第八話「入荷・4」
「八七番、二〇三番、あんたら今日の夜ごはん何がいい?」
鉄格子の前にやってきた金髪の看守がそう聞いたのは、壁に掛けてある時計の針が六時半を指した頃だった。宗二はベッドに横たわって掛け布団を首まで被り、ぼーっと視界に広がる簀子状の木板を眺めながら、脱走のあれこれを考えていた。
ちょうど夕食時。普段なら看守が夕飯の入った紙容器を持ってくる時間だが、今日は何故かペンとメモ帳を持ってそんなことを聞かれた。どういうことだろうか。
「そういえば、今日だったね」
続いて上から降ってきた八七番の声。どうやら彼女は状況がわかっているらしい。
「何がだ」
訳がわからず独り言のように尋ねると、金髪の看守があまり面白くなさそうな顔で答えてくれた。
「月に一回な、あんた達に食いたいものを食わせてやる日があるんだ。それが今日。だから、希望を言ってくれればうちの料理人が何でも作ってくれるよ」
高級料理とかは無理だけどな。彼女はそう付け加えた。
なるほど、そんな日があるのか。納得したように頷く宗二を見てから、看守は改めて聞く。
「それで、何が良い?」
「私はオムライスをお願いします」
八七番は即答だった。予め何を頼むのか決めていたのだろう。
「はいよっ」
看守は眩しい笑顔で親指を立てた。一方で宗二は少し悩み、しかしやはりこれだと決心する。
「俺は……、卵焼きと味噌汁で」
「わかった」とメモ帳に記入する。「ちょっと時間かかるけど待っててな」
そう残して、金髪のポニーテールは揺れながら遠ざかっていった。
それから一時間程経った頃、風が吹き始め、雪が本格的に降り出した。昼間は空の大半を青色が占めていたのに、あっという間に夕方には正反対の天気になってしまう。ああ、これだから雪山は。
夕飯が届いたのは、ベッドで寝ながら、ビューと吹く風が、窓をカタカタと鳴らす不吉な音を聞いていた時だった。
「待たせた」
持ってきたのは、先程とは打って変わって黒髪黒目の看守だった。彼は両手で黒いお盆を持っている。
「ありがとうございます」
八七番が律儀に、しかしぶっきらぼうな口調で感謝を述べると、ベッドが軋んで、ごそごそと布同士が擦れる音がした。彼女にしては珍しく、直接受け取るようだ。宗二も起き上がり、ちょうど梯子を降りてくる八七番を先導する形で鉄格子へ向かう。看守は片手で器用に鍵と扉を開け、お盆を宗二に手渡した。
お盆には茶碗が二つ、細長い皿が一つ、丸い皿が一つ乗っていた。宗二がそれを受け取ると、看守は鍵を閉め、急いでいるのか無言で職員棟の方に戻っていった。
「オムライス、私の」
宗二がベッドに戻ろうと振り向くと、オムライスを盗むとでも思われたのか、目の前に立ちはだかった八七番に睨まれた。
彼女は自分のことを話してからずっとこの調子だ。ピリピリとした空気を纏っていて、ご機嫌斜めな様子だ。
宗二は「わかってる」と、お盆に乗った丸い皿――ケチャップがたっぷりと掛けられた、ふっくらと膨らんだオムライスと金属製のスプーンが乗った皿を手渡す。彼女は受け取ると、暫くつまらなさそうにそれを見つめた。それを尻目に、宗二はお盆が傾かないように気を付けてゆっくりと移動し、自分のベッドに腰掛けた。
そして、お盆に乗った夕食を見て、懐かしげに目を細めた。
――つやつやと光る白飯、テカテカと輝く狐色の卵焼き、豆腐と里芋の入った味噌汁。
どれからも、白い湯気が紫煙のように揺れながら立ち昇っている。
宗二はふと昔のことを思い出した。あれは戦争末期、父が最後に帰ってきた冬の夜のことだ。
こたつの上に並んだ、配給の硬くて不味いパンと、母の作ったしょっぱい卵焼き、父の作った芋と根菜で具沢山の味噌汁。戦時中にしては奮発したご馳走だ。ここまで豪勢なものは一年と食べていなかった。
「いただきます!」
「はい、どうぞ」
卵焼きを一切れ頬張った口で味噌汁を啜る。ただ、子供の小さな口には入り切らず、口端から少し味噌汁が零れてしまった。
なんとも汚い食べ方だが、今日ばかりは叱られなかった。
「どうだ、美味いか?」
「うん!」
「そうか! よかったよかった」
満面の笑みで一度大きく頷くと、正面に座る父は自慢げに笑った。その隣の母も嬉しそうに微笑みながら、味噌汁の伝う口元を手拭いで拭いてくれた。
あの夜も強い風が吹いていた。大粒の雪が横殴りで降っていた。規則性なくカタカタと揺れる窓。突如吹いた一際強い風にアパート全体が揺れる。
「おおお」
一瞬ヒヤッとした。父と母も思わず声が零れる。
「びっくりしたねぇ」
「うん!」
母の言葉に元気に頷く。息子の嬉々とした情が移ったのか、父母は顔を合わせて笑い合った。
気になって窓の方を見てみると、外に広がる真っ暗闇から次々に白い影が現れては、窓に当たって零れるように落ちていった。さながら、ガラスがあることに気付かずに突っ込んだ虫が、ガラスにぶつかって落ちるようだった。
そんな窓に映る、団欒して食事をとる家族。父が口を大きく開けて笑い、母が優しく窘めるようにその肩を叩く。
それは何気ない、平和な家族の肖像だった。
「いただきます」
宗二は自分だけに聞こえるように呟き、小さく手を合わせる。一拍置き、右手に箸を、左手には白米の茶碗を持ち上げ、箸でお盆の細長い皿に乗った卵焼きを一切れつまんだ。柔らかくて、箸でも簡単に切れてしまいそうな半熟のそれを口に運ぶ。
ぱくりと、一口に食べる。
温かい。噛めば噛む程にとろりと柔らかい。塩味だろうか、醬油味だろうか、それとも甘い味付けだろうか。味を感じることが出来れば、きっと美味しいのだろう。
次は味噌汁を啜った。里芋と豆腐も一緒に箸で掬った。碌に冷ましていなかったため、熱すぎてむせそうになりながらも、しっかりと具を咀嚼する。
赤茶の味噌の色から味を想像してみる。塩辛くて濃いだろうか。出汁は昆布だろうか、鰹節だろうか。味を感じることが出来れば、きっと美味しいに違いない。
だが所詮は想像。実際はやはり、ただ熱い液体を口にしただけだった。
飲み込むと今度は卵焼きと味噌汁を一緒に口に入れた。懐かしい食べ方だ。行儀が悪いとよく怒られたものだ。
白飯も掻き込む。口いっぱいに頬張り、まるでリスのほうになってしまった。
卵焼き、白飯、味噌汁、白飯、卵焼き。
箸が止まらない。味はしない。だから美味しくもない。ただものを口に入れて、噛んで、飲み込んでいるだけ。
なのに止まらない。
卵焼きと味噌汁、白飯を搔き込む。箸は進み続ける。
半分程食べ進めた頃だった。頬がなんだか痒くて、箸を持った右手の甲で擦った。すると、その手が温かい何かを拭って、濡れた。
サラッとした感触。目から零れ落ち、頬を伝った透明な液体。
「なんで、こんな……」
それが涙だと理解した時には、もっと沢山、ボロボロと涙が溢れ出していた。
胸の中から、何かが込み上げてくる。溢れ出してくる熱い何かが、喉を締め付ける。視界が隅から段々と光に滲んでいき、夕食がぼやけてよく見えなくなった。
「うっ、うっ」
我慢できずに嗚咽が零れる。垂れそうな鼻水をズルっと啜る。
右手の袖で頬を拭う。涙が袖に染み込んだ。涙が頬に薄く広がった。
茶碗を持った左手の掌底で左目を擦る。目が熱い。目がしみる。
「ズルッ、うっ……」
「急にどうしたの!? 泣いてるの?」
上から八七番の焦ったような声が降る。彼女にしては珍しく狼狽えているようだ。宗二は一際大きく鼻を啜ってから、込み上げてくる苦しさを吐き出すように答える。
「……本当に、美味かったんだな……ッ」
震えを帯びた涙声。
「え? 何が?」
「……母さんと父さんの作ってくれたご飯、めちゃくちゃ、美味かったんだな……ッ。うっ、うっ」
87番は押し黙る。
「こんな大事なこと……、なんでもっと早くに気付けなかったんだろ」
上ずった、痛ましく甲高い声で嘆くそれは、まるで懺悔のようだった。いや、実際懺悔だったかもしれない。
宗二は、必死に笑った。精一杯に頬を吊り上げ、目を細め、天を仰いだ。
「くそッ、馬鹿だ俺はッ」
堪えるようにグッと目を瞑ると、瞼の裏に映ったのは温かい家族の笑顔。ツーっと、こめかみを温かさが流れ落ちた。
「くそッ」
宗二の奥歯は、何かを噛み締めるように、強く強く食い縛っていた。
一頻り涙を流した宗二は、お盆に乗った夕食を完食した。でも全然物足りなくて、巡回で部屋の前を通った黒髪黒目の看守に、おかわりが貰えないかと聞いてみたところ、
「了解した、待ってろ」
あっさりと了承が得られた。
三十分程で届いたおかわりを食べ、再びおかわりを頼んだ。箸は本当に止まらなかった。味はしないから美味しくない。美味しくないのに、食べ続けた。それが仕事であるかのように口に入れては咀嚼して飲み込み続けた。
いや、仕事のような義務感からではない。食べたくて食べた。自らの意志で食べた続けた。
そして二度目のおかわりを半分以上食べた頃。
「う、やばッ」
込み上げるような感覚。でも、先程までとは違うものが込み上げてくる。胸ではなくて、腹がじりじりと熱い。
お盆を投げ捨てるようにベッドに置き、宗二は口元を押さえてトイレに飛びついた。そして便器の前に両手をつき、
「うっ、おぇぇ――」
便器に顔を埋めるようにして、吐いた。胃の中身がひっくり返るような嘔吐感に、吐けるだけ吐いた。
「大丈夫!?」
悲鳴に近い声でベッドから飛び降り、駆け寄ってくる八七番。その声を聞きつけたのか、直後には黒髪黒目の看守が部屋の前に来た。
「何があった」
「二〇三番が食べたものをもどしてしまって」
「了解した。すぐに医務室に連れて行く」
焦っているのがわかる程ガチャガチャと乱暴な鍵の音が鳴った。なんとか扉を開けた看守は部屋に足を踏み入れると、一直線に便器の前で蹲る宗二に向かい、隣に屈んだ。
宗二は一頻り吐き終えていた。
「医務室に連れて行く。立って歩けるか、二〇三番」
「た、ぶん……」
歩けるかと言われれば微妙だったが、宗二の嘔吐感は一先ず収まっていた。看守に脇の下から腕を通され、体を担ぎ上げられる。宗二は雲の上を歩いているような、足元がふわふわとした感覚だったが、なんとか立ち上がり、看守の肩を借りたまま部屋を出た。
最後に振り返った時、壁に掛けられた時計の針は九時を指していた。
向かった先――医務室とやらは、倉庫に連れてこられた当日に健康診断を受けた職員棟の部屋だった。
無機質な白い部屋の壁に沿って置かれた、これまた真っ白なベッドに寝かされる。看守が駆け足で出ていったかと思えば、白衣を着た医者風の男を連れて帰ってきた。
「何があったんだい?」
「ご飯を食べていたら――」
今にも溶けそうな朦朧とする意識の中、何があったかを説明していた……気がする。というのも、この辺りから記憶が曖昧なのだ。何処までが現実で、何処から夢を見ていたか判別がつかない。
結局何処まで話しただろうか、気がついたら力尽きてぐっすりと眠ってしまっていた。
「パパぁ、もう行っちゃうの?」
電球の薄灯りに照らされたアパートの玄関。底冷えするように寒い。
扉を背に、父は屈んで顔を覗き込んでくる。
「ごめんなぁ宗二、パパはお仕事が忙しくてな」
「やだやだ!!」
手足をバタバタさせてぐずると、隣に立つ母に頭を撫でられた。
「パパ、すぐ帰ってくるから安心してね?」
「あ、ああ、そうだ。だからいい子で待っててな」
「うそつき! そう言ってぜんぜんかえってこなかったじゃん!」
そう叫ぶと、父は申し訳無さそうに苦笑いして、後頭部をボリボリと掻く。でもすぐに気持ちを切り替えたように、いつもの自然な笑顔に変わった。
「じゃあ、約束しよう」
「やくそく?」
「そう、約束」
キョトンと首を傾げると、父は自信ありげに眉を上げる。
「次帰ってきた時、宗二の大好きな味噌汁作るから、一緒に食べよう! だからそれまでいい子でママと待てるか?」
「ほんと?」
「ああ。本当だ」
「わかった! ママとまつ!」
花のような笑顔を咲かせる。その頭を撫でようとしたのか父は手を伸ばし、しかし途中でピタリと止まって、焦ったようにサッと引っ込めた。その流れで父は膝に手をついて立ち上がり、踵を返し、玄関の扉を開ける。
開いた隙間からビューと冷たい風が吹き込んできた。それに負けない、力強い足取りで父は外へ踏み出す。
最後に一度だけ振り返った。
その父は笑顔だった。慈しむような、懐かしむような、温かさに満ちた笑顔だった。
外は夜闇を吹き荒らす横殴りの猛吹雪。その中へ、父は自らの足で進んで行った。その大きく温かい背中は、白い影が飛び交う真っ暗闇に吸い込まれて、すぐに消えてしまった。
まさかこれが父の顔を見る最後の日になるとは、この時は思いもしなかった。
「――――」
ゆらゆらと揺れている。小船の上で波に揺られているかのようだ。
淡い世界に降り注ぐ音。籠もっていて何の音かわからない。
「――三ばん――!」
荒々しい音――いや、人の声。
何かが触れたような気がする。揺すられた。ふわりと柔らかいものの上を身動いだ。
「二〇三番! 起きろ!」
「――んん」
一際大きく体を揺すられて、宗二の意識は半ば朦朧としながらも覚醒した。擦りながら目を開けたが、飛び込んできた青白い光が眩しくて目を薄くする。
暫くして眩しさに慣れてきた視界には、いつか見覚えのある、皺の目立つ顔――看守長が覗き込んでいた。彼の細いフレームの眼鏡は傾いていて、灰色の髪も変に逆立っている。
「起きたか!」
看守長の鬼気迫る声。
しかし宗二には何故彼がそんなに慌てているのかわからず、寝ぼけた声で曖昧に尋ねる。
「どうしたぁ」
「看守が死んだのだ」
「は?」
顔をビンタでもされたような気がした。
それ程一瞬で、急速に目が覚めた。ガバッと勢い良く上体を起こし、見開いた目で看守長の顔を覗く。彼の顔は真剣そのものだった。
「いや、死んだって、え?」
「君をここに連れてきた黒髪の男性看守――花井が、隣の部屋で腹と顔を滅多刺しにされて死んでいるのが先程見つかったのだ……」
「は? いや、え、いや、ちょっと待て。黒髪の奴が、なんで」
まさに寝耳に水。起き抜けにそんなことを言われても、急すぎて頭が追いつかない。
宗二は口をあんぐりと開けて問う。だが、看守長は苦しそうな顔で首を横に振った。
「それはわからない。だから今、倉庫全体で片っ端から聴取をしているところだ。君にも協力してもらう」
「……はい」
混乱を極めている頭で、何とか返事を絞り出す。看守長はベッドの隣に並んだパイプ椅子に腰掛けると、手に持っていたメモ帳を開いた。
「まず、今夜の十時から十一時の間、君は何をしていた」
「九時過ぎから今までぶっ通しで寝てたと思うけど……。そもそも今何時だ」
「十二時だ」
三時間程寝ていたようだ。
「なら、ああ、その間はずっと寝てた」
「では、知っていることは何もないな? 何か物音を聞いたとか、怪しい動きをしている人がいたとか」
「知らない」
「そうか……」と呟いて、看守長はがっくしと肩の力を抜いた。ただ、すぐに気を取り直したようで、彼は立ち上がると、
「最後に身体検査をする。君も立て」
そう言って宗二に手を差し出した。宗二はその手を取らず、「自分で立てる」と言って体の向きを変え、ゆっくりと重だるい腰を上げた。
直立し、両手を頭の後ろに置いた体勢を取る宗二を、看守長は足元から触ってボディチェックする。脚、腰と上がっていき、しかし左の脇腹辺りをなぞった時に彼の手に何かが当たった。そのことが宗二にもわかった。
そんなところに何か入れただろうか。
「ちょっとジャケットを脱げ」
言われて、着ていたグレーのダウンジャケットのファスナーを下げ、肩から脱ごうした時だった。ガサッと左の脇腹辺りで何かがずれ落ちた。
それはそのままダウンジャケットとつなぎの間をすり抜けて落ちていき、真っ白な床に落ちた。カキンッ、と金属音が鳴り響いた。それは閃くように光を反射しながら床を跳ね転がり、滑り、やがて落ち着いたように動きを止めた。
床に転がるそれを見て宗二は口元を押さえた。目を見開いた。胃が握られたような気がした。
「ぁ――」
それは、冷たい色の金属で出来ていた。
それには、原色のペンキを思わせる鮮やかな赤い液体がべっとりと付いていた。
それの周りには赤い飛沫が散っていた。
――それは、血に濡れたナイフだった。
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