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映し鏡  作者: 馬刺しの良し悪し
第一章
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第二話「喪失・2」


 ありふれた民家のような外観とは裏腹に、『百万亭』の店内は、宗二の想像するところのキャバクラのような空間だった。

 妖しさを演出する淡い色の照明に、絢爛でないながらも何処か小洒落た壁紙や置物。甘くねっとりした雰囲気漂う空間には、出入口から見て正面に、黒く艶のある七、八人程並んで座れそうな大きさのソファが鎮座している。

 そのソファの上、数人のフォーティスの男に囲まれる構図で母はいた。


 破られた服で辛うじて下半身を隠した姿で、ソファに仰向けで寝る母。


 ――その胸には、血に濡れたナイフが深々と突き立てられていた。


「――ぁ」


 宗二は固まった。

 足が、視線が、表情が、呼吸が、時間が、思考が、魂が、固まった。

 目の前に広がる光景を理解できず、固まった。

 否、理解は出来た。こうなる可能性も考慮していた。だから、固まったのは理解できなかったからではない。

 こんなことがあってはならないと、全身が理解を拒絶したからだ。


 店内の全員の視線が集まる中、ただ一点を見つめて目を見開き、硬直する少年。その様相にどよめきが沸き起こるが、状況を理解した数名は口元を抑えてクスクスと嗤う。

 そんな中何かを感じ取ったのか、ソファに寝る母がごそりと身動いだ。天井に向いていた母の顔が店の出入口にいる宗二の方に向くと、おもむろに目が細く開いた。

 母と目が合う。その瞬間、緩慢に流れていた時間が急速に元の速度に戻った。止まっていた息を勢いよく吸い込み、弾かれたように母の元へ駆け寄る。


「母さんッ!」


 乱暴に破られた服が散乱する床。おぞましい量の血が染み込んだソファの上。取り囲むフォーティスの男たちを押し退け、薄らと笑みを浮かべる母の傍に膝をつく。


「宗二……来てくれたんだね……」

「母さん、血、血が……」


 今も胸の傷からドクドクと流れ出る鮮血に、宗二の顔から血の気が失せる。止血するために慌てて布を拾おうとするが、母の伸ばした手がそれを止める。


「母さん、なんで、早く、何とかしないと。そうだ医者を、医者を……よ、呼ばないと」

「もう遅いの。呼んでも……、到着する前に、私は……」

「嘘だ、そんなまだ、まだ何とかなるかも――」

「分かるの。だから、気持ちだけ、受け取るね……ありがとう……」

「母さん……。なんで、なんで……」


 真っ白になった頭で、ガクガクと震える顎で、しどろもどろに言葉を絞り出す。しかし、何処か諦めたように笑う母に、今にも消え入りそうな掠れた声で窘められ、宗二は崩れ落ちることしか出来ない。両手で顔を押さえ、力が抜けたように、血の染み込んだソファに顔を埋める。

 なんで、なんで……。

 それしか思い浮かばない。それしか出て来ない。なのに涙と嗚咽だけは止め処なく溢れて、手の表と裏がそれぞれ異なる、しかしどちらも温かい液体に包まれる。


「――――」


 緩慢な動作で、母は宗二の頭に手を伸ばす。力尽きそうな弱々しい手付きで頭を撫でられ、その手にまだ残る優しい温かさに、幼い頃よくこうやって頭を撫でられていたことを思い出した。

 髪を梳かされ、地肌を触れられる感覚がくすぐったくて、少し照れくさくて、でもここが心の安らぐ場所だと自然にわかるように気持ち良くて、心が寛ぐ。

 その安心感に、その心地良さに、その郷愁に、ずっとこのまま浸っていたい。この温かさが消えるなど、有り得ない。

 絶対に、有り得ない。

 あまりに理不尽に降り掛かった現実を、受け入れられるはずがない。


 ……だが、否が応でも現実に目を向けなければならない時は訪れる。


「坊主、なんでなんでって、そんなに何があったか知りたいのかぁ?」


 それまで一切の干渉をせず、ただ親子の遣り取りを見守っていた店内のフォーティス達。それが今になって、ソファの母に顔から覆い被さって同じ言葉を呟き続ける宗二に声を掛けた。

 おちょくるような軽い物言いに、宗二は我に返る。そして鼻水と血の混ざった糸を引きながら顔を起こし、おっかなびっくり振り向いた。手の横から覗かせる顔は悲哀に歪み、涙と鼻水と血がくちゃぐちゃに混ざった液体で、べっとりと濡れていた。


「おうおう、酷い顔」


 声を掛けたのは、フォーティスとしては細身だが身長が二メートルはありそうな、面長の男。彼は宗二の顔を見てそう言いながらも、表情はいいものを見たとばかりに愉しそうだ。


「どうだ、教えてほしいか?」

「やめて、くれ……」

「そうかそうか、教えてほしいかぁ」


 縋るように首を横に振り、声にならない悲痛な掠れ声を零す宗二に、男は白々しい演技をする。宗二の前に屈み込んで目線を合わせると、最大限もったいぶり、舐め回すようにじっくりと語り始めた。


「いやぁな? あんたのお袋美人だからさ、その体皆でシェアしたいねって話になった訳だ。だからここに連れ込んだんだけど、全然股開いてくれなくてな? もうそれは本当に頑なで、必死に抵抗するんだ。それがまぁた唆られる反応でさぁ。もう我慢できなくて無理矢理服破ってしようとしたら、あんたのお袋どうしたと思う?」


 問われ、宗二は絶望した顔で力なく首を横に振る。それは「もうやめてくれ」という意思表示だが、にやりと笑う男はその行動の意味を「質問の答えがわからない」というものに曲解した。


「オレの仲間のキンタマを蹴り上げたんだぞ? やばいよな!? なあ? 痛かっただろ、勇?」


 後ろに控えていた恰幅のいい上裸の男――勇に尋ねると、彼は「ああ」と答え、


「痛かったぜ。大事なもの潰されかけたからなぁ。こっちも大事な物潰し返すのは当然だろ?」

「そうだよなぁ。だから?」

「――刺した」

「どっちをだろうな!」と長身が言って、二人はガハハと笑い合う。


 まるで雑談でもするような、いや、実際彼らにとっては雑談程度でしかない。サピエンスの一人や二人殺すことなど、きっと彼らにとっては日常の一ページでしかないのだ。だから、母を刺した経緯を、刺した事実を、まるで何気ないことかのように面白可笑しく語ってみせる。

 宗二は何も言えなかった。凶悪な内容と軽々しい物言いがちぐはぐ過ぎて、とても現実の会話とは思えなかった。


 ――が、同時に自分の中で何かが壊れていくのを感じ取っていた。自分を構成する何かが、自分を支える柱のようなものが、音を立てて崩れていくのが。


「あーあと、あれ面白かったよな!」

「ん、何が?」


 思い出したようにその太い指を立てる勇に共感を求められ、しかし本当に何のことかわかっていないのだろう、男は首を傾げて聞き返す。周りの男達は、『あれ』を思い出したのか、ぶっと吹き出したり憎たらしい笑みを浮かべたりした。


「『宗一郎……そういちろぉ……』ってやつだぜ。忘れたのか?」

「あぁ! 思い出した!」


 勇の迫真の演技を見て、男は思い出したように手を叩く。


「最後まで抵抗しながら呼び続けてたなぁ、旦那さんの名前。ほんとにいつまでも一途でよろしいこと。だって、なぁ。旦那さんはもう――」


 そこで一度切り、男は再び宗二に向き直る。

 焦点すら合わず呆けた顔で固まる宗二に、正面から悪辣な表情を貼り付けて迫る。

 三日月型に目を細め、少しずつ口角が吊り上がり、嘲りに満ち満ちた上ずった声が世界に紡がれる。



「――死んでるのになあ」



 やけにはっきりとした声が頭の中で木霊する。悪魔のような笑みが目に焼き付き、上ずった声が頭の中で繰り返し再生される。

 ドクンと心臓が跳ね、腹の底から堪らなく熱くて苦しい何かが湧き出してくる。


「旦那さん、宗一郎……、父さん……。父さんがもう死んでる?」


 ――何を言ってる。

 無論、父が既に故人だということに疑いはないため、これは現実逃避などではない。男が、父の死が、ただの死であるかのような表現したことに対する感想だ。

 父はただ単に死んだのではない。戦争に行って、戦場で戦って、その果てに敵であるフォーティスに殺されたのだ。

 そう、お前達フォーティスが父を殺したのだ。殺した張本人のくせして、それを軽々しく、まるで他人事かのように語ってみせるなど何の冗談だ。


「ふざけるな……」

「――――」


 ドクドクと加速していく鼓動に、頭に血が上ったような感覚と共に耳鳴りがして、周囲の音が遠く感じる。故に、宗二は自分が呪詛を思わせる重々しい呟きを零していることにすら気が付かない。只管に、目の前で笑い続ける男に対して、どろりと溶けた赤い鉛に腹を焼かれるような感覚が酷くなっていくだけ。


「ふざけるなふざけるな……」


 先の戦争に負け、フォーティスが村に入り込んでから、宗二の人生は瞬きの間に暗転した。父の訃報が届き、平穏な生活はフォーティスに怯えて暮らすものに変わり、受けられて然るべき権利や自由も失った。

 どれもこれも、フォーティスに奪われた。忌々しい笑顔を浮かべるこいつらに奪われた。なのに、まだ飽き足らないというのか。

 俺の大切なものを、俺を支えてくれたものを、幾つ奪えば気が済むというのだ。

 挙げ句に、唯一奪われずに済んだ母にまで。


 母にまでッ! ――許さない。


 そう思った瞬間だった。氾濫した。これまでずっと、フォーティスへの漠然とした嫌悪と憎悪を堰き止めていた堤防は、一瞬にして崩壊した。飛沫を上げながら、勢い良く溢れ出した想いが寄り集まり、凝り固まり、一つの濃密な『憎悪』となり。

 雷に撃ち抜かれたような、一際熱い感覚が全身を駆け抜けた。


「ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなあああぁぁッ!!!」


 そのあまりの熱さに、叫び出さずにはいられなかった。

 凄まじい叫び声が響くと、店内のねっとりとした空気感は一瞬で霧散。湧き上がる激情を、溢れるままに叫び散らす宗二は、覗き込んでくる長身男の胸倉を乱暴に掴み、


「父さんの命を、母さんの命を何だと思ってるッ!!」

「――――」


 ギリギリと握った胸倉を引き寄せ、顔面に激しく吐きつける。


「奪うなッ! 俺達から、これ以上何も奪うなッ!!」


 なのに、男は表情を変えず、その悪魔のような笑顔を貼り付けたままフッと鼻で笑う。


「何を笑ってやがるッ!!!」


 それを見て不意に脳裏を過ったのは、この男が母に対して行った下衆の所業。

『――死んでるのになあ』

 こいつが無理矢理母を犯そうとし、芝居じみた憎たらしい笑顔でその過程を語って、父の死まで冒涜した。そのくせしてどうして平気で笑っていられる。

 死ね――鼓動がバクバクと加速する。

 そう、ごく自然に『死ね』と思った。いや、ただ死ぬだけなど生温い。その憎々しい笑顔を殴って殴って殴って目玉を抉って口を裂いて皮膚を剥いで頭蓋を砕いて切り刻んで擦り潰して、見るも醜悪な肉片と骨の塊にして、二度と笑えないようにしたい。

 それ程に憎い。

 憎悪が具体性を帯びたことで、殺意が急激に濃縮され、研ぎ澄まされる。


 ――もう我慢出来ない。


 猛烈な殺意に駆られた瞬間には既に、彼の体は無意識に、衝動的に動き出していた。


「お前があぁぁああッ!」


 胸倉を掴んでいた片手を首の位置までずらし、反対の手を握って顔の横まで引く。そして絶殺の意を込めて、首を締めながら男の顔面に拳を振り下ろす。


「――――」


 振るわれた拳はバチッと鈍い音を響かせて、頬に直撃した。だが、振り抜くことは出来ずそこで止まる。

 拳には重い手応えがあったが、流石にというべきか、宗二の膂力では男を押し倒すことは出来なかった。男は倒れないように後ろに手を付いて耐えている。殴る直前、彼が何かを言ったような気がするが、甲高い耳鳴りと自身の鼓動しか聞こえないため判断出来ない。

 彼の顔から拳をおもむろに剥がすと、頬に付いた血がネチョッとなり、しかし顔に貼り付いた笑みはビクとも変わっていなかった。

 サピエンスとはいえ全力の拳を顔に受け、首を絞められながら尚も嘲笑を続ける。そのふざけた態度に、殺意は収まるどころか膨れ上がり、宗二は目をカッと開いて拳を引く。


「――――」

「おい! 離せクソ野郎ッ!」


 しかし再び殴ることは叶わず、ソファの前に控えていたはずの小太りの男――勇に腕を後ろから引っ張られ、力ずくで長身男から剥がされた。


「殺してやるッ! 殺してやるッ!!」


 そのまま羽交い締めにされ、宗二が暴れもがき出したのと同時だった。

 沸騰した頭に、勇が母に対してした悪辣な行いが想起された。

『『宗一郎……そういちろぉ……』ってやつだぜ。忘れたのか?』

 こいつが母にナイフを刺した張本人で、そのことを冗談のような軽さで扱って、亡くなった夫を思い続ける母の愛を踏み躙った。

 殺してやる――胸が苦しくて息が荒くなる。


「うぅらああああ――ッ!!」


 勇に体を持ち上げられる前にグッと踏み込み、床と垂直に飛び上がる。頭頂部にガツンと衝撃が響くが、それは攻撃が成功した証左だ。密接する勇の顎に、真下から頭頂部を打ち込んだのだ。拘束していた腕の力が緩んだのを感じ取ると、宗二は背中を勇の太い腹に打ち付け、その反動で前方に弾かれた体がするりと腕から抜け出す。距離を取ったら即座に身を翻し、肩で息をしながら、鮮血のように真っ赤な視界に捉えた店内のフォーティスを睥睨する。


「――――」


 長身男は既に立ち上がり、こちらに何かを言っている。だが顔には悪魔のような吊り上がった笑顔。――殺したい。

 勇はその太い顎を擦っている。だが顔には雑談をする時のような軽妙な笑顔。――殺したい。

 ソファの周りを囲うフォーティスはこちらを見て身構えている。だが顔には隠れて人を嘲弄するような忍び笑い。


「死ね」


 殺意が電流のように走り、衝き動かされた体が地を蹴って走り出す。

 ――寸前だった。



「やめて――ッ!!」



 甲高い悲鳴が耳を劈いた。

 女性の――母の声だ。布を引き裂くような鋭い母の叫びが、憎悪の沼に浸かっていた宗二を現実に引きずり戻す。

 そうだ、母さんは今……。

 狂気の淵から帰り、咄嗟に足を止めて現状を思い出そうする。急速に意識が冷めていく中、宗二は自分の視界に映る光景に目を疑った。


 ――立ってこちらを見る長身男が、嗤っていなかったのだ。


 太った男も、周囲の男達もだ。彼らの表情に先程までの嘲りの色は全くなく、むしろ纏う気配は冷たく緊迫している。この場にいるフォーティスが揃ってこちらに向けている真剣な眼差しは、まるで警戒すべきものを前にしたようなそれだった。

 どういうことだ。突然の変化に疑問を覚えはしたが、今は真相を糺す時間もなければ必要もない。何よりも、今は母のことを考えねば。


「ゴホッゴホッ」


 男達から意識を引き離し、母に向き直ると、母は吐血混じりに咳き込んでいた。瀕死の状態なのに声を振り絞ったため、傷口に障ったのだろう。


「母さんッ、喋ったら駄目……」


 沸騰していた頭が冷めた宗二は、しかし母の容態を見ると今度は反対に青褪め、狼狽えた様子で弱々しく諫める。だが、目を薄く開ける母は聞こえているのか聞こえていないのか、それを無視して途切れ途切れに掠れた声で話す。


「朝、喧嘩はしないって……約束した、でしょ……?」

「母ッさん……」


 思い出されるのは朝の何気ない遣り取り。

 雪掻きから帰って、朝食を食べて、なんでもないことを喋って。――そこにはいつも母が居て。行ってくると言って家を出れば、必ず気をつけてねと返ってきて。

 そんな何気ない朝、何気ない風景が当たり前のように在った。


「だから……喧嘩はもう、しちゃ駄目だ……よ?」

「母さん、待って、待ってッ!」


 でも、言い残すように語って聞かせる母の儚い姿が、そんな何気ない日常の終わりを告げているようで、宗二は少しでも長く今を繋ぎ止めようと、震える手で母の左手を取る。母の手はもう、雪のように冷たかった。


「ごめんね……。わ、たし、偉そうなこと……言ったけど、私も駄目……だったわ」

「どういう……」

「私が……我慢、していれば、こうは、ならなかった……のに」

「違うッ! 母さんは悪くない! 悪いのは、悪いのは……ッ!」


 悲しみからか涙を堪えているからか、喉の奥が締め付けられるような苦しい感覚がする。その喉を震わせ、必死に否定する宗二の頭に、そっと手が置かれる。

 最近は随分と遠くなってしまっていた気がするけど、でもやはり懐かしく心地良い感触。冷たくも、何処までも温かいその手の感触に、堪えていた涙が堰を切って溢れ出す。

 けれど、今際の際にある母にこれ以上の力は残されていない。力が抜け、頭に乗った手がずるりと滑り落ちる。


「待って、行かないでッ、母さん!!」


 落ちていく手を眺めることしか出来ず、置いていかれる子供のように泣き喚く宗二。

 ほんと、宗二は昔から泣き虫なんだから……。

 その姿に、母は幼い頃の泣き虫だった彼を重ね、薄っすらと、ほんの薄っすらと懐かしげに微笑んだ。


「最後に、一つ……聞いて?」


 郷愁の念に浸るのはそこまで。俄然、硬い雰囲気を醸し出して問う。『最後』という響きに宗二は口を噤み、聞き分けの良い子供のようにこくりと一度頷いた。それを見て、目を細めた母は、ほうと微かに息を漏らす。そして途切れ途切れでありながらも、力強い芯のようなものを感じさせる調子で切り出した。


「宗二、逃げて……そして生きて」


 今にも閉じそうな目でこちらを捉える母を、宗二は止め処なく溢れ続ける涙を拭うこともせず一心に見つめる。


「逃げて、逃げて、フォーティスの居ない場所……例えばサピエンスの、国に……辿り着けば、きっと……そこでは、差別もされない」


 切れ切れに発せられる言葉の語気が、言葉尻に近づくに連れて段々と弱くなっていく。母の手を握り締めながら、宗二はそれを一言一句逃さぬように耳を傾ける。


「昔……みたい、に、平和に、暮らせる……はず。そこで、しあわせに……いきて、ほしい……」


 溶ける雪のように、儚く消え入っていく声。聞き取ることすら儘ならない微かな願いを、宗二は確かに受け取った。それを伝えようと繰り返し頷いてみせると、母は穏やかに微笑んだ。生を全うした老人を思わせる、満ち足りた笑みだった。

 母が宗二に向けている慈愛に満ちた瞳をそっと閉じると、薄紅色の唇が僅かに動く。


「宗二、宗一郎……あいしてる」


 愛の囁きが優しく紡がれ、空気に溶けて消える。

 透き通るような白い頬に、一粒の雫を流して。


 ――雪は溶けた。


「母さん……、母さん……?」


 ソファに横たわる母の体が再び動く時は、幾ら待っても訪れなかった。

 瞼の裏に夫を映し、傍で息子に手を握られながら逝った母。最愛の二人に看取られての死が幸福なものだったかは、宗二には計り知れない。

 ただ、両手で包んだ母の冷たい左手は、まだ温かかった気がした。


「ああああああああ――!!」


 夜に少年の怨嗟の慟哭が響く。

 宵闇に聳える山も同じように泣いていた。


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