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出発

煤けた茶色の大きなレンガ道を一歩一歩確認する様に進んでいく。あと十歩も進めばレンガの道は終わり、足元は石で出来た大きな橋になる。空を見渡せば青く高い空の向こうに灰色の雲が見えていた。パルは一度立ち止まると来た道を振り返り、商店が並ぶ町並み、奥に見える緑の森、更に奥にある故郷をじっと見つめた。背にある橋を渡るのは初めてだった。石で出来た大きな橋は国と国とを繋ぐ無国籍の地帯になっている。同時にどの国の物でもあった。それぞれの国境は崖や森、川などが境目になっているがどこの国もこの橋を渡ると隣の国になる。つまりこの橋に足をかけるという事は国から出るという事だ。ずっと他の国に行って見たかった。旅に出る事が許されたのはちょうど一ヶ月前の事だった。十三歳になったその日、両親がプレゼントをくれた。茶色の動物の皮で作られた少し大きめの鞄と、布地のしっかりとしたフード着きのマント、そして黒く染められた柔らかい皮のブーツ。故郷では子供が新たな門出を迎える時に靴を贈るのが風習だった。その靴にマントに鞄だなんて。旅に出て良いという両親の気持ちの詰まったプレゼントだった。母のトゥラはパルに向かって三本の指を立てて条件がある、と言った。旅に出るのはお前にとって良い事かもしれない。しかしまだまだ子供のお前を手元から離すのはやはり心配なのだと。


一つ、半年に一度は帰って来る事

二つ、危険な所に出入りはしない

三つ、出来る限り手紙を書いて状況を伝える事


三つと言っておきながら夜更かしはしない、身の回りは清潔に、頭は極力出さないなど小言がたくさん飛び出してきたが、問題はこの一つ目だった。半年で故郷に帰るというのは行ける距離や滞在する時間が限られてくるのだ。この条件を聞いた時は喜びの方が勝っていたため気がつけず、プレゼントと一緒に寝台に入ってからはっとしたのだった。そして一つでも約束を破ると父が迎えに来る、らしい。

家を出てからすでに七日、馬や馬車を使えば一日、二日の道だったのだが故郷の国も隅々まで見た事はなかったから徒歩で行くことにしたのだ。そのおかげか、探し人の情報を得る事ができたのは幸いだった。この旅の目的は二つ。自分と同じ種族、魔女を探す事、それと成長する事。おそらく一つ目の目的をこなして行く内に二つ目の目的は付いて来るだろうと両親は言っていたが。二日前にお世話になった宿屋の食堂でそれらしき人達の話を聞く事が出来た。西の国にも有名な人達がいるって聞いた事があったなあ、確か中央の城下町じゃなかったかな。ビールを片手に頬を赤く染めた中年の男がパルに葡萄のジュースを勧めながら話してくれたのだ。ぼうず、ちっちぇのにえらいなあ、なんて言われたのは癪だったが気の良いおじさんだった。有難く、その情報を元にまずは城下町を目指す事に決めていた。頭に巻いた黒いターバンの止め具をぐっと引き締めた。


「父さん、母さん、行ってきます」


両親の元を離れる寂しさはもちろんあった。この七日間、何度振り返った事だろう。でもこの橋を目の前にして高揚する気持ちが大きくなる。空に浮かぶ黒い雲は広がってきているけど、足取りは軽く残りのレンガ道を駆けていった。




西の国ポガノワは武器や調度品、装飾品などの製造に長けている国だ。それと武術が盛んだとも聞いた事があった。なるほど、たしかに体の大きな衛兵達がいるし、その横に上半身裸の筋肉だらけの人達がたくさんいた。中には魔物もいるようで肌の色が薄い緑色をしている。大きな橋を渡ってしまえば母国とは空気がこんなにも違うものなのかと思わざるを得なかった。それぞれの国には人間、獣人、魔物がいる。しかしどの国も圧倒的に人間が多く、次いで獣人、最後に魔物が来るのだがこんな風に白昼堂々と上半身を晒している魔物を見るのは初めてだった。パルの母国の魔物は夜型なのか人間と共に生活はしていない。ほとんどが森の奥で生活しているはずだった。昔住んでいた森の隣の家のおばさんも魔物だった。


木で出来た簡易的な商店が立ち並ぶ辺りをキョロキョロと見渡していると雑貨の商店を見つけた。まずはこの国の地図を手に入れたい。取っ手の無い扉を手で軽く押すと扉についている鈴が軽やかな音を立てた。

カウンターの向こうに店番らしき少女がいた。年はパルと同じくらいか、一つ二つ上くらいだろうか。


「こんにちは、この国の地図は置いてる?」

「あるよ、なに? 君、一人?」

「うん」

「へえ、まあ色んな人がいるよね」


赤い三つ編みを揺らす少女は三つの地図を出して説明してくれた。


「ポケットに入る小さいタイプ、ただし拡大眼鏡も必要よ。こっちの布に描かれた大きなタイプは眺めているだけで知的な気持ちになれるわ。水には弱いから雨の日は持ち運ばないほうがいいわね。次はこの世界地図。ポガノワはこの辺よ」


少女は食卓テーブル程ある地図を広げ小さな点を指差して言った。

思わずぽかんと口を開けて聞いていたが、どれも求めているタイプではなかった。


「他にはない?」

「普通のもあるわ」


最後に出てきたのは先ほどの世界地図より一回り小さ目の地図だった。山や町の名前やある程度の道も描かれている。


「それが欲しかった」

「だと思ったわ」


少女はいたずらに成功したように胸を張ってみせた。


「地図が欲しいってことはこの国は初めて?」

「うん」

「行き先は決まっているの?」

「まず城下町に行きたいんだ」


城下町ね、と少女は地図を指先で辿り此処から城下町までの最短距離を教えてくれた。同じく国と言っていてもポガノワは母国よりも広大で、徒歩だと二十日は掛かるとも。ましてや子供の足だ。


「乗り合いの馬車も出てるから乗り継いで行くのがいいと思うわ」

「うん、そうする」

「私ミンテっていうの。また近くに来たら寄ってね」

「パル。また来る。色々教えてくれてありがとう」

「うん! 良い旅を、パル」


少女に手を振ると教えてもらった乗り合い馬車の乗り場へ向かう。人だかりが出来ているからすぐにわかった。近くまでいくと六、七台の馬車が停まっている。一つの馬車に馬が二頭と御者が二人ずついるようだ。三角の藁帽子が目印だろうか。パルは近くにいた上半身裸で三角帽子を被った男を見つけ、上腕の筋肉を仲間に見せている所に声をかけた。


「あの」


振り返った男は余程力を入れていたのか米神に血管を浮かせた顔をパルへ向けた。


「城下町の方に行きたいんだけど、どれに乗ればいいですか?」

「それなら俺の馬車に乗ったらいいよ。二つ先の街まで行くよ」


見た目の厳つさとは裏腹に優しい話し方をする男はパルの前にしゃがみこみ目を合わせた。


「ボウズ一人なのかい?」

「うん」

「へぇ、小さいのに大変だね。他の馬車は違う方向に行くのと隣の街まで行くやつなんだよ。隣の街まででもいいならあっちの線のない青い旗の馬車になるよ」

「そうなんだ」


男の太く低い声で女の様に優しい話し方になんとも不思議な感覚になるが、どうやら馬車の行き先は旗の色で決まっているようだ。青、緑、黄色の三方向に黒い線が引いてあれば二つ、または三つ先の街まで向かうという事だった。丁寧に教えてくれた男の馬車には青に黒い線が一本引いてある旗が付いている。

パルは顎に手を当て少し考えた。隣の街まで行って更に情報を集めるゆっくりコースか、まず城下町まで行ってしまう特急コースか。


「お兄さんの馬車で行くよ」

「そうかい!」


ポガノワの大きさを考えるとまずは城下町まで行ってしまうのがいいだろうという結論に至った。


「すぐに出発するの?」

「黒い雲が広がっているのがわかるかい? あれは雨を降らせる雲なんだ。だから早く出発したいんだけど、まだ鐘が鳴らないんだよ」

「鐘?」

「あそこにある銀色のやつさ。あれを鳴らして皆に馬車が出るよっていう報せをするんだ」


男はパルが渡ってきた大きな橋の方を指差した。そちらを見ると橋の横にやぐらが組んでありその上に男が言った通りの銀色の鐘が見える。男が言うには一度目の鐘で間もなく出発するぞという合図があり、二度目の鐘で出発するという事だった。


「まだやぐらに兵士が登ってないからもう少しかかるかな。ボウズ、なんか食べ物でも買ってくるといいよ。一度隣の街で休憩するが天気次第ではゆっくりできないからね」

「二つ向こうの街にはどれくらいで着くの?」

「夜には着く予定だが明日の明け方になるかもしれないね」

「そうなんだ、わかった。お店をみてくる」

「ああ、一つ目の鐘がなったら戻ってくるんだよ」

「うん」


パルは商店の並ぶ方へ戻っていった。


「おい、今のボウズ一人なのか?」

「ああ……あんなに小せえのに一人で旅をするみたいだぞ。親でも探してんのかなあ、可愛そうになあ」

「おい、何泣いてんだよ。それぞれの事情があるんだろ。それにただの旅行かも知れないし」


そんな話をされてるとは知らないパルは美味しそうな焼き菓子と野菜の挟まったパンを手に入れていた。

やぐらを見るとまだ誰も登っていない様だった。そういえばそろそろ一度両親に手紙を出した方が良いかもしれない。隣の国へ入った事だし、簡潔な手紙を出しておこうかとまだ新しい革の鞄の口を開いた。縁が軽い木の素材で出来ている鞄は上等の物だった。革の靴も新しいが泥が着いてしまっている。パルは靴に着いた泥を指先で軽くぬぐった。まだ家を出てから七日しか経っていないが両親を思うと会いたくて堪らない気持ちになった。何度も故郷を振り返りはしたが、こんなにも寂しく思ったのは初めてだった。


「ふう……手紙を書くって大変なんだな」


二人を思えば思うほど寂しさが増していく気がしたパルは経過報告だけの短い手紙にする事に決めた。内容はどうであれ手紙を出す事に変わりは無いのだ。シガも許してくれるだろう。少し心配症な父を思うと、またどうにも寂しさが沸いてくるのでさっさと手紙を出してしまう。商店の一つに配達屋の看板を見つけていたのですんなりと手紙を出す事ができた。結構一人でもやれるものだな、なんて己の成長を称えていると辺りに鐘の高らかな音が響いた。そろそろ出発するようだ。さっきの馬車の所に戻らなくては。商店の並ぶ大きな通りを渡り馬車のほうを見るとさっきの御者の男が大きく手を振っていた。パルも手を振り替えそうとした時通りの影から何かが飛び出しパルにぶつかった。


「あっ……!」

「え!」


衝撃で身体ごと跳んだパルは大げさに転んでしまった。


「大丈夫か! 悪い、急いでいたから」

「うん、大丈夫」

「わ! 手のひらすごい擦り剥けてるよ……」

「このくらい……」

「おーい! ボウズ! 大丈夫か!」

「あ、お兄さん」


馬車の位置から全てを見ていた御者の男は勢いつけてパルの元へ駆けつけた。パルの擦りむけて血の滲む手のひらを見ると痛々しげに顔を歪めてパルを立たせてくれた。


「このくらい平気だよ。傷薬も持ってる」

「ああ、本当にごめんな。他は? 足とか尻とかぶつけただろ?」

「湿布薬も持ってるよ」


ぶつかって来た男は申し訳なさそうにパルの両手を取って怪我の具合を見た。そんな男をパルも観察した。この国特有の筋肉だらけではないタイプのようだった。擦り切れたマントを羽織ってはいるが、マントの裾から見える服はどこかの隊服のようにも見えた。彼は旅人なのだろうか。


「本当に大丈夫だよ。こっちも不注意だったから。それより急いでるんでしょ?」

「あ! そうだった」


男は脇に抱えていた紙袋から何やら取り出すとパルへ小さな包みを二つ渡した。


「これ、お詫びの印に受け取ってくれ」

「なに?」

「持っていれば役に立つ事もあるかも知れない」

「……うん、ありがとう」

「ああ! じゃあな!」


男はパルの頭を一撫ですると手を振って走っていった。


「あれは……城着きの兵士じゃないか?」

「お兄さん、知ってる人?」

「ん? ああ、いや。ほら、早く馬車へ行こう。もうすぐ出発だよ」

「うん」


馬車のところまで行くとちょうど二度目の鐘がなった。パルは泥のついてしまった手のひらをかるく水筒の水ですすぎ馬車へと乗り込んだ。木製の馬車は乗り込んでみると外から見るよりも大分広いようだった。パルのほかに4人の乗客がいた。丁度空いている馬車を選んだのか、肩がぶつかり合う事も無くゆったりと過ごせそうだった。

大方の客がそれぞれの馬車に乗り込むと鐘が鳴り響いた。何度もなる鐘の音に見送られるように一台、また一台と馬車が出発して行く。商店にいた店番の者達も何人か店の外に出て手を振っているようだった。その中には先ほど地図を売ってもらった店のミンテの姿も見えた。その時ぐらりとパルの乗った馬車も動き出した。


「出発するぞー!」


御者の声に意気揚々と走り出した馬に引かれて馬車も走り出す。パルは馬車の縁にしがみ付き片方の手をミンテへ向かって大きく振った。するときょろきょろとしていたミンテもパルに気が付いて飛び跳ねながら手を振ってくれた。どうやらミンテはパルの姿を探していたようだった。

ミンテの姿が見えなくなってもそちらに目を向けていると斜め向かいの女の人がパルに声を掛けた。


「小さな旅人さんね。ポガノワは初めて?」


女は上品な青いワンピースに細かな刺繍の施されたストールを羽織っていた。身なりに合った上品な話し方をする。パルがこくりと一つ頷くと女は口元に手を添えてにこりと笑った。


「旅人に優しい国よね。出発する時の鐘を聞いた? あれは旅路の無事を祈っているのよ」

「へえ、そうなんだ」


確かに力一杯に鳴っていた鐘を思い出すとそう言われていた様な気もしてきた。


「まだまだ出発したばかりよ。力を抜いて御者さんに任せるといいわ」

「え?」


パルが女の言葉に首を傾げていると、隣に座っていた無精髭を生やした男が口を開いた。


「そんなにしがみ付かなくても大丈夫だって言ってんだよ」


パルの手元に視線をやり顎で示す男に、パルも自分の手元を見ると確かに縁に置いていた手はしっかりと縁を掴み、ミンテに振った方の手は馬車の柱をしっかりと握り締めていた。


「落っこちそうになったら掴んでやるから安心してな」


そう言って豪快に笑う男にパルは恥ずかしくなって頬を赤くした。


「あの、ありがとう」


パルは上品な女と隣の男に頭だけでお辞儀をすると照れ笑いを浮かべた。


「おいおい! 血が出てるじゃないか。どんだけ握り締めてたんだよ」

「あ、これはさっき転んじゃって」


そういえばまだ手当てをしていなかったと思い立ち鞄から薬草等を包んでいた麻袋を取り出した。確か怪我をしたらすぐに使えるように準備してきたはずだ。パルは目当ての物をすぐに見つけると手のひらに当て包帯を巻いて固定した。


「ほう、ぼうずどんくさいのかと思ったが手際がいいな」

「そう? ありがとう」

「ねえ、今手のひらに何を貼ったの?」

「これ? これは傷に効くハーブを塗ってあるんだ」

「へえ~」「ほお~」


パルがヤロウの成分を含んだ正方形の小さな布を見せると乗客たちが感心したように身を乗り出した。

子供だと思ってたらすごいのね、小さいのに物知りだな、旅初心者っぽいのに準備がいいな、など口々に飛んでくる言葉はどれも好意的な物で、パルはほっと息をついた。小さいは余計だが悪意は感じられず感心したと言う目で見られる事が誇らしかった。人に認めて貰えるのはこんなにも胸が温かくなるのか。色々な知識を頑張って覚えてきて良かったな、と。この旅でも新しい知識を身に付ける事ができるようにと、パルは目標を一つ加えて馬車の旅を楽しむことにした。




順調な旅はとても短かった。朝から見えていた黒い雲はゆっくりと時間をかけてパル達の乗った馬車に追いつき旅路を共にする相棒とでも言うかのように着いて回っていた。どんよりと重く湿った空気を背負った馬車は泥道で思うように走れていない事がパルにもわかった。そんな時やはりと言うように御者の一人が台車にかかっているテントの布を開いた。


「今日は次の町で一泊する! もう少しで着くから荷物はまとめておけ!」


叫ぶように言われた言葉に他の乗客達もやっぱりかと大人しく荷物をまとめ始めた。


「ボウズ、残念だったな」

「うん、でも急ぎじゃないから平気だよ」

「町で宿は取れるかしら……」

「この雨だから何処もいっぱいだろうなあ」

「みんなはそういう時どうするの?」

「どうしても宿が取れない時はこの荷台を空けてくれるんだよ。でもなあ、女子供には物騒だからなあ」

「そうよねえ、あなたみたいな小さな子にはこんな所おすすめできないわ」


困った困ったと乗客達が話しているうちに町に近付いて来ているようだった。何か太鼓を叩いているような音が遠くから聞こえる。


「なんだ? 閉門には早すぎるんじゃないか?」


隣に座っていた無精髭の男が訝しげにして御者の方へ顔を出した。何か確認をしているようだった。


「この太鼓はね、門を閉める時に鳴らすのよ。もうすぐ閉まるから急いでってね。でもこんなに早く閉まるのはおかしいのよ」

「ふうん」

「おい! 虎の群れだ!」

「え!」


御者の方へ顔を出していた男はパルの横に置いていた大きな剣を手にすると馬車の後方のテントを開けて車の後ろの縁に立った。すると今まで一言も話をしていなかったキナリのマントを羽織っていた細身の男も立ち上がり御者のいる前方へと車を出て行ってしまった。手には小さな剣を持っていたようだ。パルはその小さな剣に目が釘付けになった。剣というか、その鞘にだろうか。一瞬しか見えなかったがおそらく黒い布地に小さな宝石がはめ込まれたような形をしていたのだが、なんとも言えない存在感があったのだ。戻ってきたらじっくりと見せて貰いたい。


「あなた! こちらへいらっしゃい! 端っこにいたらだめよ」

「うん」


お上品な女も普段では絶対にしないだろう車の床に座り込みパルを手招いていた。もう一人の乗客も真ん中に寄っていた。パルもそちらへ向かおうと立ち上がった時馬車が大きく揺れた。


「きゃあ!」

「わっ」


パルは足元を大きく掬われて車の後方に転がっていった。頭をぶつけたようで鈍い痛みがじわりと広がっていく。痛む頭を支えて身を起こすと雨風に煽られたテントの布地の隙間から無精髭の男の背中が見えた。

その瞬間、動物の咆哮と剣のぶつかる硬い音が響いた。


「ボウズ危ねえぞ、みんなと真ん中に集まってろ!」


男が背後に転がっているパルに気付き注意を促してくる。だがそんなものパルには聞こえてこなかった。先ほど見えたビースト、虎の瞳のなんと美しい紅色だろうか。どんな宝石に例えたら表現できるだろう、ガーネットかいや、スピネルというか、そうか、ルビーかもしれない。


「あなた!」

「わあ!」


そうだルビーだと腑に落ちた時、勢い良く身体を引かれ気が付けば女に抱きしめられていた。


「どうしたの、怪我をしたの? しっかりなさい!」


何度も呼びかけていたのに反応しないパルに痺れを切らした女はパルの身体ごと引っ張り手繰り寄せたようだった。馬車の揺れは収まらず、女も立ち上がれなかったのだろう。


「あ、ごめんなさい。大丈夫……」

「もうっ!」


女はパルをきつく抱きしめると大きく息を吐いた。


「あっ!」

「え? 何? どこか痛い?」

「頭が……」


先ほど転がったときにぶつけた頭が鋭く痛んだ。ターバンの隙間に指を入れ生え際辺りを探ってみるとぬるりとした感触が指先に伝わる。

ターバンから引き抜いた指先に着いた赤い血を見て女は顔を青くした。


「大変……早くその頭のを取りなさい。綺麗な布で止血しなくちゃ……」

「これくらい平気だよ。ターバンをきつく締めればちょうど止血になるよ」

「でもねえ!」

「それに町についてからの方が落ち着いて手当てできるし」

「ううーん、そうね。わかったわ。せめて手で押さえててね」

「うん」


優しい人なのだろう、自分が痛いとでも言うかのように眉を顰める女に心配をかけて悪いと思う。しかし頭の半分では別の事を考えていた。動物は魔女の血が焼ける臭いを嫌うのではなかったか。しかし指先に少し着いただけの少ない血でも効果はあるのか。それよりもこの話は本当だったか、本当に動物が嫌うのだろうか。やらないよりはやってみたほうがいいか。

パルは鞄から新しい包帯と油を取り出すときつく歯を食いしばり頭の傷口を抉る様に包帯で擦った。


「ひゃあ! なにしてるのさ!」

「あなたやめなさい!」


包帯に血が滲みじわじわと赤く染まっていくのを確かめると冷やして固めた油をがしがしと塗りこむ。


「誰か棒を持ってない? これを巻いて燃やしたいんだ」


パルはキョロキョロと車の中を見渡したが丁度良い物が見当たらなかった。


「え、棒っこ! 何かないかな!」

「私もないわ、扇子くらいしか……」

「御者さんに聞いてみるっうわ!」


栗色のふわふわの髪と耳を持った少年が車のテントを開くと同時に木の棒が車に投げ込まれた。


「それを使え」


テントの中の声が聞こえていたのか、キナリのマントの男が声を掛けてきた。ちらりと見えたキナリのマントには赤い血が飛んでいた。急がねば。パルは焦る気持ちを抑えて木の棒に血と油を染み込ませた包帯を巻き付けようとする。が、緊張か、恐怖か、手が震えて上手く巻き付けることができない。


「あなた、こちらへ貸して! 私がやるわ。巻いて燃やせば良いのね?」

「……うん、お願い」

「あなたはこの子の頭を押さえててあげて! 傷口をよ!」

「う、うん! わかった」


女は手際よく松明を作り上げながら指示を出していく。パルはじくじくと痛む傷口に手を当てると何かふわふわの物を掴んだ。


「ちゃんと押さえてるからね! 大丈夫だよ!」

「……うん、ありがとう」


ふわふわの感触は栗色の少年の手だった。パルを気遣う優しい手に目元を撫でられ、いつの間にか意識を手放していった。




「信じられないわ……まったくビーストがいなくなるなんて」

「まあ、良かったじゃねえか。町にも入れた事だし」

「そうだね! でも、この子のおかげなのかな?」

「そうだろうな」

「あ! マントの血とれましたか?」

「ああ、大体は」

「そうだろうなってどういう事だよ?」


何か話し声が聞こえる。パルはまだ眠りたりないと落ちてくる瞼を眉間に力を入れて開いた。灯りがとても眩しく感じる。


「起きた? おはよう」

「ん? ……ふわふわは?」

「なんだ、ボウズ寝ぼけてんのか? はっはっは!」


寝起きのぼんやりとした頭で手を動かしてふわふわを探す。


「もしかして、俺の手?」

「そう、これ、ふわ、むにゃ」

「おいおい! また寝るのかよ。一回起きろ」

「飯を用意してもらってこよう」

「……飯」

「そうだぞ! 飯だぞ!」


パルは肩を揺すられたり食欲を揺さぶられたりしてなんとか身体を起こした。


「起きた?」

「うん……足、貸してくれてた?」

「ああ、そう。寝心地最高だった?」

「……うん、そう、でもないかな」

「ぶわっはっはは!」

「ええ~、ちょっとショック」

「ふふふ、さあ、食堂へ行きましょう。もうお腹ペコペコよ」

そう言うと女は青いワンピースのスカートをふわりと浮かせて車から降りていった。

「もしかして、みんな起きるの待っててくれたの?」

「そうだよー。僕の足が痺れても君があんまりぐっすりと眠っているから起こせなかったんだよー」

「そうだったの? ごめんね、立てる?」

「大丈夫だよ。それよりこの人が痺れた足を叩いたり突いたりして悪魔のようだったよ」

「わはは! 悪かったよ。けどな、足が痺れた奴ってのはちょっかい出したくなるもんだよ。さ、俺たちも行こう。飯だ飯!」

勢いよく立ち上がった無精髭の男は、腹を擦りながら車を降りて行った。

「僕たちも行こう。そうそう! 宿が取れたんだよ! しかも食堂が人気みたいなんだー。お腹空いたね」

ふわふわの少年はパルの手を引き、ふわふわと話した。中身もふわふわとしているようで一緒にいると自分もふわふわとしてくる、不思議な少年だった。












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