第四話「喪失・4」
夏の夜。開け放たれた窓から吹き込む涼しい風が、耳をくすぐる優しい虫の奏と、鼻孔を通り抜ける澄んだ香りを運び込む。一足早くやってきた秋の風物詩に心が安らぐ。
そんな部屋の中では、家族三人がソファに並んで腰掛け、テレビに映る安っぽいホラー特集番組を見ていた。
「ねえパパぁ。これぜんぜんこわくない」
左に座る父に言うと、彼は「そうかそうか」と温かい笑みを浮かべる。背伸びしているだけだと思われたのだろう、微笑ましいものを見るようなそれだった。でもこの発言は強がりではなく、ホラー番組が怖くないのは本当だった。
「じゃあ、パパがとっておきの怖いお話、聞かせてやろうかぁ?」
父は戯れるように、がおーと両手を怪獣のように構える。すると「聞いてらっしゃい」と右側に座る母に優しく髪を撫でられた。
とっておきの怖い話、聞いてみたいと思い喜色満面で頷くと、父と共に寝室へと向かった。
「怖くてお漏らししちゃ駄目だぞ?」
「しないもん!」
部屋の電気を消し、幼児用の小さな布団に二人で頭から潜る。
当然、父の尻より下は布団からはみ出ていたが、気付かなかったのでなかったこととしよう。
微笑ましい父子の遣り取りの後、父の怪談はこんな冒頭から入った。
「これは昔々、とある悪い悪い悪魔のお話――」
山に住むと言われる悪魔は、その赤い目で人の心を読むことが出来たそうだ。
その悪魔は、時折人里に降りては人の心を読み、戯れにその人の一番嫌がることをして人を弄んでいた。
ある人は真心込めて育てていた家畜を食べられ、ある人は誰にも知られたくなかった秘密を村中に言いふらされた。
そしてある人は、最愛の家族と離れ離れにさせられた。
弄ばれた人々は悪魔に恨みを抱き、自分たちの味わった苦しみを味わえと、されたことをそのまま悪魔に仕返した。
悪魔の食料を奪い、悪魔の悪い噂を国中に喧伝して回り、悪魔の眷属を誘拐して遠くに連れ去った。
だがそれらをされた悪魔は怒りも悲しみもしなかった。いや、それどころか……。
最後には怨恨の募った人々に、家に火をつけられた。しかし、赤々と燃え崩れる我が家を見て悪魔はこう言っていたそうだ。――「楽しい」と。
人を弄ぶ時も、報復を受ける時も、亡くなるその時まで、悪魔はいつも――無邪気に笑っていたそうだ。
話はそう締め括られた。
最後まで聞いても悪魔のことは理解出来なかった。なのに、いや、だからこそだろうか。
気がついたら、怖くて泣き出していた。
◆
淡い暗闇の中を、ふわふわと浮くような、或いは何処までも沈むような微睡み。体が水の中を揺蕩うかのようだ。一際激しくふわっと浮いた感覚の直後、ガタンという音と共に背中が硬い物に打ち付けられた。
その衝撃で意識が目覚める。覚醒したはいいものの全身が気怠く、思考も撹拌されたかのように混濁していて気持ちが悪い。
後頭部と背中に伝わる小刻みな揺れ。おそらく乗り物に仰向けで寝かせられているのだろう。揺れの所為で気持ち悪さが増幅させられている気もするが、それはいいか。
益体のない考えは捨て、重い瞼を無理矢理持ち上げて目を薄く開けると、そこに映ったのは知らない天井だった。
「何処だ、ここ」
宗二の身長程の高さの天井に、左右の壁にはいかにも車らしい窓。外は闇色のベールに覆われていて何も見えない。バンかワゴン車の中だろうかと上体を起こしながら振り向くと、運転席と助手席が見える。後部座席は倒されているのか存在せず、運転席より後方は、後部座席のあっただろう部分とトランク部分とが繋がった、だだっ広い床となっており、そこに宗二は寝かされていたようだ。
ここまで聞くと、ただ後部座席を倒しただけの大型車の車内だが、致命的に通常の車と異なる点がある。
それは運転席とこちらの間に堅強そうな鉄格子が嵌まっていることだ。
そう、一目見てわかった。――これは人を幽閉して輸送するための車だ。
「駿さん、これはどういうことですか」
責め立てるような強い語気で、運転席でハンドルを握る女性風の彼――駿に問う。彼はバックミラーでこちらを確認すると、如何にも演技臭い感じで、
「んー? 起きてたの?」
と気遣わしげにその垂れ目を丸くした。
宗二は現状に困惑しながらも、駿に質問をはぐらかされたことは理解でき、何故今そんな態度が取れるのかと、腹が熱くなるのを感じる。
「どういうことだって聞いてる!」
立ち上がって、運転席との間にある鉄格子に掴み掛かり、声を荒らげる。しかし駿は怒声を浴びせられても気にした素振りを見せず、むしろ嬉しいとばかりに目を笑わせた。
「どういうことって何がぁ?」
「どうして突然俺を気絶させて、こんな車に乗せた。こんなのまるで……」
「まるで?」
――誘拐ではないか。言外の意味は伝わったようで、駿はからかうような調子で笑う。
「どういうことって、そんなの言わなくても、本当は大体察しちゃってるくせに」
「――クッ」
返す言葉がなく、宗二は悔しげに唇を噛む。
駿の言う通りだ。ここまでの経緯と、この車の内装を見れば否応なしにも理解してしまう。そして、そもそも気絶させられる前に、本当に駿を信用して良いのかと疑念を抱いたのは宗二の方だ。まさか南政府に連れて行くために、わざわざ気絶させて檻に閉じ込めるなんてことはしまい。具体的な行き先は不明だが、きっと良くない場所に連れて行かれる。
つまるところ――
「駿さんは、俺が傷心中だってことに付け込んで、美味しい餌で俺を釣って、まんまと騙されて食い付いた俺を拐かしたん、ですか……?」
「まあ、大体当たり! よくわかったじゃん!」
子供を褒めるような明るい調子だった。
宗二は現実を受け入れられず、「嘘だ……」と愕然とする。
酷く噛み合わない奇妙な空気感。だが駿はそれこそが良いとばかりの表情だ。
駿は飄々として不思議なところもあったが、サピエンスである宗二にも親しく接してくれる人物だった。普段から嫌な顔ひとつせずに相談に乗ってくれるような、気安い間柄だった。
「今日だって、喧嘩から助けてくれて、怪我がないか心配してくれて」
未曾有の事態に遭って心に穴が空いた宗二に温かな手を差し伸べてくれた。拙いながらも敬語を使おうと思う程心から尊敬していたし、これまで出会ったフォーティスの中で唯一心を許せた相手だった。
そう、彼は、彼だけは、他の奴らとは違うと思っていたのに。
なのに、笑顔で宗二を誘拐するような人だったなど――
「有り得るはずがない」
手に負えず綯交ぜになった感情に、どうにも出来ないやり切れなさが全身を支配する。それがもどかしくて鉄格子を握り締めようとするが、力が入らなくて弱々しく掴むだけになってしまった。
次は、今の駿に、記憶の駿の面影を見出したかったのだろうか。自分でも理由よくはわからない。ただ必死に何かに縋りたくて、バックミラーに映る駿の目を見やった。
けれどもそれが失敗だった。『それ』を見て、宗二は凍て付いた。
宗二が蒼白な顔でブツブツと何かを唱える様を見る駿の目は、宗二の脳裏に焼き付いて離れないあの目と同類だった。
『――死んでるのになあ』
三日月に細められた悪魔のような目に、『百万亭』での記憶が重なる。
やめてくれ。その無様なものを嗤うような、忌々しい笑顔を。駿がその顔をしているのは見たくない。宗二は心の何処かで無駄だとはわかっていながらも、重なる面影を否定してほしくて声を荒げる。
「嘘だって言ってくれッ! 駿さん!!」
「ごめんねぇ。僕は嘘はつかない主義なんだぁ」
「嘘をつくなッ! 俺を南政府まで逃してくれるっていったじゃねえか! 嘘つかないってんなら――」
「そんなことは言ってないよ?」
「は?」
言われた意味がわからない。
「僕は『ここから出してあげる』って言っただけ。それを都合のいいように解釈したのはそっちでしょ?」
当惑する宗二を諭すように、駿はまるで自分が正しいことを言っているかのような、悪びれない物言いで語る。
「でも、南政府への入り方知ってるって――」
「うん、知ってるよ? 教えるとは一言も言ってないけど」
「はぁ? 何だそれ」
ただの屁理屈じゃないか。宗二もいい加減鬱陶しさを覚え、苛立ちが募ってくる。けれども、またしても駿はその反応を面白がり、
「怖い怖い、ただの言葉の綾なのになぁ」
と目は笑わせたまま唇を尖らせる。
「目的は何だ。何のために俺を連れ去るんだ」
「目的、ねぇ。んん、楽しそうだったからぁ?」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
「そりゃもちろんわかってるよ」
「なら、答えろ」
「んん、じゃあ、そうだね。趣味? うん! 趣味だ!」
「は?」
まさに暖簾に腕押し。宗二の質問をのらりくらりと躱す駿は、それこそ趣味に興じるように、随分と楽しそうだ。
「駿さんは、趣味で人を誘拐するのか?」
「ああ、確かにそれはちょっと変か。じゃあ、趣味であると同時に仕事だ! 所謂、趣味を仕事にしたってやつかな?」
ぺろっと舌を出しておどけてみせる。
「仕事だと?」
仕事――その単語が妙に引っ掛かり、何かを思い出そうと冷静になりかけたが、
「そうそう、仕事仕事。生憎と何処の世も、仕事しないと生きていけないからねぇ」
そう言う駿の、見透かすようなにやにやとした笑みを見て、嫌悪感が再燃した。人を弄ぶような真似などしない人のはずなのに、宗二を手玉に取る彼からはいつにない充足感が迸っている。その姿がどうしても、常日頃から見てきた、サピエンスを嘲弄するフォーティスの姿と重なって見えてしまう。
「ああ、くそッ!」
それが歯痒くて、宗二が鉄格子に額をぶつけたのと同時だった。
バックミラーで宗二をちらりと一瞥した駿は、「あ、そういえば」と何か思い付いたような顔をして、正面を見据え直す。
「宗二くんの他にも逃亡しようとした人がいるって言ったでしょ? これから向かう先に彼らもいるよ」
ハッとして顔を上げる。聞きたいことは無尽蔵にある。でもその中から一つだけ選び、確認するような慎重な調子で尋ねる。
「……この車は何処に向かってる」
「人身売買の商品倉庫だよ」
ガタンと車が跳ねた。体が浮遊感に包まれ、しかし即座に重力に引かれて床に尻から落ちる。
駿に灯してもらった、宗二を導いてくれる温かな灯火。――胸中を光と熱でまろやかに包んでいたそれが、ドンと尻に走った鈍い衝撃で、すとんと、線香花火のように落ちて呆気なく消えた。――南政府に逃げる希望は潰えた。
「僕、商売やってるって言ったでしょ? それがこれ、人身売買。いい感じな子を見つけたら買うか拾うかして、それを今度はお金持ちに売るの」
「ああ、そうか」
良いフォーティスなど存在しなかった。
宗二の信じた良いフォーティス像は、他ならぬ駿によっていとも容易く踏み躙られた。
心の内では、駿も他のフォーティスと同様に宗二を見下していた。それだけに留まらず、モノ――金儲けの道具として見ていた。
彼だけは違うと、勝手に幻想を抱いていただけで、やはり性根は何処までいっても他と同じ、フォーティスだったのだ。
「だから、今から行く場所は、宗二くんみたいなうちの商品を保管しておくための倉庫だよ」
「はぁぁ……」
自身の職業と目的地をるんるんと語る駿に、宗二は疲れたように長い息を吐く。駿を信じたいという気持ちが消えたためか、溜息一つで彼への落胆と失望も嘘みたいに霧散した。
――人身売買。
舌の上で転がしてみると、なんと不思議。思わず吐き出してしまいそうな程不快な、濃い濃い憤怒の味しかしなかった。宗二の胸に残ったのはこちらを蔑み、嗤い、金儲けのために誘拐する下衆に対する憤慨のみ。
腹の底から湧き出す熱に思考が沸騰し始めたのと同時だった。信号待ちで車を止めた駿がこちらに振り返った。
「どうしたの? 僕の話そんなにつまらなかった?」
駿が今の宗二――信頼していた人に実は誑かされていたこととこれから売り物にされること、すなわち人を絶望させるのに十分すぎる程の事実を告げられた彼に、如何な反応を求めていたかはわからない。しかし、溜息一つで受け流されたのは流石に予想外だったようで、駿は訝しげに尋ねる。
その理由は、ちょうどその時宗二が自身の感情の整理中で、意識が内に向いていたというだけの話だが、当然駿にそれを知る由もない。そして無論、宗二が平穏かのように見えたのは表面上だけ。その胸中は穏当とは程遠いもので、目下も苛烈な感情が渦巻いていた。
「もうどうでも良くなったから、黙ってさっさと俺を車から降ろしてくれ」
宗二は沸き立つ思考を無理矢理冷まし、今度は努めて平静を装う。だが押し込んだだけで感情が消える訳もなく、内に孕む怒りが語気に滲み出てしまった。
「なんで急にそんな事言うのぉ?」
それを感じ取ってか、駿は食い下がる。
「……南政府に逃してもらえないなら、これ以上この車に乗ってる意味はない」
だが、宗二としては一秒でも早くこの車から降りたい。その理由は、この車の目的地を知り、乗り続ける意味がなくなったから――事実だが、そればかりではない。
より重大な理由は、彼の内面にあった。
駿の声を聞いて顔を見ていると、何なら同じ空気を吸っているだけで、吐き気にも似た嫌悪感が湧き上がってきて、身体がウズウズとし、暴れ叫びたい衝動に駆られる。
そのまるで自分の体が自分のものではなくなってしまったような感覚が、『百万亭』での記憶を呼び起こさせるから、不快で堪らないのだ。
だから会話の断絶と降車の許可を得ようと試みた。
しかし――
「えー、そんな悲しいこと言わないでよぉ。まだ僕はお喋りしたいのに」
駿が纏う悲しそうな空気は、まだ遊びたい子供のような無邪気さを孕んでいた。
「ふぅぅ……」
その歪な純粋さが忌々しくて、宗二は怒声を上げたい衝動に駆られたが、その気持ちを抑え、ゆっくりと深呼吸する。
きっとこれ以上何を言ったとて、駿は黙らないし降ろしてもくれないだろう。ならば頼るのはやめて自分で探すまでだと考えを改め、キョロキョロと車内を見回して自力で脱出可能な方法を探る。
「いやぁ、宗二くんを降ろす気はないし、自力で降りるのもサピエンスの力じゃあ無理だよぉ」
いつの間にか哀愁の消えた、平然とした声だった。宗二はそれを無視して立ち上がり、逃げられる可能性の高そうな、車窓の近くに歩み寄る。
どう見ても普通の窓に見えるそれを、いつの間にか血の付いていなかった綺麗な手で何度か叩き付ける。手が傷まないように手加減をした所為か、窓はビクともしなかった。
今度は怪我を覚悟でもっと強くぶつけるかと、肩を引いて拳を構えると、
「窓もどう頑張ったって割れないから、ほら、無駄な時間過ごして怪我する暇があるなら、僕とお喋りしようよ」
水を差されるが、宗二は黙殺する。
「それに、逃げれたとして、そこからどうするの? 冬の雪山の厳しさは、君が一番よく知ってるでしょ? だからそんなアホなことしてないで、僕と――」
「うるさいなぁ!」
頭にきた宗二は思わず声を荒らげてしまった。やってしまったと慌てて口元を抑える。
「おっ! やっとお喋りする気になった?」
駿は嬉しそうに笑う。今更無駄だろうと思いながらも、宗二は平静を装って無視を決め込んだ。
しかし次の駿の言葉を聞いて固まってしまった。
「じゃあここでクイズ! どうして僕は今までずっと宗二くんと仲良くしてきたでしょうか?」
突然の質問。だが確かに何故だろうと思ってしまい、思わず動きが止まる。
駿が事実、宗二のことを蔑視しているならば、そして昔からしてきたならば――
「ずっと俺に親しく接していた理由は何だ?」
急激に思考が冷める。
出会った当初から商品にするつもりだったならば、すぐにでも買うか今回みたく誘拐することは出来たはずなのに、何故今の今まで手を出さず、何なら信頼関係が構築される程対等に、在りもしない親しみをもって接してきたのだろう。
「今日だってそうだ。村のフォーティスと喧嘩になりそうだったところをどうして助けた。俺をただのモノとして見ていたなら、わざわざ助ける理由なんて無いだろうに――」
「はいはーい、タイムアップ~!」
思案げにブツブツと唱える宗二の声を、駿の明るい合図が遮る。彼は同時に車を止め、ハンドルから手を離して振り返る。
「では答え発表! 理由は二つあるよ。まず一つ目は当たり前のこと、どぅるどぅるどぅるどぅる……」
口でドラムロールの真似事をしてもったいぶる駿を睨み付けると、彼はお返しとばかりに笑顔でウインクをしてくる。宗二が舌打ちした直後だった、駿は「じゃじゃん!!」と言って、これまで宗二と親しくしてきた一つ目の理由を告げる。
「だって、大事な商品に傷がつくのはイヤでしょ?」
「――――」
それはそうかと納得すると共に、酷く不快な気分になった。
ちょうど駿との関わりを思い出していたからだろうか。これまで彼が向けてきた親しみの眼差しや言葉が、全て宗二という人にではなく、人身売買の商品に対するものだということが実感されたことで、怒りとはまた別種の、嫌悪感のような不快さを感じた。
ただ、駿は予想していた反応が得られなかったのか、首を傾げる。
「あれ? あんましインパクトなかった?」
「ただ只管不快な気分になっただけだ」
「えー、ならもうちょっと良い反応してよ」
「どうでもいいから、二つ目の答えは何だ」
正直、一つ目の理由を知って、聞かなければ良かったと思った。
今の駿だけでなく、記憶の中の駿にまで裏切られたような、記憶を黒く塗り潰されたような気分になったからだ。もっとも、ようなではなく実際裏切られてはいるのだが。
ともあれ、駿が宗二と仲良くしてきた一つ目の理由を聞いて後悔した。それなのに何故か、二つ目の理由を知りたいと思っている自分がいて、自然とそれを要求していた。
「まあそう焦らない焦らない。そうだ、二つ目の前に言っておきたいことがあるんだった」
「あ?」
変わらぬ調子で前置きをされ、しかし微かに空気が変わったのを感じた宗二は違和感を覚える。だがその呟きを無視して、駿は何気ない感じで告げる。
「君の母を殺す計画を立てたのは……」
ゴクリと固唾を呑んだ。さっと血の気が引いて、周囲の音が遠ざかる。
まさか……。
「――僕だよ」
音のない世界で木霊する、凶気の告白。
言葉に頭を殴りつけられたような気がした。
それ程の衝撃だった。
「は……?」
信じられないものを前にしたように目を見開き、金縛りにでもあったように固まる。この瞬間、思考も呼吸も、きっと心臓までも止まっていた。
そうやって驚愕の様相を呈する宗二を、告白の当人である駿が見ると、
「あははははははは――ッ!! そう、その顔だよぉ!!」
勢い良く狂ったような笑い声を上げた。この世で一番面白いものを見たと言わんばかりだった。
「いやぁ、もう最高ッ! この瞬間の、その顔を見るためだけに、僕はずっと君と仲良くして信頼を築いてきたんだからぁ」
高らかな声、紅潮した頬、そして何処か恍惚とした満面の笑顔からは、本当に待ちに待ったと言わんばかりの喜情が溢れ出している。宗二はそれを呆然と眺めることしか出来ない。
「その絶望した顔ッ! もう堪らないねぇぇ」
宗二は場違いにも、自分は今どんな顔をしているのだろうかなどと思った。
泣き顔だろうか、憤怒の形相だろうか、それとも変顔でもしているのだろうか。どんな顔にしろ、これだけ笑われるのだから、きっと無様で滑稽極まりないものであるに違いない。
「いやぁ、勘付かれて気絶させる羽目になった時はどうなることかと思ったよぉ。でもこうやって良い顔見せてくれたんだから僕は嬉しいよ!」
こちらに向けられる、陶酔したようにとろんと潤んだ目は、そこだけ切り取ればまるで恋する乙女のようだ。だが纏う気配から滲み出る、隠しきれない狂気がそれを否定する。
「やっぱり失意のどん底にいる人に光を見せて、ちょっと舞い上がったところをもう一回どん底に落とすのが一番楽しいんだから!!」
人をどん底に落とすのが楽しい……?
宗二にはその――
「意味がわからない……」
ようやく意識が現実に追いついてきた宗二が、しかし理解不可能な駿の狂った感性とぶつかる。
俺が絶望する顔を見たいから、ずっと演技して俺と仲良くしてきた……?
俺が絶望する顔を見たいから、母を殺した……?
「――本気で言ってんのか……?」
「ん? うん!」
何の感情からだろうか、小刻みに震える声で聞くと、快感の沼から顔を上げた駿は、目をとろけさせたまま無邪気に頷く。
「だけど、あれは母さんが抵抗したから刺したって……」
「いいや? 抵抗しようが抵抗しまいが、自由に犯した後は殺すようにって言ってあったから、関係ないよ?」
「は……?」
宗二は言葉を失った。
「そんなことより! 道路の真ん中で蹲る君を見て、笑い堪えるのほんとに大変だったんだからね?」
駿は再び自分の世界に潜り込んで、快感に浸る。
そんな中、宗二は妙に冴えた頭で、道路で蹲る宗二、その言葉から当時の状況を思い出していた。――あれは夜中、皆が寝静まって外には誰もいない時間帯だった。なのに、駿が『偶然』外出していて、『偶然』宗二を発見するなど……有り得ない。ならばやはり――彼の発言全てに信憑性が増す。
そして何より、今も見せている狂気の愉悦こそが、彼の狂言にこれ以上ない説得力を持たせる。
母を殺す計画を立てたのは、駿。
駿の指示で母が死んだ。駿の所為で母が死んだ。駿が母を殺した。
ドクンと心臓が鳴って、腹から湧き出した、どろりと黒いものが全身を巡る。
母を殺した奴が目の前にいる――殺したい。
殺したい殺したい。
憎悪に冒された体の感覚が変だ。焼けるように熱くて、熱すぎて掻き毟りたくて、なのに掻き毟ると痛くて、動きたくない程痛くて、なのに動きたくて暴れたくて殺したくて堪らない。
矛盾した、耐え難く気持ち悪い感覚、『百万亭』でも味わった感覚。それまで一度も覚えのなかった感覚なのに、どうすれば解消出来るか、知識ではない部分――本能が知っている。
――目の前の奴の喉仏を掻っ切って八つ裂きにして内蔵を引き摺り出して顔を叩き潰して四肢を切り落として焼いて灰にしてドブに捨てれば、この不快感は晴れる。
だから次に心臓が跳ねた時には、激情の赴くまま、衝動的に体が動き出して、運転席からこちらを覗く憎々しい奴に飛び掛かるはずだった。
憎悪は、意志や自制心でどうこう出来る代物ではない。それ故、自身の中にそれを止める手段などなく、感情の傀儡となった体が暴れ狂い、駿の命を刈り取りに行くのは必然だった。
必然のはずだった。
なのに――
「なんだ、この感覚は……」
体が動き出さないどころか、竦んだように縮こまって力が入らない。
頭の中は奴を殺したいという思いしかなく、体は憎悪の不快感に支配されていて、なのにそこで終わり。力が漲るような衝動――本来訪れるべき続きは訪れない。
言い方を変えれば、感情が溢れ出さないのだ。まるで何かに蓋をされ、感情が無理矢理押さえ込められているかのように。
「いやぁはぁぁ……」
中途半端な感情を胸に抱える宗二は、駿の狂気的な、吐息混じりの声で我に返る。
駿がこちらに向ける、まるで夢を見ているようなうっとりとした表情。正気とは思えないその様を見て、宗二は確信する。
今の駿は、これまでの態度や言葉が全て嘘だったのではないかと思う程、感情をありのままに表現し、生気に満ち満ちているように見える。
初めに、『百万亭』の長身男と似た悪辣さを見て取ったが、それは大いに間違っていた。
二者は似て非なるもの――一見すると似ているだけで、その性質は根本から異なる。
長身男は無法なことをする背徳感や、弱者を貶める優越感に浸っていた節があった。
その感性は宗二にも理解出来る。悪そうなことするのに憧れたこともあれば、自分のほうが他人より優れているという自己肯定感は快いものだ。
だが――
「今日は本当に気持ちいい顔を見せてくれたね、宗二くん! わざわざ君のお母さんを殺させた甲斐があったよ!」
『これ』はもっとおぞましい何かだ。
常人には理解し得ない何かに対して心の底から喜びを感じている。
とろりと溶けそうな陶酔した目。――異常なまでの快感。
正気とは思えない凶悪な言動。――得体の知れない感性。
人の絶望する顔、苦しむ様子を見る一瞬のためだけに、何年もその相手と親密な関係を築き、相手の母を惨忍なやり方で殺す。
それは同じ人間のすることとは思えない。
悪魔の所業だ。
理解出来ない。なのに、いや、だからこそだろうか。
――奴が恐ろしい。
「ああ、なるほど。俺は得体の知れないものに恐怖を感じていたのか」
溢れそうだった憎悪を堰き止めていたものの正体を自覚する。
途端に、魚眼レンズで世界を覗き込んだような、視界が歪んで広がるような感覚に、駿の姿が小さくなって、遠ざかる。声が遠く感じる。存在が遠く感じる。そう感じるのは、きっと二人がそれだけかけ離れた存在だからだろう。相容れない二人は、同じ空間に居ても、そこには超えられない程高く大きな壁が横たわっている。
気付けば、宗二は一人だった。車は再び走り出し、それからどれだけ時間が経っただろうか。ずっと遠くから、駿の狂喜乱舞する様を眺めていると、長く短い時の後、車は止まった。
「ありがとう! 後はうちの職員に任せるね!」
遠くから朗らかな笑顔と、すっきりした声が聞こえた気がした。バタンと、車のドアが閉められると、途端に耳が詰まったような感覚が抜け、やけに広い車内の静けさが耳を通るようになった。
その頃には、既に夜は明けていた。薄闇に少しずつ光が注ぎ込まれていく。車内にも薄っすらと光が差し込み、しかし浮かんだ影は一つ。
やはり、宗二は一人だった。
両手を縄で縛られ、職員とやらに引かれてやってきた先、雪に覆われた森の中にそれはあった。
灰色のトタン板が壁と屋根に張り巡らされた、如何にもという見た目の倉庫。比較対象がないため曖昧な感想になるが、宗二はかなり大きな倉庫だと思った。正面には重厚そうな両開きの引き戸、壁の高い位置には窓も付いている。
「ほら、こっちだ」
倉庫の扉に向かう職員の後を宗二は無言で追う。不意に、早朝の冷たい風に乗って、カーカーとの鳴き声が運ばれてきた。誘われるように振り返ってみると、灰色の森が広がる灰色の山、その奥から、白い空に太陽が立ち昇っていた。
白ばんだ朝焼け空に浮かぶ、三つの黒い陰。三羽の烏が悠々と翼を広げて、朝日に向かって飛んでいた。
何気ない朝。何気ない風景。
宗二が苦痛に打ちひしがれていようと、何処で誰が生きようと死のうと、今日も世界は至っていつも通り、何気ない顔で回っていた。
宗二もその端くれとして、毎日同じ世界に立って、同じ朝日を眺めてきた。そのはずなのに、今、目に映るものは、これまでと何処となく、本当にわずかに、それこそ壮大な景色に対して、小指の先程度だけ違っていて、しかしそれだけで全くの別物に見えた。
その感覚は、喩えるならば、他人や自分の成長や老いに気が付く瞬間のようだった。
『それ』の日毎の変化が微々たるが故に、普段は『それ』が変化していることにすら気が付かない。しかし、ふとしたきっかけから、その積み重なった変化に気が付くと、途端に『それ』がすり替わったように、今までとまるで別物に感じられるようになる。
はて、知らぬ間に変化していた『それ』が、世界のほうなのか、或いは……、そこまでは窺い知れぬが。
ともかく、ただ一つ確かなのは、今の宗二がこの景色を見て、答えのわからない間違い探しをしているような、酷く煩わしい思いをした、ということだけだ。
「おい、止まってないで行くぞ」
自由を縛る縄を引かれ、宗二は正面を向き直る。引かれるまま、朝焼けから逃げるように背を向けて、覚束ない足取りで倉庫の中に進んでいった。
第一章 - 終 - >> 第二章 入荷編