②
凪子さんは午後から講師の仕事だ。六時ごろには戻るからと、凪子さんはこのお屋敷の鍵をあたしに預けた。
「デートでも探検でもなんでも行っていいから。そのかわり、戸締りは、ちゃんとね。猫が入り込んだりするからね」
「猫」
泥棒じゃなくって?
「猫、かわいいし好きなんだけど。土日だけとはいえ、食べ物を出すお店でもあるからね」
「はあ」
おーい清良―、と玄関のほうから声がする。
「さっそくデートのお誘いがきたよ」
「もうっ。何度も言うけど、そんなんじゃないからね?」
あわただしく支度をして、凪子さんと一緒にお屋敷を出た。楓くんは、格子戸のそばで待っていてくれた。
何か、話があって来たのかな。それともこの前みたいに、「いろんなところを案内する」っていう口約束を、律儀にまもってくれているのかな。案外、一緒に遊んでいた五歳のころと、同じ感覚なのかもしれない。
凪子さんと別れたあと、どこを目指すでもなく、ただぶらぶらと、ふたりで水路に沿って道をあるく。
無言であたしの前を進む楓くんの背中。結構おっきいんだな、って思う。Tシャツのうす布越しに肩甲骨のかたちもわかるし。ママや凪子さんの背中とはぜんぜんちがう。当たり前だよね、男の子だもん。
「井戸、行ってみる?」
「い、井戸?」
やっとしゃべってくれたと思ったら、いきなりなに?
「つるべでくみ出す、昔ながらの共同井戸だよ。もちろん飲める。いろいろご利益もあるって人気なんだ」
「ご利益」
そういえば、前、そんなことを言っていたっけ。えんむすびの井戸、とか……。
「どうする?」
「あっ。え、えっと。……連れてって」
顔が熱くなってしまう。自意識過剰だ。楓くんはあたしにこの街ならではのものを見せようとしてくれているだけで、べつにえんむすびがどうとか、深く考えてるわけじゃない。うん。
蝉が鳴いている。
石畳の通りからそれて、細い、脇道にはいる。植木の緑がはみ出した煉瓦塀が続いている。塀の向こうには、これまた古い洋館。
「ここな、喫茶店。夏のあいだだけ、かき氷も出してくれる」
「ふうん。洋館で、かき氷」
「すげーうまいよ。今度、行くか」
「うん」
ふたりで、行くんだよね。デートでも探検でも行ってきな、という凪子さんのせりふが耳の奥でリフレインする。デ、デートじゃないから、あくまで探検だから。
細道をしばらく進むと大きな通りに出た。交差点から右折すると、アーケード街だ。あたしたちは、曲がらずに進んだ。
あっち、と楓くんが指差すほうを見ると、銀行があった。
「あそこの裏、ちょっと行ったとこ」
自然と、駆け足になる。銀行の駐車場と金物屋さんの間に、井戸はあった。お寺の門みたいな、木造の小さな屋根がついている。
井戸はふたつある。つるべの落とされた深い井戸と、そのとなりに、石積みの、透明な水をたたえた、四角い水場。ひしゃくが置いてあって、汲み出せるようになっている。
「ここの敷き石にな、ハートのかたちしたやつがあって、カップルふたりでその石にここの水をかけたら、すえながーくしあわせになれるんだってさ」
「へえ……。それで、えんむすび」
「ま、町おこしの一環ってやつで、そういう伝説つくってみたんじゃね? 学校でもさ、ここで告白したらうまく行くとか、結構みんな騒いでる」
告白。
どきどきしてしまう。中学校で、みんな、そういう恋の話で盛り上がってるんだ。
あたしにだって、友だちとそういう話でキャーキャー騒いでたときはあった。清良、好きな男子いないなんて変だよー、なんてこづかれて。もう、遠い昔のことみたい。
水場の清水をひしゃくですくって、手にかけてみる。冷たい。
「清良って。二学期から、第一中に通うんだよな?」
「うん」
つるべのある井戸の奥、木でできたちいさなベンチに座った。楓くんはつるべに手をかけて、ぎいぎいと動かしている。
「ずっと、金魚屋敷に住むの? お母さんと離れて」
「ずっと、っていうか。わからないけど、高校もこっちで受けるつもりで来たの」
三年生になる前に決断しようって、ママと何度も話し合った。どっちにしても、前の学校にはいられないし、あたしには凪子さんのところしか逃げ場所がなかった。
ほかに行くところなんてない。もしもあたらしい学校にうまく馴染めなかったとしても、もう逃げ込めるところはない。
「そっか」
楓くんはつぶやくように言って、あたしのほうを振り返った。
「そっか」
口もとに、かすかな笑みをうかべている。なんだかやさしい笑顔。
「うん」
みょうにきまり悪くて、うつむいてしまう。
「あのさ。昨日はごめんな。食いにきてくれたのに、なんか、おれ」
「いいの」
「小遣い稼ぎに、仕方なく手伝いやってて。学校のやつらにいじられるからさ、あんまりホールに出たくないんだけど。ゆうべはバイトの人が休んじゃって、それで」
「楓くんが人気者だってことは、よくわかったよ」
そう言ったら、楓くんは、眉間にしわをよせた。甘いと思って口に入れたものが、意外と酸っぱくて戸惑ってるみたいな顔。
「こないだのやつらは、小学校同じで。家も近所だし。つーかうちの学年、部活のやつらもクラスのやつらも、みんなあんなノリで、仲いいっていうか」
そうなんだ。そんな場所に、あたし、うまく入っていけるのかな。
すっと、立ち上がる。
「そろそろ、行こう」
「清良」
「なに?」
「あの。……また。一緒に、ここに」
「ん?」
「なんでもない」
言い捨てると、あたしから顔をそらして、後頭部の髪をわちゃわちゃと掻いた。
へんな楓くん。
帰り道は、アーケード街を通って行った。水町通りの二本裏、地図で見たらちょうど並行して走っている道だ。
アーケードはさびれていて、シャッターの降りたお店が大半だった。
洋品店。つぶれた映画館。雑貨屋、魚屋。花屋の前では、エプロン姿のおばさんが、箒で掃除をしている。
小学生の群れが駆け抜けていく。
「あれ、足湯。奥に入ったところにある古い屋敷が温泉で、いまも現役なんだ」
ベンチの置かれた、細長い水場。水じゃなくてお湯なんだ。
「このへんって温泉もわくんだね」
「結構気持ちいいよ。めちゃくちゃ熱いけど」
そうなんだ。今度、凪子さんに連れて行ってもらおう。
金魚屋敷のお風呂は、あとで改装したらしくて、古民家らしからぬユニットバス。ちなみにトイレも洋式。亡くなったおばあちゃんが足腰が痛くて洋式じゃないとつらかったみたい。
楓くんが、いきなり歩を止めた。なに? と前を見ると、シャッターの半分降りたCDショップのあたりに、中学生の集団がいる。制服姿の男子たちだ。
とっさに、楓くんの後ろに身をかくした。
「あっれー。楓じゃんっ」
うそでしょ、また知り合いなの?
あっという間に群がってきた。群がるっていうか、三人しかいないけど。がっちりした坊主のひとと、あたしと同じくらいの目線の、小っちゃいひとと、まじめそうな眼鏡のひと。
「何してんの、てか誰」
背の低い男の子が、縮こまってるあたしをじろじろとのぞきこんでくる。楓くんはあたしをかばうように盾になってくれている。
「いいじゃんべつに。つーかおまえらこそ何してんだよ」
「夏期講習の帰り―。二中のさー、超可愛い子が来てたから話しかけたいよなって作戦会議してた。てか誰」
「作戦って。何しに塾行ってんだよ。親泣くぞ」
「いやまじレベル高かったんだってその子。てか誰」
「しつっこいなあ! 最近近所に引っ越してきた幼なじみだよ!」
逆切れしたみたいに楓くんは声を張り上げた。三人組男子は、そろって目をぱちくりとしばたいた。顔に「きょとん」って書いてある。きょとん。
「ごめん楓、意味わかんない」
眼鏡の男の子が言った。
「幼なじみの定義は、近所に住んでいて小さい頃からきょうだいみたいにつるんでいる友人、ということで間違ってないと思うんだけど」
楓くんは、ああもう、とため息をついた。
「だーかーらー。ガキのころに遊んでた子が、こっちに引っ越してきたの! 以上!」
よく考えたら、ぜんぜん納得のいく説明になっていない気がする。
「ふうーん」
背の低い子が、ふたたびあたしをじろじろ観察しはじめた。ちょっと、やめて。楓くんの背中の後ろにかくれて、シャツの裾をにぎりしめた。やだよ。
「ねー名前なんての? どのへんに住んでんの? 引っ越してきたっつーことは転校生?二年? だよね?」
「やめろよ俊平」
ぴしゃりと撥ねつけられて。俊平くん、は「ちぇっ」と舌打ちすると、
「なんだよ、楓ってば彼氏気取りかよ」
楓くんの肩をぽんぽんと叩いて、にたにたとわらった。
「ま、夕菜にはだまっといてやるから」
「あいつは関係ねーだろ」
「いいけど別に。あーいいなーリア充はいいなー」
にやにやにやにや。笑いながら楓くんを小突く。あきれ顔した眼鏡の子に「もう行くぞ。邪魔しちゃ悪いだろ」と首ねっこをつかまれてずるずる引きずられていった。坊主の子は、「待ってよー」と間延びした声をあげてどたどたとふたりの後を追う。
彼らの姿が小さくなって視界からいなくなったところで。
「ごめんな。バカだろ? あいつら」
と。楓くんがつぶやくように言った。それでようやくほっとして、あたしは楓くんのシャツから手をはなした。手をはなしてから、ようやく我に返る。
「ご、ごめんなさいっ! あたし、ずっと」
つかまっちゃってて。恥ずかしくて申し訳なくて、ぎゅっと目をつぶってあやまった。
清良、と。なまえを呼ばれて、瞬間、頭のうえに大きな何かが置かれて、それが楓くんの手だって気づいたとき、あたしはパニックになっちゃってあわあわと声にならない声をあげた。頭に、手。手が。男の子の。
「あっ。ごめんっ」
楓くんがあわてて手をどける。そっと目をあけると、彼の顔は真っ赤に染まってる。
なにこれ。すっごく、恥ずかしい。
「か、帰ろっか」
「う。うん」
ぎこちなく進みはじめる。
「あいつらもさ。小学校から一緒の、腐れ縁っていうか。そんな感じのやつら。でかいのがズミ、あ、魚住だからズミな。眼鏡のがテツ。うるさいのが俊平」
「ふう、ん。じゃあ、正真正銘の、幼なじみなんだ」
「うん」
少し、気になっていたことを聞いてみる。
「夕菜、って。いう、子も……?」
あの、俊平くんっていう男の子が言ってた。夕菜にはだまっててやるから、って。もしかして、もしかしたら。
「楓くんの、彼女?」
「ま、まさか。なんで」
「だって。彼女がいるんなら、こうしてあたしとふたりでいるの見られたら、誤解されちゃうじゃん?」
夕菜ちゃん、が。かわいそう。
きゅっと、下くちびるを噛んだ。
「彼女なんていないよ、おれ。夕菜のことは、まわりが勝手に言ってるだけで」
「うん」
「おれは……その」
その、……なに?
だけど楓くんは、続きはなにも言わなかった。結局そのまま金魚屋敷まで、無言で歩きつづけた。門の前で、「じゃな」って言ってきびすを返して、だだっと、ダッシュで走っていってしまった。
あっという間にその背中は見えなくなって、やっぱり楓くんは短距離走者なんだろうなって、そんなことを、ぼんやり思った。