第七話「入荷・3」
――彼への第一印象は、商品に身を落とした、ここではごくごくありふれたサピエンスの少年だった。
無造作に散らかした栗色の髪に、乾いて荒れた肌。妙に青白い顔は酷くやつれている。百七十程ある身長も、疲れ切ったように丸まった背中の所為で随分と小さく見える。動作や言葉には力がなく、表情を変えることも滅多にない。
しかし、負の感情だけは、スイッチが入ったようにありのままのそれを露わにする。まるで、負の感情を呼び起こすもののみに反応するからくりのようだ。
彼は、商品になって日が浅い者の典型例だ。
商品に堕ちた者の過去など語るものではない。きっと彼も、心に深い傷を負うような辛い出来事があってこうなったに違いない。
同情も憐憫もない。心が傷つきながらも商品となり、金持ちに買われていく者が一人増えたという、ただそれだけの話だ。
だが、この第一印象は、彼のとある部分を見て少し変わった。
――彼への第二印象は、妙な奴だった。
疲弊しきったような言動や雰囲気、ゲッソリした外見に不釣り合いだと感じたものは、その茶色の目。
明け透けに言えば、目だけが異様だった。目だけが、生気に溢れたようにギラついていたからだ。でも注意してよく見ると、池の底に溜まった泥のように昏く澱んでいるようにも見える。熱いのか冷たいのか、輝いているのか沈んでいるのかいまいち区別がつかない、不気味で、妙な目だった。
彼がその目に何を映しているのか、この時の私はまだ考えすらしなかった。
例の少年――二〇三番が倉庫に来て、彼と相部屋になって四日目。
その日は何も予定がないと聞いていたが、昼前になってから、いきなり看守が部屋の前にやってきた。
「八七番! 二〇三番! 急だけど、お客様がおいでになったから来い」
声を張って呼びに来た看守はさんという、耳の高さで結んだ金髪のポニーテールがよく似合う、女性の看守だ。
彫りが深くシャープな顔立ちに、切れ長の翠眼も相まって、彼女は西洋風の、それもかなりの美人だ。身長も百八十弱と女性にしては高く、スタイル抜群であるためか、ダサい看守用のつなぎさえ似合うのだから、世の中は本当に不公平だ。
そんな彼女の一番の特長は、歯を見せて笑う溌剌とした笑顔だ。
「ほら! 早く行くぞ!」
どうやら時間がないらしく、楓は急かしながら鉄格子の扉の鍵をガチャガチャと不器用に開ける。扉が開くと、二〇三番が相変わらずの死んだ面で踏み出し、私もその後を追う。私達が部屋から出ると、楓はそそくさと鍵を閉めてから、私達を先導して通路をずんずんと進んでいき、ふと肩越しに振り返った。
「久しぶりだな。あんたが商品としてお客様に見てもらうの」
そう言って、彼女らしいニカッとした笑顔を浮かべた。
「はい」
私も久しぶりに笑顔を作り返した。
それ以上の会話はない。それ以上続けても、互いの気分を害するだけだと、それなりに長い付き合いでわかっているからだ。
この環境下では、皆自分のことだけで手一杯で、人に笑いかけられる程余裕のある人など殆どいないため、こればかりは仕方のないことだが、この倉庫は極端に笑顔が少ない。心からの笑みを目にすることなど滅多にない。だから、楓のこのニカッとした笑顔が一層輝いて見える。さながら、コンクリートのヒビに咲く花のようだ。
彼女は良い言い方をすれば元気、棘のある言い方をすればガサツだ。だから口が悪かったり粗雑なところもあるが、私は笑顔が輝かしい彼女が嫌いではない。
楓は前に向き直ると、そのまま何も言わず進んでいった。私も当然後を追う。
二〇三番の姿は、偶然死角にいて見えなかった。
「看守長。お連れ致しました」
「入れ」
楓は扉をノックすると、中から返事が聞こえてから入室した。
連れて行かれた先は、職員棟にある一室だった。扉に『応接用1』と札が貼られていたそこは、黒色を基調とした部屋だった。
中心には、向かい合って置かれた二つの革製のソファ、壁には絵画なども飾ってあり、他の部屋とはまるで趣が異なる。有り体に言えば、上品な部屋だ。
その中には私達より先に、糊の効いたワイシャツに身を包んだ中年の男性が二人いた。
一人は左のソファ前に立ち、もう一人は対となる右のソファに腰を下ろして二人は顔を合わせていた。左の立っている、灰色の髪に眼鏡をかけた方は看守の中で一番のお偉いさん――看守長と呼ばれる方だが、右の小太りで薄毛の方は見覚えのない顔だ。
ただ、もしかしなくても彼は今回の顧客だろう。
楓の言葉――お客様がおいでになった――これはすなわち『買い手が我々商品を見繕いに来た』という意味だ。この部屋で私と二〇三番を見定めて買うかどうか決めたり、交渉や取引をするのだ。
人身売買といったら仮面を付けた怪しげな人たちがやってそうな、闇オークション的なものをイメージする者もいるだろうが、実際はそんな仰々しいものではない。
人の購入は、車の購入と似たものだと言われている。買い手が商品を吟味して、売り手と話し合って購入するか判断する。
値段が高いだけで、人身もごくごくありふれた購買品だと言えるだろう。
「――――」
私と二〇三番は楓に続いて入室、看守長の後ろに一列で並ぶと、楓が恭しく一礼した。金糸のポニーテールが波打つのを横目で見つつ、私と二〇三番も倣ってぎこちなくお辞儀した。すると、直後にこちらとは比べ物にならない程深く礼をした人物がいた。
看守長だ。
彼はおっかなびっくり頭を上げると、緊張しているのか、微かに震える硬い声を出す。
「では、改めて山中様。本日はご足労いただき誠にありがとうございます。大変恐縮でございますが、只今社長や商業部が皆出払っておりまして、代わりに本日は私奴が商品説明を致します。申し訳ございません」
彼はもう一度深く頭を下げる。彼の過剰なまでに恭しい態度を見て、私は驚いた。
看守長もそれなりに高い地位の人間で、何よりそれを鼻にかけている節があった。普段から誰に対しても威張った態度を取り、誰かに頭を下げるなど言語道断。その彼がここまで畏まるのだから、相手は相当偉い方なのだろうか。
「頭を上げよ。そう謝ることではない。私が無理を言って急に押しかけたのだから」
「ご厚意、痛み入ります」
お客様――山中様が腹の底から出したような重厚な声で言うと、看守長はまたもや頭を下げる。
こんな妙な形で、今回の商談は始まった。
商談自体は通常のそれだった。
まず、私と二〇三番の年齢、身長体重、健康状態、病気の有無、特別な技能の有無などを看守長が説明する。続いて、つなぎをひん剥かれ、後から部屋に入ってきた白衣姿の研究者風の男に、念には念をとばかりに体を隅々まで調べられた。最後に、看守長と山中様の間で素人にはよくわからない商売のお話がされた。
こうした流れを踏みながら進んでいった商談だが、私は自分が買われないことを確信していたため、話には集中せず漫然と過ごしていた。
ただ、ちょうど全裸で体を調べられていた時、ふと気になって二〇三番の方を確かめてみた。すぐ隣で、同じく一糸纏わぬ姿の彼は、私の予想通り私の方は見ていなかった。
彼は、正面の一点をじっと観察するように見つめていた。視線の先を追うと、そこにはこの部屋唯一の窓。曇ガラスのそれには、黒く塗られた細い鉄格子が、部屋の内側に飛び出すような形で取り付けてある。とてもではないが堅強そうには見えないうえ、壁に直接刺さっているのではなく、後から取り付けた風の鉄格子だった。
何度かこの部屋には来たことがあったが、今まで意識すらしたことなかったその鉄格子。二〇三番はそれが気になるのだろうか。そう思いつつ無意識の内に彼を見つめていると、視線に気がついたのかこちらに顔を向けた。
裸の男女の視線が交わる。
私は今更何も思わないが、彼はそうではなかったらしくすぐに目を逸らした。それがなんだか子供みたいで、私は含み笑いしながら再び前を向いた。
そんなこともありながら、三十分程で商談は無事に終了した。結局、私と二〇三番はお眼鏡に叶わなかったらしく、どちらも売れなかった。
「自部屋に戻れ」という看守長の指示があり、行きと同じく楓に連れられて応接用の部屋を出る。その時、部屋の前で列をなして待っている五人程の商品とすれ違った。
初めに見てもらった私達が売れなかっただけで、商談はまだ続くようだった。
「昼ごはん、すぐ持ってくるから待ってな」
「ありがとうございます」
部屋に戻ると、掛け時計の針は十二時半を指していた。
鍵が雑にガチャガチャと閉められると、楓の揺れる金髪が鉄格子の裏へと隠れていった。部屋の中は、もう随分と見慣れた顔の彼と二人だ。ベッドの梯子を登っていると、ブツブツと独り言が聞こえてきた。当然、鉄格子に向かって胡座をかいている彼の声だ。
「鍵は黒髪の奴と同じ場所か――」
「どうしたの?」
梯子を登りきり、掛け布団の上にどっかりと腰を下ろしてから聞く。
妙な奴だ、とそれだけで片付ければ良いものだが、不思議と聞かずにはいられなかった。
「あれ、声に出ちゃってたか」
返ってきたのは、案外呑気な声だった。まだまだ抑揚も力もない声だが、ほんの少しだけ色が加わった気がする。初日以降まともに会話を交わしていなかったため気付かなかったが、知らぬ間に気分が晴れる出来事でもあったのだろうか。
「うん。何かあったの?」
「いや、何も」
彼は鉄格子の方を向いたまま素っ気なく答える。だが、流石に嘘だということくらいはわかった。私は努めて声のトーンを上げ、雑談の話題を振るように軽く尋ねる。
「嘘だぁ。何か良いことでもあった? 鍵がどうとか言ってたけど」
無視された。だが誤魔化されると逆に気になってしまう。
「それにほら、窓、あの部屋で窓の方じっと見てたでしょ? 何、あそこから逃げたいなぁとか考えてたの?」
「おお、よくわかったな」
「ぇ……?」
ほんの冗談のつもりだった。久しぶりに楓の笑顔を見て陽気になれたし、彼も陰鬱な空気は纏っていなかったから、たまには冗談も悪くないと思って口に出した。
だが、返ってきた予想外の肯定に思わず唖然としてしまった。
「『あそこならいけそうだ』って思ってた。さっきはちょうど、あの金髪の看守といつも来る黒髪の看守とで、部屋の鍵をカバンの何処に仕舞うかに違いがあるか調べてたんだ。どうだ、看守にチクるか?」
そう言って、肩越しにこちらを向いた彼の顔は、真剣そのものだった。
いや、いつもの無表情か? 違う。目が、目だけが真剣だ。
表情全体は疲れ切ったように力が籠もっていないのに、睨んでも細めても見開いてもいないその両目には、妙な力強さがある。錆びついたような茶色の虹彩に巻かれた、海より暗く闇より深い真っ黒な瞳孔。その瞳の中心に呑み込まれるような感覚に陥った。
その感覚を振り払い、俄然、咎めるような態度で問う。
「いや、いちいちチクらないけど。あんた、本気で言ってるの?」
「ああ」
対して彼は平然と答える。声はちっとも本気には聞こえない。だが彼の目が、彼が本気であることを何よりも雄弁に語っている。このままだと、彼は本当にやりかねない。
「馬鹿じゃないの? 現実的に考えて。ここから逃げるなんて――」
「静かにッ。看守に聞こえるだろ」
「……ごめん」
小さな声で窘められ、自分がついムキになって大声を出していたことに気がついた。私は声量を控えて、囁くような声の出し方で説得を続ける。
「でも、ここから逃げるなんて無理だよ。ここの監視が凄い厳しいことくらいもうわかってるでしょ?」
「ああ」
「じゃあ諦めな。それに、それこそこんなことが看守にバレたら」
「まずいだろうな」
「まずいなんて話じゃないよ。前に脱獄失敗した人がどうなったか知ってるの?」
彼は首を横に振る。
「見せしめに商品皆の前で、縛り付けられて生きたまま犬に食い殺されたって」
「そうか」
「そうかって……」
返ってきたつまらなさそうな呟きに、私は右手で額を押さえ、呆れを一切隠さず大きな溜息を付く。
どうやら、本当に脱獄が可能だと思っているらしい。そして脅しても無駄ときた。
「はっきり言うけど、脱獄なんて絶対成功しない。悪いことは言わないから、諦めな」
「……お前の意見は端から求めてない」
改めて念を押したが、やはりというべきか彼は頑なだった。最後は逃げるようにそう言って、鉄格子の方に向き直った。
途端に沈黙が流れ込んだ。無意識に息を呑んでしまうような、重くて苦しい空気が立ち込める。静かなのに、その重い無音が耳の中で響いて聞こえて、周囲の音が全く耳に入らない。何か危険なものを前にして警戒しているような感覚で、酷く落ち着かない。
そんな空気の中を、不釣り合いにも快活な女性の声が響いた。
「はーい、これ昼ごはんな」
楓だ。近付いてくる足音すら耳に入らなかった。
「……あ、っりがとうございます」
「ここに置いておくからな」
そう言って、しゃがみ込んだ楓は鉄格子の間に腕を通し、部屋の床に弁当箱を二つ置くと、すぐさま身を翻し、急ぎ足でここを後にした。
二〇三番は弁当箱を持って下段のベッドに戻る。私は下から聞こえてくる布の擦れ合うガサゴソという音に耳を撫でられながらベッドから降り、弁当箱を拾ってベッドに戻ろうとした。
ベッドの脇を通った時、ふと気になって下段にいる彼の方に目を向けた。
初日に看守から貰ったジャケットを、毛布のように使って身を包み、ベッドの奥の方に座って壁に背を預けていた。彼は弁当箱から箸で唐揚げをつまみ出し、一口齧った。すると、その表情筋の死んだような顔を若干曇らせた。ただ、それも一瞬のこと。すぐに何を考えているのかさっぱりわからない死んだ面に戻り、彼は弁当箱に蓋をして傍に置いた。
「何見てるんだ」
「ごめん」
気付かれていたらしい。
彼は俯いたまま、いやたぶん弁当箱を睨んだまま重い声でそう言った。私はとっさに謝り、いつも通り梯子を登っていった。
それにしても、彼は何故、あんなに寒そうにダウンジャケットで身を包んでいるのだろう。
今日は結構暖かいのに。
倉庫に来てから一週間程が経過した。
が、これと言って大きな変化はなかった。
宗二は商品として買われなかったし、脱走の糸口が見つかった訳でもない。人間関係で言えば、件のサピエンス男はあの日以来一度も話し掛けてこなかったし、勝とは特段関係が進展した訳でもない。
ただ、大きな変化はないものの、この倉庫について、そして勝について、新たに知ったことは幾つかある。
まずはこの倉庫の所在地だ。
ここは宮城県と山形県の間、奥羽山脈の山奥にあるらしい。すぐ南西には大きな町が二つ、少し離れた位置だが北には小さな町が一つあるらしい。
次に、倉庫と、倉庫に付属する建物の構造だ。
おおよそは把握した。把握したことで、脱走の難易度が非常に高いことを改めて認識した。
脱走を見くびっていた訳ではない。だが、ここの構造や看守の配置を覚えれば覚える程、ここの監視体制が如何に抜け目のないものなのかがわかってしまう。
正直、未だに成功しそうな脱走策は一つも考案出来ていない。もっとも、諦める気もそうそうないが。
後は、勝についてだが、素性や宗二と交友を持った経緯は未だ不明。勝も宗二のそういったところには踏み込んで来ないし、こちらも踏み込まない。
運動の時間に、勝が一方的にどうでもいいことを冗談めかして話し、宗二がそれに無表情で相槌を打つ。彼我の間にあるのは依然としてその程度の関係だ。
ただし、勝について知ったことが一つだけある。
彼がここに来たのは、四ヶ月程前らしい。
「最初は『人身売買』とか『お前は売り物になった』って聞いてどんな酷い場所に入れられるんだろうと思ってたけど、来てみたらなかなかどうして悪い場所ではなかったよね」
「なかなかどうして……?」
こんな会話もセットだった気がする。
この勝の感想には賛成だ。
宗二も駿から売り物になった事実を聞いた時、一番初めに想像した光景は、奴隷のように首輪を付けられ、人間の掃き溜めに放り込まれるような最悪なものだった。
だが、実際倉庫に来てみたらそんな惨い扱いはされなかった。むしろ健康的な生活をさせてもらっている。衣食住は満足に与えられているし、ましてや枷や首輪を付けられている訳でもない。これらの健康的な生活が、単に商品の質を保ち、なるだけ高く売るためのものだというのは、なんとも忌々しい話ではあるが。
ともあれ、生活において不満な点を挙げるならば、トイレを自分がするのも八七番がするのも居た堪れない気分になることと、ここに来てからやけに寒いことだ。
前者はどうしようもないとして、問題は後者だ。
ここの気候、異常に寒くないかと勝に聞いてみたのだが――
「寒い? そうかなぁ。僕はそうでもないけど……」
寒いと感じるのは、どうやらここの気候の所為ではないらしい。
夕方。太陽が山の向こう側に隠れて、倉庫全体が薄影に覆われる頃。運動の時間が終わり、シャワーを浴びた宗二は、ダウンジャケットをしっかりと着込んで自部屋に戻っていた。
暖色に照らされた通路を、寒さに肩を震わせながら進む。一歩進む度に、裸足の裏に凍ったような床の冷たさが伝わってきて痛い。
と、その前に――
「なんでお前がいるんだ」
宗二の部屋の方に向かっているのに、隣には何故か小太りの男――勝がついて来ている。彼は平然と答える。
「え? ただ宗二くんの部屋見たいなって」
「そんな理由で寄り道していいのか」
「たぶん普通に怒られるけど……、でも楓さんになら怒られても、それはむしろご褒美だからいいかな!」
「いや、誰だよ。……まあ怒られるとしてもお前だけだからいいか」
宗二が諦めたように溜息を付いたのと同時だった。対面の壁に簡素な造形の時計が掛けてある部屋に差し掛かった。その針は四時半を指している。
「着いた。俺の部屋だ」
「なるほど、ここね」
部屋の鉄格子の前で足を止める。勝は丸い眼鏡を掛けたその細い目で、興味深そうに宗二の部屋の中を右から左に覗いていくと、
「あ、なんだ! 八七番いるじゃん! 彼女と同部屋だったなら先に言ってよ!」
左奥の二段ベッドの上段。その上に座る濃藍色の髪の女に視線を留めて、そう叫んだ。
「二人、知り合いだったのか」
「そうそう。ちょっとの間だけだけどね」
鉄格子の方を向いたまま勝はそう付け加える。
二人が知人同士であることに少し驚きはしたが、同じ倉庫で何ヶ月も過ごしていたらきっと自然と交流も生まれるものなのだろう。
「八七番! 元気にしてた? 宗二くんとはそっちの方、上手くやれてる?」
勝は嬉しそうに上ずった声でそう尋ねる。だが、八七番は露骨に嫌そうな顔をして、口は聞かずにそっぽを向いた。
「ちぇ、相変わらずつまんない奴だなぁ」
不満そうに舌打ちした勝が、唇を尖らせてぼやく。その様になんだか違和感を覚えたのも束の間、
「おい、お前達何してる。早く部屋に戻れ」
直後に、巡回で通り掛かった黒髪黒目の看守に厳かな調子で注意された。
「すみません、すぐに戻ります。じゃあ、僕は自分の部屋に戻って読書でもしておくよ」
「ああ」
勝の不満そうな態度は一瞬で霧散した。彼は看守に丁寧に頭を下げると、今度はこちらに顔だけ向けて、俄然いつもの穏やかな様子でそう言う。最後にちらりと87番の方を一瞥し、そそくさと来た道を戻っていった。
八七番は依然としてすぐ横の壁の方に、しかめた顔を向けたままだった。
「――――」
黒髪黒目の看守に部屋の鍵を開けてもらい、シャワーを浴びた直後なのに既に冷え切ってしまった体を部屋に入れる。ガチャッと鍵が閉まり、看守がいなくなってから、宗二は一人佇む便器に向かいながら気になったことを聞いてみた。
「お前、勝と知り合いだったんだな」
「まあ……そうね」
最悪だったと言わんばかりに嫌そうな声だ。
「一時期あいつと相部屋だったの」
八七番はそう言って自分の肩を抱いた。
彼女の顔が変わらず壁の方に向いていることを確認してから、宗二は尿を足す。そして、チョロチョロという水音を聞きながら考えた。
これはチャンスなのではないか。八七番と勝が旧知なのであれば、八七番は勝について何か知っているかもしれない。上手くいけば勝についての情報を聞き出せるかもしれない。
だから、彼らの関係について不思議に思ったことを尋ねてみた。
「相部屋だったにしては険悪な雰囲気だったけどな」
「私、あいつのこと嫌いだから」
投げ捨てるような口調。やはりかと思いつつも、とぼけたふりをして続ける。
「そうなのか」
「うん。でもそれ以上に、あいつは私のことが嫌いなんだと思う」
「勝がお前を?」
そこで一度切り、つなぎのズボン部分を持ち上げて腰のチャックを閉めた。そして八七番の顔が見える位置――鉄格子の方に、摺り足でゆっくりと移動しつつ尋ねる。
「そうは見えなかったけど……。というかむしろ馴れ馴れしく見えたけど、どうして」
「そう見えるだけ。だってそもそもあいつは、やる気がある奴としか仲良くならないの」
「やる気って、何のだ」
「脱獄の、だよ」
――脱獄。その響きに顔からサッと血の気が引いて、肝が冷えた。思わず硬直しそうになったが、それを表には出さず移動を続け、ちょうど鉄格子の傍に座り込む。
「だからあんたみたいに進んで脱獄しようとする奴とは協力するの」
ベッドの方を向き、見上げるように彼女の顔を覗き込んでみたが、そこに宿る感情は推し量れなかった。
だが、それ以前に――
「おい待て。俺は勝に脱走のこと何も話してないぞ」
これは事実だ。勝の真意がはっきりするまでは、脱走をほのめかすような発言すらしないように心掛けていた。脱走したい旨を伝えたのは八七番相手だけだ。
ということは、まさか――
「お前、言ったのか」
「言ってないよ」
「嘘だ。なら、どうしてあいつはわかったんだ」
「直接言わなくても、なんとなく分かるものだと思うよ。サピエンスなのに、あんたみたいにフォーティスに対して強気な態度取れる奴なんて滅多にいないからね」
「――――」
それだけでは腑に落ちず、眉をひそめて押し黙る宗二。それを説得するのは無理だと、或いは面倒だと思ったのか、八七番は投げやりな調子で結論付ける。
「まあとにかく、あいつはあんたなら脱獄の力になりそうだって判断したってことだよ。たぶんね」
「そうか」
勝は俺が脱走に使えそうだと思ったから仲良くなったのか。俺が勝に近付いた理由を全く同じじゃないか。
だが、この人伝に聞いただけの話を鵜呑みにし、彼を完全に信用する訳には行くまい。『脱獄』という単語は、ここに来た誰もが食いつきそうな、如何にもな釣り餌だ。勝に頼れば脱走できるかもしれないと噂を流すことで、勝に近付く、脱走を計画している商品を暴き出す目算なのかもしれない。
「――でも逆に、私みたいに諦めてるやつは足蹴にしてる」
勝手な憶測に耽る宗二は、八七番の声で我に返った。
だが、次に聞いた言葉に、自分の意識が本当に現実に戻っているのか疑うこととなった。
「あいつは私に性奴隷である事以外には何も期待してないから」
「え?」
性奴隷? 聞き間違いだろうか。
「なんでいきなりそんな物騒な……」
話の方向性が読めず戸惑う宗二に、八七番は呆れたように右手で額を押さえる。
「まさか、私のこと何も聞いてないの?」
そう聞きつつ、八七番は初めて宗二の方に顔を向けた。視線が交わり、宗二はこくりと頷く。
「私は処女じゃないから売れる見込みがないの」
「ん? 処女じゃないとなんで売れないんだ」
「はぁ? あんたそんなことも知らないの?」
信じられないとばかりに特大の溜息を付く。
「女の商品って、余っ程美人でもない限り、処女じゃないと商品価値がゼロなの。皆その目的で買われるから。でも私はここに入った時には既に処女じゃなかったから、これまでもこれからも売れることはない」
「そう、なのか」
「そう。だから他の使い道として、ここの男どもの性の捌け口にされた。それで男と同じ部屋に入れられてるの。その所為であいつと一時期相部屋だったし、今回あんたと相部屋なのもそういうこと。あんたみたいに襲ってこない男なんていうのは珍しいけどね」
宗二は押し黙った。
「一生ここで、欲の溜まった男どもの相手をするのが私の運命って訳」
八七番ことは何も知らない。過去に何を見て何を聞いて何を感じて、何を考えて生きてきたか、宗二は一切を知らない。でもほんの少しだけわかった気がする。彼女がトイレを見られても平気な顔をしていたり、いつも投げやりな態度を取っている理由が、何となく。
たぶん、もう諦めているのだ。
数奇な未来を前にして、戦うことも逃げることも、何もかもを。
「まあでも、売れたら売れたで、また別のところで男の相手をしないといけないのがオチだから、正直どっちでもいいんだけどね」
殊更軽妙な調子でそう言った彼女は笑ったつもりなのだろう。でもその情けない顔は笑っているようには見えなかった。
宗二には泣いているようにしか見えなかった。
宗二はそれ以上見ていられなくて、静かに目を背ける。
目線をやった先は、ポツリと置かれた和式便器。意味もなく、暫くぼーっと、真っ白に清掃されたそれを眺めていた。
八七番に対して何を思ったのか、宗二自身にもよくわからなかった。
外では、薄闇の中を、雪が音もなく降り始めていた。