいことをしている者は特に。
今回は後者だった。以前から国家機密を他国へ流しているという疑いがあった男に対し、警師団はついに逮捕に踏み切ったのだが、その抵抗は予想以上だった。証拠を持って他国へ逃亡をはかろうとした男は、もともと抱えていた私兵に加え、大金を払って傭兵もそろえていた。
しかし警師団はこういうときのために、武闘館や神法学院から優秀な者を多く採用している。どんな魅力的な懐柔にも惑わされない清廉さと級長以上の実力を誇る者を引き入れてきたのだ。
「地下通路、発見しました! 第二小隊が突入!」
「よし。近いのは?」
「第三小隊ですが、隊長が毒の霧を吸い込み動けません。扉の仕掛けを解除した副隊長も負傷しておりますっ」
「わかった。ソール、第三小隊を率いて援護に向かえ」
シアン・フォルナ―キス団長の指示に、そばで戦っていた第二補佐官のソールが離れる。連絡係の案内のもと、第三小隊を拾って地下通路に入ったソールは、前方で振るわれている剣戟の響きから人数を予想した。
おそらく敵は少数。精鋭だろうが、それでも警師団員には及ばず、第三小隊が合流したときにはあらかた片付いていた。
「タブラ・アヴェックは?」
ソールの問いに、「この先だ。トゥルネが追っている」と第二小隊副隊長が答える。すぐさま向かうと、屈強な兵と打ち合っている女性剣士の姿が見えた。周辺では第二小隊員数名も戦っている。
隊長のトゥルネ・ビーンは、現れたソールに喜色を浮かべた。
「ソールが来てくれたのね!」
対して敵はあせりをあらわにした。逃げても逃げてもしつこく追ってくる警師団に舌打ちする。
「くそっ」
肥えた肢体のタブラ・アヴェックは、汗を散らしながら壁に触れた。とたん、足元が揺れて壁から扉が滑り出てくる。閉まる前にと奥へ急ぐ敵兵にソールたちも続こうとしたとき、扉に描かれた風の紋章がかっと輝いた。
敵兵も巻き込み、鋭利な風が起きる。護符を持っていた警師団員は無事だったが、敵兵の体は切り刻まれ、誰のものかわからないほど無惨な有り様になった。
「使い捨てるなんて」
これまで身を守ってくれた兵なのに、とトゥルネが怒りとあきれをにじませてうなる。
「行こう。必ず捕まえる」
一番に駆け出したソールに、トゥルネはもう護符の効果がないのでより慎重にと団員に注意をうながして従った。
タブラ・アヴェックは背後に迫るソールたちをふり返り、短い悲鳴をあげた。本人は懸命に走っているつもりだろうが、足の遅さは如何ともしがたい。真っ先に追いついたソールに転ばされ、タブラ・アヴェックは青ざめながらぜえぜえと荒い息を繰り返した。
「ま、待て。待ってくれ」
尻を滑らせて後ずさり命乞いをする男に、ソールは黄赤色の双眸を細めた。
「お前が隠し持っているものを出せ」
槍先を突きつけると、タブラ・アヴェックは「出す! 出すから!」とふところをまさぐった。丸められた小さな紙束を震える手で差し出す。ソールが受け取ろうとしたとき、タブラ・アヴェックが口角を上げた。
はっとしたときには、紙束が爆発していた。
「ソール!?」
トゥルネたちの叫号を前にして、ソールの全身が炎に包まれる。自らは手持ちの護符で防御したのだろうタブラ・アヴェックが立ち上がった。
「馬鹿め!」
げらげらと大笑いして背を向けた国家の裏切り者はしかし、次の瞬間には前のめりに倒れていた。
ぎゃっとみっともない声を漏らし、タブラ・アヴェックが後ろを見向く。炎の渦を内側から風で払いのけたソールはまったくの無傷だった。逃げる男のふくらはぎ目がけて投げた槍は見事に命中し、足どめしている。
「ひっ……あっ……」
どこまでも卑怯なまねをした男に近づいたソールは槍をさらに押し込んだ。痛みと恐怖にひいひい泣く相手を、鋭い眼光で黙らせる。
「次はどこを貫かれたい?」
低く尋ねると、ついに観念したようで男は降参した。
今度こそ機密文書を回収し、タブラ・アヴェックに縄をかけて連行させたソールは、風の神の使いがやってくるのを見た。
伝言というより必死の問いかけが『オーキュスの青い羽根』を媒介にして届く。初めての発動が術を施した指輪の贈り主にも伝わってしまったのだ。
今頃さぞ驚き、不安になっていることだろう。安否確認のために御使いを寄こした愛妻が、青白い鳥を通して自分の生存を把握したことを期待して、ソールは笑顔で手を振った。
夕刻まで、リリーは食卓にうつ伏してじっとしていた。ソールの無事な姿を御使いの目で見て安堵したものの、力が抜けて動けなくなってしまったのだ。
今までのんきに考えすぎていた。ソールはいつ命を落としてもおかしくない仕事に就いているのに、何の根拠もなく大丈夫と思い込んでいた。
コトリ、とそばに茶が置かれる。「勝手に淹れたよ」とペイアが微笑み、隣に腰を下ろした。
「……ごめんね。せっかく来てくれたのに」
まともに話せず一人でぼんやり過ごしたリリーに、ペイアはかぶりを振った。
「お姉ちゃんのおかげで、みんな安心できたんだよ」
兄が助かったのもリリーの指輪があったからだとほめられ、発動時の感覚がまたよみがえりぞくりとしたとき、馬のいななきが聞こえた。
椅子を蹴倒してリリーは立ち上がると、玄関へ駆けた。ペイアと子供たちもついてくる。
扉を開け、門へと着いたリリーはそこで勘違いに気づいた。荷馬車をとめて降りてきたピトンも目を丸くしている。
今までリリーのほうから出迎えたことは一度もなかったため、ピトンは目を輝かせたが、すぐに表情をくもらせた。暗い顔つきでリリーがうなだれたからだ。
「あの、どこか具合でも悪いんですか?」
遠慮がちに質問するピトンに、リリーをかばうようにしてペイアが一歩踏み出したところで、アゼルが叫んだ。
「あっ、父さんが帰ってきた!」
はっとリリーは顔を上げた。道行く人をはね飛ばさない程度の速さで馬を駆り、まっすぐこちらへ向かってくる人物は、間違いなく夫だった。
「――ソール!!」
ピトンの脇を走り抜けたリリーに、ソールも少し早めに馬を降りる。飛びつくようにしがみついたリリーをソールはしかと抱きとめた。
「すまん、心配をかけた」
慣れ親しんだ優しい声音に涙があふれる。嗚咽を漏らしたリリーはソールにいっそう強く抱擁された。
「相手の最後の悪あがきを食らってしまってな。お前の指輪が守ってくれた」
「……よかった……本当に、よかっ……」
背中に回した手でぎゅっと制服をつかむ。自分のもとに生きて戻ってきてくれた夫に、リリーは心から感謝した。
誰に見られていようがかまわない。ただ、夫のぬくもりを存分に味わいたかった。
リリーが少し落ち着くのを待ってから、ソールはペイアや子供たちのところへ馬を引いていった。
「もう、お兄ちゃん。びっくりさせないでよね」
腰に手を当てて口をとがらせるペイアに「悪かった」と苦笑し、ソールはピトンをかえりみた。
「フランコさんですね? 妻と子供たちから話は聞いています。いつも野菜やらなにやらお世話になっているようで」
「あ、いえ……」
「妻も何度かお伝えしたと思いますが、あまり気をつかわないでください。お子さんが遊びにくるだけなら、そう負担にはなっていませんので」
ピトンがびくりと肩をはね上げた。気まずげにうつむく様子から、こちらの意図を察したらしいとソールは判断した。
話している間もリリーはずっと自分にもたれかかるように寄り添っている。これで退かなければ子供たちの前だろうともっと夫婦愛を見せつける必要があるという気持ちをかためたところで、ピトンがぼそりとあやまった。
「すみません。迷惑をかけるつもりはなかったんです。俺はただ……いや、何でもありません」
申し訳ないと頭を下げてきびすを返したピトンを、リリーが呼びとめた。
「私も家族も、フランコさんのつくる野菜が好きです。だから、これからはお店のほうでたくさん購入させていただきますね」
ピトンが瞳を揺らした。口を開きかけて一度閉じ、ピトンは微笑した。
「ありがとうございます。皆さんに満足してもらえるよう頑張ります」
失礼しますと告げてピトンが荷馬車へ向かう。ハスクも名残惜しげにしながら歩きだしたのを、シグドールが追った。
「あ、シグ。明日は鍛錬の日だよな? あさってまた――」
「お前とはもう遊ばない」
周りには聞こえないよう小声で、しかしきっぱりとシグドールは言った。
「見たんだよ。父さんに何かあったって母さんが真っ青になってたとき、お前は嬉しそうにしてた」
ハスクが瞠目する。みるみる顔色を失くしていくハスクをシグドールはねめつけた。
「そ、それは……あの……」
「人の不幸を喜ぶような奴とは仲良くしたくない。二度とうちに来るな」
呆然と立ちつくすハスクを残し、シグドールは身をひるがえした。そして、家族のいるところへ戻っていった。
その日の夜は、久しぶりに家族そろって夕食をとった。明日出勤して報告書を作成したら、あさってから四日間休みをもらうことになったというソールに、子供たちは歓喜した。
指輪の法術が発動することになった経緯を説明し、ソールはもう一度かけ直してほしいとリリーに頼んだ。ついでにお守り袋もそろそろ新調したいと。
「じゃあ、明日ジェソさんのお店に買いに行ってくるね」
指輪は今夜にでも『砦の法』を新たにかけておくとリリーが言う。
「母さん、俺もお守りが欲しい」
「俺も」
「私もー」
子供三人が手を挙げる。ジェソの店のお守りは先代の頃から効果が抜群と評判なのだ。
「リリアはともかく、シグとアゼルはそのうち誰かからもらうだろう」
やんわり反対するソールに、シグドールは食い下がった。
「入学試験で代表になれるよう、持っておきたいんだ。母さんがくれるお守りはすごく効くって今日証明されたし」
「ああいうのは好きな子からもらったほうが励みになるぞ」
「俺は母さんが好きだよ」
「母さんはだめだ」
シグドールが粘ってもソールは譲らない。ここまでかたくななソールは珍しいなとリリーはいぶかった。
「なんでだめなんだよ」
「母さんは今まで父さんにしかお守りを渡したことがないんだ。だからこれからも、母さんからもらえるのは父さんだけだ」
まさかの理由に、子供たちが「えーっ」と渋面した。
「ずるい。父さん、大人げないよ」
「それ独占欲っていうんだよ」
シグドールとアゼルの抗議に、ソールはひるむどころか「当然だ」と開き直った。
「母さんは父さんの好きな人なんだから」
父の堂々たる宣言に、息子たちも引き下がるよりなかったらしい。父さんのけちと子供たちが恨みがましく文句を垂れても、ソールは一歩も退かず、そのやりとりを驚きの目で傍観していたリリーは照れ臭いやらおかしいやらで吹き出した。
食事が終わると、ソールはシグドールとアゼルを連れて浴室に行った。三人で体を洗うのはいい加減きつくなってきているはずなのに、聞こえてくる声は楽しそうだ。そして汗を流してさっぱりしたさまで出てきた息子二人は、すっかり機嫌がなおっていた。
リリーとリリアも入浴し、子供たちが寝てから、リリーは静かな寝室で小机に向かい、指輪に法術をかけた。
出来栄えを確認しているとソールが入ってきたので、指輪を手渡す。
「ありがとう。大事にする」
指輪をにぎりしめ、ソールが微笑する。学生の頃に贈ったものがこれほど長い年月を経て役立つとは、予想もしていなかった。ソールがものを大切にする人でよかったと、リリーは改めて思った。
「あの子たちにお守りは買わないけど、シグと二人で町の礼拝堂に合格祈願に行くのはかまわない?」
せめて特別感は出してあげたいと言うと、ソールはうなずいた。
「ああ、そうしてやってくれ」
大人げない夫で悪いがと笑うソールに、リリーも破顔する。そして就寝の準備を始めたリリーは、指輪を小机に置いたソールに背後から抱きしめられた。
「この数日間ずっと気を張っていたから、さすがに疲れたな」
ソールがリリーの肩に頭を乗せてため息をつく。
「そうね、今日はゆっくり休んで」
ソールの腕に手を重ねてねぎらうリリーを、しかしソールは解放しなかった。
「前倒しを提案したいんだが」
買い物の後に頼まれた付き合いのことだと、リリーは気づいた。
「疲れてるんじゃなかったの?」
「ああ、だから活力を回復させたい」
ささやく声の甘さに、耳朶が熱くなる。
今夜は寄り添って眠るだけでも十分嬉しいと思ったのに。
「……たっぷり?」
返事を待っている夫を肩越しに見上げると、黄赤色の双眸が艶やかにきらめいた。
「濃いめで」
落ちてきた口づけがしだいに深くなる。抱き上げられて寝台に運ばれたリリーはその夜、申告通りの愛を夫から受けた。
翌々日のソールの休暇初日、ドムス一家は買い物に出かけた。シグドールとアゼルがリリアをはさんで手をつなぎ、その後ろから夫婦が腕を組んでゆったりと歩く。その様子に町の人々は反応した。
「あらー、リリアちゃん、強いお兄ちゃんたちに守られていいわね」
「本当に仲のいい家族だねえ」
「あんたたち、やっぱりお似合いだね」
羨望や温かいひやかしが飛び、店に立ち寄るたびにおまけだと食材を多めに渡される中、シグドールは視線を感じて魚屋のほうを見た。店の陰にひっそりと立つハスクがもの言いたげにしていたので、肉屋へ向かう両親に断って近づいた。
自分の表情からまだ許していないのを察したのだろう、ハスクは今にも泣きそうな容相でうつむいた。
「……やっぱりちゃんとあやまりたくて」
消え入りそうな声でハスクが謝罪した。
「俺、シグのお母さんみたいな人が欲しかったんだ。父さんも楽しそうにしてたし……最初はちょっと混ぜてもらおうとしただけなのに、途中から本当のお母さんになってくれたらいいのにって思うようになってた。そうすればシグとも毎日遊べるし、鍛錬所にも一緒に通えるって」
だからあのとき、シグドールの父親がいなくなれば夢がかなうかもしれないとつい期待してしまったのだという。
「でもシグのお父さん、すごく格好よくて。俺の父さんとは全然違ってた。たとえシグのお父さんがいなくても、シグのお母さんは俺の父さんなんかきっと見向きもしないだろうなってわかったら、目が覚めたっていうか」
何より、シグドールにはっきり非難されたことで、自分の願望がいかに醜く失礼だったか気づいたのだと、ハスクはしょんぼりと語った。
「……母さんは、フランコさんの野菜をいつもほめてたよ。あれだけいい野菜をつくれるんだから、きっと愛情深い優しい人だって。そんなふうに誰かを感動させるものを生産できるのも、俺は格好いいと思うけど」
シグドールの言葉に、ハスクがはっと顔を上げた。
「もし父さんがいなくなって、母さんが再婚することになっても、母さんは見た目や職業で相手を選ぶことはたぶんしないよ。ただ、母さんは父さんだから好きになって、父さんも母さんだから好きになったんだって、傍で見ててすごく感じるんだ」
家で別々のことをしていても、いつの間にか肩を並べている。どちらがというより、お互いが自然に相手を意識し、気づかい、そばにいようとしているのだ。
「それに、父さんと母さんを結びつけたの、俺かもしれない」
えっ、とハスクが目を丸くした。
「俺は覚えてないんだけど、父さんがゲミノールム学院生だった頃、天空の門の前で俺に会ったんだって」
本当は父の弟になるはずだったがうまくいかなくて、父の子として生まれるために自分は天空神の領域にとどまっていたらしい。
そのとき父はこげ茶色の髪と薄緑色の瞳をもつ赤ん坊を見て、この子の母親が誰か確信したという。
「だから俺にとっても、父さんと母さんはあの二人しか考えられない」
どんなにいい人でも、見目がよくても、資産家でも、自分はあの両親の子供として誕生したかったのだ。よその夫婦のもとに行くことなく、二人が結婚するのを信じて待ち続けるくらいに。
じっとシグドールを見つめていたハスクが、「そっか」とつぶやいた。
「そんな昔から縁ができてたなら、割り込めなくてもしょうがないよな」
苦笑するハスクは残念そうにしながらも、屈託が少しやわらいだ顔つきになっていた。
決してピトンが人として劣っているわけではないと伝わったようで、シグドールもほっとした。
仲直りはしたが、ハスクはもう家に来たいとは言わなかった。その代わり、店で会ったらまた話そうと。これからもあの野菜屋に野菜を持っていくので、みんなで食べてくれと笑って手を振り、ハスクは駆けていった。
三日後、鍛錬所でシグドールは体をほぐしていた。今日は総当たり戦がおこなわれるが、父が休暇中に相手をしてくれたので、いつも以上に全勝する自信があった。そもそも、それくらいの実力がないとゲミノールムに入学しても代表にはなれない。
事前準備も整ったとき、同い年の少年たちがやってきた。
「なあシグ、この前、弟と一緒に髪留めを選んでたんだって?」
「ああ、まあ……」
シグドールは嘆息した。追及は覚悟していたが、まさか試合前に聞いてくるとは。
「あれって誰宛だったんだ?」
「母さんの誕生日の贈り物だよ」
シグドールが答えるなり、鍛錬仲間は少し離れた場所でたむろしている女の子たちに向かって叫んだ。
「おーい! シグが買ってたの、母親の誕生日用だってさ!」
いきなり大声で暴露されてぎょっとしたシグドールは、女の子たちがなぜか安心したさまできゃあきゃあと喜ぶさまを見てとまどった。
「あれ? お前、気づいてなかったの? あいつら、お前目当てで通ってたんだぜ」
あっちにいるのは弟を追っかけてる奴らだなと、もう少し年の小さい女の子たちがかたまっているほうを男子が指さす。
てっきり兄弟の見学に来ているとばかり思っていた。鍛錬の間は集中していたし、まったく意識していなかったのだ。
わかったとたん急に恥ずかしくなり、シグドールは額を押さえてうつむいた。いつも冷静な姿勢を崩さなかったシグドールが珍しくうろたえたことに、仲間たちが目を輝かせる。
「え、もしかしてあの中に好きな子がいるのか?」
「そんなんじゃない」
「本当かよ? 教えろよー」
がしっと首に腕を引っかけてくる仲間に「だから違うって」と否定する。
「シグ、動揺してる?」
「今日は俺らが勝てるかも」
「誰だよ?」
「あの子じゃないか?」
勝手に予想して盛り上がる男連中に、やり取りが聞こえたのか女の子たちもざわつきだす。そのとき集合の合図がかかった。
助かったと安堵の息をつき、整列する間にシグドールは気持ちを落ち着かせた。不測の事態に備えて、やはり母のお守りが欲しかったなと。
父はお守りを好きな子からもらえと言っていた。
ゲミノールムに入学したら、そういう機会があるのだろうか。
「シグってどんな子が好みなんだ?」
最年少の鍛錬生から始めるため壁際へ移動する中、まだ探りを入れてくる仲間に、シグドールは少し考えて答えた。
「一緒に冒険に行ける子」
へえー、と皆が目をみはる。
父と母みたいに、ともに思いやり、何かを成し遂げながら絆を深めていきたい。
そんな相手といつか巡りあえるように。そして、そんな相手に好かれる人間になりたいとシグドールは思った。