プロローグ
ドン――
一度、響いた。
揺れ震え、大地が唸り声を上げる。
その轟音は、水面にものを落とすと生まれる波紋のように、この盆地を中心に、森を抜け、山を超え、このだだっ広い世界を、同心円状に何処までも広がっていく。
ドンドン――
二度、響いた。
底から突き上げるような轟音は、衝撃波を伴っていると錯覚する程の衝撃をもって、途中にある大地を、大気を、生命を、魂の底から震わせながら、突風のように駆け抜ける。
それが通り過ぎた後は、鏡の水面のような、波風一つない、いっそ不気味な静寂に帰す。
ドンドンドン――
三度、響いた。
炎天の空の下、数千、数万の屈強な男達が、寸分違わず足を上げ地面を踏みつける。その様は、さながら一つの巨大な生物が足踏みするようである。
踏みつけられた衝撃に灼熱の大地は唸りを上げ、砂埃が舞い上がる。硬く乾いた地面から発せられたとは思えない、幅の広い音が、果てしない彼方まで響き渡った。
声はない。合計六度の足音だけが世界を震わした。
おもむろに男達を包む宙の砂埃。余韻が揺蕩い、やがて大気を、大地を震わすものは無くなり、しんと静まり返る。
しかし熱は収まらない。それはきっと真夏の猛暑の所為だけではなかろう。
音もなく風が吹いた。立ち込めた砂埃が晴れ、男達の姿が露わになる。
鍛え抜かれた巨躯を持つ彼ら。――その目は、闘志に燃え滾っていた。
「全軍、突撃――ッ!!」
「「うおおぉぉおおお!!」」
野太い合図が響き渡ると、一斉に雄叫びのような吶喊が轟く。
四方が丘陵と森に囲まれた、土が剥き出しになっている盆地の、その一隅から男達は駆け出した。
彼らが鬨の声を上げながら走るだけで、爆発するような凄まじい轟音が、地を震わし、森をざわめかせる。それは彼らが溜め込んでいた情熱――熱烈な戦意を解き放った証左。発せられた爆発的な熱量が、彼らの心の昂りを示している。
世界を激震させる気迫に、余人はそれを肌で感じるだけで戦慄することだろう。
走り出した数万の巨躯は、多種多様な武器を手にして、盆地の対向側を目掛けて突進する。その中でも一際大きな体躯をした男が一人、興奮した様相で前線を駆けていた。
血を塗ったような赤髪に古傷だらけの顔。正しく筋骨隆々といった逞しい肉体。身の丈程の巨大な鉈を肩に担ぎ、しかし走る速度は周りに劣らない。体格には似合わぬ軽快な動きに、むしろ余裕を残しているようにさえ見える。
「なあお前ぇよ、この一戦に俺らが勝ったら、南の奴らは降伏するらしいぜ!」
彼が声を張り戦況を伝えた相手は、隣を並走する矮躯の男だ。
戦場には似合わない端正な顔立ちに柔らかな黒髪。しなやかな肢体も相まって中性的な印象を受ける。
もっとも、矮躯といってもこの集団の中での話だ。彼の身長は優に百七十センチを超えている。それでも周囲の男たちと比較すると彼は矮小な部類に分けられることから、この軍団に属する者の体躯の大きさが推し量れるだろう。
彼は嬉しそうに告げる大男の言葉を聞き、「なーんだ」と残念そうに口を尖らせる。
「戦争、もう終わっちゃうのか」
「やっぱり、お前ぇ。終わってほしくないんじゃねぇか?」
「当たり前じゃん」と両手に持った二本の拳銃を回してみせ、それでもやはり退屈そうに続ける。
「これであいつらを撃ち抜くのが僕の趣味なんだから。娯楽を取り上げられるのは忍びないよぉ?」
「……その悪趣味なところだけは、一生分かり合える気がしないぜ」
「まあ、君に分かってもらおうとは思ってないさ」
大男に嫌な顔をされるが、それは初めから分かりきっていること。どこ吹く風といった様子で聞き流し、しかし途中で何か面白いことを思いついたのか、不意にその整った目を子供のように煌めかせた。
「でも、敗戦した『女狐』どもが土下座して喚くところを見るのは楽しみかな?」
上ずった声は、純粋に待ちきれないと言わんばかりだった。内容は悪辣なのに、そんな彼が言葉通り本当に楽しそうだから、大男は諦めたように溜息を付く。
「まあ、それはわからんでもないけどッ……って危ねえ!!」
だが、忘れることなかれ。ここは戦場だ。
今この瞬間も、周囲には雄叫びを上げて突き進む巨躯の軍団がいて、それを撃ち倒すべく、正面から銃弾と砲弾がヒュンと風を切りながら飛来する。そこかしこで爆発が起き、人が血を流して倒れていく。
この場は常に死と隣り合わせだ。呑気に談笑していられるような安全な場所ではない。そんな初歩的なことを二人が知らないはずもなく、それ故対応も適切であった。
上空から飛来する迫撃砲弾が着弾する寸前、二人は弾かれたように左右に飛び退いた。ピカリ、一瞬遅れて鼓膜を直接叩いたような破裂音が耳を劈く。二人が元いた地面が大きく抉れ、砂埃と鉄片が勢い良く飛び散った。
「――――」
爆発を尻目に、彼らは再び並走する。先程までの軽妙さは鳴りを潜め、纏う気配は目に見えて厳かになった。
血と砂が舞い散る戦場を、猛進する巨躯の軍勢の雄叫びが、足音が、そして炸裂する爆弾の轟音が震わすと、その激震が、踏み締めた大地を伝わって二人の魂を震わせ、彼らの心に潜む『猛獣』を覚醒させる。獰猛にして貪欲な『猛獣』の本能が赴くまま、沸き立つ情熱に身を任せ――
「よし、やってやるぞお前ぇ!」
「お、やる気になった?」
「あったりめぇだ!」
「ふふ、じゃあ行くよ!」
「「――ホモ・フォーティス万歳!!」」
楽しげに口の端を吊り上げる矮躯と、ガハハと快活に笑う大男。
力強く踏み込み、敵の塹壕に跳び入る二人の目には、闘志という名の炎が宿っていた。
◆
――ホモ・フォーティス。
地球上に二種類のみ現存する、ヒト属の種族の内の一つ。
対となるもう一つの種族はホモ・サピエンスである。
ホモ・サピエンスは、ラテン語で賢い人を意味する学名であるのに対して、この種族の学名は、力強い人、勇敢な人を意味し、彼らにはその名通りの特徴が幾つか挙げられる。
まずは、平均身長だ。男性が百九十、女性が百七十センチであり、筋肉質な体格の個体が大半を占める。ホモ・サピエンスとは比べ物にならない程身体能力が高く、それはオリンピックにホモ・フォーティスを出場させたら、全種目で彼らが優勝するだろうと言われる程だ。その上皮膚は分厚く硬く、並の刃物ならば通さない個体すら存在する。
このように、強靭な肉体を持つ彼らだが、肉体以外にもホモ・サピエンスと異なる点が多く存在する。
理性の強さ、知能の高さ、物事に対する価値観。それらが故の特異な文化。同じ人類でありながら、その在り方はまるで違う。単なる『多様性』だけでは片付けられない程に。
故に、一部で互いに歩み寄る少数は現れど、種族全体として隔たりのない関係性が築かれることはなく、無為に時代だけが流れていった。
そして現在。
彼らとその片割れであるホモ・サピエンスとの関係はというと、一言、最悪である。
フォーティスはサピエンスを、狡猾で臆病な、人ならざる卑しい存在――『女狐』と。サピエンスはフォーティスを、欲望や感情に踊らされる、人ならざる卑しい存在――『猛獣』と蔑称で呼び、互いが互いを貶め合っている。
その上、両者とも自らの種族が『真の人間』だと主張し、いがみ合うのだ。その諍いが縺れて戦争まで発展したことは、もう片手では数えられない程。
ここ日本で勃発した戦争も、個人の言い争いが火種となって開幕した戦争である。どちらからともなく始まった酔っぱらい同士の喧嘩は、気付けば国同士、ひいては種族同士の喧嘩へと規模を広げていった。自らの種族の優位性を証明せんと各地で戦火が上がり、当初は拮抗していた勢力も次第に傾いていく。
そして、開戦後巡ってきた三度目の夏、戦争は佳境を迎えていた。
◆
輪郭のくっきりした雲が疎らに浮かぶ、青々しい蒼穹。手が届きそうなほど低い夏空を見上げ、は眩しさに手を翳す。
夏らしい風情のある景色だ。けれど、おちおち眺めてもいられない。彼は首を振って感慨を振り払い、視線を正面に戻す。
高地特有の若葉色の森に囲まれた盆地。陽炎のもやもやと揺らめく大地の上を、巨躯の軍勢――ホモ・フォーティスの戦士たちが突進してくる。
とは言っても、視認できるものは先頭を走る巨躯達と、その後ろをモクモクと巻き上がる砂煙だけ。我々が待ち構えているサピエンス軍の塹壕からは相応の距離がある。ありながら、それでもここまで伝わってくるものがある。
それは気迫。呼吸を忘れてしまう程圧倒的な気迫。けたたましい雄叫びに、身体を芯から戦慄させる激震と轟音は、まるで大気が叫んでいるかのようだ。
土砂崩れなどの自然災害が迫り来るような、人の力ではどうにもならない類の重圧を彼らから感じる。彼らから湧き上がるエネルギーだけで、つまり人力でこれほどの現象を引き起こしている。その事実の規格外さに、思わず目が回った。
「迫撃砲用意――ッ! 放て――ッ!」
敵兵が迫撃砲の射程内に侵入したようで、砲弾が一定の拍子でドンドンドンと、鈍い爆発音を立てて発射された。ヒューンと音が遠ざかり、やがて盆地の至る所に煙柱が立つ。遅れてやってきた爆発音。それが余韻を残して消えた時――
「やはり……。私は彼らが恐ろしい」
――軍勢の侵攻する様相は一切変わっていなかった。
砲弾の殆どが命中した。だから、彼らの被害は甚大であるはずで。にも関わらず、まるで何も起こらなかったかのように、雄叫びも轟音も地震も、全く衰えることなくその勢いを残したまま、むしろ膨れ上がった気勢で猛進し続ける。腰が抜けるような威圧感の塊が、今尚砂を巻き上げながら迫り続けている。
「何故、彼らは戦意を喪失しない」
正面から機関銃弾が風を切り、上空から砲弾が降ってきて、隣で仲間が倒れ、飛び散った内臓と脳漿を目にし、鉄と脂の匂いに鼻孔を刺され、最後には被弾して自身の手足を失おうとも、彼らは進むことを止めない。目下も鉄の雨が降る砂煙の中で、取り憑かれたように何度でも何度でも立ち上がり、鬨の声を上げて突進し続けている。
そうして大勢が地を踏み、声を上げ、戦場が振動に満たされる限り、ホモ・フォーティスの戦士は無敵だ。それだけで、消えかけた闘志に再び火が付き燃え盛る。
その原理はわからない。それでも事実。地に足を付けている限り、彼らは今際の際まで勇敢であり続ける真の戦士、いや『猛獣』となるのだ。
「これを恐ろしいと呼ばずして何と呼ぶ」
視線は迫り来る敵軍に向けられながらも、そう零す宗一郎はどこか心ここに在らずといった風情だ。自分の呟きでそれに気づき、意識を現実に引き戻した。
その頃には、既に視界の大部分が砂煙の幕に覆われていて、もう綺麗な夏空を拝むことを叶わなかった。
「最後にあの空をもう一度……」
切な願いは、轟音の波に飲み込まれた。
猛々しい雄叫びと大量の足音がなだれ込む。吹き付ける風は、真夏の暑さの中に在っても、より一層暑苦しい。周囲は茶色一色。そのため視認は出来ないが、巨躯の戦士たちが塹壕に飛び込んできたのが全身で感じ取れる。
迎撃する銃声や甲高い剣戟が響き渡る。サピエンス軍の声だろうか、痛ましい悲鳴や命乞い、慟哭も合間に聞こえる。まさに阿鼻叫喚の、敗北濃厚の状況下にありながら、尚も宗一郎は戦いも逃げもせず、ここでない何処かを物憂げに見つめていた。
「ああ、涼子、宗二……」
やけに神経は冴えている。そのため周りの状況も正確に把握しているが、その上で彼は愛しい人の名を呼ぶ。
宗一郎は良くも悪くも聡い人物だった。だから、この戦いが始まる前から予見出来てしまったのだ。サピエンス軍が敗北することも、自身がここで戦死することも。
戦場に立つ者が、戦闘を放棄して郷愁に耽るなど、戦士を侮辱していると謗られるかもしれない。それでも、最期くらいは人を一人も殺めず、穏やかな気分で逝きたいと願っていた。
だから、通り過ぎる敵を見逃し、仲間の断末魔を聞き流し、独り在りし日の幸福を夢見る。
「涼子は元気にしてるかな。相変わらず美しいんだろうなぁ」
触れたら壊れそうな儚い笑顔を思い浮かべ、胸に灯った温かさに頬を緩める。
「宗二ももう八歳か……。時が経つのは早すぎるよ。ちょっと見ない間に、すっかり大きくなったんだろうなぁ」
泣き虫な我が子の成長した姿を夢想し、愛おしさに目を細める。
届かないことはわかっている。それでも、堰を切ったように言葉が溢れて止まらない。
「私は最後まで駄目な父親だったな。子育ても涼子に任せっきりだったのに、これからは金を稼ぐことも出来なくなる。申し訳ない。それに私の手ではもう……」
広げた両手に悲しげな視線を落とすが、それも一瞬のこと。振り払うように首を振って顔を上げ、幻視した家族の和やかな姿に柔らかな笑みを零す。
不意に、視界の両端に二つの影が浮かび上がった。恐らくは敵だろう。身体は正直だ。迫り来る死に、身体は自然と硬直した。
けれども一方で、不思議と心は鏡の湖面のように穏やかだ。
「改めて、沢山、ありがとう。私は……俺は涼子の夫で、宗二の父であれて、本当に幸せだった」
砂埃を巻き、左右から急接近する二つの影。次第に輪郭が明瞭になり、鉈を担いだ大男と、両手に拳銃を握った細身の女が躍り出た。だが、宗一郎は動かない。
「どうやら、俺にはもう時間がないみたいだ」
振り被られる巨大な鉈、向けられる二本の銃口。全身血みどろの二人は凶悪な笑みを浮かべて急速に肉薄する。
「だから、最後に一つだけ……」
一抹の不安と小さくも大きな幸福を胸に抱きながら。
淡く滲んだ家族に笑いかけ。
「願わくば、宗二が俺のよ――」
それが最後。
鮮血が舞って、戦場にまた一つ鮮赤の華が咲いた。
◆
日本列島で繰り広げられた戦争は、この藤が坂盆地の一戦に敗北したサピエンス軍の、フォーティス軍に対する全面降伏を以って終結した。
勝利した、東北地方以北を領土とするフォーティス政府――通称北政府は、それ以南を領土とするサピエンス政府――通称南政府に対し、北陸、甲信越地方の領土割譲、巨額の賠償金、政府間におけるフォーティスの優位の承認を要求し、南政府はこれを受諾。
政府間の取り決めにより、民衆間でも種族の優劣が明確になり、サピエンスは虐げられる側の種族へと成り下がった。
その影響を大いに受けたのは、二種族が混在する地域――戦後に北政府に割譲された旧南政府領。そこに住むサピエンス達の暮らしは瞬く間に暗転した。
この物語は、終戦から七年の歳月が流れた後のこと。
新たに北政府領となった北陸地方の山間の寒村に、母子二人で過ごしていたサピエンスの少年――常田の物語である。