理性が飛ぶよ 〜ファイ&シータ〜
決まった、と思った。おそらく学年で一番背が高いだろう相手の重い攻撃が予想どおりの流れできたことに、シータは口角を上げた。はっと目を見開いた相手に防御のすきを与えず、シータの一振りが入る。
「勝者、キトゥス・ウェントゥス級長、シータ・ガゼル!」
教官の宣言に、青い鳥の級旗を持っていたエイドスをはじめ、同じ組の生徒たちが喜びほとばしった。
場内はどよめいている。級長になるだけでも珍しい女生徒が頂点に立ったのだから、当然といえば当然かもしれない。
ふうと息をつき、シータはともに熱戦を繰り広げてくれたクシュロン・ゲベツに笑顔で手を差し出したが、クシュロンは憎々しげにシータをにらみつけ、ぷいと背を向けた。
「やったな、シータ!」
「すごかったよ。俺、感動したっ」
仲間のもとに戻ったシータを、エイドスたちが囲んで背中や肩をバンバンたたく。そこへ一回戦でシータに敗れたコンスタンテム・テッラの級長パンテールもやってきた。
「おめでとう、シータ」
「うん。ありがとう、パンテール」
二人が握手を交わすと、パンテールの組の生徒たちやレウァーレ・アクウァの組からも拍手がわいたが、決勝戦でシータに敗れたフォルティス・フランマの組だけは反応が薄かった。あきらかに級長の機嫌を気にしていたのだ。
教官たちが横並びに立ったため、各組が級長を先頭に整列する。シータも一度エイドスから級旗を受け取って一番前に行った。
四つの下等学院から進学する武闘館では、守護神により組が決まる。フォルティス・フランマは炎の神、キトゥス・ウェントゥスは風の神、レウァーレ・アクウァは水の女神、そしてコンスタンテム・テッラは大地の女神だ。各級旗の意匠はそれぞれ御使いが使用され、生徒たちは所属する組が一目で分かるよう、制服の胸ポケットにも意匠が刺繍されている。
「シータ・ガゼル、前へ!」
専攻長であるセルモス・クルード教官がよく通る声でシータを呼ぶ。シータは大声で「はい!」と返事をし、後ろにいたエイドスに旗を預けて進み出た。
背中に剣専攻一回生全員の視線が刺さることにぞくぞくしつつ、クルード教官の正面に立つと、総代表の徽章を手にしたクルード教官が瞳をやわらげた。
「女生徒で総代表になったのは君が初めてだ。徽章の重みをしかとかみしめ、これからも鍛錬を怠らず、驕らず、実直に、皆の手本となるように」
おめでとう、と渡された徽章を両手で受け取り、シータは「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
背後で拍手の音が鳴り響く。この日、この時間をもって、今年度の各学年総代表はすべてそろった。
「それでは、我らの総代表が誕生したことに――乾杯!」
レウァーレ・アクウァの級長ニウェス・カプトの呼びかけにあわせ、生徒たちが杯を高々とかかげて「乾杯!」と続ける。武闘館に入学したことで許可されるようになった酒をあおり、皆がわっと歓呼した。
一度帰宅してから再び夜に一回生が集まったのは、武闘館に比較的近い場所にある酒場だった。大人数が収容できるため、武闘館で宴会がおこなわれるときはたいていこの店になる。他にもいくつかあるにはあるが、そちらは学生には少々刺激の強い楽しみ方もできるという理由で利用するのはほぼ最上級生に限られており、入ったばかりの初々しい一回生はまず選ばない。
しかも今日の店は、飲酒にまだ慣れていない一回生のありとあらゆる粗相への対応が完璧だと評判で、武闘館の教官たちからも信頼が厚かった。
「ちょっとどいてくれ」
「俺も入れて。シータ、おめでとうっ」
最初シータの左右を挟んでいたのはエイドスとラボルだったが、総代表に酒をつぎたいと後から後からやってくる同期生たちのおかげで、シータの周辺はひどく混み合った。座る場所がないので酒をついだら交代という暗黙の掟ができ、その列もずいぶん長くのびている。
「大人気だな、シータ」
シータの正面に座っていたパンテールの微笑に、やむを得ず席を空けてそばに来たエイドスが肩をすくめた。
「そりゃあ、女子初の総代表だもんな」
「まさかシータがあんなに強いなんて知らなかったよ。級長になったのだって、女の子だからみんな手加減したのかと思ってた」
他の学院出身者たちはシータがゲミノールム学院の剣専攻代表だったことは聞いていたものの、シータの戦いぶりを見るまで半信半疑だったのだという。
「まあ、この見た目でクソ強いなんて、なんか騙された気分になるよな」
杯を手にパンテールの隣に来たのは、スクルプトーリス学院で剣専攻代表だったニウェスだ。
「交流戦のときよりさらに動きがよくなってないか?」
「合格してから、しばらくタウに相手をしてもらってたの」
シータの答えに、「どうりで」とパンテールたちが納得した様子でうなずいた。
「タウさんって、レイブンさんに勝った総大将だっけ? あの勝負、めちゃくちゃすごかったよな」
近くにいたスクルプトーリス学院出身の生徒も会話に加わる。
「そういえばこの間、ザッツさんに会ったぞ。相変わらずシータのことを気にしてた」
組が違ってよかったなと同情顔のニウェスに、エイドスが渋面した。
「あの人、どこの組だ?」
「僕と同じだよ。僕にもシータのことを聞いてきた」
パンテールが嘆息する。武闘館の交流戦は組対抗なので、結束をかたくするために入学するとすぐ上級生との懇親会があるのだ。
シータもそこでバトスと再会した。五回生にはシアン・フォルナ―キスもいて、彼の紹介により上級生の顔見知りが一気に増えたのはよかったが、そもそもシータの名前はすでに入学前から知れ渡っていた。それもこれも全部バトスのせいだ。
「本当にあきらめが悪いな」
「『紅玉の騎士』に選ばれたくらいなんだから、女の子なんか選り取り見取りなんじゃないのかよ」
しつこすぎるだろうと文句を吐きながらエイドスが杯を空にする。
「いや、あの一件でみんな引いちゃってさ」
「あれはさすがにな」とスクルプトーリス出身者たちは苦笑った。交流戦でザッツがシータを狙って返り討ちにあった話は、今でも時々話題にのぼるほど皆の記憶に残っている。
「ところで、その指輪って例の人がくれたやつだよな?」
ニウェスに指さされ、シータは「そうだよ」と得意満面で手を見せた。
「俺、ずっと気になってたんだけど、シータって誰かと婚約でもしてるのか?」
事情を知らないクラーテーリス学院やオーリオーニス学院出身の生徒が食いついてくる。興味があったのか数少ない女生徒たちも集まってきたため、シータは指輪の贈り主がどれだけ素敵かを熱く語った。酒も回ってきたのでなおのこと口が滑らかになり、普段本人の前では恥ずかしくて言えないような思いのたけを盛大に吐露していく。
「のろけすぎだろ」
恋人のことも知っているエイドスは、あまーい話にぐはっとのけぞった。
「人は見かけによらないものだな」とパンテールも微苦笑を漏らしながらちびちび酒を口に運ぶ。ゲミノールム学院出身者にしてみれば、シータは色気より食い気、卑怯者は容赦なくぶちのめす無敵の戦乙女で、かの神法学科生は高威力の法術を涼しい顔で無慈悲にばんばん放出する近寄りがたい存在なのだ。
「なんか胃もたれしてきた」とラボルが腹をなでていたところへ、フォルティス・フランマに所属するポーマがこそこそとやってきた。パンテールの脇にしゃがみ込み、小声で話をする。
同じ学院出身者からの警告に、パンテールはさりげなく視線を流した。
盛り上がっているシータの周辺から少し離れ、クシュロンとその取り巻きが何かひそひそと語り合っている。シータを見る目が企みに満ちているさまに、パンテールは口の端を下げて杯を置いた。やはりそちらを見てエイドスも真顔になる。パンテールはエイドスに耳打ちしようとして、後ろの窓にのぞいたものに目をみはった。思わず声が漏れかけたが、誰も気づいていないようだったので、パンテールも黙っておいた。
剣専攻一回生の親睦会がおひらきになり、比較的しゃきっとしている者が酔いつぶれた者に肩を貸して順次去っていく。途中で吐いたり意識をなくしたりしてどうにもならない生徒は店の好意で預かってもらい、エイドスたちはシータを支えてひとまず店を出た。
「大丈夫か、シータ?」
「だあーいじょーぶー」
エイドスの問いかけに、シータの返事は間延びしている。初の女性総代表と仲良くなろうと大勢の生徒が酒瓶を片手に押し寄せてきたため、シータはすっかり酔っぱらってしまっていた。仕方がないこととはいえ、さすがに飲みすぎだ。
パンテールは店が用意してくれた乗り合い馬車に生徒たちを乗せ、送り出している。途中で酒をやめたので頭はしっかりしているようだ。こういうときは本当に頼りになるなとエイドスが感心していると、クシュロンが近づいてきた。
「おやあ? 総代表はぐだぐだだな」
剣には強くても酒には弱いのかと笑う声には揶揄の響きが混ざっている。エイドスが言い返そうとしたとき、「ごめん、ちょっと」とラボルがよたよた離れて道に嘔吐した。
「おい、ラボル」
何やってるんだとエイドスは叱ったが、ラボルは本当に胃の具合が悪かったらしく、その場にしゃがんでげえげえ吐き続けた。
「そいつの介抱をしてやれよ。総代表は俺たちが面倒を見てやるから」
「いや、いい。シータにはもうすぐ迎えがくる」
「迎え? たかが親睦会にか? いったいどこのお嬢様だよ」
クシュロンは爆笑した。しかし目が笑っていない。
「み、水……」
腹を押さえてうめくラボルに、クシュロンがあごをしゃくった。
「ほら、行ってやれって。お前らしか総代表を介抱しちゃいけない決まりはないだろ」
「そんなに言うならお前が水を取りにいってくれればいいじゃないか」
エイドスの反論にクシュロンは大げさにかぶりを振った。
「俺はそこでへたばってる奴のことは知らないし、同じ組でもないからな。それより総代表のほうが大事だ」
にやにやしてクシュロンはエイドスをどんと突いた。ゲミノールム学院ではエイドスが一番体格がよかったが、クシュロンはさらに背が高い。力負けしてエイドスはよろめき、支えがなくなってぐらりと傾いたシータはクシュロンが抱き寄せて立たせた。
パンテールも心配そうにこちらをちらちら見ている。ラボルには悪いが、やはりシータをクシュロンに任せるのは危険だ。喧嘩になってでもシータを取り返そうとしたエイドスは、飛行してくる人物を認めた。
「来た」
安堵の言葉がこぼれたエイドスに、クシュロンがいぶかしげに眉根を寄せた。頭上を仰ぎ、目を細める。
「すみません、泥酔させてしまって」
着地したファイにエイドスはあやまった。
「予想はしてたから。世話になったね」
「あ~っ、ファイだあ」
声が聞こえたのか、それまでぐにゃぐにゃしていたシータがぱっと顔をほころばせた。どこに力が残っていたのか、クシュロンを振り切ってファイに飛びつく。
「あのね、指輪のことを聞かれたから、みんなに話したの。いっぱいいっぱい自慢しちゃった」
えへへっと嬉しそうに笑うシータを抱きとめて背をぽんぽんとたたき、「聞いてたよ」とファイが答える。ずいぶんやわらかいまなざしだ。
「なんだ、ただの弱っちい風の法専攻生かよ」
馬鹿馬鹿しいと鼻で嗤ったクシュロンを、シータが半目でにらみつけた。
「あんた、今ファイを馬鹿にしたわね?」
「だって風の法専攻生だぜ?」
「私の話を聞いてなかったの? ファイはすっごくすっごく強いんだから。あんたごとき、ファイが指一本振るだけで吹っ飛んじゃうわよ」
「へえー、そんなふうには見えないけどな」
ろれつが回らず迫力のないシータに、クシュロンはにやついている。シータが見栄をはっているとでも思っているのだろう。
騒ぎにひかれて他の生徒たちも集まってきた。クシュロンほどあからさまではないにしても、シータが絶賛していた恋人が風の法専攻生だったことに少し期待が外れたような容相をしている。しかしゲミノールムはもちろん、スクルプトーリスの出身者は久しぶりに実物を目にして幾分緊張した面持ちになっていた。
「シータ、帰るよ」
ファイが身をかがめると、シータは素直にファイの背に乗った。べったりとファイに甘えるシータはすでにクシュロンが視界に入っていないらしい。その態度にむかついたのか、クシュロンが「ちょっと待てよ」とすごみのある声でとめた。
「解散にはまだ早いだろ? もう一軒行こうぜ」
クシュロンがのばした手はしかし、シータに触れる前にはじかれた。にわかに隆起した大地の壁によって。
足元を揺らしてズバアアアンッと出現した土壁に、クシュロンが驚いて尻をつく。ファイは青い瞳で冷ややかにクシュロンを見やり、地を蹴った。
シータを背負って飛び去るファイを見送ってから、一回生たちは急にざわつきはじめた。クシュロンも目の前で起きた光景に唖然としている。
「……な……なんで大地の法術が……?」
護符か何か持っていたのかと動揺するクシュロンに、エイドスが腕組をして言った。
「あの人、『神々の寵児』なんだよ」
酔っていても、シータはその点について触れなかった。他人にとっては驚嘆すべき重要な情報だが、いつも一緒にいるシータにはもはや得意げに吹聴するほどのことではないのだろう。
総代表の恋人が何十年かに一人しか生まれない稀有な存在だったことに、どよめきが大きくなる。興奮に酔いもさめ、たった今目撃したことを皆が声高に話しはじめたところで、パンテールが寄ってきた。
「使われたのが『盾の法』でよかったな。風か炎だと、今頃本当にどこかへ吹っ飛ばされてるぞ」
しかも御使いが来て様子をうかがってたしというパンテールの報告に、エイドスはぎょっとした。
「嘘だろ。どこにいたんだ?」
「エイドスの後ろの窓にいたよ」
「お前、もっと早く教えろよ」
「そんなことをしたら、みんな緊張してしゃべれなくなるだろう?」
せっかく楽しく騒いでたのにとパンテールが苦笑する。
「俺、何も失礼なこと言ってないよな」とニウェスが青ざめて両頬を押さえる。酔った勢いでシータに変なことをしなかっただろうかと、同期生たちは互いの行動を確認しあった。あふれるほど酒をそそぐことはあっても、抱き着いたりむやみにさわったりはしていないはずだと必死のさまで記憶をさぐっている。
「今日は一回生だけの初めての飲み会だったから、心配しただけだと思うよ」
さすがに毎回監視に来るまねはしないだろうとパンテールになだめられ、場はようやくほっとした空気に包まれた。ただ、今回御使いを寄こしたのは牽制だったのかもしれないなと個人的な見解をつぶやくパンテールに、エイドスはこくこくとうなずいた。
ふっと体が浮いたと思った瞬間には寝台から転げ落ちていた。ダアアアアンッとすさまじい音が響き、シータは床上で「いたたた……」と体を丸めた。
まもなく階段をのぼってくる気配がして、扉が開かれた。
「おはよう。相変わらずの寝相だね」
あきれ顔で入ってきたファイは、水の入ったコップと薬を寝台脇の卓に置いてから、掛布を取ってシータの体をくるんだ。
「……ここ、ファイの家……だよね?」
覚えのある室内を見回し、シータは目をしばたたかせた。
「君の家には、昨日迎えに行く前に寄って許可をもらっておいたから。親睦会の場所は僕の家のほうが近いから、あまり遅くなるようならこっちに泊まらせますって」
「そうなんだ……ありがとう」
祖父母はシータがファイと交際しているのを知っている。いつも心配かけないよう気づかってくれるので、祖父母もファイのことは信用しているのだ。
「けがはしてない?」
「ちょっと膝を打ったくらいだから大丈――」
足をさすろうとして、シータはかたまった。床に脱ぎ散らされているのは、昨夜自分が着ていた服だ。まさかとおそるおそる体を見下ろし、悲鳴を上げた。
だからファイは来るなり掛布で包んだのだ。羞恥のあまり掛布に顔をうずめるシータに、ファイがため息をついた。
「僕じゃないよ。君が自分で脱いだんだからね。暑いって言って」
当然だ。ファイは治療や緊急時以外で勝手にそんなことはしない。でも――。
「め……目の前でやっちゃった?」
ファイが見ているそばでぽいぽい脱ぎ捨てたのだろうか。
「……まずいと思ったからすぐ部屋を出ようとしたんだけど」
視線をそらしたファイの横顔は気まずげだ。つまり、ファイがいるのに堂々と下着姿になったのだ――いや待て。
出ようとした?
ということは、ファイは部屋を出なかった?
自分の顔が赤くなっているのか青くなっているのかわからない。ただだらだらと冷や汗をかいて縮こまるシータの前にかがんだファイが、シータの乱れた髪をそっとなでた。
「君の『枷の法』がゆるむと同時に抜け出したから」
その後は別の部屋で寝たよと告げられ、シータは安堵した。一緒に眠るのが決して嫌なわけではないが、何事にも心の準備というものはある。
「まだ慣れてないから仕方ないけど、今後はできるだけ飲み方を調整するようにね。その格好で抱き着かれて好きだ好きだと言われたら、さすがに僕も理性が飛ぶよ」
「……はひ……」
想像が及び、恥ずかしさが倍増した。
やってしまった。
不明瞭な返事をしてうつむいたシータの髪に軽く触れるような接吻をし、ファイが腰を浮かした。
「二日酔いの薬を飲んだら下りておいで。朝食はできてるから」
「ファイが作ったの?」
「そうだよ」
久しぶりに味わえるファイの料理に、シータは瞳を輝かせた。せっせと服をかき集めるシータにファイがくすりと笑う。
そして先に部屋を出ようとしたファイは、シータをふり返った。
「来週末、母さんと叔母さんが旅行に行くから僕一人なんだけど、予定がなければ来る?」
「行く!」
勢いよく返事をしたシータはそこではたと気づいた。
「もしかして、泊まっていいってこと?」
「うん」
肯定に、鼓動が速まる。
何のことはない。ただのお泊りだ。いつもどおりおいしいものを食べて、くっついてたわいのないおしゃべりをするだけ……なのに、変に意識が先走ってしまう。
理性が飛ぶよと苦言を吐きながらでも手を出さなかったのだから、きっとファイはそんな気持ちをもっていない。自分から妄想するなんてはしたないと脳内で叱りつけていたシータに、ファイが青い瞳をすがめた。
「……たぶん同じことを考えてるんじゃないかと思うんだけど……僕は、君がいいなら前に進みたい」
ファイのまさかの提言に、シータは目をみはった。
「でも、君が怖いならやめる。僕にとって大事なのは、普段なかなか会えない君と少しでも時間を共有することだから」
「……うん」
シータははにかみながら顔をほころばせた。予想外の誘いにびっくりしたけれど、ファイはやっぱりファイだ。だからこそ安心できるし、自分の気持ちにきちんと向き合う余裕ももてる。
「帰ったら、さっそく荷造りしなきゃ」
「来週末の話だよ?」
「わかってる。でもずっと一緒にいられるのは楽しみだもん」
本心からこぼれたシータの言葉に、ファイも微笑して出ていく。手早く着替えたシータは窓を開け、深く息を吸った。
少しずつ進展していく関係がくすぐったくて、嬉しくて、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
親睦会から四日後の朝、登校したクシュロンは廊下で立ち話をしている上級生と視線があった。一人は同じフォルティス・フランマの二年上の先輩、タウ・カエリー。そしてもう一人はタウと一緒にいるのをよく見かける、キトゥス・ウェントゥスの級長バトス・テルソンだ。
「おはようございます」
三回生総代表でもあるタウに尊敬の念をこめた挨拶をして通り過ぎようとしたクシュロンを、バトスが呼びとめた。
「おーい、お前。親睦会でシータに悪さをしようとしたんだって?」
上級生に伝わっていたことに、クシュロンはびくりとひきつった。
「……何のことですか」
自分は何もしていないとしらばくれる。何もできなかったのだ。
本当は、もっと酔わせてごみ捨て場に放置してやるつもりだった。臭いごみの中で目を覚ましたあいつが慌てふためいて逃げ出せば、いい憂さ晴らしになったのに。
「証拠がないのに責められる筋合いはないってか」
バトスが鳩羽色の瞳をすっと細める。いかにも軽そうな見た目の相手がむきだした剣呑な気配に、クシュロンははっと緊張した。
「大方、女に負けて悔しかったんだろう。クラーテーリスでは三年間無敗の剣専攻代表だったそうだからな」
自分の経歴まで把握しているのかとうろたえたものの、それならこちらの心情も理解できるはずだと開き直り、クシュロンはバトスをまっすぐ見据えた。
「下等学院で一番を取っても武闘館では通用しないって、早くにわかってよかったじゃないか」
バトスはにやりとした。
「あのちびっこい奴があそこまで強いと思わなかったんだろう? でもあいつだって、ゲミノールムでずっと代表を務めてたんだ。それにあいつはタウと同じ冒険集団にいた。入学前からタウにみっちりしごかれてたんだから、強いに決まってる」
えっ、とクシュロンは目を丸くした。三年連続で総代表に選出され、学業も人柄も優れていると評判の上級生とあの女が知り合いだったなんて。
そろりと目を向ければ、いつも泰然としている赤い双眸は不快感をにじませていた。自分の仲間があやうくひどい目にあうところだったと知り、怒っているのだ。
「っていうか、お前もよく無事だったな。あいつにへたにちょっかいをかけると、場合によっては死ぬぞ」
指輪のことを聞いたかとバトスに尋ねられ、クシュロンは曖昧にうなずいた。気分が悪くなるほどのろけていたシータを思い出す。指輪の贈り主が『神々の寵児』だと判明したのは、話題の恋人が現れてからだが。
「あの指輪には風の法術がかけられているんだ。あいつが自分の意志で動けないときに危険が迫ったら発動するらしい。だからもしお前があいつに無体を働いてたら、今頃お前の体は切り刻まれてばらばらになってるぞ」
見せびらかすためだけのただの指輪ではなかったのか。帰り際に自分をねめつけた青い瞳の冷たさが脳裏をよぎり、クシュロンはぞっとした。そのとき、シータがやってきた。
「タウ、バトス、おはよう! クシュロンも!」
「おはよう」
「よっ、シータ。総代表就任おめでとう」
タウとバトスの醸し出す空気がふっとやわらぐ。親しい間柄だけに流れる温かい雰囲気にますます居心地が悪くなり、そそくさと抜けようとしたクシュロンは、シータに腕をつかまれた。
「ねえ、クシュロン。今日の合同演習、フォルティス・フランマとキトゥス・ウェントゥスでやらない?」
武闘館の合同演習は、級長同士が話し合って練習する組を決める。シータはてっきり仲のいい他の級長と組むと思っていたので、クシュロンは驚惑した。
「なんで俺……?」
「だってこのあいだの試合、すごかったもの。同期生にこんな手強い人がいるんだってわかって、嬉しくて」
「そんなに手強かったのか?」
バトスの問いにシータはうなずいた。
「うん。入学前にタウに鍛えてもらってなかったら、たぶん負けてたよ」
「へえー」
自分を見るバトスの瞳はからかいの色を浮かべている。クシュロンは恥ずかしさにうつむいた。
「ピュールとの対戦もあるし、練習に付き合ってもらうならクシュロンがいいなって思って」
「ああ、槍専攻の総代表はピュールだったな」
お前ら相変わらずだなとバトスが笑う。
「だからね、お願い」
手を合わせて頼まれ、クシュロンは返事に詰まった。嫌いな相手の願いなど無視すればいいと思ったのに、口から出たのは真逆の答えだった。
「別に、かまわないが」
「本当? やった、助かるわ」
両手を挙げて喜んでから、「じゃあ、また後でね」と上機嫌でシータが駆けていく。おそらく一回生で一番小さくて、一番落ち着きなく走り回っている背中を、クシュロンは複雑な思いで見送った。
あの屈託のなさは、総代表の座に就いた余裕からきているのか。いや、入学したときからあんな感じだった気がする。
何の悩みもなさそうでうらやましいと、クシュロンは嘆息した。初めて負けた悔しさに夜も眠れなかった自分の苦しみなど、きっと想像さえしていないだろう。
「お前、気に入られたな」
バトスがにんまりして言った。
「あれは、いい鍛錬相手に出会ってかなりうきうきしてる状態だ」
「……迷惑です」
顔をゆがませるクシュロンに、バトスは吹き出した。
「あいつはこれからどんどん吸収してもっともっと強くなる。いじけてたらすぐ置いていかれるぞ」
「二度はないですよ。来年は俺が取ります」
ついふてぶてしい口調になり、クシュロンはしまったと歯がみした。上級生の前で見せる態度ではなかったが、なぜかタウもバトスも満足げに笑っていた。
「その意気だ」
先ほどまでの非難めいた刺々しさが消えている。最後に励ましの一言を残してタウが背を向けた。
「ま、頑張れよ。これで治療室送りになったら、落ちたも同然だな」
意味不明なことを告げてバトスも歩きだす。
「クシュロン!」
去っていく二人を目で追っていると、クラーテーリス時代からの仲間が寄ってきた。自分の怒りを汲んで、嫌がらせに加担しようとした連中だ。
「なあ、今日の合同演習、キトゥス・ウェントゥスとやるって本当なのか?」
「ああ、総代表のご指名だ」
「あいつ、調子に乗って………あ、クシュロン」
くるりと身をひるがえしたクシュロンに、仲間が慌ててついてくる。
ずっとこれが普通だった。顔色をうかがい、追従ばかりで、自分と肩を並べようとする奴は今までいなかったのだ。
対等――いや、今はわずかに相手が上か。
このままでは終わらせない。まずは今日の合同演習で先日の借りを返してやる。
打ち合いの流れを頭の中で展開するうちに楽しくなり、気がつけば口元に自然な笑みが浮かんでいた。
約束の日、シータは武闘館入学の際に支給された馬を駆ってファイの家を訪ねた。前の晩のうちに副教官の仕事を片付けるから、朝は寝てるかもしれないと聞いていた。
勝手に入っていいよと許可をもらっていたため、「お邪魔します」と一応呼びかけて玄関の扉を開く。
ファイの母親はもう出発したらしい。居間にも台所にも人の気配がなかったので、シータはファイの部屋に行った。
「ファイ?」
まだ窓の幕は閉まっている。薄暗い室内にそろそろと忍び込み、シータは眠っているファイの顔をのぞき込んだ。
寝顔を見るのは何年ぶりだろう。粉蜘蛛騒ぎがあったときも、ファイは治療薬をつくるために寝る間も惜しんで作業にあたっていた。
もう少しだけ休ませておこうと離れかけたシータの手を、ファイがつかんだ。
「ごめん、起こした?」
「目は覚めてたから。シータが来るまでごろごろしてた」
「朝起こしてもらうのってどんな感じかなって思って」と言われ、シータは気恥ずかしくなった。まるで将来の生活の予行演習みたいだ。
「たぶん、ファイのほうが早起きだと思うよ」
「同じ寝台で寝れば、君は気配で起きそうだけど」
「……私、寝相悪いよ?」
「知ってる」
シータが派手に転がっても落ちないくらい大きいのを買わないとね、とファイが微笑む。
「ファイって勇気あるね」
夜中に大暴れする自分と一緒に寝るより、寝台を分けたほうが絶対に安眠できると思うのに。
「君と付き合う時点で覚悟はできてるから。深刻な寝不足になったら、またそのときに考えるよ」
つかんでいたシータの手に接吻してファイが上体を起こす。
恋人と呼べる関係になって三年目になるが、ファイはちょっとしたすきをついて軽く触れてくるようになった。自分は逆に、ぎゅうっとしっかり抱き着くのが好きだけれど。
接吻も、この頃だんだん長くなってきている気がする。慣れるのはいつもファイのほうが先だから、やっぱり一年の年の差は大きいなと考えていると、「今夜は飲もうか」とファイが言った。
「酔いつぶれない練習?」
「それもあるけど……君は飲むと、普段は言わないことを素直に話してくれるから」
そういえばとシータは思い出した。親睦会のとき、特にファイの印象がガラッと変わるほどののろけを延々語っていたと後でエイドスに苦笑されたのだ。自分がいったい何をしゃべったのか、まるで記憶になかっただけにあせった。
「今日は頑張って理性を保つわ」
さすがに本人を前にしてぺらぺらと心の内を漏らすのは避けたい。こぶしをにぎって意気込むシータをじっと見つめ、ファイはささやいた。
「僕は飛ばすつもりだけど」
耳朶をそっと食み、ファイは動揺に赤面したシータに口づけた。
「食材を買いに行こうか。何が食べたい?」
寝台から下りたファイが、窓の幕を開けて部屋に光を通しながらふり返る。まぶしさにシータは瞳をすがめた。
「あのね」
食べたいものと、一緒に行きたい店も伝える。時間はたっぷりあるようで、あっという間に過ぎてしまう。それでもファイとともにいられる喜びを、シータは十分にかみしめた。
そしてその日、本当にファイの理性が飛んだのかどうかは――二人だけが知る秘密である。